王城のマリナイア

若島まつ

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十、救出作戦 - una missione di salvataggio -

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 最下層のデッキの片隅に置いてある無数の木箱のうちの一つがカタカタとかすかな音を立て、ゆっくりと蓋が開いた。中からアルテミシアが音も立てずにするりと外に出、ポケットから火打ち金を取り出して片隅に置いてある小さなオイルランプに火を灯した。同じように隣の木箱の蓋が開き、イグリが顔を出した。そろそろ酒に混ぜておいた薬が効いてくる頃だ。
 この日のために、アム共和国屈指の薬師に依頼して眠り薬と痺れ薬を調合させた。毒で殺してしまっては意味がないし、国家としての名誉も地に堕ちる。そのために、効果は強いが命を奪わない程度のものを作る必要があったのだ。薬師は「まったくタチの悪い依頼だ」と文句を言いながらも研究への情熱を燃やして薬を完成させ、兵士たちが時間とその身を削って効き目があらわれるまでの時間を調べた。先ほどから海賊たちが隣の船庫から酒を運び出す物音が聞こえなくなっているから、予定通り進んでいるらしい。ただ、効き目が切れるのは時間の問題だ。強力な薬は匂いや味で気付かれてしまう可能性が高いために、弱い薬を少量ずつ混ぜるしかなかった。貪欲な海賊は大量の酒を飲むだろうから、効果は十分だろうと見積もってのことだが、今のところ一応は上手く行っている。しかし、海賊たちが意識を取り戻したら十中八九策が露見し全員命はない。ここからの作戦は迅速な行動がますます鍵になる。
 イグリは火薬を入れた分厚い革袋の口紐をしっかりベルトに結び付けている。酒と薬で敵が朦朧としている隙に舶来の火薬――リコの言葉を借りれば、「ド派手にブアっと燃え広がるやつ」で海賊船を派手に燃やし、退路を断つ。これが暗闇の中で待機している本隊への合図となる。船が燃えたら迅速に連合軍の兵たちが貿易船に押し寄せ、奇襲、海賊を生け捕りにする、というのが大まかな流れだ。奇襲隊が着くまで時間がかかるから、ここを船員と紛れ込んだ兵たちでなんとか切り抜けなければならない。
 アルテミシアとイグリは静かにデッキの梯子まで移動した。と、その時突然扉が開き、上から海賊がおぼつかない足取りで梯子を降りてきた。薬が効いているらしく、二人に気づくのに少し時間がかかったが、船室の薄暗い中で焦点が合った途端に怒りと驚愕の入り混じった表情になった。海賊が声を上げる前にイグリが目にもとまらぬ速さで飛び掛かり、下に引き摺り下ろして動かなくなるまで首を絞めた。
「楽勝」
 イグリが小声で勝ち誇った。とは言え、体の自由が利かない者が相手では、ハンデが大きすぎる。
「お見事。援護よろしく」
 アルテミシアはイグリの肩を叩いた。
 最上層のデッキへ出るには、ここから更に二階層を上がらなければならない。二人は辺りを伺いながら慎重に進み、上のデッキでまだ人が動いている気配があれば違う梯子を使うために端から端へ移動した。二層目のデッキを登り、船尾にある船長室のすぐ下に差し掛かると、話し声が聞こえた。喚くように下品な大声で話している。少なくとも二人だ。
(クソッ、まだ効いていないやつがいるなんて。海賊のくせに上等な酒に興味ないわけ?)
