獅子王と海の神殿の姫

若島まつ

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九十九、獣の性 - comme un homme et une femme -

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「大丈夫か」
 いつの間にか戸口に立っていたガイウスに問われ、アニエスは自分が長い間ベッドに座り込んで呆けていたことに気付いた。
 先程まで夕陽が差していた窓の外は、既に暗くなっている。
「どう受け止めていいのか、わからないの」
 ベッドを小さく軋ませてガイウスが隣に腰掛け、アニエスの細い肩を抱いた。
「無理に受け止める必要はない」
「わたしたちのことも?」
 ガイウスはアニエスのチョコレート色の目を見た。
(まただ)
 心臓の奥から何かがどろりと湧き出た気がした。
 またあの知らない女の顔だ。が、この奇妙な現象の原因を、ガイウスはもう知っている。――いや、見つけてしまった。これは、妹への感情とは、全く別のものだ。
「…そうだ」
 この答えは、もしかしたら本心ではないかも知れない。そう発想して、ガイウスは自分も混乱していることを自覚した。
「セオスにも伝えなければならないな」
 多分、それが一番つらい仕事になるだろう。
「きっとすごく怒るわ。‘自分だけ蚊帳の外か’って」
「そうだな」
「宥めるのに、好物を持って行った方がいいかも。ほら。あの、シナモンのたっぷりかかったリンゴのタルト」
 アニエスが冗談を言って、くすくすと笑った。無理をして笑っているのは明白だ。が、ガイウスも吐息で笑って見せた。せっかく柔らかい空気をアニエスが取り戻し始めたのだ。それをなくしたくなかった。
「お前が焼いてくれるか。ルドヴァンに帰って」
 この時、アニエスは無意識のうちに目を逸らし、肩を引いて、添えられたガイウスの手から逃れるような仕草を見せた。このことが、ガイウスにその先の言葉を予感させ、すぐに現実となった。
「わたし、ルドヴァンには帰らないわ」
 ぐにゃりとガイウスの心臓が歪んだ。
「ブノワが、診療所の医師として一緒に働いてほしいって。正式に申し込まれたの」
「…‘考えておく’とは、このことか」
 アニエスは顎を引くと、ガイウスの方に身体を向け、両手をキュッと握った。ちょうど、キセが誰かを元気付けようとする時と同じように。
「よく考えて決めたの。コルネール兄弟の妹じゃなく、ただのアニエスとして、一人の医師として、ここで生きていくわ。もちろん、ちゃんと手紙も書くし、そのうち会いにも行くつもりよ。ただ、もうコルネール家には――」
「だめだ!」
 寝室の壁が震えるかと思うほどの大声だった。
 アニエスはびくりと顔をあげてガイウスの目を覗き込んだ。驚くべきは今まで聞いたことのなかったガイウスの大声よりも、その青みがかった灰色の目が悲しみに噎ぶように揺れていることだ。
「だめだ。行くな」
「…行く・・のは、わたしじゃなくてあなたよ。あなたがルドヴァンに帰るんだもの」
 まったく的外れな言葉だとはわかっている。しかし、こんなふうにはぐらかさなければ、一瞬の沈黙にも耐えられない。
「後悔しているのか。わたしの妹になったことを」
「…そうかも」
 ガイウスは横っ面を打たれたような気分になった。アニエスの温もりが手から離れ、その目が自分を映すのをやめた。
「だって、どう考えても最悪な巡り合わせじゃない。血が繋がってないだけなら、まだよかったわよ。でも、父親同士が殺し合ったなんて…笑えない。こんなことを知った後で、家族づらしてコルネール家に戻るなんて、できるわけない。でも、心配しないで。わたしはちゃんとやれる。自分の足で立って、自分の居場所を作ることだってできるの。だから――」
