獅子王と海の神殿の姫

若島まつ

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百三、獅子と鷲の結婚 - le mariage du Lion et de l'Aigle -

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 十月を迎えた王都アストレンヌは一種の異様な熱気に包まれていた。
 千年余りもの年月を敵対してきたエマンシュナ王国とイノイル王国が同盟国となり、同時にそれぞれの国王が退位、更には新王を戴くことになったのだ。
 中にはこれまでの犠牲は何だったのかと悔しがるものもいたが、ほとんどの国民はこの新しい季節を喜んで迎えた。テオドリックやスクネの奔走により、王府と議会、更には民衆の中で平和への意識が高まった結果だ。

 スクネとネフェリアが王都を発つ前夜、アストレンヌ城に王家や家臣、軍関係者が集まり、晩餐会が開かれた。
 キセは数日前の会合で着るはずだったドレスに袖を通した。厚めの織物で、木々が色付き涼やかな秋の季節に似つかわしいものだ。真珠色の織物に青い鷲と金色の獅子の文様が向かい合うように大きく装飾され、ふんわりと広がる袖には二つの国を繋ぐ波の文様が光沢のある糸で描かれて、両国の融和と融合を象徴している。テオドリックの上衣とベストも揃いのもので、淡いグレーの織物にキセのドレスと同じ意匠の装飾が施されている。
 ネフェリアはスクネの着ている濃紺の正装に合わせて、ティールブルーのドレスに身を包んでいる。短い金色の髪を白いアネモネで飾り、スクネとも揃いの文様である獅子と鷲が金銀の糸で描かれたスカートを軽やかに広げて凛と立つ姿は、花嫁のようだ。
「あの二人、とってもお似合いね」
 第二王子のオベロンを挟んでその隣からシダリーズがキセに声をかけた。シダリーズは可憐なスカラップレースのついた薄紅色のドレスで着飾り、いつも以上に機嫌よくニコニコしている。この上機嫌には、大好きな従姉兄たちの結婚が正式なものとなったこと以外にも理由がある。キセと一緒に‘メルレットの会’で計画している王都の南の地域の改修工事が、いよいよ着工できそうなところまで進んでいるのだ。
 キセが会合やその後の調整などでテオドリックと共に忙しく動いている間、シダリーズは婦人たちを集めてこの事業のために行動していた。シダリーズ自身もつい先頃まで知らなかったことだが、彼女はこういう社会活動において人々を先導する稀な資質を持っている。
 キセはシダリーズに向かってにっこりと笑った。
「はい!本当にお似合いです」
「二人にはイノイルで流行のドレスやアクセサリーをたくさん送ってもらわなきゃ。だってわたしのお陰でネフィとスクネさまは結ばれたようなものなのだし」
 シダリーズはフフンと鼻を高くした。
「あ。それなら、スクネお兄さまはあまり若い女性の流行にはお詳しくないと思うので、イユリお兄さまに素敵なものを見繕っていただくよう手紙を書いておきますね」
 これを聞いていたオベロンが思わず笑い出すと、シダリーズもくすくす笑った。
「おい、キセ。聞こえてるぞ」
 おもしろそうにニヤニヤするテオドリックの向こうから、スクネが渋面を覗かせて咎めた。
「俺だって婦人方のドレスくらい選べる」
「そういうことなら、わたしも手伝おう」
 ネフェリアが世の男性だけでなく女性をもうっとりさせるような笑顔で言った。
「ネフィ、わたし、ポケットがいっぱいついているのとか、スカートの下に武器を隠せるドレスは別に欲しくないからね」
「そうか?機動性も大事だぞ」
 ネフェリアが大真面目に言うと、テオドリックが可笑しそうに笑った。
「俺も同感だ」
 そう言いながら、テオドリックが意味ありげにキセを見た。ついこの間二人で海に落ちたときのことを仄めかしているのだ。
