獅子王と海の神殿の姫

若島まつ

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【番外編1】辺境伯の新しい恋人と憂いのタルト - un nouvel amour et la tarte du margrave -

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 ルドヴァンの空気は久しぶりだ。
 アニエスは馬車の窓を開けて、思いきり空気のにおいを吸い込んだ。冴え冴えとした、目が覚めるような冷たい空気だ。氷の粒を思わせるような風の匂いも、王都とは違う。
「もうすぐ雪が降りそうね」
 領内に雪が積もれば、普段交易品の運搬で行き交う人々の足が止まる。外部からの立ち入りが多いルドヴァンでは、雪に阻まれて立ち往生してしまった行商人や船乗りたちへの対応が必要になるから、都度保存していた食料を市民や領内に留まる人々に解放したり、薪や油などの燃料を提供する必要があるのだ。怪我人も多く出るだろうから、緊急に対応できる医療班を組織しなければならない。そしてその中心となって動くのは、領主一族の一員でありながら医師でもあるアニエスだ。
 この「雪が降りそうだ」という彼女の一言の中には、これだけ多くの思慮が含まれている。
「非常時の蓄えはどのくらい残っていたかしら」
 アニエスが窓から視線を移し、向かいに座る兄――いや、今では恋人となったガイウスに問いかけた。
 途端に頬が熱くなったのは、ガイウスの青灰色の目が暗い影を落としながらこちらをじっと見つめていたからだ。その目の奥に、妹として享受してきたこれまでの愛情とは全く違う、生々しい男の情念が見えた。
 離れて座っているのに、身体中を捕らえられているような錯覚に陥った。が、アニエスは耐えた。領主の一族であり、医師でもある自分の本分を忘れてはいけない。
「…ガイウス」
 ガイウスは今初めてアニエスが話しかけていたことを知ったように眉を上げた。
「なんだ」
 アニエスの肌をゾクリと震わせる低い声だ。
「非常時の、蓄え。どれくらい残ってる?」
「ひと冬越すのには問題ない」
 どこか物憂げに言いながら、ガイウスは向かいの席からアニエスの隣へと腰を移した。
 アニエスは身体を強張らせた。が、逃げようとはしなかった。生娘でもあるまいし、動揺を悟られてはなんだか癪だ。つい最近ガイウスへの愛を素直に認めて恋人同士となったものの、背徳的な罪悪感に苛まれながらガイウスに焦がれていた時間が長すぎたために、意地を張るのが癖になっている。
 ところが、首の後ろに唇が触れると、そんな事情など関係なく、身体中の至るところで花が咲いた。
「…っ、ガイウス」
 アニエスは身を捩って離れようとしたが、ガイウスの腕がアニエスの腹に回り込んで抱き寄せた。
「ちょっと…、こんなところで――」
「どこならいい?あれ・・以来、お前に触れていない」
 かぁっ、と全身が熱くなった。外の冷気が嘘のようだ。
 ガイウスの言う通り、初めて心が通じ合った日から、肌を重ねていない。
「あっ…、あの時は、いろいろと感情がワーってなってつい流されたけど、やっぱり、わたしたちの関係は、セオスに全部打ち明けてからでないと…」
流された・・・・?」
 ガイウスはひどく不機嫌な顔になり、アニエスを抱く手にぎりりと力を込めた。
「そうよ。もう少し慎重になるべきだったわ。法的にはもう兄妹じゃなくても、ルドヴァンの人たちはわたしをあなたの妹と思ってるわけだし、何より、セオス兄さまが――」
「そんなにセオスが気になるか」
