獅子王と海の神殿の姫

若島まつ

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九十五、断罪 - des châtiments -

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 スクネは心地よさそうに腕に頭を預けてくるネフェリアの金色の髪を指で梳き、頬にキスをした。自分よりも少しだけ低い素肌の温度が気持ちよくて、いつまでも触れ合っていたい。が、そろそろこの魅惑的な身体を離して本題に入らなければならない。――いや、ことに及ぶ前に話すべきだったが、最後の任務を終えて真っ先に胸に飛び込んできたこの愛しい女の誘惑から逃れられるはずもなかった。
「ネフェリア」
 スクネが呼びかけると、長い金色のまつ毛の下で孔雀色の瞳が光を宿してこちらを向いた。
 切れ長の目が美しい曲線を描いている。いつまでも見惚れていたいが、明朝始まるドーリッシュの裁判の前に、言っておかなくてはならない。
「ジョフロワ・ドーリッシュによるキセへの襲撃事件が父上の耳に入った」
 ネフェリアは身体を気怠げに起こし、肘をついて手に頭を乗せ、表情を変えずに無言でスクネを見た。
「そうか。早晩そうなるだろうと思っていた。何が望みだ」
 するりとネフェリアのしなやかな肌の上を毛布が滑って白い乳房が露わになったのを、スクネは肩まで覆い直してやり、硬い表情で言った。
「流刑」
「妥当だな。デレクとコルネールが全て証言する見返りに死罪は免れると取り引きしたから、その線でみな承知している。と言うことは、他に何かあるはずだ」
 ネフェリアの凛々しい眉が吊り上がった。スクネは引き結んだ唇を僅かに吊り上げた。
「流刑地を我々の領海に指定したい」
「エマンシュナへの見返りは?」
「この件に関する君たちの不手際・・・を、不問にする。イノイル王国からキセへの警備や防犯の甘さを糾弾されることはないし、イノイル国内で公にすることもない。我々としても国内のエマンシュナに対する不信感を増やすことになるのは避けたい。この件を知っているのは家族の中でも父と母たち、それと弟のイユリだけだ」
「ふむ」
 ネフェリアは目を細めた。
「…まあ、いい。わたしは反対しない。デレクも飲むだろう。いや、あいつとの話はもう済んだのかな」
「済んだ。他との調整もついている。明日の裁判でドーリッシュにはイノイル北方の島に流刑となる判決が下る」
 スクネはキッパリと言った。既に裁判官との話もついているのだ。ネフェリアは笑い出した。
「話がついているならわたしにわざわざ改まって聞く必要もないだろうに、貴殿もマメな男だな」
「君の機嫌を損ねたくないからさ。実行の前に、現場を指揮した者に話を通しておかなければ」
「それで、わたしが拒否したらやめたのか?」
「いや、首を縦に振るまで説得したさ。だが君が条件を飲むという算段はついていた。悪くない取り引きだろ」
 スクネは屈託のない表情で笑った。ネフェリアはやれやれと首を振り、苦笑した。なかなかどうして、これから自分が夫にしようとしている男は働き者だ。
「昨日一日姿が見えないと思ったら、さてはそのために奔走していたな」
「そうだ」
「貴殿もよくよく忙しい男だ。帰国したら忙殺されるのだから、今くらい休んでおけばよいものを」
 スクネはくすくす笑うネフェリアの形の良い唇にそっと唇を重ねた。
「じゃあ――」
 ごろりとネフェリアの身体を巻き込んで体勢を変え、腕の中に閉じ込めた。ネフェリアの瞳に艶冶な光が踊る。
「――君が癒してくれるか?」
 ネフェリアは艶美に笑ってスクネの首に腕を巻き付け、甘やかな口付けをした。
「ああ、そうだ。言い忘れていたが」
 と、スクネは穏やかに微笑みながら続けた。
「見事な采配だった。突入から制圧まで恐ろしく迅速で、ひとつも無駄がなかった」
「…見ていたように聞こえるな」
「見ていたさ。君の最後の任務だろう。俺がこの目で見届けなければ、他に誰がやるんだ」
 ネフェリアは思わず声を上げて笑い出した。
「まさか!どこにいた」
「隊列の最後尾に紛れていた」
 スクネは白々と言ってニヤリと笑った。
「してやられた」
 これは悔しい。最後の任務で気を張っていたとは言え、まさか隊士以外の――それもよく見知った婚約者が紛れていたことに気付かなかったとは。
「ハハ、初めて君を出し抜けたかな」
「初めて?」
 ネフェリアがスクネの頬をするりと撫でた。
「まんまとわたしをモノにしてしまった男が、よく言う」
「それはお互い様じゃないか」
「だがな、貴殿のやり方は――」
 スクネはネフェリアの手首をベッドに押さえつけ、唇を塞いだ。
「もう黙れ」
 ネフェリアは喉の奥で笑い、再び熱くなったスクネの一部を受け入れるために脚を開いた。