 アルテミシアは内心で毒づき、すぐ下にいるイグリの顔を覗き込んで止まる合図をして耳をそばだてた。
 最初はひどい訛りかと思ったが、どうやらマルス大陸の言語ではない。単語や発音から考えると、エル・ミエルド帝国の南の地方の言語のように聞こえる。残念ながらこれは学習したことがない。しかし、エル・ミエルド語と酷似した言葉だから大まかな意味の推測はできる。それでもやはり聞き取るのに難儀した。薬の影響で呂律が回っていないからだ。
(欲しい、女…女たち、小さい…少女たち?…値段、高い。……ない、通る、女……)
 アルテミシアは頭をフル回転させて単語の断片を繋ぎ合わせ、意味を読み取ろうとした。最後の単語は分からない。動詞の禁止形と、恐らく汚い俗語だろう。
 思考が彼らの会話の意味に辿り着くと、「あっ」と叫びそうになった。下にいるイグリに目で合図し、梯子を下りるよう指示した。
「どうしたんだ」
 イグリがほとんど息だけで聞くと、アルテミシアは悲痛な表情で首を左右に振った。
「だめ。だめ、中止」
「なぜ」
 イグリは耳を疑った。ここまで来て中止など、ありえない。
「海賊船に女の子たちがいる」
 オイルランプの仄灯りの中でもはっきりわかるほどの蒼白な顔でアルテミシアが言った。
「何?」
「一人が、船の少女を一人よこせって言った。そうしたらもう一人がだめだって、通らない女…多分処女のこと。は、すごい高値で売れるから、…‘穴をあけるな’って言ってる」
 あまりに不愉快な内容だ。口に出すのも嫌だったが、今はそれより重要なことがある。貿易船に女はいない――少なくとも彼らはそう信じている――から、「船の少女」と男が言ったのは海賊船に囚われている少女たちのことだろう。人質がいるとは予想外だった。
「火をつけられない」
「どうする」
 アルテミシアは考えを巡らせた。意識のある者もいるとわかった以上は、ぐずぐずしていられない。
「海賊船に忍び込んで、女の子たちを解放しなきゃ」
「どうやって!」
 イグリは声こそ押し殺したものの、ほとんど叫ぶようにして言った。そんなことは不可能に近い。というか考えうる限り不可能だ。
「今は薬が効いてる。それに、今日は新月。灯りのそばを避ければ大丈夫」
「ミーシャ!」
 まだ動ける者がいると分かったばかりだというのに、そんなことをすれば自殺行為に近い。おまけに、サゲンから「通詞どのを戦闘に巻き込むな」と厳命を受けている。彼女の役割は、海賊同士の会話を聞いて内部の情報を得、海賊船までイグリと行動することだ。船に火をつけたら安全な場所で作戦終了まで待機しているはずだった。
 しかし、アルテミシアが自分の安全のみを確保しろと言われて大人しく従うしおらしさを持ち合わせていないのは、イグリもじゅうぶん承知している。
「それしかない。手伝って、イグリ」
 言われなくてもそのつもりだ。たとえ無謀すぎる案でも。

 奇襲船のデッキでは、サゲンが腕組みをして指をトントンと動かし続けている。苛立ちを隠せずにいた。もうそろそろ二時間を超える。実験の結果では、長くても三時間ほどで薬の効果が薄れ始める。人によってはもっと短い時間で意識を取り戻すだろう。奇襲前に海賊が目を覚ませば、貿易船に乗っている者は殺される。サゲンは焦燥感を隠しきれなかった。
「合図はどうした」
「まだのようですね。何かあったんでしょうか」
 ロエルは努めて冷静な声で言った。
「一度、我々だけで近付いてみましょう。薬が効いているならばバレないはずです」
 サゲンはレイの意見を採用し、短く頷いた。魚油のランプ一つのみを残して他の灯りを消し、船が波の上を滑るようにエマンシュナへの貿易海路に向けて進んで行った。

 アルテミシアはイグリとともに話し声の聞こえた船尾を避け、船首のほうの最上層デッキへの梯子を登った。戸を少し開けて外の様子を伺うと、幸い、最上デッキで酒を飲んでいた海賊たちはみな正体をなくしている。
(バカなやつら)
 操舵者や見張りの者まで酒を飲むなど、バルバリーゴの船では全く考えられなかった。アルテミシアは自分の作戦がうまく行っていることに満足しながら、その規律のなさに船乗りとして憤りも感じていた。