 ガイウスの声は重い。
「当たり前でしょ、家族なんだから。これから全部、打ち明けないといけないのよ」
 アニエスの胸がちくちくと痛んだ。喉に砂でも詰まっているように、言葉が重い。
 セオスは、何も知らない。
 春の宴に出席するために王都へやって来たが、しばらく王都に滞在することになった兄の不在を埋めるべく、宴が終わるなり領地へとんぼ返りして、何か月も一人ルドヴァンの運営に勤しんでいた。
 その間に自分たちの父親が人殺しの詐欺師だったことが判明し、ガイウスの父親が別人であり、これまで異母妹と思っていたアニエスとガイウスに血の繋がりはなかったことが判明したのだ。これだけでも天地がひっくり返る程の衝撃なのに、あまつさえ自分の兄と妹が婚約したと聞かされたら、心に大きな傷を残すことになるのではないか。
 それを、アニエスは心配しているのだ。
 一方で、ガイウスは弟の態度を比較的楽観視している。
「あいつも大人だ。受け入れてくれるさ」
 アニエスの首筋を熱い吐息がくすぐり、腰を捕まえていた大きな手が毛皮の外套の内側へ入り込んで、鳩尾をのぼり始めた。
「大人でも――」
 アニエスは悪戯を始めようとするガイウスの手に自分の手を重ねた。
「受け入れるのに時間がかかると思うわ、これは」
 ゆっくりと不埒な手を引き剥がして後ろを振り返ると、ガイウスが不機嫌そうに唇を結んだ。気分を害したように細めた目でさえ、胸を苦しくさせる。ついひと月前まで妹としてどうやって接していたのか、もう思い出せない。
「それに、わたしもまだ…慣れないの。あなたとこんなふうに…その」
 不機嫌に溝を刻んでいた形のよい眉が柔らかく開くのを見て、ひどく恥ずかしくなった。ガイウスが機嫌を直したのは、自分の顔が赤くなっているせいだ。
「それなら慣らさないといけないな」
 ガイウスはゆったりと美しい唇を左右に引き伸ばした。
 ずるい男だ。この笑顔にうっとり見蕩れない女性がいるだろうか。そして近付いてくる唇を拒むことは、アニエスにはできない。
 柔らかく湿った唇が自分の小さな口を覆い、強請るような丹念さで舌が這う。
 優しい両手に頬を挟まれたとき、アニエスはガイウスの背に腕を伸ばした。

「いい?一つずつ、丁寧に説明するのよ」
「わかってる」
「本当ね?」
 アニエスは念を押した。馬車を降りた二人の前には、高い塔を中心に左右に翼を広げた白い城郭がある。黒い衣服に身を包んだ多くの使用人が総出で領主とその‘妹’の帰還を出迎え、扉を開けて彼らの帰城を待っている。
 扉の奥に、壮年の家令と家中では最も古株の侍女頭が身を低くして立ち、その中心には、満面の笑みを湛えたセオスがいる。
 セオスは、兄よりも明るい栗色の髪をきちんと整え、深い緑の正装で待っていた。
「兄さん、アニエス!遅かったじゃないか」
 二人の姿を認めるなり大股で歩み寄り、外套を身に付けたままの二人の兄弟をガシッと抱き締めた。
「会いたかったわ、セオス兄さま」
「俺の方がずっと二人に会いたかったぞ」
 声が弾んでいる。
「苦労をかけた。よくやってくれた」
「えっ」
 兄の労いの言葉に、セオスは胡乱げな顔をして身体を離した。
「どうした、兄さん」
 ガイウスは眉を寄せた。
「何?」
「いつも俺のこと褒めないだろ。大学の成績が首席だった時も、交易品を狙う強盗団を俺の指揮で見つけ出した時も褒めなかったのに、半年留守を預かっただけで褒めるなんて有り得ない。何か隠してるのか?」
 アニエスは凍り付いた。セオスは気は優しいが、なかなか鋭い。ちらりとガイウスの顔を見ると、口元が苦々しげに歪んでいる。
