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十二、アムの宴 - al banchetto -
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アルテミシアは毛布にくるまってぐっすり眠る少女たちと同じ船室にいた。エラはアルテミシアが「一緒にイノイルへ行こう」と誘うと、薄いブルーの瞳を輝かせ、その後で戸惑いを見せた。
「でも、そんなことできるの?」
「できるよ」
先ほどの口論がなかったかのように、簡単に言ってのけた。バルカ将軍の却下なんて、聞き入れない。自分の願望は今まで自分自身で実現してきたのだ。
「嬉しい。もう結婚もできないし、僧院なんかに連れて行かれて一生人目のないところでひっそり暮らすんだって思ってたから…」
エラは大きく魅力的な口元を綻ばせた。
「ルメオでは、結婚に処女性なんて求められないよ」
「でも、ミーシャはイノイルに帰るんでしょう?恋人と同じ場所へ」
「…?恋人なんていないけど」
「あのすごく大きくて強そうな偉い人は恋人でしょう?」
アルテミシアはその驚き方に、エラが本気でサゲンとのことを誤解していたことを悟った。
「断じて違うから。絶対に、有り得ない」
きっぱりと否定したが、動揺を隠し切れずに声が裏返った。
「そんなに慌てなくても」
「慌ててない」
「でもすごく親密そうだったわ。あの人もミーシャのことをとっても心配そうにしていたし」
「自分の責任問題を心配してただけだよ。わたしは通訳だから、戦闘に参加しちゃいけなかったんだ。それなのに勝手に動いたから、女王陛下への体面を気にしてるだけ。それに、全然、これっぽっちも、まったくもって親密じゃない。むしろ悪い。険悪」
エラは肩をすくめてミーシャの否定を受け入れたが、表情から察するに全く信じていないようだった。
「とにかく、ミーシャがイノイルにいるなら、わたしもそこにいたい。ミーシャみたいに自分で人生を決めてみたいの。自分の力で生きていきたい。わたしには家族も帰る家ももうないけど、ミーシャのそばにいれば実現できるような気がする。…変かな」
エラはアルテミシアの手を握って微笑んだ。
「できるよ」
と言って、アルテミシアも笑みを返した。
「イノイルは、女王陛下が自由な発想の人だから、思ったよりもみんなの考え方が固くないんだ。エラ、美人だからモテると思うよ。恋をして、結婚も。諦めることない。男みたいに仕事を持ちたければ、それもできるはず。女王陛下の国だもの」
「そうかな」
「うん」
このことには自信があった。女性が男と同じように仕事を選ぶ権利を、同じように男たちの上に立ち闘争を続けているあの女傑が認めないはずがない。
「ミーシャは?」
「わたしは力の限界まで仕事をする」
「結婚はしないの?」
アルテミシアは少しの間思案した。結婚するということは、女の場合、家や夫の付属品になるということだ。記憶にある母は、正にその典型的な一例だった。とても自分に務まるとは思えないし、結婚して幸せになった自分が全く想像できない。でも、万が一幸せな結婚に巡り合えたとしたら?――考えれば考えるほど、釣り合いが取れない気がする。
「割に合わないことはしたくない」
アルテミシアがそれだけ言うと、エラは不思議そうな顔で「ふうん」と言った。
やがて隣で横になっているエラが寝息を立て始めると、アルテミシアは暗闇の中でサゲンの鼓動を思い出した。温かくて、心地良い温度。それからあの匂いには鎮静薬みたいな効果がある。――これは良くない傾向だ。
まずいと思いながら、ずっとそこにいたいって思わなかった?その腕を離れて立ち上がった時、その体温をすぐに恋しく感じなかった?何も考えたくないのに、頭の中でもう一人の自分が問いかける声がする。何度も、何度も。
あの時――海賊の首領に襲われた時、目の前の相手に激しい嫌悪を感じながら、頭の片隅である小さな後悔に気づいた。どうしてあの夜、書斎で誘いに乗らなかったのだろう。あれは冗談を言っているわけでもからかっているわけでもなかった。例え戯れだったとしても、いつか相手を恨むようなことはなかっただろう。あの暗い青と灰色の間の色をした瞳は、いつだってアルテミシアの真実を見ようとしていたのだ。初めて会った時から、誰よりも深く。
このまま見て見ぬふりをしていられたら楽だっただろうに、不都合な真実に気付いてしまった。
今までの人生でアルテミシアに求められたものは現在か未来かのどちらかだけだった。幼い時代を過ごした屋敷では、彼女の未来は当然のように決まっていた。どんなに長い時間を両親と離れても、結婚が決まれば家へ戻り、嫁いだ先で暮らす。これだけが人生の最初に求められたものだった。大学では他の優秀な青年たちに負けたくない一心で、解雇されたドナやガラテアのことも、自分の意思など配慮されずに決められるであろう結婚相手のことも頭の中から追い出して勉学だけに打ち込み、その時のことだけを強く意識した。船乗り連中は、彼女が船に乗ったいきさつは知っていても、その過去に何があったかなどは気にもしなかった。何か月も家に帰らない大勢の仲間の中では、訳ありなど珍しくもない。みな今現在を重視して生きているのだ。ころころと状況が変わる海の上では、未来のことなどはあまり意味をなさない。女王は、過去などは捨て置き、アルテミシアにイノイルでの未来を望んでいる。
しかし、サゲンは、そこに過去をも本気で結び付けようとしている。その証拠に、学生時代から会っていなかった乳母のドナへ人をやり、調べさせた。まさか子供のころから大好きだったドナ手製のナッツの蜂蜜漬けをイノイルで食べることになろうとは、思ってもみなかった。サゲンにとっては、身元調査の手順の一つに過ぎないだろう。しかし、アルテミシアにとっては、過去から未来の自分が一つの場所で繋がることは、とても大きな意味を持った。