 翌朝、ドーリッシュの裁判が行われた。全て予定通りだった。
 捕縛と罪の露見から僅か三日という早さで裁判が行われるのは、前代未聞のことだ。理由は、他でもない。もう何百年もなかったエマンシュナ・イノイルの国王同士の会合が四日後に迫っているためだ。それまでに、形式上だけでも王府の醜聞を片付けておきたいという意図がある。ただし、今回は被告と事前の取り引きがあり、本人が全ての罪を認めているから、ことの重大さから考えると驚くほど簡単な手続きのみで済んだ。このため、テオドリックやキセをはじめとする関係者の立ち合いはなく、裁判官と法務官、王太子テオドリックの名代としてイサクが立ち会った。
 ここで問われた罪は兵器や薬物の違法取引と叛逆の共謀罪で、キセへの襲撃については一切触れられていない。と言うより、当初の計画通り、キセが巻き込まれた件は揉み消され、なかったことになっている。キセとテオドリックと従者たちが徹夜で用意した文書をもとに、罪が淡々と裁かれ、結果、ジョフロワ・ドーリッシュは流刑、とされた。便宜的に付けられたドーリッシュの弁護士もこれに合意した。
 ドーリッシュはこの判決に満足した。
 今後の人生は命の危険に脅かされることなく、遠く美しい海に囲まれて穏やかに過ごすことができると思っているからだ。贅沢な暮らしはできなくとも、現地の役人や住民、その他の流刑者を買収して酒や薬や女を買い、或いは新たな商売を始めてそれなりに楽しい生活ができると、この男は信じている。流刑地を新天地と捉えている。
 ガイウスの「助けてやる」という一言とテオドリックの「流刑に減刑」という条件提示でこれほどまでに甘い考えに至るのだから、まったく世間知らずとしか言いようがない。
 が、今後その身に降りかかるであろうことをわざわざ教えてやる者はいない。
 ジョフロワ・ドーリッシュはこのひと月後、船員が二人しかいない小型の船でエマンシュナ北部の港を発つことになる。
 が、この船はイノイルの北方を目指してその領海に入った後、忽然と消息を絶つ。
 船員二名だけは、その数週間後にイノイルのイユリ第三王子が指揮する軍船に乗って帰港するが、その後ドーリッシュがどうなったのか、知る者は誰もいない。
 海鷲の王の逆鱗に触れた者の末路を、この男は辿ることになるのだ。
 それが間も無く起きようということに本人がまるで気付かぬまま終わったこの裁判の翌日、ヴェロニク・ルコントの裁判が行われた。この裁判はドーリッシュと同じ古びた裁判所ではなく、アストレンヌ城の大広間で行われた。
 国王の愛妾であったヴェロニク・ルコント侯爵夫人を優遇してのことではない。この大スキャンダルが国内有力者の大きな関心を集めている上、侯爵夫人の関係者も多く出廷する。この関係者の多くが、貴族の奥方や令嬢、或いは家長であるがために、彼らの体面を保ってやらなければならないのだ。
 簡略的だったドーリッシュの裁判とはまったく対照的に、ヴェロニク・ルコントの裁判はまるで舞踏会のように賑々しく開かれた。
 床には色の違う大理石で描かれた二頭の獅子の周囲に‘月と太陽の子・エマンシュナ人の祖・エメネケアの偉大なる王’を意味する古代のマルス語が書かれ、それを中心に見事な幾何学模様の装飾が並び、最奥部に置かれた厳しい黒の裁判台には、白い帽子を被り白いローブを纏った裁判官が厳格な面持ちで座っている。この右側に用意された獅子の脚を模した長机は、王家のための席だ。裁判官にいちばん近い席に座るべき国王の姿は、まだない。中央は大罪人のために空けられ、周囲は関係者やこの世紀の裁判を傍聴するために集まった貴族たちで埋まった。まるで人気の俳優が出演する舞台のような盛況ぶりだ。
「バカバカしい」
 と、この様相に悪態をついたのは、オベロンだ。
 神聖な法廷に相応しく、銀糸の植物文様が美しく装飾された襟の淡いブルーの上衣に揃いのベスト、それに細身の白いズボンを着て、きちんと王家の四番目の席に着座している。
「こんな、見世物みたいにやるべきじゃない。叛逆者の裁判だっていうのに」
「そういきり立つな」
 二番目の席からテオドリックが宥めた。
 王太子に似つかわしい正装だ。目の色と同じ少しだけ青みがかった深い緑の丈の長い上衣を纏い、襟と内側に着ている絹の白いベストには金色の獅子の文様が施されていて、アッシュブロンドの髪は後ろに撫でつけられ、秀麗な顔がいつも以上に引き立って見える。
「あの女を大勢の前で断罪してやる好機だと思え」
「注目を集めて付け上がるのでは?僕はそれが気に入らない」
「付け上がらせておけばいい」
 テオドリックは冷淡な声色で言った。
「どのみち死罪は免れない」
 テオドリックの隣で、キセは唇を固く引き結んだ。艶やかな黒髪は編み込まれて一つにまとめられ、蔦を模した真鍮のヘッドバンドが巻かれている。
 この日着ているスミレ色のドレスは、この場に相応しくエマンシュナの伝統的なものだ。腰の上部が絞られていて、そこから襞が柔らかく下へ広がり、襟は両肩の際までダイヤ型に開き、その縁を金銀の獅子と鷲の文様が飾っている。それが、風に靡くように柔らかく広がる袖にも施されている。王太子妃に相応しい、絢爛な仕立てだ。
 こんな場でさえなければ、片時も手を離さずにじっくりその美しい姿を愛でていたいものを。と、テオドリックは密かに口惜しく思っている。
 真っ黒の瞳を張り詰めた様子で見開くキセの肩を、テオドリックはそっと撫でた。
 その仕草が、視線が、キセを心からいたわっている。
(わたしよりテオドリックの方がよほど大変な思いをしているのに)
 キセは目の奥が熱くなるのを目蓋をキュッと閉じて耐え、肩に触れるテオドリックの手を握った。
「最後まで見届けます」
 声が震える。
 誰かを傷付ける覚悟を決めろ。というアニエスの言葉が、頭の中で繰り返し響いている。
 どれほど悲しいと思っていても、ヴェロニク・ルコントに死の裁きが下るのを、王太子妃として、近い将来王妃となる身として、見届けなければならない。
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