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二、ティグラ港の事件 - un caso al porto Tigra -
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イノイル東岸のティグラ港に停泊する商船の多くは、近隣のルメオ共和国やエマンシュナ王国、イノイル王国の東側に広がるネラ海の島・アム共和国、東の大陸エル・ミエルド帝国からやって来る。
ほとんど全ての船が貿易を生業としているから、もちろん言語に明るい者は多い。が、全ての船員がそうではない。通詞役の船員が一つの商船に必ず一人はいるものだが、そういった者は言わば専門職で、他の者は有事の際の戦闘員を兼ねた屈強な漕ぎ手なのである。
いかに人望の厚い船長が自分の船員たちを巧く統率していようと、雑多な文化や言語の入り混じる貿易港では、諍いが全く起きないということは有り得ない。
この日もそうだった。
エマンシュナの大商船団の船員が、エル・ミエルド帝国の商船の積荷をひとつ誤って海に落としてしまったのである。居合わせたエマンシュナの通詞役は仲裁ができるほどには役に立たず、更に運の悪いことに、エマンシュナの船員は酒に酔っていた。それが、火に油を注いだ。エル・ミエルドの船員たちは、帝国憲法で酒が禁じられている。エル・ミエルド帝国では、酒は忌むべきもので、特別な宴でのみ呑むことが許されるのだ。
それだけに、酔った船員が積荷を海へ落としたことは、彼らにはますます許しがたいことだった。酔って状況を認識できないエマンシュナの船員は言いがかりだと激昂し、言語の不自由さも拍車をかけて、いよいよ刃傷沙汰になった。
両者が剣を抜くと、周囲に粗野な船乗りたちが集まって古代の闘技場さながらに囃し立て、お祭り騒ぎを始めた。手の早い者たちは既に金を賭けている。
女王イサ・アンナが港を闊歩していたのは、ちょうどその時だ。
数十メートル先から、激しく金属がぶつかり合う音が聞こえてくる。剣術を得手とする女王には、すぐに殺し合いの剣戟と分かった。
「何の騒ぎだ」
近付こうとしたイサ・アンナを、黒衣の従者が制した。
「陛下、このような所に足を運ぶべきではありません。港の監督官に任せて――」
「すべての権限は私にある」
にべもなく言うと、従者をさっさと下がらせてしまった。イノイル随一の貿易港で死人が出ては、事後処理に時間がかかり一時的に港が機能しなくなる。しかも双方が外国の船員とあっては、ただでさえ悩みの種が尽きない外交問題に更なる問題を重ねることになる。
(手っ取り早く二人を逮捕させて裁判を受けさせるか)
女王は颯爽と人だかりへ近づいていった。みな殺し合いに夢中で、この場違いな貴婦人と従者たちに気づいていない。
「道を開けよ」
と言うや言わぬやの瞬間に、ふっと剣戟の耳をつんざくような音が止んだ。同時に、観衆は不満そうなうめき声を漏らしたり、驚嘆の声をあげたりした。中心で何が起きているのか、観衆が壁となってイサ・アンナには見えない。
(死者が出たか)
やはり面倒なことになった。処理をさせなければならない。女王は従者に目配せした。
その時。
「おい、見世物じゃないぞ!油売ってないで自分たちの仕事に戻れ!」
少年の声のように聞こえた。重く力強い金属音には似つかわしくない。
興ざめした観衆がぞろぞろと散り、次第に騒ぎの種が女王の視界に現れた。
三人いる。明らかに酒に酔って顔を真っ赤に染めた筋骨隆々の大柄な男、肌が浅黒く長身の一目見てエル・ミエルド人と分かる男、それから、頭に麻の布を巻いた若い船乗り。髪はすべて後ろへまとめて布に隠し、凛とした瞳が利発そうに輝いている。おそらくこれが声の主だろう。大男二人の間にいるからか、一際小柄に見えた。