 船員と潜入していた兵たちは足と手を縛られて中央よりやや後方の柱のあたりに集められていた。そこかしこに酒樽や食べ物が散乱し、船員たちの武器は後方に集められている。これも戦利品にするつもりだろう。
 船員たちのもとまで行くのにはかなりの慎重さを要したが、何時間とも感じられる距離を猫のように足音もなく詰めていくと、皆が一様に二人を見た。安堵しているらしい。
 イグリは顔が腫れ上がり目の形と輪郭がすっかり変わってしまったリコを見つけ、気軽な様子で肩を叩いた。
「よお。やられたな」
「あいつらボコボコにしてやる」
 リコが咳き込みながら毒づいた。アルテミシアは小さいナイフで縛っていた縄を切ると、袖でリコの顔についた血を拭ってやった。
「手当てしてあげたいけど、後でね。ちょっと問題が起きたから、作戦変更」
 船員の縄を切っていると、いつのまにか背後にやって来た中背の海賊が唸り声をあげて飛びかかってきた。すんでのところでアルテミシアは横に飛び退き、イグリが海賊の顔を肘で強打した。
「まずいぞ」
 騒ぎを聞いた海賊たちが何人か意識を取り戻し、のろのろと起き上がり始めると、彼らが完全に動けるようになるまでに船員たちは互いに縄を解き、次々に武器を手に取った。
「なんとか時間を稼いでくれ。俺とミーシャは海賊船へ向かう。人質がいるらしい」
「わかった」
 イグリが指示すると、リコが剣を二本持って立ち上がった。
「こっちは素面、相手はベロベロ。何とかなる」
 船長が頼もしく請け合った。
 体の自由が効かないとは言っても相手はこちらよりも数が多く屈強だ。彼らが完全に目を覚ませば勝率はずいぶん低くなる。アルテミシアは後ろ髪を引かれる思いで海賊船へ向かった。途中、動きの鈍った海賊が襲いかかってきたが、イグリが戦って倒し海に投げ捨てた。船の縁に掛けられた梯子を見つけ、貿易船よりも小さい海賊船へ降り立った。こちらに見張りとして残された下っ端の海賊たちは貿易船に乗り込んだ者ほどは酒を飲まなかったのだろう。既に体を動かせるらしく、数人の男たちがアルテミシアとイグリを刃で出迎えた。
 アルテミシアは服の下にじっとり嫌な汗をかいたが、決して焦りを表情に出さなかった。
「てめえら、舐めた真似しやがって!」
 訛りの強い怒号とともに、海賊が一斉に襲いかかってきた。イグリは剣を構えたが、アルテミシアはそれを制し、声を張り上げた。イグリには何を言っているのか全く分からなかったが、エル・ミエルドの言葉だろう。全員が一瞬怯んだように見えた。
「お前たちの頭領は死んだ。アム共和国軍とイノイル王国軍が既にこの船を包囲している。大人しく投降すれば我々は命を奪うことはしない」
 と、アルテミシアは言った。無論、ハッタリだ。だが、意識がまだ朦朧としている上に、下の位置からでは騒ぎは聞こえても貿易船の様子を知ることはできないから、海賊たちはその言葉を絶対に嘘だとは思えなかった。加えて、この小僧のエル・ミエルド語は流暢だ。
「ハッタリだ!」
 茶色い長髪の海賊が叫ぶと、アルテミシアは権高な笑顔を作った。
「梯子を登って確かめたらどうだ。ただし、あの船に乗れば瞬時に衛兵に刺し殺される。お前らをここから出すなと命令されているからな」
 長髪の海賊が一歩引いた。
「行かないのか。それはそうだ。お前たちはカノーナスへの忠誠心など持ち合わせていないだろう」
 アルテミシアは、彼らを最初に見た時からこの船に乗っている海賊の士気が低いことに気づいていた。薬の影響を無しにしても、動きが鈍い。戦利品を与えてもらえない使い走りに間違いなかった。気にかかるのは、いちばん後方の面長な中年の海賊だ。憔悴した雰囲気も表情も、いくら下っ端にしても海賊に似つかわしくない。
「お前たちの望みは何だ。頭どもが強奪して巻き上げた金のうちからほんの僅かに貰えるイヌの餌ほどのおこぼれか。そんなはした金に、命を賭ける価値はあるのか」
「うるせえ!」
 長髪の海賊がアルテミシアに斬りかかろうとすると、アルテミシアは目にも留まらぬ速さでひょいと避け、相手の足を自分の足でひょいと払って転倒させた。その一瞬の間に海賊から剣を奪い、うつ伏せに倒れた海賊の背中を強く踏みつけて首に冷たい切っ先を突きつけた。