 が、二人よりも先にセオスが口を開いた。
「もしかして、王都の屋敷に隠しておいた俺の酒、飲んじゃったとか?」
「そ、それは…、わたしが飲んだ」
 アニエスが言うと、セオスは仰々しく天を仰いだ。
「やっぱりな!めちゃくちゃ高いやつだぞ」
「コルネールの人間がけちくさいことを言うな」
 ガイウスは眉を顰めた。
「そうよ。それにあんなの隠してるとは言わないわ」
「隠してたさ。俺専用の棚に入ってただろ。高いだけじゃない。何年かに一回しか出回らないから手に入れるのに苦労するんだ」
「鍵が無いんだからみんなの共有よ。だいたい、そんなに大事ならここに持って帰ってくるべきでしょう」
「わ、割れたら嫌じゃないか」
「嘘よ。棚に入れっぱなしで忘れただけでしょう。‘美味しいうちに召し上がってくれてありがとう、アニエス。’ええ、こちらこそ美味しいお酒をありがとう、セオス兄さま」
 アニエスが鼻につく声色で言いながら澄まし顔をすると、ガイウスがフッと吹き出した。
「お前の負けだ、セオス」
 セオスはむうっと頬を膨らませたが、すぐに楽しそうに破顔して、もう一度二人の兄妹を抱き締めた。
「何だかお前、明るくなったなぁ、アニエス!友達ができたって本当だったんだな。やっぱり、兄妹が三人揃うといいな」
 嬉しそうに笑うセオスを抱き締め返しながら、アニエスとガイウスは互いに視線を交わし合った。言葉はなくても、二人とも同じ考えを持ったはずだ。
 間違いなく、言い出しづらくなってしまった。
 ところがこの日、夕刻を迎えようとした領内がにわかに慌ただしくなったために、告白の機会を逸することになった。
 領内を通る交易路で落石があり、荷馬車の列が被害を受けたのだ。アニエスの見立てでは、今夜か明日にかけて雪が降り始める。怪我人が死者に変わらぬうちに、対処しなければならない。
 家令から報告を受けると、久しぶりの晩餐会のために支度をしていたガイウスはすぐさま外套を用意させ、馬の準備をさせた。セオスとアニエスもほぼ同時に部屋から出てきて現場に向かう準備を始め、ガイウスの指揮のもとで事故対応が始まった。
 アニエスが領内の医師や看護師に協力を仰いで三十名の医療班を組織するのに、一時間もかからなかった。
 その間にガイウスはコルネール城の警備兵と近隣の人夫を集めて事故現場へ先発させ、家臣たちに一通りの指示を出した後で自ら陣頭指揮を執った。
 セオスは怪我人や被害に遭った積み荷などの情報をまとめ、病院へ運ばれた者たちの家族へ遣いをやったり、現場で不足している物資を取り寄せたりと事務方としての腕を遺憾なく発揮した。
 くたくたの彼らが家臣たちに泣き付かれてようやく城へ戻ったのは、日付が変わろうとしている時分のことだ。
 重症者は数名出たものの幸い死者はなかった。積み荷の被害額は小さくないが、ルドヴァンの財政から言えば微々たるものだ。
「死者が出なくてよかったわ」
 アニエスが家族の集まる広間のソファに寝そべりながら呟いた。その隣に深く腰掛けて天井を仰ぐセオスは、ウンウンと頷いてすぐ隣にあるアニエスの脚をポンポンと叩いた。
「そうだな。本当によかった」
「お前のお陰だ。ルドヴァンの女神だな」
 ガイウスはクラバットを解いてシャツの襟を緩め、アニエスの頭の上にあるソファの肘掛けに腰を下ろすと、しどけない仕草で髪を撫でた。
 アニエスは不覚にも顔を赤くした。その様子を見ていたセオスは、ちょっと小首を傾げて怪訝そうな顔をした。
「なんか、お前ら…」