「ブノワ・ルグランのそばにか」
 激しい口調だ。ガイウスは明らかに怒っている。
 アニエスはイライラしてきた。
 どうしてようやく離れる決心がついた時に、今まで一度も見せたことのない顔をするの。どうして女として大切にされているような期待を抱かせるの。どうしてこの恋を手放そうとした時に、恋しくさせるの。なんて残酷な人なの。
 全部吐き出して、責め立ててやりたい。が、言えない。口に出したらおしまいだ。せめて友人として結べるかもしれないこの先の絆を、断つことになってしまう。まったく未練がましい。未練がましくて反吐が出る。
「…あなたは何もわかってないわ、お兄さま」
「わたしはお前の兄じゃない」
 この刺すような言葉に、アニエスの心臓がどっと跳ねた。傷ついたからではない。ガイウスの瞳の奥に、あり得ないものを見たからだ。
(そんなはずない)
 アニエスはその馬鹿げた考えを振り払おうとした。
「もう家族じゃないんだろう」
 ガイウスが低い声で言った。その目から、視線を逸らすことができない。
「――違うわ」
(ああ…)
 泣きたくなった。
 そんなことは絶対に起こりえないと思っていた。けれど、目の前のガイウスは本物だ。
 間違いなく、ガイウスは今、女を激しく求める男の目をしている。
「わたしたちは家族じゃない。じゃあこの感情はどう説明したらいい。妹じゃないお前を手放したくない気持ちは、他の男のものになるのが耐えられない気持ちは――ずっとそばにいて欲しいと願うこの渇望は、何と言うんだ」
 ぎゅう、とアニエスの心臓が軋んだ。胸骨が砕けたのではないかと思うほど痛い。
 こんなのおかしい。
「…あなた今、混乱してるのよ」
 そうに決まっている。
 実父が別の人間だったことを知り、妹が他人だったと知り、実父を父親だと思っていた男に殺されていたことを知り、その男が獄中で自ら死に、おまけに初めて本気で恋した女性はもうすぐ正式に王妃となる。
 当たり前の日常だと信じていたものは覆され、欲しいものは絶対に手に入らない。この苦痛を、アニエスは知っている。
「混乱しない方がどうかしてるわ。どうしようもない感情が行き場を無くしただけよ。しっかりして」
 言いながら、アニエスは自分の声が震えていることに気づいていた。だって、自分も目の前の男を欲している。初めて会った日から、ずっと。
(しっかりするのよ)
 揺れてはいけない。生涯続く絆と引き換えに、この恋心を静かに殺していくと決めたではないか。ガイウス・コルネールのいっときの女になるのは御免だ。男として愛している素振りを見せてはいけない。
 アニエスはガイウスを拒絶するように立ち上がり、寝室の扉を引いた。
「頭冷やして」
 そう言って、ガイウスに今すぐ出て行けと言わんばかりに扉の隣に立った。
 この時、アニエスは自分がどんな顔をしているか、自覚していなかった。ガイウスがどんな顔をしているのかも、とても見ていられない。怖くて顔を上げられない。
 扉を開いたまま、ライラック色をしたサテンの室内履きの丸い爪先を凝視していると、不気味なほど静かにガイウスがベッドから腰を上げた気配がした。
 柔らかなビロード張りの床を踏む音が近づいてくる。
 ガイウスがこの扉を出て行ったら、その次に顔を合わせる時は、きっと他愛もない挨拶を交わしていつものように朝食を共にし、何事もなかったように過ごせるはずだ。兄でも妹でもないが、家族に近い関係の友人か何かに。
 目の奥が痛いほどに熱くなり、涙が目蓋の境界を越えるのを堰き止めるように、アニエスは奥歯を噛んだ。
 その時。――
 バタン!と音を立てて扉が閉まったと思った瞬間、目の前にはガイウスが立っていた。
「今自分がどんな顔してるか、わかってるか」
