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九十三、弟切草 - chasse-diable -
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議会は、テオドリックが拍子抜けするほど早々に済んだ。
しかし、間違いなくエマンシュナの歴史に残るであろうものだった。前代未聞だ。
まずは、まだ正式に妃となっていないキセの参席もその理由の一つだ。しかし、キセは既に王太子テオドリックの妃として認知されているから、このことはそれほど重大ではない。
問題は、この後だ。
テオフィル王自らが愛妾ヴェロニク・ルコントを‘重大な犯罪行為’により訴追すること、それに加担した者たちの処分を厳粛に行うことを宣言し、自らは王太子テオドリックが主導したイノイル王国との婚儀と和平について賛同する意志を初めて公の場で表明し、王太子とその婚約者、並びに和平に尽力した者たちへ労いの言葉を述べた。
そして、次に起きたのは、第二王子オベロンによる複数の貴族の告発だ。
国王の和平への賛同に多くの者が喜びの言葉を述べる中、オベロンは「この中に叛逆に加担した者がいる」と高らかに告げ、四名の貴族を衛兵に捕縛させた。彼らは初め抵抗を見せたものの、機敏に反応したネフェリアとその部下にすぐに制圧され、議場から連れ出された。彼らは皆、ヴェロニクがデヴェスキとの蜜月関係を築いている頃にその密命を受けて反対派を先導しようとしていた若手の貴族たちで、オベロンをその大将に据えようと画策していた。二番目の王位継承権を持つオベロンを唆して密書を交わし、「国内のイノイル人を排除し、勢力を増してイノイルに攻め入り、その領土を奪取した暁には、オベロン王が戴冠する」という計画を練っていた。が、彼らよりも若いオベロンの方が一枚上手だった。
彼らの計画に乗り気な様子を見せ、その確固たる叛逆の証拠を集めていたのだ。例外なく、彼らの母親はヴェロニクの取り巻きだ。当然、母親たちと、次第によっては父親たちも捕縛されることになる。
そして散会の前に、今ひとつ異例のことが起きた。王太子テオドリックが臣下を前に頭を下げたのである。
臣下たちは仰天した。無論、この議会に参席しているガイウスも鮮烈な驚きを持って王太子を見た。
「我々王家はもっと早くにイノイルとの戦を終わらせられていたかも知れない。そう考えるとこれまで命を落とした者たちに申し訳なく思う。そしてエマンシュナ王国を守り、支えてくれたことに心から感謝している。陛下が和平への気持ちを固められたことはわたしとしても嬉しく思う。が、君たちにもいろいろな思いがあるだろう。受け入れたくないと感じている者もいると思う。しかし、イノイル王国の次代を担うスクネ・バルーク王太子をはじめ、ここにいるキセ・ルミエッタ王女、その他、多くのイノイルの人々との関わりを持って、わたしは今確信している。この和平は大きな繁栄を、この国にもたらすに違いない。わたしがイノイルの姫を愛したからというだけではない。彼らは義理堅く、情が深く、家族を裏切らない。わたしたちと同じだ。我らがエマンシュナとイノイルが家族になることで、その絆を深めていきたい。皆にも、どうか信じて欲しい。そしてアストルが新たに示す道を、民の希望として、皆にもついてきてもらいたい。よろしく頼む」
テオドリックが言葉を終えると、キセも席から立ち上がり、テオドリックと同じように頭を下げた。
「せ、僭越ながら、わたしからも、どうぞお願い申し上げます!必ず、皆さまのお役に立って見せます!」
珍しい光景に臣下たちは呆気に取られていたが、主君とその妃の真摯な姿勢に感涙した南方の領主が革のグローブを嵌めたような大きな手で噎びながら拍手を送ったのを合図に、場内には割れんばかりの拍手が響いた。
「俺はあまり感心しないね。主君が臣下に頭を下げるべきじゃない」
と、帰路の馬上で苦言を呈したのは、イサクだ。テオドリックは前を見たまま言った。
「今回だけだ。もう二度とない。だがあのメギツネを入り込ませたのは、俺たちアストル家の責任だ」
「陛下の、だろ」
「いや、キセの言う通り、父上には支えが必要だった。だが俺たち全員が背を向けた。父上一人に背負わせるのは、違うだろ」
キセはとつとつと愛馬トルノの歩調を速め、テオドリックに並んで、にっこりと微笑んだ。
「ご立派でした」
テオドリックは唇の端をちょっと上げて、複雑そうに笑った。
「俺は、多分、キセがいれば何があっても大丈夫だ」
「ふふ」