 アニエスはぎくりとした。なるべくショックを与えない伝え方を模索している最中なのに、あまつさえ二人の関係を先に気取られてしまうのは非常によろしくない。が、アニエスの心配をよそにセオスは別のことを言った。
「仲良くなったな」
「そ、そう?」
「ああ。前はちょっと壁があったように見えたけど、今はちゃんと…こう、うまく言えないけど、家族!って感じだ」
「家族」
 と言ったガイウスの不機嫌な声色には、セオスは気付いていない。
「ああ、そうさ。王都での経験がお互いにとって良かったんだな」
「それは――」
 アニエスは頬を染めたまま頭の上にあるガイウスの顔を見上げた。
「…そうだな」
 ガイウスはアニエスの言葉を引き取り、唇に柔らかい弧を描かせて言った。
「兄妹が戻って嬉しいよ、本当に」
 それだけ言うと、セオスは沈黙した。
「寝ちゃった」
 眠気は伝染するようだ。アニエスも口元を隠してあくびをし、結っていた髪をわしわしと解いて身体を起こした。
「わたしも寝るわ。誰か呼んで毛布を持って来てもらわないと。ガイウス…」
 おやすみなさい。と言う前に、アニエスの身体はガイウスの腕の中に包まれ、とびきり優しい口付けが降ってきた。
 腰を抱く手のひらから布越しに体温が伝わり、疲労した身体に血を奔らせた。舌が口の中に触れ、大きな手が首を伝って頬に触れる。
 まるで不思議な引力に導かれるようにアニエスの腕がガイウスの首に伸びようとした時、頭の奥で小さな理性が叫んだ。
「…っ、ガイウス!だめ」
 アニエスはガイウスの胸を押し退けた。唇を解放されてもなお心臓がうるさく暴れているのは、ガイウスの唇が濡れ、淫靡に笑んでいるからだ。
「セオス兄さまもいるのよ」
 アニエスは声を低くして抗議した。ガイウスは、余裕たっぷりに笑っている。
「もう寝てるぞ。ああなったら槍が降ってきても朝まで目覚めないやつだ」
「それでも、だめ」
 ガイウスはアニエスの赤い頬を名残惜しそうにそっと撫でると、目を細めて言った。
「おやすみ。アニエス」
 ガイウスは乱れた暗い栗色の前髪をかき上げて笑った。これがアニエスの心臓に悪い影響を及ぼすことを知っていながらやっているとすれば、間違いなく悪い男だ。
 アニエスは侍女の用意した白絹の寝衣の上に温かい織物のガウンを羽織り、ふかふかの毛布にくるまって、星模様の天蓋を見上げた。
(きっとわかってやってるんだわ)
 ぼんやりとそんなことを考えた。ガイウスばかりが余裕そうなのが、なんだか癪だ。自分ばかりが気を揉んでいるように感じられる。
(わたしなんか、十年も恋してたんだからね…)
 やがて考え事は、穏やかな眠りの中に溶けた。

「さあ、やるわよ」
 と、アニエスがキラキラと顔を輝かせてガイウスを起こしに現れたのは、翌朝のことだ。アニエスの見立て通り、深夜から早朝にかけて雪が降り始め、領内をすっかり白く染めている。
 ガイウスは眩しそうに薄目を開け、地味な藁色のドレスに身を包んだアニエスを見上げた。カーテンの開け放たれた窓から差す雪空の白い光と張り詰めた冷気が空気中で小さな光の粒を放ち、アニエスを包んでいる。こんなに寒い朝なのに、アニエスは陽射しのようだ。
 ガイウスは毛布の下からそっと腕を伸ばしてアニエスの細い手首を掴むと、強く引いて毛布の中に引きずり込んだ。
 アニエスが怒って唸り声を上げるのも気に留めず、ガイウスはその細い腰をぎゅうっと抱いて胸に顔を埋め、背中のボタンへと手を伸ばした。
「あっ…!」
 開いた襟から指を滑らせて背中をなぞると、アニエスが甘い声を上げた。まだ朝を迎えたばかりではっきりしない頭が彼女の快感を認識した途端に、身体が熱くなった。アニエスを抱き締めたまま身体を反転させて、抵抗しようとする彼女を組み敷き、首に吸い付いた。