気づいたことはもう一つある。心のうちを誰かに話すようサゲンから勧められた時、そのような話ができる友人が思い浮かばないということだ。これまでずっと過去と現在と未来を切り離してきたせいで、ちょっと弱音を吐く相手すらも人生に現れなかったのだ。母親代わりのドナも、父親代わりのバルバリーゴも、もはやそばにはいない。
唐突に大きな孤独感が背中にのしかかってきた。同時に、サゲンに全部吐き出してしまえばすっきりするだろうかと心がぐらついた。だが、だめだ。有り得ない。その後のことなど、想像したくもない。でも、いつまでこのまま抱えていけばよいのだろう。
(…やめた)
答えの出ないことを考え始めると思考がどんどん深みにはまって抜け出せなくなる。こういう時は考えるのを放棄してさっさと眠ってしまうに限る。
アルテミシアは毛布を頭の先まですっぽりかぶって横向きに丸まり、頭の中で言葉遊びをしながら目を閉じた。
二日目の昼下がり、イノイルの船はアム共和国西岸のコルスという港に着いた。海賊たちを乗せたアムの軍船は更に三十分ほどの港へ行き、尋問や拷問を行うための堅牢な牢獄がある場所へと海賊たちを送り届けた。
城下へ入ると、老齢の元首とその夫人が直々に連合軍の凱旋を出迎え、その労をねぎらった。アムは南の島だけあって、人々もその気候のようにカラリとして陽気だ。服装もイノイルや大陸の他の国とは趣が随分違っている。男たちは、厚く装飾の多いジャケットなどは着ずに長袖の麻や綿のシャツとベスト、細身のズボンといったさっぱりした姿で、ブーツも短い。女性のドレスは首元が大きく開き、袖は二の腕くらいまでの短いものか、袖が付いていないものだ。膨らみが少なく柔らかいスカートは女性たちの優美な脚の曲線を際立たせている。
アムへ初めて上陸した何人かの少女たちは目を丸くして、その華やかな街の様子を見ていた。イノイルの兵士たちは普段こざっぱりしたドレスの女性たちばかりを見ているから、こうした肌を多く露出する格好は目の保養とばかりにじっくり眺めて堪能していた。アルテミシアはアムへは何度も来ているから、もう慣れっこだ。
元首は将兵たちに郊外の大きな兵士の療養地にある温泉を使わせ、少女たちとアルテミシアには歴代元首夫人が所有する海辺の温泉を用意させた。長らく入浴を諦めていた少女たちは大喜びだった。当然ながら、風呂好きのアルテミシアも飛び上がって喜んだ。元首夫人専用の由緒ある温泉に入れるとは、なんとも贅沢だ。
アム島の馬はイノイルやエマンシュナなど大陸産の馬と比べて小さく、ずんぐりしている。力はあるが脚は遅いので、アルテミシアは馬車に乗っているあいだデメトラが恋しくて仕方がなかった。温泉までの三十分の道程があまりに長く感じ、五分に一度は窓を開けて外を確認した。
「子供みたい」
と、五つも年下のエラに笑われてしまった。他の少女たちもそんなアルテミシアの様子をからかった。
元首夫人の温泉地は門からして立派な造りになっていた。低いシュロの木に囲まれた赤い大理石のアーチ状の門の奥に、白い大理石のコテージがあった。小さい造りだが優美で洗練されていて、そのコテージの広い庭に温泉が設えられている。建物と同じ白い大理石の太い柱が女神の彫刻が施された美麗な屋根を支え、その下に二十人が入れる程の大きな浴槽が楕円形に設えられている。浴槽の隅に開いた穴から温泉がこんこんと湧き出て、かすかに硫黄が香る湯気が濛々と立ち込め、乳白色の湯がなみなみと浴槽を満たしている。
アルテミシアは、商船に乗っていた頃に二度アムの温泉へ入ったことがある。が、それらは自然に出来た湯溜まりに石を敷き詰めて造った簡素なもので、ここまで豪奢で美しく整えられた温泉小屋は初めてだった。
少女たちとともに服を全て脱ぎ捨てて端から端まで泳いだ。エラは、身体についた傷を恥じて、最後に服を脱いだ。アルテミシアは、忍ぶように湯へ入ってきたエラに向かって首の痣と傷を見せ、にっと笑った。
「おんなじ」
エラは微笑んだが、アルテミシアの首にも同じ痕があるとどうしてもおぞましい記憶が蘇る。一瞬、表情が翳った。
「みんなを守った傷だよ。今は難しいかもしれないけど、きっといつか乗り越えられる」
「そうかな」
エラの不安そうな瞳は変わらず揺れていた。アルテミシアは、きっと自分では想像できないほどの苦しみを抱えているのだろうと思った。何度も恥辱と責め苦を与えられ、それでも自分よりも幼い少女たちを守ったのだ。たった一人、その身を盾にして。
「エラは、わたしなんかよりもずっと強いんだから」
アルテミシアの言葉をおかしく思ったらしい。エラはようやく心からの笑顔を見せた。
「絶対そんなことない」
大きく健康そうな歯がきらりと輝いて、あどけない笑顔になった。
「ミーシャ!泳ごう!」
と、一番小さな十歳のナタリアが誘ってきたので、またしても船で鍛えた水泳の腕前を披露することになった。その時、観音開きの木戸が開いた。
「あらあら、まあ!大きなお子様がいらっしゃいますこと!」
驚きと非難が混ざった声で叫んだのは、中年の女性だった。白髪の混じった暗い茶色の髪をきつく後ろで結い、アム特有の露出の多いドレスではなく年頃の子女の教育係のような首と腕を見せないドレスに身を包んでいる。鷹のような厳しい目つきやキッチリした佇まいは、まるでドナだ。
「す、すみません」
元首夫人の温泉小屋があまりに気持ちよく開放的だからと言って、調子に乗り過ぎた。アルテミシアは肩まで湯に入って素直に謝罪したが、この後すぐに逃げればよかったと後悔した。
「わたくしは元首夫人パオリーナ・ランフランキ様付き侍女頭のエスコバルと申します、リンド様。奥様からリンド様に本日の宴にふさわしい準備をさせて頂くよう仰せつかりました」
エスコバル夫人は折り目正しく非の打ち所のない所作でお辞儀をした。
「宴?」
「今夜の戦勝の宴です。お子様方と若いお嬢様は軍の宴には参加できませんが、別室でお料理と音楽でおもてなしすることになっております。ですが、問題はあなたです」
遠慮のない物言いもドナそっくりだ。エスコバル夫人はアルテミシアの日に焼けた肌と肩までの長さしかない髪をサッと見て品定めした。アルテミシアは反発したくなった。