 他の海賊に剣を構えて牽制しているイグリは、アルテミシアの俊敏な動きに内心でひどく驚いていた。鍛錬場で一緒になったことはあるが、ここまでの腕前とは知らなかった。これはあの上官が気に入るわけだ。「気に入っている」など、本人は決して認めないだろうが。
「この先の惨めな人生が嫌だと言うならこのまま殺してやってもいい」
 普段の彼女からは考えられないほどの冷淡な声でアルテミシアが言うと、長髪の男は悔しそうに一声呻いて両手を挙げ、屈した。一人が崩れれば他の者も簡単にそれに従った。士気の低さと薬の効果が功を奏した。イグリが全員を縛り上げている間、アルテミシアは中年の海賊に「ねえ、あんた」とエル・ミエルド語で話しかけた。
「何を恐がってる」
 首領は倒したというハッタリを信じているなら、その恐怖の対象は何なのか。中年の男はぶるぶると震え、濃い色の目には哀れにも涙が溜まっている。
「…娘が」
 マルス語だ。アルテミシアはハッとした。
「娘が捕らわれている」
「この船?」
 男が震えながら小さく頷いた。
「助けてくれ…」
 なんということだ。子供を人質にして親を奴隷のように働かせるとは。アルテミシアはその残酷さにぞっとした。
「どこ。案内して」
 アルテミシアは捕縛した海賊と下のデッキへ続く戸口の見張りをイグリに任せ、男の案内でデッキを二階降り、真っ暗な船庫へ辿り着いた。先頭で梯子を降りながら魚油のランプを掲げて端から順に辺りを見回すと、乱雑に置かれた大きな木箱や樽、次にロープや布袋、大きな帆布が見えて、最後に一番隅を照らした時、人影が現れた。少女たちだ。ざっと見て数えると、十三人いた。皆息をひそめて身を寄せ合い、恐怖に満ちた目でアルテミシアと男を見ている。アルテミシアは少女たちが生きているのを見てほっとしたのも束の間、後ろから背中を強く押され、船庫の床へ体を打ち付けた。
「ちょっと!」
 と叫んだ時には、上の戸口は閉じられていた。急いで梯子を登ったが、既に錠をかけられ、ビクともしない。男の「すまない、すまない」という弱々しい謝罪が聞こえてくる。
「娘はカノーナスのところだ…。私が捕らえられれば、娘は殺される…すまない…」
 鼻をすする音と共に、男の足音が遠ざかった。
「くそ!」
 アルテミシアは壁をバン!と殴った。

 イグリが異変に気づいたのは、小型のボートが海に投げ出される音を聞いた時だった。墨のような海の中、ボートを漕ぐ音が波の音に消えていく。
「ミーシャ!どこだ!」
 大声で呼んだ瞬間、貿易船からクマのような首領がゴツゴツした身体つきの手下たちを幾人も従えて降りてきた。完全に意識を取り戻したらしく、海賊たちの足取りはしっかりしている。イグリは舌を打って剣を構えた。
「人の船でずいぶん勝手してくれたようだなあ」
 訛りのひどいマルス語で首領が言うと、イグリは秀麗な貴公子の笑みで返した。
「お前らにだけは言われたくないね」
 雄叫びを上げながら襲いかかってくる敵を避け、或いは払い退け、イグリは下のデッキへ続く梯子を死守しようとした。が、多勢に無勢だ。ひとりの剣を右に受けた瞬間、左側からも刃が襲ってきた。肉を裂かれるのを覚悟したが、耳をつんざく金属音がイグリの命を救った。リコだった。リコは折った肋を庇いながら狂いのない太刀筋で剣を振るった。後から兵と船員が幾人か梯子を渡って降り立ち、海賊船の船首で戦うイグリに加勢した。
 乱戦になった。
 貿易船では船長が指揮を執り、海賊相手に善戦している。相手の多くがふらついている間に戦闘を開始したために、幸いにも味方に死者はいない。しかし、今や薬の効果が消えつつあり、海賊たちは屈強さを取り戻していた。戦闘が長引けば長引くほどこちら側は不利になるだろう。もともと船員たちは戦闘要員ではなかったのだ。
 そこへ、貿易船が激しい衝撃を受けて大きく揺れた。小型の船が貿易船に船体をぶつけたのだ。奇襲船は何艘も周囲に集まり、長い梯子をかけてアム・イノイル連合軍の兵たちが次々に貿易船へ登ってきた。海賊たちは一気に劣勢に追い込まれ、遂に投降する者たちが出た。ところが、ここで悪いことが起きた。
