獅子王と海の神殿の姫

若島まつ

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九十六、狂気 - la folie -

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 お気に入りのバラ色のドレスと豪奢な金とダイアモンドのアクセサリーで優雅に着飾ったヴェロニク・ルコントは、法廷で全ての罪を認めた。ヴェロニク本人が指定した弁護人も付いたが、提示された証拠に意義を唱えることもなく、協力者、違法な薬物を取り引きした人物、‘花の園’で男娼を買った婦人たちの名前を、何一つ包み隠さずに告白した。この中にはテオドリックやキセが用意した書面にない名前も多く挙がり、この裁判を傍聴していた貴族たちから驚きの声と怒号が上がった。彼らの中に、該当者がいたためだ。それも、一人や二人ではない。
 キセが怖気おぞけを感じたのは、彼らの怒号でも、静かに怒りを湛える玉座のテオフィル王でもなく、ヴェロニク・ルコントの愉悦に満ちた顔だった。
 死罪を免れないと承知の上で、この場を愉しんでいる。
「毒婦とは、ああいう女のことを言うんだな」
 どこか称賛するような含みを持って、王家の五番目の席に脚を組んで座るネフェリアが言った。いつもの深い緋色の軍装ではなく、装飾の少ない細身のドレスを着ている。しかし軍服と同じく、深い緋色一色に金の縁取りが施され、胸から裾にかけて向かい合う一対の獅子の紋章が大きく刺繍されている。
「感心している場合じゃないだろう」
 その隣で鷲の紋章が刺繍された濃紺の上衣を着たスクネが眉を寄せた。苦言を呈しながら、特に意識せず、婚約者のドレスの裾を直してやっている。この様子がちょっとおかしくて、更にその隣のシダリーズが口元をもぞもぞさせた。シダリーズも淡いピンクの伝統的な形のドレスに身を包んでいる。
 キセはテオドリックを挟んで二つ隣に沈黙したまま座すテオフィル王の顔を横目で見た。
(すこし、おやつれになった)
 それほどの衝撃だったろうから、当然と言えば当然だ。だが、家令のコールがテオドリックに「陛下が事件の発覚以降ろくにお食事をなさっていない」と話しているのを聞いた。身体を悪くしないか心配だ。
 この間、被告人であるヴェロニク・ルコントは国王と自分がどういう関係だったかを赤裸々に聴衆に語り、彼らの耳を汚した。中にはとても聞くに耐えないような内容もあった。当然王家の面々はそのあまりの無礼さに眉をひそめたが、当人のテオフィル王は裁判官と同じような面持ちで眉一つ動かさずにそれを聞き、嘲笑するようなヴェロニク・ルコントの視線を真っ向から受け止めていた。
 彼女が国王だけでなく他の貴族たちの不貞行為や彼女の知り得る悪しき秘密について言及を始めた時、裁判官はさすがに槌を鳴らしてやめさせようとした。が、国王は片手を挙げてそれを制した。
 言わせてやれと言うのである。
 これには聴衆はぞっとした。次は自分かも知れないと思っているからだ。既に不貞行為を暴露された婦人たちは夫から怒りと軽蔑の視線に晒され、小声で言い争いを始めた者や、逃げるように法廷を後にした者たちもいた。
 この国王の意図が何であれ、裁判官としてはその意を汲む必要がある。が、この場を宰領する者として制止しないわけにもいかない
「…厳粛な法廷に相応しくない発言は慎みなさい、マダム・ヴェロニク・ルコント」
 と、裁判官は忠告にとどめた。
 ヴェロニク・ルコントはニィッと不気味に笑い、しゃなりとした仕草で恭しく礼をして見せた。
「感謝いたしますわ、裁判官さま」
 が、ヴェロニクは憚らなかった。テオドリックの一番の懸念はキセがドーリッシュに襲われたことをこの場で暴露されることだったが、何故かヴェロニクがその件に触れることはなかった。
「わたくしがしたことは、もちろん罪ですわ。ですが、あなたがたと何が違うのかしら。これだけ道に外れた願望を皆さまお持ちですのに。わたくしは皆さまの心も身体も満ち足りた幸せな暮らしができるよう、尽力いたしましたのよ」
 最後にヴェロニクがそう結ぶと、テオフィル王は静かに顎を引き、この場に姿を見せてから初めて口を開いた。
「言いたいことはそれだけか」
 みな息を呑んだ。
 この、エマンシュナ王国始まって以来最も存在感の希薄な国王が、即位以来最も国王らしい威厳を放った瞬間だった。
「いいえ。まだありますわ、陛下」
「では、続きは地獄の門番にでも聞かせてやればよい」
 テオフィル王はピシャリと言った。
 青い目が冷たく広間の中央に立つヴェロニク・ルコントを見下ろしている。
「わたしはそなたの自立心に富んだ心が好きだったが、これほどの奸物だったとは、残念だ。見抜けず不甲斐ない」
 テオフィル王は立ち上がり、裁判官に顔を向けた。裁判官は緊張した面持ちで、顎を引いた。
「わたしからの申し開きはない。苦労を掛けるが、公正な判決を期待する」
 これだけ言って王が中座した。長らく褥を共にした愛人の死刑判決を聞きたくなかったのだろうとキセは心を痛めたが、内実は少し違う。この後、国王も訴追すべきだという声が上がるのを想定したのだ。そういう場合、自分が席に就いていない方が貴族たちは憚ることなく自分を糾弾できようと思ったのだ。尻尾を巻いて逃げたと思われようが、テオフィル王にとっては最早どうでもよかった。寧ろ、自らの評判が悪くなればなるほど次代を担うテオドリックへの支持が高まるだろう。
 テオフィル王は、今そういう境地にいる。
 そして、テオドリックもこれを理解している。
 この日、テオフィル王の予想を外れて国王を糾弾する声は上がらなかったのは、テオドリックの根回しによるものだ。
 国王が席を立ってから数十分の後、ヴェロニク・ルコントには死罪が言い渡された。ヴェロニク・ルコントは顔色を変えず、薔薇色の唇を左右に大きく引き伸ばして、聴衆へ言い放った。
「どなたが一緒に来てくださることになるのかしら。楽しみだわ」
 まるでおとぎ話に出てくる魔女の呪いのようだった。身に覚えがあるのか、恐怖からか、この言葉で卒倒してしまった貴婦人がいたために、死刑囚となり衛兵によって冷たい鉄の手枷をはめられたヴェロニクは、ちょっとした騒ぎの中で退席することになった。
 去り際に、キセの目を見た。
 灰色の目を勝ち誇ったようにギラリと光らせ、不気味に唇を歪めて、後は一度もキセの方を見なかった。
 キセもまた、呪いにかかったような気分になった。
 恐怖ではない。この期に及んでもキセはヴェロニク・ルコントに憐れみを感じている。彼女の罪を憎めど、ヴェロニクという孤独な女性に対しては、まるで兄弟との生存競争に勝てず発育不良のまま道端で死んでしまった子犬や、巣から落ちて救いの手を述べられる間も無く野獣の餌になってしまった小鳥の雛に感じるような、どうしようもない遣る瀬なさを覚えずにはいられないのだ。
 が、‘呪い’の正体はそれではない。何かが喉元につかえたような、奇妙な違和感がある。しかし今は、その正体を知る術はない。