 アニエスは白い喉の奥で小さく息を飲んだ。その肌にも、熱が灯っている。
「んっ…、や、やめて」
「何故。‘やる’と言ったろ」
「ち、違うわよ!セオスに、林檎のタルトを焼くんでしょ!」
「そう言われても、ずっとお預けを喰らわされている身にもなれ。タルトを焼くより獣の巣に自らやって来た美味しそうな獲物を先に頂きたいと思うのが普通だろう」
「ちょっ…と!あ――」
 抗議は、口で塞いだ。啄むように唇に吸い付くと、アニエスはすんなり舌の侵入を許した。自ら強請るように絡めているのは、きっと無自覚だろう。こんなに素直に反応するくせに、セオスや過去の関係性に対する罪悪感がアニエスの心を頑なにしている。
 もどかしいことだ。
 少し前の自分なら、差し当たって無難な家柄の穏やかな女を従順なコルネールの妻として選び、ルドヴァン領主および辺境伯コルネールとしての責務を果たすための家族運営をしようとしていただろうに、人生で出会った中で最も制御の困難な女をどうしようもなく愛してしまった。それも、義理の妹としてではなく、性愛の対象として。
 乱れたドレスを引き摺り下ろしてシュミーズの紐を解き、白く柔らかい乳房を露わにすると、絹の面を撫でるような繊細さで手のひらに包んだ。中心が、硬くなっている。
「あっ…。だ、だめだったら!」
「何が問題だ?」
 ガイウスはアニエスの胸に触れながら、もう片方の手で頬を撫でた。
「いろいろ問題でしょう。…わたしたちは、世間的にはまだ兄妹だわ」
「世間が何だ。わたしたちに血のつながりはないとはっきりしてる。書類上も、もうお前はコルネールじゃない」
 ガイウスの言う通り、アニエスは王都に滞在している間に、公的な書面上は母方のイヴェール姓になっている。王都の仲間たちが協力して母親の出自を調べ上げ、ガイウスが籍を移すよう国王に直談判した結果だ。
「何のためにそうしたか、分かってるな」
 アニエスはビクリと腰を反らせた。乳房の先端に、ガイウスの唇が触れ、温かい舌がそこを濡らしている。
 快楽に耐えようとするアニエスの熱い呼吸を聞きながら、ガイウスは凶暴なまでの焦燥が興奮と混ざり合って血流となったのを身体の奥で感じた。
 アニエスのチョコレート色の目が、熱を孕んで溶け始める。
(堕ちる。――)
 と思った瞬間に、アニエスの頭突きがガイウスの頭頂部を襲った。激しい衝撃に、ガイウスは頭を抱えて茫然とした。腕から抜け出すのに成功したアニエスは涙目になるほど顔を真っ赤にしている。怒りか、羞恥かはガイウスには分からなかった。が、彼女の意図に反して更に情欲を掻き立てられてしまったことは確かだ。
「今は、タルトを焼くんだって言ってるでしょ!ダメなものはダメなの!」
 アニエスは憤然とドレスを直し、腕を腰に当ててガイウスに背を向けた。ボタンを直せと無言で要求しているのだ。
「ふ」
「何が可笑しいのよ」
 ガイウスは寝衣も髪も乱したままのそりとベッドから下り、アニエスのドレスのボタンを留め始めた。
「…変なことしたらまた殴るからね」
「変なことじゃない。愛しているから触れたくなるだけだ」
 アニエスは言葉を返さなかった。一方でガイウスは、行為を拒まれた直後にもかかわらず笑みがこぼれる程度には上機嫌だ。アニエスは肌が白いから、首まで赤く染まったのがよく見える。
「ガイウス――」
 きちんと留まっていないボタンがまだ半分も残っているのに、アニエスはガイウスに向き合ってその顔を見上げた。茶色い目が鈍い雪空の明かりを含んで、甘やかな蜜色に輝いている。