「問題なんてありませんよ。わたしはこの子たちと一緒にいますから。すごく疲れてるし、宴は苦手だし…」
「なりません」
ぴしゃりと言った。この婦人にはどことなく相手に嫌と言わせない凄味がある。
「よろしいですか。貴女様はイノイル王国の代表の一人としてこのアム共和国へいらっしゃったのです。苦手だからなどという理由で辞退できるほど気軽な席ではございません。例え疲れていたとしても、ただの一兵卒から指揮官までをお招きになった共和国元首の歓待を受ける義務があります」
「う…」
ぐうの音も出ない。彼女の言っていることはまったくもって正論だ。
「ドレスをお持ちではないようなので、奥様が若い頃にお召しになっていたドレスを選んで差し上げるようにと」
「はい?」
耳を疑ったが、聞き間違えではないらしい。またもや少女たちが後ろでくすくす笑っている。
「でも、あの…軍服は持ってきています」
「なりません。とんでもない」
エスコバル夫人は台所でネズミを見つけた時のような顔で言った。このままこの夫人に反論を続ければ、一生外に出してもらえないかもしれない。従うほかなさそうだ。
元首夫人はエスコバル夫人に命じて、不憫な少女たちの服も用意してくれていた。孤児院に送られる前に、せめてもの配慮をしてくれたのだろう。温泉から上がった後は、コテージの客間に案内された。案の定、何人かの女中たちが既に待ち構えていた。全員が清潔で簡素なドレスに着替える中、アルテミシアはドレスの下に着るシュミーズ一枚に簡単な薄いローブだけの姿で衣装部屋へ通された。元首夫人が若い頃に着ていたというドレスが何枚もずらりと壁際に吊るされている。
元首夫人のパオリーナ・ランフランキは、今はふくよかで豊満な女性だが、若い頃はほっそりしていたらしい。腰回りのサイズはアルテミシアとそう変わらないようだった。どれも色味は落ち着いていて、こちらはアルテミシアの趣味に合った。ただ、デザインが問題だ。時代遅れでも流行の型でもない典型的なアムのドレスといった感じだが、若かりし頃に誇ったであろうその曲線美を存分に見せつけるものが多く、襟は大きく開いて胸の谷間を強調するものばかりだった。アルテミシアにはそこまでの谷間がないから、常に胸元を抑えていなければ襟口が下にずれてきてしまいそうだ。
アルテミシアはやむなくいちばん小さな山吹色のドレスを選んだ。色は正直好みではないが、これなら胸元が落ちてこないだろう。
「あら、だめよ!」
と、いつの間にか衣装部屋へ入ってきていたエラが叫んだ。既にきれいな室内用の衣装に着替えている。
「素敵なドレスだけど、その色はあなたに似合わないわ。肌の色も髪の色も全然合ってない。絶対にこっちがいい」
と言いながら、エラは濃い赤のサテン地でできたドレスを手に取った。ちょうど収穫時期のコケモモのような色だ。周りの女中たちはエラに賛成してウンウンと頷いている。
「でも、これはちょっと…大きいよ」
襟が大きく開いて肩が出るデザインだから、余計にサイズが合わないだろう。貧相な胸が目立ってしまう。
「大丈夫。こういうのは得意なの。任せて」
エラは、予想外の特技を発揮した。
エスコバル夫人から裁縫道具を借り受け、アルテミシアにドレスを着させると、何人かの女中たちと寸法を直し始めた。いつもの遠慮がちなエラは鳴りを潜め、別人になったように積極的だった。目の色が変わっている。
「仕立屋さんだったの?」
アルテミシアが訊くと、エラは手際良くマチ針を打ちながら首を振った。
「うちはお金がなかったから、古着を仕立て直して自分たちで着ていたのよ。妹や、お母さんとお父さんのも縫い直したわ」
アルテミシアは病で次々と亡くなっていったエラの家族を思い、心が痛んだ。
その間、エラは鮮やかな手並みでぶかぶかのドレスを仕立て直し、アルテミシアの体型にぴったりなものに生まれ変わらせた。それでも襟ぐりは大きいような気がしたが、エラも女中たちも満足そうにしているので文句は言えない。歩く時に裾を踏んづけて破いてしまわないように注意しなければ。
「あとは御髪ですわね。まったく宝の持ち腐れですこと」
エスコバル夫人がアルテミシアの短い髪を見て嘆いた。
「かつらは使わない方がいいと思います」
と勇ましくもエスコバル夫人に意見して見せたエラからは、どことなくウキウキした様子が伝わってくる。アルテミシアは苦笑した。まるで幼い女の子の人形にされたような気分だ。エスコバル夫人も、いかにも口惜しいと言った様子で大きく頷いた。
「髪だけは、外見で唯一誇れるところだよ。もっと長ければだけど」
アルテミシアは控えめに自負した。エラは一瞬信じられないというような目つきでアルテミシアを見、小さく溜め息をこぼした。
「ミーシャったら、なにも分かっていないのね」
「こういう方はこちらが何を申してもご自分で理解なさるまで受け入れてくださいませんよ」
エスコバル夫人がエラと何やら同調し始めた。さっき初めて会ったというのに、わたしの何が分かると言うのだろう。しかし、この数日の間に今まで出会った誰よりも友人だと感じられるようになったエラまでそれに同意している。なんとなく仲間外れにされた気分になり、口を尖らせた。
「ピンで何とか、やってみましょう」
エスコバル夫人は鏡台の前にアルテミシアを座らせ、櫛やらピンやらを取り出し、女中に任せず自らするするとまっすぐで短い髪の攻略に取り掛かった。エラもなんとなくわくわくした様子でその後ろについて来ている。女中たちもズラリと後ろに並び、化粧道具を用意し始めた。アルテミシアは嫌な予感がしたが、またもやお人形遊びの人形役に徹することにした。
元首邸は港から馬車を走らせて一時間足らずの場所にあり、ピカピカに磨かれた大理石の床と薄黄色の着色が施された壁が美しい広大で壮麗な建物だ。夕陽の時刻になると、屋根に造られた神々の装飾が長い影を落とし、外壁は黄金に輝いているように見える。東の空が濃い紫色に染まって星がその存在を示し始める頃、邸内では既に兵士たちの宴が始まっていた。兵卒には外の広場や庭園で料理や酒が振る舞われ、上級の将校たちは邸内の大広間やサロンで元首夫妻のもてなしを受けていた。アム島の貴族の子女や将校の奥方たちも招かれ、ダンスホールでは楽団の演奏で兵士たちとダンスを楽しんでいる。