 あの後すぐに、事の仔細が父親たちの耳に入った。事件を自分たちの船だけで収めるには、騒ぎが大き過ぎたのだ。テオドリックとキセが下の船室で‘暖を取っている’間、オーレンとテオフィルが使者を乗せた小船を派遣して来たが、イサクが「予め備えていた事態だ」と説明すると、二人の王は意外にもあっさりと納得した。
 キセもテオドリックも、正直なところもっと大事になるかと思っていたが、オーレンは、わざわざ直筆の手紙を使者に持たせて「水浴には季節を選べ」とキセとテオドリックに小言を垂れたのみで、テオフィルに至ってはキセの勇気とテオドリックの剣の腕を賞賛した。父親に褒められるなど、何年振りかとテオドリックは驚いたが、すぐに思い直した。
 この時のテオフィルは国王ではなく、父親の顔をしていたのだ。
 今日もそうだ。宴でこれほど楽しそうに笑う父親の姿を見るのは、母が生きていた頃以来だ。国王という枷から解放されたからに違いなかった。そしてその枷は、間もなく自分に引き継がれる。
 この晩餐会には、和平締結の重要な功労者として、ガイウスとアニエスも招かれている。彼らは臣下の中でも最前に列席し、国王への挨拶口上を一番先に述べる栄誉にあずかった。
 テオドリックは自ら席を立ってガイウスと握手を交わし、キセも同様にアニエスの両手を包んだ。
 キセはこの時アニエスが浮かべた柔らかい微笑みを見て、感じるものがあった。
「もしかして、ガイウスさまと何かありましたか?」
 と、アニエスにだけ聞こえる程の声で訊いてみると、まったくもって意外なことに、アニエスは顔を赤くして口をぱくぱくさせ、言葉に窮した。
「…その話は、あとでいたしましょう。王太子妃殿下」
 少し照れたように唇を引き結ぶガイウスと、耳まで顔を赤くしたアニエスに向かって、キセはキラキラと顔を輝かせた。

「ちょっと、ねえ、どういうこと?」
 と、シダリーズがハシバミ色の瞳をわくわくと光らせながらアニエスに訊ねたのは、晩餐が終わり、庭園でダンスが始まった頃合いのことだ。
 シダリーズはキセを誘ってダンスに行くように見せかけて王家の席から抜け、更にはアニエスを誘い出し、今は三人でアストレンヌ城にあるうち一番小さな中庭の花の精を模った噴水の縁に腰を下ろしている。
「王家の人間がこんなところにいていいの?」
 アニエスが照れ隠しにちょっと呆れた口調で言うと、シダリーズは肩を竦めた。
「ちょっとだけよ。あとでちゃんとお父さまと踊って機嫌を取っておくから、大丈夫。それに、おんな同士の話が静かにできる場所ってここだけなんだもの」
「あの…、大切な宴を抜け出してきてしまったのはとても心苦しいのですが、わたしも聞きたいです」
 キセがちょっと恥ずかしそうに言いながら期待に頬をつやつやさせた。アニエスは、彼女にしてはひどく歯切れ悪く口をもごもごさせながら、恥ずかしそうにチョコレート色の目を潤ませて、二、三度咳払いをした後、ようやくいつもの鈴の鳴るような声をちょっと震えながら発した。
「じ、実は色々あって、ガイウスと…ふ――夫婦になることに…なりました」
「キャー!」
 と、キセとシダリーズが同時に叫び、キセは両手を組んで女神へ感謝の祈りを繰り返し唱え、アニエスとガイウスが本当の兄妹でないことをまだ知らないシダリーズはまったく意味が分からないというように目を大きく開いて食いついた。
「なに、なに。どういうこと?腹違いの兄妹って、いいんだっけ?だめよね?え、いいの?だって片方と血がつながっ…だめよね?」
「ちょっと、落ち着いて。話すから。恥ずかしいから祈るのもやめて」
「ですが、女神さまに感謝を捧げずにいられません。アニエスの一途な愛が実を結んだなんて、和平が成ったのと同じくらい嬉しいことです」
「大袈裟な…」