「わたしも、愛してる。大好きよ」
 素直な言動に面食らったガイウスの唇に、爪先立ちをしたアニエスの唇が慎ましやかに触れた。
 ガイウスは、これを逃せるほど遠慮深い人間ではない。
 元に戻ろうとしたアニエスの腰を捕まえて抱き寄せ、覆い被さるように唇を貪り、アニエスが窒息するほどの口付けを何度もした。
 折悪しく寝室の扉が開いたのは、そういう時だ。
「なぁ、兄さん。昨日の事故のことで――」
 と、セオスが書簡を手に寝室へ入ってきた。
 ガイウスとアニエスは、キスに夢中になるあまり、扉を叩く音にも、セオスが入ってきたことにも気が付かなかった。
 抱き合ったまま赤く腫れた唇を離した二人が目にしたものは、書簡を持っていた手を宙に浮かせたまま、取り落とした書簡を拾うことはおろか、感情も顔に出すことさえも忘れてしまったセオスの姿だった。
 彫像のように固まっている。作品名を付けるなら『メデューサの餌食』とか『ぬけがら』あたりが妥当だ。
 アニエスはパニックのあまり言葉をなくしたが、ガイウスはそうではなかった。
「いいか、セオス」
 ガイウスは弟の肩に触れた。セオスは自分が人間であることを思い出したように、ハッと顔を上げて兄を見た。
「これは近親相姦じゃない。わたしとお前は血が繋がっているし、お前とアニエスは血が繋がっているが、わたしとアニエスに血の繋がりはない。わかるな?」
「………は?」
 まるで人間になった彫像が初めて声を発したような顔で、セオスが言った。
「アニエスとわたしに血の繋がりはないが、互いに愛し合っている。そういうわけで、結婚することにした」
 アニエスは頭を抱えた。この状況で「わかるな」と念を押されたとして、理解できる者がいるはずがない。
「ちょっと待て」
 セオスが焦点の定まらない目で訴えた。
「えーと…、……え?ぉん…。なん……、は?」
 数秒の沈黙が永遠のようだ。
 ようやく生身の人間に戻ったセオスはハシバミ色の目を深淵のように暗くして、じりじりと後ずさりをした。
「…ちょっと、あー、…時間をくれ」
 バタン。と閉まった扉の音が地獄の鐘のように響いた。
 茫然とするアニエスをよそに、ガイウスはさっさとアニエスの背中のボタンを留め終え、自分もシャツを着替えてワードローブから温かい織物の上衣を引っ張り出し、簡単に身繕いをしてブーツに脚を通した。
「わ、わたしも行く…」
「セオスのことは、わたしが対処する。お前は先にタルトを作っていてくれるか」
「こんな時に?」
「そうだ」
 ガイウスはアニエスの額をチョンと指でつつき、頬にキスをして、寝室を出て行った。

 城を出て庭園を数分歩いたところに、セオスはいた。
 しんしんと降り続く雪が、庭園の植栽と同じようにセオスの肩も白く染め始めている。雪も払わずにベンチに腰を下ろして、景色を見るともなくぼんやりと虚空を見つめているようだった。
「ひとりで考えたいんだけど」
 ガイウスが隣に来るより先に、セオスが言った。
「そう言うな」
 ガイウスも雪の積もったベンチに腰を下ろした。
「…ちゃんと説明しろよ」
「ここでか。言っておくが長くなるぞ」
「ここでいい。寒い方が頭が冴える。それに風邪を引くなら兄さんも道連れだ」
「アニエスに叱られるぞ」
「それも、道連れだよ」
 ガイウスは笑い声を上げて、余分に持ってきた革の手袋をセオスの膝にぽんと投げた。
 事の顛末を知ったセオスは、ガイウスの予想に反して取り乱すようなことはなかった。が、予想通り落ち込んでいる。というより、深く考えに沈んでいるようだった。
「…アニエスのこと、本気なんだろうな」