「馬鹿馬鹿しい」
白髭のトーラク将軍が広間の壁際で上物の赤ワインをがぶがぶ飲みながら毒づいた。
「まだ海賊団を一つ潰しただけではないか。戦勝の宴などと、見識が甘い」
「まあまあ。海賊一隻分と親玉を一人捕らえただけでも素晴らしい戦果ですよ。そこからカノーナスの情報が得られるかもしれません。それに、美味な料理や酒は士気の向上にもなります」
ゴランが青い陶の皿に牛肉の分厚いステーキや骨付きのローストチキンを山のように盛って次々にかぶりつきながらトーラク将軍を宥めた。
「わたしは白…トーラク将軍に賛成」
二人は広間の入り口から颯爽と現れたアルテミシアに目を見張った。トーラク将軍は一言も発せずにいつものギョロ目でアルテミシアを見ている。一方のゴランは皿を近くのテーブルに置いてさわやかな笑顔で貴婦人に対する礼をした。
「見違えました。リンドさん。とてもお美しいです」
「どうも」
アルテミシアは世辞に対する愛想のいい態度で応じた。
ゴランに促されて広間の中央に目をやると、サゲンがいつもの青い軍装でアムの指揮官たちと杯を交わしていた。大勢の軍人の中でも一際背が高い。肩幅も広く、厚みのある生地の上からでも精悍で無駄のない筋肉が良く分かる。最後のやり取りは船上での口論だ。あれから二日間、ほとんど会話らしい会話をしていなかった。ただ、立場を考えればこの場でいつものように険悪に無視するわけにもいかない。どうしようかと躊躇していると、サゲンがこちらに顔を向けた。
サゲンは会話の途中だったらしいが、アルテミシアと目が合った瞬間、話している途中の口のまま、杯を持つ手もそのままに動かなくなってしまった。一人だけ時間が止まってしまったかのようだ。アルテミシアは急に不安になった。白髭さんといいバルカ将軍といい、まるで幽霊でも見たような顔をする。
(いったい何だって言うの)
物珍しいのは分かる。いつも男みたいな格好をしていて淑女とは掛け離れた自分が上品で華やかな装いをしているのだから、それはそうだ。それでも、エスコバル夫人やエラをはじめ、女中たちが努力してくれた。エスコバル夫人などはどこからともなく金髪用の詰め物を持って来て、アルテミシアの短い髪の中に詰め物をしまい込み、左右両側から何とか髪を細く編み込んでピンで留め、ふんわりとシニョンにした。鮮やかな手並みだった。顔も、女中たちが嬉々として白粉を叩き込んだ。エスコバル夫人がやりすぎだと言って途中で止め、エラが布で拭って少し落としてくれたが、女中たちに目蓋や唇に画家のような手付きで色を付けられた。問題の日焼け跡は、またしてもエスコバル夫人がどこからともなく肘まで隠れるレースの手袋を持ってきて解決してくれた。エスコバル夫人は「まあ!大きな手!」とか、「手のひらにもこんなにマメの痕をお作りになって!」とかぶつぶつ文句を言いながらも、手袋のサイズにはやや大きすぎる手になんとか嵌めてくれた。アルテミシアの指が長すぎるせいでよく見ると指の間がカエルの水かきのようになっているが、この際仕方ない。
彼女たちの努力の集大成を鏡でも確認したが、そう酷くはないはずだ。むしろ、今まででいちばんの上出来だと思ったのだが。
アルテミシアはちくちくした思いを抱えながら、サゲンと談笑していたアムの将校たちに恭しく挨拶をした。パタロアの屋敷で培った上流階級の所作だ。将校たちもレディに対する完璧な――むしろ少々大仰な礼儀作法でもってアルテミシアに挨拶をした。が、その間もサゲンだけはそのままの姿勢で一言も発せず怒ったような目つきアルテミシアを見ている。アルテミシアは石になる呪いでもかけられてしまったのかと一瞬本気で心配したが、瞬きはしているからそういうわけではないようだった。
「…そんなに変?」
アルテミシアがサゲンの目の前にやって来て目を合わせ、眉根を寄せた。
「いや、そういうことでは…」
サゲンはやっとのことで声を出した。この男が言葉を詰まらせるのを初めて見たアルテミシアは、珍奇な生き物を見るような思いだった。
そこへ、サゲンの下士官たちがやってきた。先頭を切って足早にやって来たのは、片手を包帯に包んだイグリだ。一直線にアルテミシアの方へやって来て、跪いて手を取り、その甲に口付けをした。
「ミーシャ、美しい人。一曲ご一緒する名誉を私に頂けませんか」
貴公子らしく畏まって笑顔を見せた。アルテミシアは面白そうにくすくす笑い、「いいよ」と気軽に承諾した。
「でも、ダンスは久しぶりだから足を踏むかも」
顔を痣だらけにしたリコとブランがニヤニヤしながらイグリを肘で小突き、ロエルはイグリの尻をバシッと叩いた。
二人が何やら話して笑い合いながら広間をあとにしてダンスホールへ去ると、サゲンは部下を交えて将校たちと歓談を続けた。しかし、何を話しているのかさっぱり頭に入って来ない。ただ、赤いドレスに身を包んだアルテミシア・リンドの姿が頭から離れなかった。
(――あれはなんだ)
いつもは雑に一つにまとめられている赤っぽい金色の髪が艶やかに結われ、V字型に大きく開いたドレスの襟からは、その力強さからは意外なほどに華奢な肩が覗いて、薄地のドレスが美しい胸の形をなぞっていた。日に焼けた肌によく映えるコケモモ色の柔らかいドレスがアルテミシアの身体を隠している。折に触れ脳裏に甦るあの美しい裸身を。
あれをイグリ・ソノが、他の男たちが間近で見るのか。俺ではなく。――これは嫉妬か。
(いや、違う)
サゲンは頭を振った。嫉妬ではない。違うはずだ。確かに彼女は魅力的だが、自分の指揮下にある以上は部下と同じなのだから。それなのに会話にも集中できず、適当な相槌すら億劫になり、ダンスホールから聞こえてくる音楽ばかりが耳に入ってくるのは何故なのか。
「くそ」