若い船乗りは見るからに身体よりも二回りは大きなシャツを着、邪魔くさそうに袖を肘まで捲り上げ、細身のズボンを太いベルトで留めて、黒い革のブーツにその裾をしまい込んでいる。その腕はうっすらと筋肉が付いているように見えるが、細い。腰も脚もとても屈強とは言えず、とてもこの乱闘騒ぎに介入していたとは思えない。
しかし、どういうわけか大の男二人は丸腰で、一番小柄な若い船乗りは二本の剣を軽々と片手に持っている。おまけに他の屈強な二人は、間抜けな顔をして地べたに這いつくばっている。何が起きたのかよくわかっていないらしい。
女王は興を引かれた。これは最後まで見届けなければ。
「外套を貸せ」
女王は従者からマントを引ったくり、衣装が目立たないように頭からすっぽりかぶった。
「何があった」
観衆の一人に声をかけた。
「あれを見逃したのかい、ご婦人。もったいねえな。あの細っこいのは、なかなかやる。マッチョのエマンシュナ人とノッポのエル・ミエルド人のやり合いも見ものだったがよ、どこから小僧が現れたのか、やり合ってる二人の剣を目にもとまらぬ速さで取り上げちまったのよ。魔法みたいに」
「――魔法?」
(見たかった)
悔しさがこみ上げてくる。
若い船乗りは、流暢なエル・ミエルド語で何事かエル・ミエルド人に話をした後、ばしゃばしゃと桶いっぱいの海水をエマンシュナの酔っ払いにふっかけ、積荷が落ちたのはお前が原因だと言った。そのあと互いの船長を呼びつけ、それぞれの言語で事の経緯を説明し、エマンシュナの船長にはエル・ミエルド船へ航海法に法って売値と同額の賠償金を支払うよう話した。エル・ミエルドの船長にも丁寧に説明してやり、互いの風習を理解して斬り合いの剣は不問に処すよう、助言までしてやった。その際、そうでなければ二人ともイノイル王国の法により正式に裁判所で裁かれるだろうと脅しを付け加えることも忘れなかった。
その一部始終を、すでに馬上にいるイサ・アンナは見ていた。
ほとんど全ての船が貿易を生業としているから、もちろん言語に明るい者は多い。が、全ての船員がそうではない。通詞役の船員が一つの商船に必ず一人はいるものだが、そういった者は言わば専門職で、他の者は有事の際の戦闘員を兼ねた屈強な漕ぎ手なのである。
いかに人望の厚い船長が自分の船員たちを巧く統率していようと、雑多な文化や言語の入り混じる貿易港では、諍いが全く起きないということは有り得ない。
この日もそうだった。
エマンシュナの大商船団の船員が、エル・ミエルド帝国の商船の積荷をひとつ誤って海に落としてしまったのである。居合わせたエマンシュナの通詞役は仲裁ができるほどには役に立たず、更に運の悪いことに、エマンシュナの船員は酒に酔っていた。それが、火に油を注いだ。エル・ミエルドの船員たちは、帝国憲法で酒が禁じられている。エル・ミエルド帝国では、酒は忌むべきもので、特別な宴でのみ呑むことが許されるのだ。
それだけに、酔った船員が積荷を海へ落としたことは、彼らにはますます許しがたいことだった。酔って状況を認識できないエマンシュナの船員は言いがかりだと激昂し、言語の不自由さも拍車をかけて、いよいよ刃傷沙汰になった。
両者が剣を抜くと、周囲に粗野な船乗りたちが集まって古代の闘技場さながらに囃し立て、お祭り騒ぎを始めた。手の早い者たちは既に金を賭けている。
女王イサ・アンナが港を闊歩していたのは、ちょうどその時だ。
数十メートル先から、激しく金属がぶつかり合う音が聞こえてくる。剣術を得手とする女王には、すぐに殺し合いの剣戟と分かった。
「何の騒ぎだ」
近付こうとしたイサ・アンナを、黒衣の従者が制した。