 セオスの前髪の奥で、ハシバミ色の目が鋭く光った。
「本気だ」
「正気の沙汰じゃない。だいたい、兄さん春頃は他に好きな人がいただろ。そんなに心変わりの早い男に、俺たちの…じゃなくて、俺の妹を任せろって言うのか」
「まあ、そう言われても仕方がないが、アニエスのことは心から愛している。だから、今やあいつの唯一の肉親となったお前に、許しを乞いたいんだ」
「許し?」
「アニエスと結婚したい。これからは兄妹ではなく、伴侶として共に生きたい。その許しをくれ」
 鼻頭を赤くしながらとんでもないことをいけしゃあしゃあと要求した兄の顔を眺めるうちに、セオスは悟った。
 ガイウスは選択肢をひとつしか用意していない。
「‘したい’じゃなくて、‘すると決めた’だろ、兄さんの場合」
「お前はよく兄を理解しているな」
 ガイウスは目を細めた。
「まったく…」
 セオスはふうーと深い溜め息をつき、頭を抱えた。
「昨日、二人の雰囲気が変わったと思ったんだ。今までより家族みたいだと思ったのは、兄さんがアニエスを本気で愛してるからだったんだな。アニエスも…」
「そうか」
 ガイウスは柔らかく笑った。
 数分の沈黙の後、セオスは突然雪の積もった頭をくしゃくしゃとして、勢いよく立ち上がった。
「わかったよ!好きにしてくれ!ただし、条件がある」
「聞く」
「絶対に別れるなよ。ただでさえ気まずいのに、別れたりしたらもう笑えない。不貞も絶対に許さない。俺たちの…じゃなくて、俺の妹を不幸にしたら、兄さんとは絶縁する。それから――」
 セオスが言い終わる前に、ガイウスは弟を抱き締めた。
「そんなこと、元より覚悟の上だ」
「それから、まだあるぞ。俺の目の前でいちゃつくなよ」
「まあ、それは、善処する」
 セオスは兄の背を抱き締め返した手を離して一歩下がると、唇を吊り上げて肩を竦め、雪の積もったベンチの肘掛けを撫でた。
「しかしな――」
 セオスが口を開くと同時に、ビュッ!と腕を振った。放たれた雪玉が、ガイウスの額を直撃し、砕けた。
「おい、何をする」
 ガイウスが眉を寄せて言うと、もう一発雪玉が飛んできた。今度は肩に当たった。
「俺だけ蚊帳の外かよ!気に入らない!死ぬほど腹が立つ!」
 ガイウスは地面の雪をささっと拾って雪玉にし、セオスの顔面めがけて投げた。セオスは鼻に当たる前に避けたが、頬をかすった。
「顔を狙うなよ!卑怯だぞ」
 びゅっ、と今度はガイウスの胸に向かって雪玉が飛んだ。ガイウスはこれを避けると、固めた雪玉をセオスの肩に投げた。
「お前も狙っただろ。何も知らせなかったのは悪かったと思っている」
「悪いと思ってる言い方じゃないだろ、それ!」
「うるさいやつだ」
 二人が言い合いながら雪玉を投げつけ合って暫く経つと、二人とも見る影もなく雪まみれになってしまった。

「ばかじゃないの?」
 ちょうど林檎のタルトが焼ける頃に冷え切って帰ってきたボロボロの二人を見るなり、アニエスは呆れかえって目をぎょろりとさせ、小さい子を叱る母親のように両手を腰に当てた。
「いい匂いがするな」
 ガイウスがしらじらとアニエスの肩を抱いて髪にキスをすると、セオスはなんとも複雑そうに唇を結んで見せた。
「ちょっと、ねえ、聞いてる?」
「俺た…俺の妹だぞ」
「わたしの恋人だ」
「俺の前でいちゃつくなって言っただろ」
「それについては約束していない」
 また二人が外に出て雪まみれになる前に、アニエスが間に割って入った。
「ちょっと!もういいから、みんなでタルト食べましょ」
「林檎のタルト?」
 セオスが頬を緩めた。
「そうよ。本当はあなたに打ち明ける前にこれで機嫌を取るつもりだったの」