誰かが小さく悪態をつくのが聞こえた。自分だ。自分にしか聞こえないほどの小さな声だった。次の瞬間にはサゲンは考えることをやめ、気付けば広間の端を通ってダンスホールへ足を踏み入れていた。
「でも、そんなことできるの?」
「できるよ」
先ほどの口論がなかったかのように、簡単に言ってのけた。バルカ将軍の却下なんて、聞き入れない。自分の願望は今まで自分自身で実現してきたのだ。
「嬉しい。もう結婚もできないし、僧院なんかに連れて行かれて一生人目のないところでひっそり暮らすんだって思ってたから…」
エラは大きく魅力的な口元を綻ばせた。
「ルメオでは、結婚に処女性なんて求められないよ」
「でも、ミーシャはイノイルに帰るんでしょう?恋人と同じ場所へ」
「…?恋人なんていないけど」
「あのすごく大きくて強そうな偉い人は恋人でしょう?」
アルテミシアはその驚き方に、エラが本気でサゲンとのことを誤解していたことを悟った。
「断じて違うから。絶対に、有り得ない」
きっぱりと否定したが、動揺を隠し切れずに声が裏返った。
「そんなに慌てなくても」
「慌ててない」
「でもすごく親密そうだったわ。あの人もミーシャのことをとっても心配そうにしていたし」
「自分の責任問題を心配してただけだよ。わたしは通訳だから、戦闘に参加しちゃいけなかったんだ。それなのに勝手に動いたから、女王陛下への体面を気にしてるだけ。それに、全然、これっぽっちも、まったくもって親密じゃない。むしろ悪い。険悪」
エラは肩をすくめてミーシャの否定を受け入れたが、表情から察するに全く信じていないようだった。
「とにかく、ミーシャがイノイルにいるなら、わたしもそこにいたい。ミーシャみたいに自分で人生を決めてみたいの。自分の力で生きていきたい。わたしには家族も帰る家ももうないけど、ミーシャのそばにいれば実現できるような気がする。…変かな」
エラはアルテミシアの手を握って微笑んだ。
「できるよ」
と言って、アルテミシアも笑みを返した。
「イノイルは、女王陛下が自由な発想の人だから、思ったよりもみんなの考え方が固くないんだ。エラ、美人だからモテると思うよ。恋をして、結婚も。諦めることない。男みたいに仕事を持ちたければ、それもできるはず。女王陛下の国だもの」
「そうかな」
「うん」
このことには自信があった。女性が男と同じように仕事を選ぶ権利を、同じように男たちの上に立ち闘争を続けているあの女傑が認めないはずがない。
「ミーシャは?」
「わたしは力の限界まで仕事をする」
「結婚はしないの?」
アルテミシアは少しの間思案した。結婚するということは、女の場合、家や夫の付属品になるということだ。記憶にある母は、正にその典型的な一例だった。とても自分に務まるとは思えないし、結婚して幸せになった自分が全く想像できない。でも、万が一幸せな結婚に巡り合えたとしたら?――考えれば考えるほど、釣り合いが取れない気がする。
「割に合わないことはしたくない」
アルテミシアがそれだけ言うと、エラは不思議そうな顔で「ふうん」と言った。
やがて隣で横になっているエラが寝息を立て始めると、アルテミシアは暗闇の中でサゲンの鼓動を思い出した。温かくて、心地良い温度。それからあの匂いには鎮静薬みたいな効果がある。――これは良くない傾向だ。
まずいと思いながら、ずっとそこにいたいって思わなかった?その腕を離れて立ち上がった時、その体温をすぐに恋しく感じなかった?何も考えたくないのに、頭の中でもう一人の自分が問いかける声がする。何度も、何度も。
あの時――海賊の首領に襲われた時、目の前の相手に激しい嫌悪を感じながら、頭の片隅である小さな後悔に気づいた。どうしてあの夜、書斎で誘いに乗らなかったのだろう。あれは冗談を言っているわけでもからかっているわけでもなかった。例え戯れだったとしても、いつか相手を恨むようなことはなかっただろう。あの暗い青と灰色の間の色をした瞳は、いつだってアルテミシアの真実を見ようとしていたのだ。初めて会った時から、誰よりも深く。
このまま見て見ぬふりをしていられたら楽だっただろうに、不都合な真実に気付いてしまった。
今までの人生でアルテミシアに求められたものは現在か未来かのどちらかだけだった。幼い時代を過ごした屋敷では、彼女の未来は当然のように決まっていた。どんなに長い時間を両親と離れても、結婚が決まれば家へ戻り、嫁いだ先で暮らす。これだけが人生の最初に求められたものだった。大学では他の優秀な青年たちに負けたくない一心で、解雇されたドナやガラテアのことも、自分の意思など配慮されずに決められるであろう結婚相手のことも頭の中から追い出して勉学だけに打ち込み、その時のことだけを強く意識した。船乗り連中は、彼女が船に乗ったいきさつは知っていても、その過去に何があったかなどは気にもしなかった。何か月も家に帰らない大勢の仲間の中では、訳ありなど珍しくもない。みな今現在を重視して生きているのだ。ころころと状況が変わる海の上では、未来のことなどはあまり意味をなさない。女王は、過去などは捨て置き、アルテミシアにイノイルでの未来を望んでいる。
しかし、サゲンは、そこに過去をも本気で結び付けようとしている。その証拠に、学生時代から会っていなかった乳母のドナへ人をやり、調べさせた。まさか子供のころから大好きだったドナ手製のナッツの蜂蜜漬けをイノイルで食べることになろうとは、思ってもみなかった。サゲンにとっては、身元調査の手順の一つに過ぎないだろう。しかし、アルテミシアにとっては、過去から未来の自分が一つの場所で繋がることは、とても大きな意味を持った。
気づいたことはもう一つある。心のうちを誰かに話すようサゲンから勧められた時、そのような話ができる友人が思い浮かばないということだ。これまでずっと過去と現在と未来を切り離してきたせいで、ちょっと弱音を吐く相手すらも人生に現れなかったのだ。母親代わりのドナも、父親代わりのバルバリーゴも、もはやそばにはいない。