 祈るのをやめないキセを放っておいて、アニエスはシダリーズに事の顛末を簡潔に話して聞かせた。シダリーズはアニエスの両手をがっしりと握り、感極まって大きな目からぼろぼろと涙を流した。
「なに、その話…!とっても素敵…!」
「こっちもか」
 アニエスは苦り切った。
 これを中庭の入り口からこっそり見守っていたテオドリックとガイウスは、彼女たちの楽しそうな話し声に耳を傾けながら、無言で視線を交わし合った。
「叫び声がしたと思って来てみたら…」
 テオドリックが苦笑した。
「あの気難しいアニエスがあれほど心を開くとは、キセ妃殿下もシダリーズ姫殿下もさすがのお人柄ですね」
 ガイウスも半ば呆れ、半ば感心して笑った。
「あんたもな」
 テオドリックは腕を組んだ肘でガイウスの脇を小突いた。
「まさかあんなにあっさり妹とくっつくとは思わなかった。――ああ、妹か」
「わたしも驚いています」
 多分、一番この事態に驚いているのは自分だという自負が、ガイウスにはある。自分がこんなに、貪欲にアニエスの愛を求め、毎晩のようにその身体を求めるケダモノのような男だとは思わなかった。
「褒賞に爵位はいらないと言ったな」
 テオドリックは腕を組んでガイウスの涼しげな顔を見た。
 この和平締結の功労に報いるため、ガイウス・コルネールに辺境伯よりも上の爵位を与えるべきであるという声が上がったのだ。これを最初に提案したのはテオドリックではなく、これまではどちらかというと西方の権力を握っているコルネール家を敬遠していた中央の貴族たちだった。が、ガイウスはそれを丁重に辞退したのだ。
「他に欲しいものがあるんだろう」
 テオドリックが言うと、ガイウスはどこか楽しそうな視線を向けた。
「獄死したあの男が‘ルネ・コルネール’だったという事実は全ての記録から抹消し、ハンスという出自不明の詐欺師だったという記録のみにとどめていただきたい」
「そう来ると思っていた。いいだろう。あとは?」
「あとひとつ。アニエスの籍をコルネールではなく、母方のイヴェール家に移して欲しい。ジュスティーヌ・イヴェールの私生児として」
 これまで姓も知らなかったアニエスの母親の家系が判明したのは、アニエスが生家で見つけた母親の日記がきっかけだった。ここに記されていたイヴェール姓を、メルレットの会の一員で系譜学者でもあるドニーズ夫人が調査し、その正確な氏族を見つけるに至ったのだ。
「なんだそれは」
 テオドリックはくっくと笑った。
「アニエスを正式に妻に迎えるための準備です」
「そこらへんをうろついてる役人を捕まえて言いつければよいものを、わざわざ褒賞の見返りにまでして王太子に頼むことか?」
「ええ。その方が確実です。あなたの仕事の速さは信頼していますからね」
 ガイウスはしれっと言い放って不敵に笑った。
「まあ、いい。頼まれてやる」
 テオドリックはガイウスに手を差し出した。ガイウスはその手を固く握り、王太子と握手を交わした。
「ああ、あともうひとつ」
 ガイウスは手を握ったまま付け加えた。
「なんだ。まだあるのか」
「ルドヴァンから王都へ繋がる街道を整備する許可をください。アニエスがキセに会いに来たがるでしょうから」
「勝手にしろ。王府からも金は出す」
「では、取り引き成立ですね」
 ガイウスが満足げに笑った。テオドリックは握った手を離し、噴水の方へ視線を巡らせた。
「しかし、まあ――」
 テオドリックは秋の夜空に高らかな笑い声を響かせる三人の貴婦人たちを眺めて笑みをこぼした。
 キセが他の人間に年相応の女性らしく屈託ない笑顔を見せるのには少しばかり妬けるが、友人たちといる時のキセは、とにかく楽しそうだ。
「コルネール、あんたとは長い付き合いになりそうだ」
「同感ですね」
「それはとても喜ばしいけど――」
 と、二人の後ろからオベロンが顔を出した。
「そろそろ王家の顔が足りないって父上がぼやき始めてますよ。しかも酔って眠くなってるし、もうスクネ殿下と姉上だけでは間を持たせられません」