「まあ、すごく複雑だよ。どれくらい複雑かと言うと人生で経験したことがないくらいものすごく複雑だけど、俺には二人とも大切な家族なんだ。どんな天変地異があっても、変わらず愛してるよ」
 アニエスとガイウスはニッコリと笑ってセオスを見つめ、大きく腕を開いたセオスに応えて、三人で抱き合った。
 多分、これが人生で最も暖かい冬だろう。

 この日の夜、アニエスは初めてガイウスの寝室への招待に応じた。
 いつもは湯浴みをひとりで済ませるが、今日ばかりは侍女を付けて全身に香油を塗ってもらい、髪も入念に整えて、寝衣も着慣れて使い古したものではなく新調した肌触りのよい織物を選んだ。
 コルネール城の使用人たちは、みな従順だ。アニエスが籍から外れたことと、間もなく当主の妻として再びコルネール姓に戻ることを知らされた後、戸惑いはしたものの、アニエスほどコルネールの妻として相応しいものは他にないと口を揃えて喜んだ。
 寝室の扉を開けるやいなや、目の前で待ち構えていた寝衣姿のガイウスに抱き寄せられて腕の中に落ち、あとは互いに一言もなく唇を貪り合った。
 長いことお預けを喰らわされていたガイウスは、我慢の限界だ。
 アニエスの身体を軽々と抱き上げると、ベッドまで一直線に運び、獣が小動物を噛み殺すような容易さでアニエスを裸にし、自らも邪魔くさそうに寝衣を脱ぎ捨てた。
 精悍なガイウスの肉体が、襲ってくる。
 アニエスはぴったり重なってくるガイウスの唇の下で息苦しさに喘ぎ、素肌を這う手のひらの熱が導く激しい鼓動を身体の内側から聞いた。
 心臓が破られて死んでしまうのではないかと思うほどの激しさだ。
 腹の奥が熱い。
「はっ…ガイウス、待って」
「無理だ」
 唸るように応えたガイウスの舌が首筋を這い、乳房の稜線を辿って、先端に吸い付いた。快感に耐えかねたアニエスが愛らしい唇から小さな叫びを上げてガイウスの髪にしがみ付き、腰を揺らした。
「あ――!」
 胸に快楽を与えられながら身体の中心に長い指で触れられ、溶け出した腹の奥から全身に甘い痺れが広がっていく。
 アニエスが身体を小さく震わせると、ガイウスが秀麗な目を熱に溶かしたように細めた。アニエスの心臓が痛いほどに跳ね、身体の中心が熱を持って疼く。この中に、ガイウスが欲しい。
「ああ、アニエス」
 ガイウスが掠れ声でその名を呼んだ。
「そんな顔をして、どれほどわたしを狂わせたら気が済むんだ」
「狂ってたの?」
「そう見えなかったか?もうずっと――」
 淫らな視線が絡まり合い、二人の吐息と汗が混ざり、脈動も肌の温度もどちらのものか分からなくなる。冬の冷気が嘘のように、ひとつに重なった熱が二人を支配した。
 身体の中にガイウスを受け入れたとき、アニエスの内側で花が開き、更に奥深い快楽へと意識が押し上げられた。言葉を発する余裕もなく、ガイウスが内側で暴れている。懊悩するように眉を寄せる顔がひどく愛おしかった。
「愛してる、アニエス。心から愛している。わたしと結婚してくれ。明日、すぐに――」
 こんな時に言うなんて、ずるい男だ。選択肢をひとつしか用意していない。
 そしてアニエスは、激しく攻め立てられて何度も絶頂に果てたあと、ついに「はい」と応えた。

 この冬、コルネールの領民たちは冷徹なガイウス・コルネール辺境伯が予想を遙かに超えて情熱的な男であると知ることになった。
 そしてそれは、弟のセオスも例外ではない。ついでにアニエス・コルネールも同様だ。

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