唐突に大きな孤独感が背中にのしかかってきた。同時に、サゲンに全部吐き出してしまえばすっきりするだろうかと心がぐらついた。だが、だめだ。有り得ない。その後のことなど、想像したくもない。でも、いつまでこのまま抱えていけばよいのだろう。
(…やめた)
答えの出ないことを考え始めると思考がどんどん深みにはまって抜け出せなくなる。こういう時は考えるのを放棄してさっさと眠ってしまうに限る。
アルテミシアは毛布を頭の先まですっぽりかぶって横向きに丸まり、頭の中で言葉遊びをしながら目を閉じた。
二日目の昼下がり、イノイルの船はアム共和国西岸のコルスという港に着いた。海賊たちを乗せたアムの軍船は更に三十分ほどの港へ行き、尋問や拷問を行うための堅牢な牢獄がある場所へと海賊たちを送り届けた。
城下へ入ると、老齢の元首とその夫人が直々に連合軍の凱旋を出迎え、その労をねぎらった。アムは南の島だけあって、人々もその気候のようにカラリとして陽気だ。服装もイノイルや大陸の他の国とは趣が随分違っている。男たちは、厚く装飾の多いジャケットなどは着ずに長袖の麻や綿のシャツとベスト、細身のズボンといったさっぱりした姿で、ブーツも短い。女性のドレスは首元が大きく開き、袖は二の腕くらいまでの短いものか、袖が付いていないものだ。膨らみが少なく柔らかいスカートは女性たちの優美な脚の曲線を際立たせている。
アムへ初めて上陸した何人かの少女たちは目を丸くして、その華やかな街の様子を見ていた。イノイルの兵士たちは普段こざっぱりしたドレスの女性たちばかりを見ているから、こうした肌を多く露出する格好は目の保養とばかりにじっくり眺めて堪能していた。アルテミシアはアムへは何度も来ているから、もう慣れっこだ。
元首は将兵たちに郊外の大きな兵士の療養地にある温泉を使わせ、少女たちとアルテミシアには歴代元首夫人が所有する海辺の温泉を用意させた。長らく入浴を諦めていた少女たちは大喜びだった。当然ながら、風呂好きのアルテミシアも飛び上がって喜んだ。元首夫人専用の由緒ある温泉に入れるとは、なんとも贅沢だ。
アム島の馬はイノイルやエマンシュナなど大陸産の馬と比べて小さく、ずんぐりしている。力はあるが脚は遅いので、アルテミシアは馬車に乗っているあいだデメトラが恋しくて仕方がなかった。温泉までの三十分の道程があまりに長く感じ、五分に一度は窓を開けて外を確認した。
「子供みたい」
と、五つも年下のエラに笑われてしまった。他の少女たちもそんなアルテミシアの様子をからかった。
元首夫人の温泉地は門からして立派な造りになっていた。低いシュロの木に囲まれた赤い大理石のアーチ状の門の奥に、白い大理石のコテージがあった。小さい造りだが優美で洗練されていて、そのコテージの広い庭に温泉が設えられている。建物と同じ白い大理石の太い柱が女神の彫刻が施された美麗な屋根を支え、その下に二十人が入れる程の大きな浴槽が楕円形に設えられている。浴槽の隅に開いた穴から温泉がこんこんと湧き出て、かすかに硫黄が香る湯気が濛々と立ち込め、乳白色の湯がなみなみと浴槽を満たしている。
アルテミシアは、商船に乗っていた頃に二度アムの温泉へ入ったことがある。が、それらは自然に出来た湯溜まりに石を敷き詰めて造った簡素なもので、ここまで豪奢で美しく整えられた温泉小屋は初めてだった。
少女たちとともに服を全て脱ぎ捨てて端から端まで泳いだ。エラは、身体についた傷を恥じて、最後に服を脱いだ。アルテミシアは、忍ぶように湯へ入ってきたエラに向かって首の痣と傷を見せ、にっと笑った。
「おんなじ」
エラは微笑んだが、アルテミシアの首にも同じ痕があるとどうしてもおぞましい記憶が蘇る。一瞬、表情が翳った。
「みんなを守った傷だよ。今は難しいかもしれないけど、きっといつか乗り越えられる」
「そうかな」
エラの不安そうな瞳は変わらず揺れていた。アルテミシアは、きっと自分では想像できないほどの苦しみを抱えているのだろうと思った。何度も恥辱と責め苦を与えられ、それでも自分よりも幼い少女たちを守ったのだ。たった一人、その身を盾にして。
「エラは、わたしなんかよりもずっと強いんだから」
アルテミシアの言葉をおかしく思ったらしい。エラはようやく心からの笑顔を見せた。
「絶対そんなことない」
大きく健康そうな歯がきらりと輝いて、あどけない笑顔になった。
「ミーシャ!泳ごう!」
と、一番小さな十歳のナタリアが誘ってきたので、またしても船で鍛えた水泳の腕前を披露することになった。その時、観音開きの木戸が開いた。
「あらあら、まあ!大きなお子様がいらっしゃいますこと!」
驚きと非難が混ざった声で叫んだのは、中年の女性だった。白髪の混じった暗い茶色の髪をきつく後ろで結い、アム特有の露出の多いドレスではなく年頃の子女の教育係のような首と腕を見せないドレスに身を包んでいる。鷹のような厳しい目つきやキッチリした佇まいは、まるでドナだ。
「す、すみません」
元首夫人の温泉小屋があまりに気持ちよく開放的だからと言って、調子に乗り過ぎた。アルテミシアは肩まで湯に入って素直に謝罪したが、この後すぐに逃げればよかったと後悔した。
「わたくしは元首夫人パオリーナ・ランフランキ様付き侍女頭のエスコバルと申します、リンド様。奥様からリンド様に本日の宴にふさわしい準備をさせて頂くよう仰せつかりました」
エスコバル夫人は折り目正しく非の打ち所のない所作でお辞儀をした。
「宴?」
「今夜の戦勝の宴です。お子様方と若いお嬢様は軍の宴には参加できませんが、別室でお料理と音楽でおもてなしすることになっております。ですが、問題はあなたです」
遠慮のない物言いもドナそっくりだ。エスコバル夫人はアルテミシアの日に焼けた肌と肩までの長さしかない髪をサッと見て品定めした。アルテミシアは反発したくなった。
「問題なんてありませんよ。わたしはこの子たちと一緒にいますから。すごく疲れてるし、宴は苦手だし…」
「なりません」
ぴしゃりと言った。この婦人にはどことなく相手に嫌と言わせない凄味がある。