「陛下、このような所に足を運ぶべきではありません。港の監督官に任せて――」
「すべての権限は私にある」
にべもなく言うと、従者をさっさと下がらせてしまった。イノイル随一の貿易港で死人が出ては、事後処理に時間がかかり一時的に港が機能しなくなる。しかも双方が外国の船員とあっては、ただでさえ悩みの種が尽きない外交問題に更なる問題を重ねることになる。
(手っ取り早く二人を逮捕させて裁判を受けさせるか)
女王は颯爽と人だかりへ近づいていった。みな殺し合いに夢中で、この場違いな貴婦人と従者たちに気づいていない。
「道を開けよ」
と言うや言わぬやの瞬間に、ふっと剣戟の耳をつんざくような音が止んだ。同時に、観衆は不満そうなうめき声を漏らしたり、驚嘆の声をあげたりした。中心で何が起きているのか、観衆が壁となってイサ・アンナには見えない。
(死者が出たか)
やはり面倒なことになった。処理をさせなければならない。女王は従者に目配せした。
その時。
「おい、見世物じゃないぞ!油売ってないで自分たちの仕事に戻れ!」
少年の声のように聞こえた。重く力強い金属音には似つかわしくない。
興ざめした観衆がぞろぞろと散り、次第に騒ぎの種が女王の視界に現れた。
三人いる。明らかに酒に酔って顔を真っ赤に染めた筋骨隆々の大柄な男、肌が浅黒く長身の一目見てエル・ミエルド人と分かる男、それから、頭に麻の布を巻いた若い船乗り。髪はすべて後ろへまとめて布に隠し、凛とした瞳が利発そうに輝いている。おそらくこれが声の主だろう。大男二人の間にいるからか、一際小柄に見えた。
若い船乗りは見るからに身体よりも二回りは大きなシャツを着、邪魔くさそうに袖を肘まで捲り上げ、細身のズボンを太いベルトで留めて、黒い革のブーツにその裾をしまい込んでいる。その腕はうっすらと筋肉が付いているように見えるが、細い。腰も脚もとても屈強とは言えず、とてもこの乱闘騒ぎに介入していたとは思えない。
しかし、どういうわけか大の男二人は丸腰で、一番小柄な若い船乗りは二本の剣を軽々と片手に持っている。おまけに他の屈強な二人は、間抜けな顔をして地べたに這いつくばっている。何が起きたのかよくわかっていないらしい。
女王は興を引かれた。これは最後まで見届けなければ。
「外套を貸せ」
女王は従者からマントを引ったくり、衣装が目立たないように頭からすっぽりかぶった。
「何があった」
観衆の一人に声をかけた。
「あれを見逃したのかい、ご婦人。もったいねえな。あの細っこいのは、なかなかやる。マッチョのエマンシュナ人とノッポのエル・ミエルド人のやり合いも見ものだったがよ、どこから小僧が現れたのか、やり合ってる二人の剣を目にもとまらぬ速さで取り上げちまったのよ。魔法みたいに」
「――魔法?」
(見たかった)
悔しさがこみ上げてくる。
若い船乗りは、流暢なエル・ミエルド語で何事かエル・ミエルド人に話をした後、ばしゃばしゃと桶いっぱいの海水をエマンシュナの酔っ払いにふっかけ、積荷が落ちたのはお前が原因だと言った。そのあと互いの船長を呼びつけ、それぞれの言語で事の経緯を説明し、エマンシュナの船長にはエル・ミエルド船へ航海法に法って売値と同額の賠償金を支払うよう話した。エル・ミエルドの船長にも丁寧に説明してやり、互いの風習を理解して斬り合いの剣は不問に処すよう、助言までしてやった。その際、そうでなければ二人ともイノイル王国の法により正式に裁判所で裁かれるだろうと脅しを付け加えることも忘れなかった。
その一部始終を、すでに馬上にいるイサ・アンナは見ていた。
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