 先ほどの衝撃で貿易船と海賊船を繋ぐ梯子が外れ、海賊船が大きく離されてしまったのである。白髭さんことトーラク将軍がそれに気づいたが、既に船上で戦闘を始めているために追うことができない。このままでは真っ暗な海上に紛れて見失ってしまう。部下の一人に命じて帆柱の見張り台へ行かせ、オイルランプの灯で周囲の船に合図を出した。

 リコは自分を痛めつけた海賊への復讐を果たした。生け捕りにするつもりだったが、敵のあまりの馬鹿力に余裕をなくし、のし掛かってくる相手の目を潰した後で頚動脈を切った。生温い液体が辺りに独特の臭いを撒き散らしながら飛び散り、重い巨躯がデッキに倒れこんだ。息をつく間も無く別の敵が現れ、リコを血で滑る床に倒し、斬りかかった。今度はイグリがそれを防いだ。別の船員や兵たちも自分や他の者の血でぐしゃぐしゃになりながら戦った。イグリが首領の不在に気づいたのは、四人目の敵を袈裟懸けに斬った時だった。既に刃に血が回ってうまく斬れない。が、海賊の一部が貿易船で不利と見るや両船が完全に離される前に自分たちの船に戻ってきて、敵の数は未だに味方のそれを上回っている。
 イグリはいつの間にか大型帆船から遠く引き離され、味方が合流できなくなっていることに気付いた。海賊船は暗い海に溶け込むように漂い始めた。援軍を要請しようにも、目印になるものがない。と、その時、手が腰の革袋に触れた。
(いやいや)
 呑気にも笑い出しそうになってしまった。危険を遥かに通り越して、無謀だ。自分ひとりならまだしも、失敗すれば全員死ぬ。
(ミーシャじゃあるまいし…)
 目の前の帆柱を凝視した。

 アルテミシアは上の騒ぎを聞き、戦闘が始まったことを知った。とにかくこの子達を安全に守らなくては。少しでも恐怖が和らぐよう、彼女たちが身を寄せ合う真ん中にランプを置き、顔がよく見えるようにした。よく見ると、みんな十歳から十五歳くらいの年端もいかない子供だった。質素なドレスに混じって、多少汚れてはいるが、上流階級のドレスを着ている娘もいる。どんなに怖い思いをしているだろうかと、心が痛くなった。同時に、先ほどの男たちの汚らわしい会話を思い出し、激しい怒りが全身を巡った。
「あなたも海賊?」
 いちばん小さい少女がか細い声で尋ねた。マルス語だ。わずかに西方の訛りがある。
「いいえ、わたしはイノイル軍の通詞。助けに来たよ。ミーシャって呼んで」
 頭から麻布を取ると、少女は少し緊張を解いたように、薄く笑みを浮かべた。
「ミーシャ、女の人ね。わたしはエラ」
 別の少女が言った。十五歳くらいの、この中では年長の少女だ。上流階級のドレスを着ている。顔をよく見ると、頰に殴られてから時間が経ったと思われる青痣があった。首にはもっと新しい痣が、長細い線を描いている。――締められた痕だ。アルテミシアは頭を思い切り殴られたような衝撃を受けた。
 何をされたのかは、アルテミシアの表情の変化に気づいた彼女の反応からもわかる。瞳は恥じ入ったように伏せられ、深い悲しみに揺れている。
「…お頭の言う通りに大人しくしていれば、そんなに酷いことにはならないの。他の子には何もしないって約束も守ってくれてる」
 アルテミシアは泣きたくなった。奥歯をぎりぎりと噛み、爪が肉に食い込むほど強く拳を握りしめた。生まれて初めて誰かを殺したいと思った。激しく、暗く、めまいがするほどの怒りが身体中を駆け巡った。六年前にラデッサで経験した怒りよりもはるかに深い、憤怒だ。
「でも、このままここにいたら、あなたも売られてしまうわ」
 エラが気遣わしげに言った。
「今、アムとイノイルの連合軍が戦ってる。援軍もすぐに来るよ。もう大丈夫だから、安心して」
 アルテミシアは少女たちを安心させるよう、丁寧な発音でゆっくりと話して聞かせた。少女たちは肩の力を抜き、安堵の表情を見せた。
「エラ、エラ。遅くなってごめん。あなたが守ったおかげでみんな無事だった。今からわたしがあなたを守るから。もう二度と酷い目に遭わせたりしない」
 エラは大きな目に涙を溜めてアルテミシアに抱きついた。