「よろしいですか。貴女様はイノイル王国の代表の一人としてこのアム共和国へいらっしゃったのです。苦手だからなどという理由で辞退できるほど気軽な席ではございません。例え疲れていたとしても、ただの一兵卒から指揮官までをお招きになった共和国元首の歓待を受ける義務があります」
「う…」
ぐうの音も出ない。彼女の言っていることはまったくもって正論だ。
「ドレスをお持ちではないようなので、奥様が若い頃にお召しになっていたドレスを選んで差し上げるようにと」
「はい?」
耳を疑ったが、聞き間違えではないらしい。またもや少女たちが後ろでくすくす笑っている。
「でも、あの…軍服は持ってきています」
「なりません。とんでもない」
エスコバル夫人は台所でネズミを見つけた時のような顔で言った。このままこの夫人に反論を続ければ、一生外に出してもらえないかもしれない。従うほかなさそうだ。
元首夫人はエスコバル夫人に命じて、不憫な少女たちの服も用意してくれていた。孤児院に送られる前に、せめてもの配慮をしてくれたのだろう。温泉から上がった後は、コテージの客間に案内された。案の定、何人かの女中たちが既に待ち構えていた。全員が清潔で簡素なドレスに着替える中、アルテミシアはドレスの下に着るシュミーズ一枚に簡単な薄いローブだけの姿で衣装部屋へ通された。元首夫人が若い頃に着ていたというドレスが何枚もずらりと壁際に吊るされている。
元首夫人のパオリーナ・ランフランキは、今はふくよかで豊満な女性だが、若い頃はほっそりしていたらしい。腰回りのサイズはアルテミシアとそう変わらないようだった。どれも色味は落ち着いていて、こちらはアルテミシアの趣味に合った。ただ、デザインが問題だ。時代遅れでも流行の型でもない典型的なアムのドレスといった感じだが、若かりし頃に誇ったであろうその曲線美を存分に見せつけるものが多く、襟は大きく開いて胸の谷間を強調するものばかりだった。アルテミシアにはそこまでの谷間がないから、常に胸元を抑えていなければ襟口が下にずれてきてしまいそうだ。
アルテミシアはやむなくいちばん小さな山吹色のドレスを選んだ。色は正直好みではないが、これなら胸元が落ちてこないだろう。
「あら、だめよ!」
と、いつの間にか衣装部屋へ入ってきていたエラが叫んだ。既にきれいな室内用の衣装に着替えている。
「素敵なドレスだけど、その色はあなたに似合わないわ。肌の色も髪の色も全然合ってない。絶対にこっちがいい」
と言いながら、エラは濃い赤のサテン地でできたドレスを手に取った。ちょうど収穫時期のコケモモのような色だ。周りの女中たちはエラに賛成してウンウンと頷いている。
「でも、これはちょっと…大きいよ」
襟が大きく開いて肩が出るデザインだから、余計にサイズが合わないだろう。貧相な胸が目立ってしまう。
「大丈夫。こういうのは得意なの。任せて」
エラは、予想外の特技を発揮した。
エスコバル夫人から裁縫道具を借り受け、アルテミシアにドレスを着させると、何人かの女中たちと寸法を直し始めた。いつもの遠慮がちなエラは鳴りを潜め、別人になったように積極的だった。目の色が変わっている。
「仕立屋さんだったの?」
アルテミシアが訊くと、エラは手際良くマチ針を打ちながら首を振った。
「うちはお金がなかったから、古着を仕立て直して自分たちで着ていたのよ。妹や、お母さんとお父さんのも縫い直したわ」
アルテミシアは病で次々と亡くなっていったエラの家族を思い、心が痛んだ。
その間、エラは鮮やかな手並みでぶかぶかのドレスを仕立て直し、アルテミシアの体型にぴったりなものに生まれ変わらせた。それでも襟ぐりは大きいような気がしたが、エラも女中たちも満足そうにしているので文句は言えない。歩く時に裾を踏んづけて破いてしまわないように注意しなければ。
「あとは御髪ですわね。まったく宝の持ち腐れですこと」
エスコバル夫人がアルテミシアの短い髪を見て嘆いた。
「かつらは使わない方がいいと思います」
と勇ましくもエスコバル夫人に意見して見せたエラからは、どことなくウキウキした様子が伝わってくる。アルテミシアは苦笑した。まるで幼い女の子の人形にされたような気分だ。エスコバル夫人も、いかにも口惜しいと言った様子で大きく頷いた。
「髪だけは、外見で唯一誇れるところだよ。もっと長ければだけど」
アルテミシアは控えめに自負した。エラは一瞬信じられないというような目つきでアルテミシアを見、小さく溜め息をこぼした。
「ミーシャったら、なにも分かっていないのね」
「こういう方はこちらが何を申してもご自分で理解なさるまで受け入れてくださいませんよ」
エスコバル夫人がエラと何やら同調し始めた。さっき初めて会ったというのに、わたしの何が分かると言うのだろう。しかし、この数日の間に今まで出会った誰よりも友人だと感じられるようになったエラまでそれに同意している。なんとなく仲間外れにされた気分になり、口を尖らせた。
「ピンで何とか、やってみましょう」
エスコバル夫人は鏡台の前にアルテミシアを座らせ、櫛やらピンやらを取り出し、女中に任せず自らするするとまっすぐで短い髪の攻略に取り掛かった。エラもなんとなくわくわくした様子でその後ろについて来ている。女中たちもズラリと後ろに並び、化粧道具を用意し始めた。アルテミシアは嫌な予感がしたが、またもやお人形遊びの人形役に徹することにした。
元首邸は港から馬車を走らせて一時間足らずの場所にあり、ピカピカに磨かれた大理石の床と薄黄色の着色が施された壁が美しい広大で壮麗な建物だ。夕陽の時刻になると、屋根に造られた神々の装飾が長い影を落とし、外壁は黄金に輝いているように見える。東の空が濃い紫色に染まって星がその存在を示し始める頃、邸内では既に兵士たちの宴が始まっていた。兵卒には外の広場や庭園で料理や酒が振る舞われ、上級の将校たちは邸内の大広間やサロンで元首夫妻のもてなしを受けていた。アム島の貴族の子女や将校の奥方たちも招かれ、ダンスホールでは楽団の演奏で兵士たちとダンスを楽しんでいる。
「馬鹿馬鹿しい」