「ハハ。では美しい花のニンフたちを連れ帰るとするか」
 テオドリックはゆったりと笑った。

 翌朝、スクネはイノイル王国の鷲の紋章を大きく装飾した濃紺の軍服を纏い、ネフェリアは同じく濃紺の生地に鷲と獅子の紋章を装飾したイノイル風の細身のドレスを着て、それぞれアストレンヌ城の門前で馬を引いた。
 鞍は、金で波や葉綱の模様が装飾された美しいもので、中央には、エマンシュナ伝統の織物で、鷲と獅子が平和の証であるオリーブの実と葉のついた枝を二匹で支えている絵が細密に織られている。
 彼らはこれから馬上、陸路を西進し、北西部に位置する半島タレステラへと向かい、そこに駐屯するイノイル軍を撤収させ、その軍を引き連れて海路イノイルへ戻ることになる。
「変わった趣の花嫁行列になるな」
 と、ネフェリアが爽やかに笑うと、スクネが目を細めた。
「君らしくていいじゃないか」
「はい。本当に」
 キセは弾けるような笑顔を見せ、兄を抱きしめた。
「スクネお兄さま、お元気で」
「ああ、お前も。たまには帰ってこい。みな待っているぞ」
「はい。テオドリックと一緒に行きます。お兄さまもネフェリアさまと遊びに来てくださいね。絶対ですよ」
 スクネはキセをきつく抱きしめて頬にキスをし、次にテオドリックと硬い握手を交わした。
「互いに善き君主であろう、テオドリック・レオネ」
 テオドリックは頷いた。
「そして善き家族、善き夫であり続ける」
「妹を頼む」
「ああ。あんたも姉を頼む」
 キセはテオドリックとスクネの様子をニコニコ見守りながら、ネフェリアと抱き締め合った。
「かわいいキセ・ルルー。お前がいないと寂しくなるよ。春の光を失うようだ」
「ネフェリアお姉さま…」
 キセの目からぼろりと涙がこぼれた。
「わたしも、とても寂しいです…」
 キセがネフェリアの袖を濡らしていると、隣でオベロンが苦笑した。
「心配だなぁ。我が道を行く姉上が女傑と名高いイノイルの王妃たちと仲良くできるのか…」
「きっと大丈夫です。お母さまたちはお強くて凛々しい方が大好きですから、ネフェリアお姉さまのことも大好きになるはずです」
「それ、なんか方向性が違うような…」
 オベロンは、涙で目を潤ませながら胸を張るキセに向かって眉尻を下げた。
 ネフェリアの‘花嫁行列’が賑々しく王都を発った後、テオドリックとキセをはじめ、王府の人間はしばらくのあいだ休むいとまもないほど忙殺されることになった。
 イノイル軍のタレステラ撤収が完了した翌週の十月十日、エマンシュナ王国のアストレンヌ城とイノイル王国のオアリス城で、それぞれの新王の戴冠式が同時刻に行われた。
 どちらの国でも、存命中の前王が息子に冠を被せる役を担い、王妃には新王となった夫たちが冠を被せた。これまでに例のない、極めて特別な戴冠式だ。間違いなく後世まで語り継がれる歴史的な日になる。
 テオドリックはエマンシュナ国王としての名を、母が付けた二つ目の名を取って‘獅子王ル・リオンレオネ’と定め、キセはマルス語の名である‘ルミエッタ’を王妃としての公称とした。
「ふふ。重たいですね」
 テオドリックの手により戴冠したキセは、目の前でテンの毛皮のマントを靡かせ、月明かりのような美しい髪に金の獅子の王冠を戴いたテオドリックの凛々しい姿を惚れ惚れと眺めて微笑んだ。
「ああ。重いな」
 テオドリックも王妃となったキセに微笑みかけた。
 キセもテンの毛皮のマントを纏い、その下には真珠色のドレスを着ている。刺繍されている装飾はもちろん、獅子と鷲の紋様だ。花や草木とそれらが絡み合い、互いの解けぬ絆が表されている。テオドリックがマントの下に着ている正装の上衣も、それと同じものだ。
 南の海のようなエメラルドグリーンの瞳が秋の陽光を映してキラキラと輝き、キセの胸を熱くした。