 ガイウスは返答を待たずにアニエスの顎をつまんで上を向かせ、青灰色の瞳を暗く翳らせた。
 心臓が爆発しそうなほどに打って、身体中の細胞を震わせ、鳩尾の辺りが不規則なリズムで締め付けられる。
「わたしたちは今、同じことを考えているはずだ」
 違う。と、言えなかった。言葉が出ない。
 ガイウスが一歩踏みだすと同時にアニエスも一歩下がって逃れたが、すぐに背中を壁に押し付けられ、逃げ場を失った。
「だめ。やめて」
 嵐の前夜の空のような色をした瞳が、目の前にある。
「今からわたしは考え得る最も下劣な手段で、お前をわたしのもとに縛り付ける」
 アニエスの身体がぞくりと震えた。恐怖か性的な興奮か、それとも歓喜か、わからない。
 ガイウスの大きな手が今までしたことのない触れ方でアニエスの頬に触れ、唇が肌に触れそうな位置で、再び開いた。
「本気でいやだと思ったら、殺すつもりで抵抗しろ」
「あ、待っ――」
 開きかけた口が、ガイウスの唇に塞がれた。
 とても現実とは思えなかった。が、まさに今肌に触れている体温は、夢ではない。
 突き放そうと触れた手はアニエスの意思を無視してガイウスのシャツの胸を掴み、固く閉じていたはずの唇はガイウスの舌につつかれていとも簡単に開いた。
 その先は、まるで雪崩だ。
 この男の元を離れる決心も、この先の迷いも、ついこの間まで兄妹だった罪悪感も、この衝動に飲み込まれた。
 もう、いい。
 例えこれが泡沫うたかたの夢でも、全てが変わっても、二度と元に戻れなくても、もういい。
 ただ、今は、優しく肌を包むガイウスの手の温度と、心を溶かすような口付けに溺れたい。だって、ずっと望んでいたのだ。この手が優しく肌に触れて、唇が重なる時を。叶わないと思いながら、ずっと望んでいた。
「――っ、ガイウス…」
 唇が腫れそうなほどのキスの合間に、酸素を求めるように息をしてアニエスが名を呼んだ。懊悩するような声色が、ガイウスの血を沸き立たせ、まるで自分が獣になったように錯覚させた。いや、錯覚ではない。きっと本性は獣なのだ。ついこの間まで妹として愛していた女を、今は性愛の対象として、力尽くで手に入れようとしている。こんなことは、常軌を逸している。
 それなのに、こんなことが許されるのか。とは、微塵も疑問に思わなかった。
 誰に許されなくてもいい。アニエスを自分のものにすると、もう決めた。これが答えだ。
 バサバサと茶色のドレスが床に落ち、アニエスの肩に冷たい空気が触れた。
 びくりとアニエスの肌が震えたのを感じ取り、ガイウスは逃げられないようにアンダードレス一枚になった身体を抱き上げ、アニエスの弱々しい抵抗を気にも留めずにベッドへ運んだ。
「自分が今何してるか、わかってる?」
 ベッドに膝をついて覆い被さってくるガイウスの袖を引きながら、アニエスは細い声で訊ねた。
「お前よりわかっている」
 青灰色の瞳が暗く燃えて、近付いてくる。
 再び唇が触れ合うと、アニエスはガイウスのベストのボタンに指を掛け、ひとつひとつ外し始めた。男性の服を脱がせるのにこれほど緊張したのは初めてだった。暴いた男の肌がひどく熱いことに気付いたのは、自分も裸にされてからだ。
「細いな。もっと食べた方がいいんじゃないか」
 ガイウスの手がアニエスの腰を這い、胸へ上がってくる。
「…っ、これでも、食べてるわ」
「本当か?」
「あ…!」
 思わず漏れた甘い声に自分で驚いて、アニエスは口を手の甲で塞いだ。胸に触れられただけでこんな風に反応したことがあっただろうか。心臓が痛くて、おかしくなりそうだ。ガイウスの目が、燃えるように熱い。
「お前は美しい。アニエス」