白髭のトーラク将軍が広間の壁際で上物の赤ワインをがぶがぶ飲みながら毒づいた。
「まだ海賊団を一つ潰しただけではないか。戦勝の宴などと、見識が甘い」
「まあまあ。海賊一隻分と親玉を一人捕らえただけでも素晴らしい戦果ですよ。そこからカノーナスの情報が得られるかもしれません。それに、美味な料理や酒は士気の向上にもなります」
ゴランが青い陶の皿に牛肉の分厚いステーキや骨付きのローストチキンを山のように盛って次々にかぶりつきながらトーラク将軍を宥めた。
「わたしは白…トーラク将軍に賛成」
二人は広間の入り口から颯爽と現れたアルテミシアに目を見張った。トーラク将軍は一言も発せずにいつものギョロ目でアルテミシアを見ている。一方のゴランは皿を近くのテーブルに置いてさわやかな笑顔で貴婦人に対する礼をした。
「見違えました。リンドさん。とてもお美しいです」
「どうも」
アルテミシアは世辞に対する愛想のいい態度で応じた。
ゴランに促されて広間の中央に目をやると、サゲンがいつもの青い軍装でアムの指揮官たちと杯を交わしていた。大勢の軍人の中でも一際背が高い。肩幅も広く、厚みのある生地の上からでも精悍で無駄のない筋肉が良く分かる。最後のやり取りは船上での口論だ。あれから二日間、ほとんど会話らしい会話をしていなかった。ただ、立場を考えればこの場でいつものように険悪に無視するわけにもいかない。どうしようかと躊躇していると、サゲンがこちらに顔を向けた。
サゲンは会話の途中だったらしいが、アルテミシアと目が合った瞬間、話している途中の口のまま、杯を持つ手もそのままに動かなくなってしまった。一人だけ時間が止まってしまったかのようだ。アルテミシアは急に不安になった。白髭さんといいバルカ将軍といい、まるで幽霊でも見たような顔をする。
(いったい何だって言うの)
物珍しいのは分かる。いつも男みたいな格好をしていて淑女とは掛け離れた自分が上品で華やかな装いをしているのだから、それはそうだ。それでも、エスコバル夫人やエラをはじめ、女中たちが努力してくれた。エスコバル夫人などはどこからともなく金髪用の詰め物を持って来て、アルテミシアの短い髪の中に詰め物をしまい込み、左右両側から何とか髪を細く編み込んでピンで留め、ふんわりとシニョンにした。鮮やかな手並みだった。顔も、女中たちが嬉々として白粉を叩き込んだ。エスコバル夫人がやりすぎだと言って途中で止め、エラが布で拭って少し落としてくれたが、女中たちに目蓋や唇に画家のような手付きで色を付けられた。問題の日焼け跡は、またしてもエスコバル夫人がどこからともなく肘まで隠れるレースの手袋を持ってきて解決してくれた。エスコバル夫人は「まあ!大きな手!」とか、「手のひらにもこんなにマメの痕をお作りになって!」とかぶつぶつ文句を言いながらも、手袋のサイズにはやや大きすぎる手になんとか嵌めてくれた。アルテミシアの指が長すぎるせいでよく見ると指の間がカエルの水かきのようになっているが、この際仕方ない。
彼女たちの努力の集大成を鏡でも確認したが、そう酷くはないはずだ。むしろ、今まででいちばんの上出来だと思ったのだが。
アルテミシアはちくちくした思いを抱えながら、サゲンと談笑していたアムの将校たちに恭しく挨拶をした。パタロアの屋敷で培った上流階級の所作だ。将校たちもレディに対する完璧な――むしろ少々大仰な礼儀作法でもってアルテミシアに挨拶をした。が、その間もサゲンだけはそのままの姿勢で一言も発せず怒ったような目つきアルテミシアを見ている。アルテミシアは石になる呪いでもかけられてしまったのかと一瞬本気で心配したが、瞬きはしているからそういうわけではないようだった。
「…そんなに変?」
アルテミシアがサゲンの目の前にやって来て目を合わせ、眉根を寄せた。
「いや、そういうことでは…」
サゲンはやっとのことで声を出した。この男が言葉を詰まらせるのを初めて見たアルテミシアは、珍奇な生き物を見るような思いだった。
そこへ、サゲンの下士官たちがやってきた。先頭を切って足早にやって来たのは、片手を包帯に包んだイグリだ。一直線にアルテミシアの方へやって来て、跪いて手を取り、その甲に口付けをした。
「ミーシャ、美しい人。一曲ご一緒する名誉を私に頂けませんか」
貴公子らしく畏まって笑顔を見せた。アルテミシアは面白そうにくすくす笑い、「いいよ」と気軽に承諾した。
「でも、ダンスは久しぶりだから足を踏むかも」
顔を痣だらけにしたリコとブランがニヤニヤしながらイグリを肘で小突き、ロエルはイグリの尻をバシッと叩いた。
二人が何やら話して笑い合いながら広間をあとにしてダンスホールへ去ると、サゲンは部下を交えて将校たちと歓談を続けた。しかし、何を話しているのかさっぱり頭に入って来ない。ただ、赤いドレスに身を包んだアルテミシア・リンドの姿が頭から離れなかった。
(――あれはなんだ)
いつもは雑に一つにまとめられている赤っぽい金色の髪が艶やかに結われ、V字型に大きく開いたドレスの襟からは、その力強さからは意外なほどに華奢な肩が覗いて、薄地のドレスが美しい胸の形をなぞっていた。日に焼けた肌によく映えるコケモモ色の柔らかいドレスがアルテミシアの身体を隠している。折に触れ脳裏に甦るあの美しい裸身を。
あれをイグリ・ソノが、他の男たちが間近で見るのか。俺ではなく。――これは嫉妬か。
(いや、違う)
サゲンは頭を振った。嫉妬ではない。違うはずだ。確かに彼女は魅力的だが、自分の指揮下にある以上は部下と同じなのだから。それなのに会話にも集中できず、適当な相槌すら億劫になり、ダンスホールから聞こえてくる音楽ばかりが耳に入ってくるのは何故なのか。
「くそ」
誰かが小さく悪態をつくのが聞こえた。自分だ。自分にしか聞こえないほどの小さな声だった。次の瞬間にはサゲンは考えることをやめ、気付けば広間の端を通ってダンスホールへ足を踏み入れていた。
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