嬉しそうに微笑むキセを後方から眺め、イサクはヤレヤレと首を振って呆れ顔を隣で馬を駆るセレンに巡らせた。セレンも同じような顔で苦笑している。
ところが、キセだけはこの時のテオドリックの感情に気付いていた。
この夜、キセはハーブティーを用意して、執務室で机に向かうテオドリックの傍らにそっと置いた。
テオドリックは羽ペンを走らせる手を止め、しばしの間ティーカップから立ちのぼる柑橘や林檎に似た香りを含んだ湯気を眺めて、キセの手をそっと掴んだ。
「ありがとう。もう寝るのか?」
「いいえ」
そう言って、キセはテオドリックを後ろから抱き締めた。
「お仕事が終わるまで、ここで本を読んでいてもよいですか?」
「本?」
テオドリックが唇に優しい笑みを浮かべてキセの頬を引き寄せ、唇に羽が触れるようなキスをした。
「はい。アニエスが目を覚ましたあと退屈しないように、選んでいるんです」
「そうか」
テオドリックはティーカップに口を付けてその正体を知り、顔を上げた。
「母上の茶だな」
「はい。オトギリソウのお茶ですよ。お母さまは素晴らしいレシピをお持ちです」
「オトギリソウか。知らなかった」
テオドリックは茶を飲みながら、キセがこれを昨日父親にも淹れていたのを思い出した。これの意味するところを理解した気がする。母はよくこのお茶は元気になるおまじないだと言っていた。
「…俺も沈んでいるように見えたか」
「はい」
「はっきり言うな」
テオドリックは苦笑交じりに言った。なんだかいつもキセには隠したはずの感情を見透かされている。それが例え、自分が感じないようにしているものであっても。
「だって、平気なはずはありません。テオドリックは――」
「父親を追い落とそうとしているから?」
「はい、そうです」
キセは言葉を包まない。そんなことに意味はないと理解しているからだ。
「こんなに優しい方が、傷付かないはずありません」
「俺は父上から全てを奪うと決めた」
「はい」
キセはテオドリックをきつく抱きしめた。
「つらい気持ちも、テオドリックの覚悟も、お父さまは分かっていらっしゃいます」
テオドリックはカップを執務机に置き、キセの方に身体を向けて、正面からキセを抱きしめた。
キセは立ったまま、甘えるように腰に強くしがみついてくるテオドリックの愛おしいアッシュブロンドの髪を撫で、その広い肩を両腕で包んだ。
「そばにいてくれ、一生」
キセは胸が苦しくなった。
その頭に王冠を戴くその日は、もう近い。テオドリックの中にある王の姿は孤独で、愛に縋ることもできない、絶望の象徴なのだ。
それを、変えなければならない。
いや、変わるはずだ。
「はい。二人ならなんでもできます」
キセはテオドリックの頬をそっと両手で包み、キスをした。
「だってわたしたち、千年の歴史を変えているんですよ。一緒なら、なんでもできます。そんな気がしませんか?」
そう言ってテオドリックに笑いかけたキセの顔は、眩いばかりに輝いていた。
キセは翌早朝からルグラン診療所という小さな病院を訪ねた。
白いピカピカの大理石で造られた丸屋根の新しい建物で、私設の病院にしてはかなり立派なものだ。
ここに、アニエスが一昨日から眠り続けている。
アニエスが意識を失う前に指名した医師は、西エマンシュナ出身のブノワ・ルグラン医師だった。
栗色の波打つ髪と温かみのあるハシバミ色の優しそうな目をした、どこかイルカのような愛くるしさのある好青年で、年若いながらも名医として王都で名を馳せている。
キセが聞いたところではアニエスとは共に大学で医学を学んでいた友人で、伯爵家の嫡男ながら、ブノワは父の爵位と領地を相続せずに弟に譲り、自らは医師となった異色の経歴の持ち主だ。
アニエスが彼を指名した理由が、キセにはすぐにわかった。指示は簡潔で、判断を下すまでに時間をかけない。更に毒物や薬物の扱いにも慣れていて、安易に過去の事例とアニエスの症例を結びつけない。考え得る対処法を一つずつ試し、体温や呼吸、目蓋の裏などの状態で快方に向かっているかを注意深く診ているようだった。
それに、アニエスのことを心底気遣っている。
診察の際は他の男性医師や看護師を近づけることが一切なく、診察以外の時は、時折病室の前を通りかかっては遠巻きに様子を伺っている。
多分、ルグラン医師はアニエスと過去に何かあったのだろう。とキセは直感した。女の勘というやつだ。
今日もアニエスは薄い目蓋をしっかりと閉じて、穏やかな呼吸を繰り返している。
キセは小さく溜め息をつき、心の中で祈りを捧げた。早くあの愛らしいネコのような目を開いて、鈴の鳴るような声でいつものように叱って欲しい。
(叱って欲しい?)