 初めて会った時のことが胸の内に蘇る。
 月明かりの海の中、自分を妻にすると言って唇を重ねてきた月神を思わせるちょっとぶっきらぼうな青年は、今、隣で国王となった。
 なんと素晴らしい瞬間だろう。
「愛しています、わたしの国王陛下」
「俺もだ、俺の王妃」
 二人が熱烈に抱き合って唇を重ねた瞬間、周囲から割れるような拍手と歓声が上がった。
 今いるのが王城の庭園で、周囲に家臣や王都の民衆が何千人も集まっていることをすっかり忘れていた。
 そして目の前には、今しがた息子の頭に獅子の王冠を乗せたばかりのテオフィルがいる。
「そなたらの婚儀は明日だぞ」
 テオフィルは苦々しげに言うと、恥ずかしがって顔を真っ赤に染めたキセと、堂々とその肩を抱くテオドリックを交互に眺めた。
「どっちでもいいでしょう、もう。書面の上でも周囲の認識も、とっくに夫婦だ」
 悪びれもせず再び妃に口付けをしようとする息子を見て、テオフィルは少々早まったかと苦り切った。テオフィルは、オーレンとの会合の後すぐに二人が夫婦になることを認める旨の公式な書類に署名をしていたのだ。それを以て、テオドリックとキセは正式に夫婦になった。
 あの時は二人の根性と功労と愛国心に報いるべきだと思ったが、まさか厳粛な戴冠式でこうも熱烈にいちゃつかれるとは――
(まあ、いいか)
 困惑しながらもテオドリックの口付けを受け入れるキセを見て、テオフィルは色々なことを諦めた。
 そもそも、この戴冠式こそが前代未聞だ。もういくつか例外が増えたところで、どうということもない。

 アストレンヌ城の広すぎる浴室で湯浴みを終えたキセは、ほかほかの身体をふかふかのベッドに投げ出した。
 王妃ともなると、湯浴みにさえ体力を使う。セレンをはじめ五人もの女中たちに髪から爪先までピカピカに磨かれてラベンダーの束を浮かべた湯に浸かり、スミレの花の香りがする香油を全身に塗られて、なんだかとんでもなく肌触りの良い白絹のナイトドレスをくるくると着せられたのだ。
「ふぅ…」
 ベッドに残るテオドリックの匂いで鼻腔を満たしながら、寝そべったまま深呼吸していると、後ろからノシ、と温かいものが背を覆い、腕を巻き付けてきた。
「疲れたな」
 テオドリックは優しく言ってキセの黒いふわふわの髪にキスをした。
「はい」
 キセは後ろを向いて、同じ白絹の寝衣に身を包んだテオドリックを見上げた。なんだか少し落ち着かない。毎晩同じベッドで眠っているのに、今夜は心臓がいつもより速く打っている。三日三晩続いた婚儀が今夜ようやく終わり、国王と王妃としての初夜を迎えるのだ。
 国王と王妃の婚礼も、三日前の戴冠式と同様、極めて異例なものだった。
 伝統的な王家の婚礼ではエマンシュナ人の祖である太陽神ソラヒオンと月神リュメウリアを祀る神殿の司祭が祝福を授けるが、キセがオシアスであったことが考慮されて、ここにオスタ教の司祭も招致された。二人に最初に祝福を授けたキセの恩師ククリ司祭だ。異なる宗教の司祭が集まって国王夫妻に祝福を授けた例は、これまでにない。
「疲れているところ悪いが――」
 と、テオドリックはキセの寝衣の前から手を滑らせて柔らかい胸に触れた。キセの肌が熱を感じてピクリと震える。
「これから初夜だぞ」
 テオドリックの低く甘い声が耳朶を舐めるようにくすぐり、キセの感覚をざわめかせる。これに呼応してどくどくと飛び出しそうな心臓を持て余し、キセは顔を隠すように俯いた。なんだかものすごく緊張してきた。
「ふ。心臓すごいな」
 テオドリックは笑みをこぼした。手のひらにキセの心拍が伝わってくる。
「だ、だって、改まるとなんだか恥ずかしいです…」
「俺も、少し緊張しているかもな」
「本当ですか?」
 キセが信じられないというように顔を上げて後ろを振り向いた瞬間、テオドリックはそのままキセの唇を奪ってきつく抱き締めた。