 ガイウスの口から今まで何度も聞いた言葉だ。それなのに、アニエスには初めて言われた言葉のように聞こえた。理由は分かる。ガイウスの感情が以前とは別のものだからだ。目の奥から涙が湧いて鬢を濡らし、折り重なってくるガイウスの栗色の髪が胸元をくすぐる。アニエスはガイウスの髪に指を挿し入れて、肌の至る所に降ってくる啄むような口付けを受け入れた。
 快感が身体中を走り回り、乳房の先端を舌で撫でられると、甘えるような悲鳴があがった。
「んんっ…あ。待って…」
 ガイウスが胸からチラリと視線をアニエスの目に向けた。この視線だけで、もう言葉も出ない。
 ガイウスは今まで感じたことのない、暴力的な欲望が血液中を巡っていくのを感じた。アニエスの甘やかな茶色の目が、「もっと欲しい」と、訴えている。
 甘い声に耳をくすぐられながら白磁のような肌に隅々まで触れ、臍の下にキスをした時、アニエスがびくりと腰を跳ね上げて逃げようとした。
「あっ!だっ、だめ。そこ、やだ」
 ガイウスはアニエスが脚を閉じられないように柔らかい内腿を掴んだまま顔を上げた。
 普段はあれほど洗練された佇まいでツンと澄ましているアニエスが、熟したコケモモのように顔を赤く染めて、涙目で訴えている。それが言葉とは全く逆の効果をガイウスの肉体に与えているとも知らずに。
「ここにキスされるのは初めてか」
 アニエスが今にも泣き出しそうな顔で小さく頷くと、ぞくぞくと快感が体内を迫り上がって、ガイウスをもっと無慈悲な男にさせた。
「――ッ、んん!」
 恥ずかしくて頭が爆発するかと思った。ガイウスの唇が脚の間に触れ、その奥をもっと深く探るように舌が這っている。
「あっ!あ、やっ…」
 逃げようとしても、脚と腰を強く掴まれて逃げられない。アニエスの意思とは関係なく、腹の奥がこの逃げ場のない激しい快感に反応して縮こまり、それが脳まで到達して、アニエスはいとも簡単に昇り詰めた。こんなふうになったのは初めてだった。
 信じられないと言うようなアニエスの視線を受けて、ガイウスの頬が緩んだ。男を知っていても、アニエスが快楽に慣れていないのは明らかだった。自分が初めての男でないことは仕方なく諦めていたが、肉体的なつながりを持つことの快感を刻みつけられると知ると、歓びに胸が踊った。
 官能的なやや薄い唇が濡れ、それを指で拭う仕草が、何故かアニエスの胸を苦しくさせる。指がぬるりと中に入ってくると、アニエスは漏れてしまう高い声を我慢することができなかった。
 ガイウスの指がアニエスの快楽の在り処を探るように中で動き、その度に新たな歓びが生まれる。アニエスが耐えかねて腰を反らせ、悲鳴を上げた時、ガイウスはアニエスのふっくらした唇を塞ぎ、貪るように舌を差し入れた。
「アニエス…」
 背中に回ってくるアニエスの柔らかな腕の温度を感じながら、ガイウスは声を絞り出した。
 アニエスが熱く速い呼吸を繰り返しながら、とろりとしたチョコレート色の目を向けてくる。
「わたしをお前の最後の男にしてくれ」
 この時アニエスは、特に深い考えもなく顎を引いた。
 理由は単純だ。最後も何も、アニエスにとってはガイウスが唯一無二だったのだから。今までも、これからも、それは変わらない。
 骨が軋むほどの強さで抱きしめられ、恐ろしく硬いガイウスの一部が中に入って来た時、アニエスはあまりの悦びに涙を流した。
 理性も忘れて自分の身体の奥に衝撃を与えるガイウスの余裕のない顔が、この男をもっと愛おしくさせた。身体のどこもかしこも、弾けてしまいそうだ。
「あ…!」
 身体のいちばん奥にガイウスを感じる。ガイウスの匂いが、息遣いが、体温が、身体中に満ちていく。
 アニエスは苦しいほどの幸福の中で、自分がこの世に生まれた理由を初めて知った気がした。
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