自分でおかしくなった。「失礼ね、いつも叱ってなんかないわよ」などと怒り出すかもしれない。
キセがアニエスのために選んだ植物学者の随筆や大衆向けの恋愛小説などの本数冊を病室のサイドテーブルに置いたとき、隣で衣擦れの音がした。
キセは反射的に顔をベッドで横たわるアニエスの方へ向けた。
力の抜けた目蓋の奥で、チョコレート色の瞳がぼんやりとこちらを見ている。
「ロマンスなんか、読まないわ…」
鈴が鳴るどころか、ひどいガサガサの声だった。が、間違いなくアニエスの声だ。
「アニエス!」
と、名前を呼んだかどうか定かではない。アニエスの名を呼ぼうと思った声が口から発せられてすぐに嗚咽に変わったからだ。アニエスに抱きついた反動でサイドテーブルから本がバサバサと落ちた。
「……くるしい」
「あっ、すみません!」
キセは呻いたアニエスからぴゃっと飛び退いて、顔を涙でぐしゃぐしゃにしながら、病室の外で控えているセレンに医師を呼んでガイウスへ遣いを出すよう頼んだ。
夜勤が明けて帰ろうとしていたところを呼び戻された若い医師の診察を受けた後、シダリーズがキセより一足遅れて見舞いにやって来た。シダリーズは、目を開けてキセと会話しているアニエスを見るなり飛び跳ねるようにして喜び、病室の外にいた侍女から引ったくるように籠を受け取ってアニエスの傍らに置いた。中には、オレンジやリンゴ、ブドウなどの果物が山のように入っている。
「こんな狭い病院に姫殿下が二人もいたんじゃ、人が多くて迷惑だわ」
甲斐甲斐しくリンゴの皮をくるくると剥くキセを横目で眺めながら、アニエスが掠れ声で文句を言った。
「心配しないで。わたしたち一人ずつしか侍女を連れていないから」
「侍女はね。でも馬車と護衛が外で待ってるでしょ。他の患者の迷惑になるから、もう見舞いはいいわ」
なんともアニエスらしい。
シダリーズとキセは顔を見合わせて苦笑した。
「そういうアニエスだから、わたしたち一緒にいたいのですよ」
キセは目の粗い凹凸の付いた小さな板をどこからともなく取り出し、剥き終わったリンゴをゴリゴリと擦り始めた。
いつアニエスが目覚めても良いように、キセが病室に置いておいたのだ。
「大丈夫よ。あなたが気にすると思って、ちゃんと病院の前は人が通れるようになってるし、護衛も最小限にしたし、もちろん、あの爽やかなお医者さまとの関係を詮索したりもしないから」
シダリーズは冗談まじりに言って陽気に振る舞ったが、その目の下にクマができているのは、アニエスにはお見通しだ。
「ふ」
と、アニエスは気弱に笑って、キセがスプーンに乗せて差し出したリンゴを口に入れた。
「ありがとう」
小さく嚥下したあとで、アニエスがつぶやいた。
「あなたたちがいて心強いわ」
「アニエス――」
キセは泣き出しそうな思いでアニエスの手を取り、床に膝をついて、その冷たい手の甲に口づけをした。まるで臣下が主君にするような格好だ。アニエスは仰天してすぐにやめさせようと思ったが、身体に力が入らず、起き上がることができない。
「お礼を言うのはわたしの方です。再び戦乱が世を襲うのを、あなたのおかげで止めることができました。アニエス、あなたには感謝してもしきれません。何か必要なものがあればなんでもおっしゃってください」