 身体の奥を暴くような口付けなのに、ゆっくりと肌の上を滑る手は優しい。身体中を慈しむような触れ方だ。
「‘ルミエッタ王妃’を抱くのは初めてだ」
 とつ、とキセの心臓が跳ねた。
 唇を触れ合わせながら、テオドリックがこの上なく幸せそうに笑っているからだ。
「実は、‘リュミエット’もお気に入りの名前なんですよ」
「あれは報告が悪筆だったせいだ」
 テオドリックは苦笑した。
「あなたが初めてわたしを呼んだ名前ですから、特別です」
「そうか」
 テオドリックは目に弧を描かせて、キセの身体を仰向けに返し、再び深い口付けをした。
 キラキラと星空のような瞳をキセが向けてくる。幸福を絵に描いたような微笑みだ。
「…そう言えば、あったな。尻尾。申し訳程度に小さいのが彫られてた」
 テオドリックが思い出したように言うと、キセはお腹をひくひくさせて耳に心地よい笑い声を上げた。
「とってもかわいいですよね」
「獅子王の玉座もあんたにとってはネコさんの椅子だもんな」
「ふふ。何に座っていても、テオドリックがテオドリックであることに変わりはありません」
 次にもう一度唇が触れ合った時、二人は深い海に沈むように互いの熱に夢中になった。二人の息遣いが甘く湿り、肌が暴かれて体温が混じり合い、柔らかく鋭い恍惚に包まれる。
「愛してる、キセ・ルミエッタ。俺の女神――」
「はい。愛しています、テオドリック」
 身体の奥にテオドリックの熱を受け入れ、キセはもう何度目かもわからない法悦の果てに意識を委ねた。愛おしくてたまらない夫をきつく抱き締め、その腕の中で甘やかな声を聞いた。テオドリックが囁く、愛の言葉を。

 こうして、千年もの長きに渡って争いの中にあった二つの王国には富める時代が訪れた。
 長年国家としての独立を求めていたタレステラ地方は、その数十年後、レオネ王とルミエッタ王妃の共同統治時代を経て、共和国として独立することになる。
 国名は、共和国建国に尽力したレオネ王とルミエッタ王妃の名を取り、‘ルメオ共和国’と定められた。
 テオドリックは自らの手で息子に王冠を被せるまで、善き君主であり続けた。そして、その傍らにはいつも慈愛に満ちた美しいキセがいた。
 国王夫妻が結婚した頃、既にロマンス小説として巷で流行していたキセとテオドリックの恋物語は、その後、『獅子王と海の神殿の姫』と題され、親から子へと語り継がれるおとぎ話として、人々に愛された。
 広く流布したために、語り手によってはさまざまな創作が加えられている。しかし、物語の始まりはいつも同じだ。
 月明かりの美しい海の神殿で祈りを捧げる王女を、月明かりの色の髪をした王子が迎えにやってくる。
 そして――

「ねえねえ、この王子さまはおとうさまで、神殿のお姫さまはおかあさまなんでしょ?」
 幼い女の子がソファによじ登り、母の腕の中ですやすや眠る赤ん坊のふくふくした小さな指をやさしく握りながら母親に尋ねた。
 母譲りの真っ黒な瞳が、キラキラと期待に輝いている。
「ふふ。内緒です」
 母親は少女の黒い髪を優しく撫でて言った。
「メーヴ、そういうことを訊くのは‘やぼ’って言うんだぞ」
 少女の兄が揶揄うような調子で言った。この少年の髪も、ちょうど月明かりのような色だ。
「こら、アレス」
 と、少年は後ろからやってきた父親にヒラリと担ぎ上げられた。
「そんな言葉、どこで覚えた」
「ふふ。ないしょです」
 少年が母親そっくりの口調でニヤリと笑うと、父親はおかしそうに少年とそっくり同じ緑色の目を細めた。
「国王をおちょくるとは、いい度胸だ」
 アストレンヌの春の空に、父親にくすぐられて笑い転げる王子と、それを見て笑う母親と王女、そして、眠りを邪魔されて泣き出した赤ん坊の声が響いた。
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