 その時、上の甲板から人が歩いている物音が聞こえてきた。アルテミシアは少女たちを船庫の隅に固まらせ、周囲に乱雑に置かれている荷箱や大樽などで素早くバリケードを作り、上から大きな布を被せた。灯りはバリケードの中に置いているので、辺りは真っ暗だ。暗闇の中、アルテミシアは梯子の裏で息を潜めて待ち構えた。足音は重く、一人分だ。荒い息遣いと足音が近くなってくる。上の戸口の錠がガチャガチャと鳴り、小さくカチッと音がした。腰に差したたかだか護身用の短剣で十分に戦えれば良いが。アルテミシアは短剣をぎゅっと握りしめた。
 突然、やや遠くの上方から爆発音が聞こえ、船体が大きく揺れた。すぐ真上ではないが、明らかにこの船だ。イグリが火薬に火をつけたに違いない。バリケードの向こうから少女たちの小さな悲鳴が聞こえた。
「大丈夫。味方だよ」
 アルテミシアは「ド派手にブアッと燃え広がるやつ」のことを考えながら少女たちを安心させようとした。どの程度燃え広がるのだろう。これも実験しておけばよかった。イグリは無事だろうか。
 爆発音の後、真上の戸口の外から悪態を吐く男の声が聞こえた。貿易船で話していた男の声とよく似ていた。売り物の少女たちを連れ出しに来たのだろう。男は例のエル・ミエルド語によく似た言葉で「ええいクソ野郎!ボートはどこだ!」と大声で叫び、最後に貿易船で聞いたのと同じ言葉で激しく罵った。アルテミシアは同じ男だと確信した。男が開けたばかりの錠もそのままに、ミシミシと梯子を軋ませながら登って行く。とうとう商品を棄てて逃げる気だ。
「ミーシャ、逃げて!今のはお頭よ。すごく怒ってる…見つかったら殺される」
 エラがバリケードの中から小さな声で警告した。同時に、アルテミシアの中にドロドロと憎しみが湧いた。――あいつがすぐそばにいる。
「エラ、みんなとここにいて。わたしが戻るまで、誰か来ても絶対に出ちゃだめ」
 アルテミシアは静かに走り出した。
「だめよ!」
 止めようとするエラに応えず、アルテミシアは梯子を登りはじめた。
(逃がさない)
 アルテミシアはそっと戸口を開けて音もなく上のデッキに上がると、真っ暗な中、重く響く足音と首領の持つランプの灯りを目標にして、身を低くして思い切り突進して行った。
 首領は予期せず足元に衝撃を受けてバランスを崩し、その重量でもって奥に積んであった荷箱を破壊しながら倒れ込んだ。しかし、体格差が首領に味方した。馬乗りになって刃を突き刺そうとしてくる細身の影をいとも簡単に振り払い、刃を逃れて巨大な体を起こした。あの巨体から考えれば驚くべき速さだ。アルテミシアはすぐさま転がるようにして背後へ回り、今度は首領の腱を狙って一閃した。しかし暗がりではうまく狙いをつけられず、これも躱されてしまった。アルテミシアは尚も荒い息遣いのする方へまっすぐな太刀筋で短剣を振った。ビッ、と音がして醜い呻き声が聞こえた。手応えはあるが、浅い。首領も避けるだけではなかった。木の幹はあろうかとも思える太さの腕を振り、幅の広い短剣を腰から抜いて応戦してくる。アルテミシアは俊敏に躱したが、運悪く先程破壊された荷箱の木片に足を取られ、足首を強かに捻って転倒してしまった。次の瞬間には首領の巨大でひどい悪臭のする身体が胴の上にのし掛かってきた。内臓が押し潰されてしまうかと思うほどの重さだった。跳ね除けることができない。アルテミシアは短剣を奪われ、太い腕を凄い力で首に押し付けられてしまった。相手の腕を外そうと引っ掻いたり押し返したりしたが、ビクともしない。
「なんだ」
 ゼエゼエと荒い息をしながら、首領が嘲るように言った。今度はかすかな訛りのあるエル・ミエルド語だった。首領は足元に落ちていたランプを拾ってアルテミシアの顔を照らし、醜悪な顔を近づけてきた。左目のすぐ下に細く長い切り傷があり、血が流れている。先程アルテミシアが斬りつけたところだ。アルテミシアの頰に生温い血が落ちた。アルテミシアは鼻に皺を寄せ、嫌悪感を露わにした。
「ガキが紛れ込んだかと思ったら、お嬢ちゃんじゃねえか。え?わざわざこんな所に来るたあ、ご苦労なこった」