 馬車に乗っている間、キセは無言のまま窓の外を眺めていた。
 何だかひどく落ち着かない。ずっと何かがひっかかっている。
「どうした」
 と、テオドリックの指が頬に触れて我に返った。
「ど」
 キセはきょとんとしてテオドリックの顔を見た。
「どうしたのでしょう…」
 少し混乱しているかもしれない。この不気味な違和感を、どう言い表して良いか分からない。
「疲れたか」
「そう、ですね…」
 テオドリックは眉の下を暗くした。キセの様子が明らかにおかしい。
「何かあるんだろ。聞くから言え」
 キセは少しだけ躊躇して、テオドリックの目を困ったように見つめた後、唇を開いた。
「…なにか、変ではなかったですか。裁判の時の侯爵夫人がなんだか…うまく説明できないのですが」
 変と言えば元々あの女はイカレている。と、テオドリックは口まで出かかったがやめた。キセの心配事はそれではない。
「あの余裕ぶった態度には諦め以外の理由があると思うのか?」
 キセは小さく頷いた。
「でも、何かと言われるとわからないんです。考えすぎでしょうか」
「心配するなと言ってやりたいが、そう簡単じゃないよな」
 テオドリックがキセの頭をくしゃっと撫でた。
「他の協力者がいないか調査してる。何かあればすぐに報せが来るはずだ」
「そうですね」
 キセは肩の力を抜き、テオドリックの手のひらから伝わる熱にうっとりと目を閉じた。この手が触れているときが、一番安心する。
 この時、風が吹いて葉擦れが起きるような自然さで二人は唇を触れ合わせた。
 確かにちょっと平常心ではないかもしれない。と、キセは頭の片隅で考えたが、テオドリックが急くように舌をぬるりと絡めてくると、すぐにどうでもよくなった。息もつけないほど口付けが深くなり、いつの間にか馬車の窓に身体を押し付けられていた。
 テオドリックの手が腰へ伸び、その曲線をなぞるように胸へ這い上がってくる。
 ふ、とキセが苦しそうに小さく呻いたとき、テオドリックが我に返ったようにキセの身体を離した。
「…まずい。たがが外れる」
 キセは頬を赤くしてにじにじと座り直し、懊悩しているようなテオドリックの顔を見上げた。
「いつも馬車でもなさっています…」
 この反論を聞いて、テオドリックは苦々しげに腕を組んだ。
「今はダメだ。ここで脱がせるには惜しい」
 キセの背中がぞくりとふるえた。
 テオドリックのエメラルドの瞳が暗く翳り、キセへの欲望を映している。次に長い指が頬に触れた時、キセの身体の中で火花が散った。なんだか目を合わせていられなくなる。ここのところ裁判のために気を張っていたから尚更、いつも通りの二人に戻った瞬間に、凜々しい正装のテオドリックが放つ輝きに心がひどく乱される。
「そんな顔をして――」
 テオドリックが逃げるように視線を外したキセの頬に鼻をすり寄せた。
「俺の忍耐を試しているのか」
「そ、そんなこと――」
 ありません。と言う前にもう一度唇を塞がれた。今度は触れるだけの、ささやかなキスだ。それなのに、キセの欲望を煽るような触れ方だった。どちらからともなく触れ合った手を、テオドリックの指が愛撫するように弄んでいる。
 キセが熱くなった身体を持て余してテオドリックの首の後ろに腕を回そうとした時、静かに馬車が止まった。
「時間切れだ」
 テオドリックは悪戯っぽく唇を吊り上げてキセから離れた。顔を赤くして物欲しげに黒い瞳を潤ませているこの表情が、可愛くて堪らない。
「寝室へ行こう」
 扉が開く直前にテオドリックは低い声で囁いた。
 キセは身体が発火するのではないかと思うほど熱くなった。こんな日に愛欲に溺れるなんて、不謹慎ではないだろうか。でも止められない。自分がどんな顔をしているかもわからない。馬車を降り、出迎えの使用人たちに囲まれてレグルス城へ入っていく間、一度も目を合わせなかった。
 互いに分かっているからだ。次に視線が絡んだ時、何が起こるのかを。
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