 アルテミシアがベッ、と首領の目に唾を吐きかけ「くたばれ、クソ野郎」と吐き捨てると、首領は黄色い歯を剥き出しにしてアルテミシアの首を毛むくじゃらのやたらと大きな手でギリギリと締め付けはじめた。
 信じられない力だ。激しい痛みと苦しみが襲ってきた。息ができない。嫌な汗が前身から噴き出した。膝で股間を思い切り蹴り飛ばしてやろうかと思ったが、じわじわと襲ってきたパニックと苦痛で脚をジタバタさせることしかできなかった。
 首を絞める首領の目にはギラギラと残忍な欲望が映っている。今や恐ろしい薄ら笑いを浮かべ、片手をアルテミシアの腰に押し付けた。
「よお、死ぬ前に」
 アルテミシアのシャツをズボンの裾から引っ張り出し捲り上げて、ニタニタと下品に笑った。
「楽しませてもらうぜ」
 首領はアルテミシアの耳元で下品な笑い声をあげ、頰をベローッと舐めた。吐き気がする。こいつを考え得る限りの残忍な方法で殺してやりたい。殺意に満ちた目で目の前の化け物を睨みつけた。視界がチカチカする。
「こうやって窒息する直前がな」
 言いながら、片手でアルテミシアのシャツを前で引き裂いた。
「いちばん締まる・・・んだよ」
 アルテミシアはゾッとした。初めて恐怖が怒りを上回った。一瞬、六年前のラデッサの風景がフラッシュバックした。長く遠く続く石の街道と、脇に見えるブドウ畑…。目の前が真っ白になって更に一層息苦しくなった。息を吸っても空気は入っていかない。吐き出すこともできない。
 首領がアルテミシアのズボンのベルトに手を掛け、ずりおろそうとした。目の前が暗転して、意識が朦朧としてきた。身体から次第に力が抜けていく。
 と、その時遠くから突然名前を呼ばれた気がした。
 身体がフッと軽くなり、首の痛みから解放された。咽喉が空気を求めて大きく開き、うつ伏せに転がりながら激しく咳き込んで胃の中のものを吐いた。体中がガタガタと震えている。アルテミシアが状況を把握したのは、青い軍装の肩の広い男がそれよりも大きい海賊の巨躯をうつ伏せに組み伏せているのを目にした時だった。――サゲンだ。
 首領は未だに物凄い力で抵抗していたが、サゲンが首領の後頭部を剣の柄で殴って気絶させた。首領を後ろ手に縛りあげていると、アルテミシアがよろよろと近づいてきた。シャツの前が破けて下着が見え、首には血が出ているのかと思うほど真っ赤な痕がくっきり付いている。
 サゲンは一瞬激しい殺意に囚われそうになったが、司令官としての責任と理性が辛うじて剣の柄に手をかけるのを押しとどめた。
「リンド、よせ」
 アルテミシアは屈んで意識を失った男の首に短剣を当てている。虚ろな目でぼんやり剣先を見つめ、手はガタガタと震えている。サゲンの声が聞こえているのかわからない。いつものアルテミシアとは別人のような顔だ。様子がおかしい。
「…殺せば作戦失敗だ」
 殺したい気持ちは痛いほどわかる。が、生け捕りが目的だ。
「アルテミシア」
 サゲンが名前を呼んで震えながら短剣を握る手にそっと触れたとき、アルテミシアがようやくサゲンと目を合わせた。虚ろな影が次第に消え、徐々に焦点が定まっていく。
 アルテミシアがサゲンに促されて静かに首から剣先を離した。と、次の瞬間、アルテミシアは目にもとまらぬ速さで別の場所に剣を突き立て、抜いた。激痛に意識を取り戻した首領が、傷を押さえることもできずに床をのた打ち回り、醜い断末魔の叫び声をあげた。脚の間から衣服を伝い、床へ大量の血が広がっていく。
「リンド!」
 サゲンがアルテミシアの手からべっとりと血の付いた短剣を奪い、アルテミシアは両手を上げて大人しく従った。アルテミシアはもはや震えていなかった。冷酷とも慈悲深いともつかない眼差しで苦痛にもがき続ける男を見下ろしている。海賊はやがて、びくびくと痙攣しながら気絶した。
「殺してはないよ。時間の問題だけど」
 アルテミシアは抑揚のない声で言ったが、先程見せた複雑な表情がひどく気に掛かった。サゲンは青い軍服のジャケットを脱いでアルテミシアの肩に掛けてやり、血で汚れた顔を袖で拭ってやった。
 「大丈夫か」などとは聞かない。答えは明白だ。
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