「わたしからも、お礼を申し上げますわ、アニエス」
シダリーズもキセと同じように床に膝をついて、その長く美しい繊細なレースの裾を病室の床に広げた。
「やめて。姫殿下二人に頭を下げさせてるところなんて見られたら、気まずいじゃない」
アニエスはいつもの調子で言った。
「わたしは正しいと思ったことをしたのよ。あなたたちのためじゃない。それに、父親が迷惑かけたんだから、娘のわたしが償わせなきゃ。それが道義でしょ」
それには代償が大きすぎる。
キセは冷たいアニエスの手を握りながら、この恩人に何でもして報いようと思った。きっと金や地位は受け取ってもらえないだろうから、望むことならなんでもしてあげたい。
「…ジェラートが食べたい」
キセの心情を察したように、アニエスが言った。
「ミルクのジェラートにクリームとイチゴのソースがかかってて、フルーツがたくさんのってるやつ」
「はい!すぐに用意します!」
キセがぱあっと顔を輝かせた時、病室の扉が開き、息を切らせたガイウスが入ってきた。タイも巻かず、シャツのボタンも上まで留めないまま、上に黒いジャケットだけを羽織った姿から見て、相当慌てていたらしい。
ガイウスはアニエスのベッドまで一直線にやってきて、その時ようやく二人の姫に気付いたように礼儀正しい挨拶をし、そのまま一言も発せず、ベッドに横たわるアニエスをきつく抱きしめた。傍目から見ても、アニエスの背骨が折れてしまうのではないかとちょっと心配になるほど力強い。
シダリーズはキセの袖を引いて合図し、「それじゃあ、アニエス」と声を弾ませた。
「わたしたち、ジェラートを調達してくるわね」
「はい!クリームとイチゴのソースがかかっていて、果物がどっさり乗っているやつを」
キセもシダリーズの腕に自分の腕を絡めてにっこり笑った。
アニエスは抱きしめる腕を離そうとしないガイウスの脇からもそもそと腕を伸ばし、キセとシダリーズに向かってヒラヒラと手を振った。
しかし、間違いなくエマンシュナの歴史に残るであろうものだった。前代未聞だ。
まずは、まだ正式に妃となっていないキセの参席もその理由の一つだ。しかし、キセは既に王太子テオドリックの妃として認知されているから、このことはそれほど重大ではない。
問題は、この後だ。
テオフィル王自らが愛妾ヴェロニク・ルコントを‘重大な犯罪行為’により訴追すること、それに加担した者たちの処分を厳粛に行うことを宣言し、自らは王太子テオドリックが主導したイノイル王国との婚儀と和平について賛同する意志を初めて公の場で表明し、王太子とその婚約者、並びに和平に尽力した者たちへ労いの言葉を述べた。
そして、次に起きたのは、第二王子オベロンによる複数の貴族の告発だ。
国王の和平への賛同に多くの者が喜びの言葉を述べる中、オベロンは「この中に叛逆に加担した者がいる」と高らかに告げ、四名の貴族を衛兵に捕縛させた。彼らは初め抵抗を見せたものの、機敏に反応したネフェリアとその部下にすぐに制圧され、議場から連れ出された。彼らは皆、ヴェロニクがデヴェスキとの蜜月関係を築いている頃にその密命を受けて反対派を先導しようとしていた若手の貴族たちで、オベロンをその大将に据えようと画策していた。二番目の王位継承権を持つオベロンを唆して密書を交わし、「国内のイノイル人を排除し、勢力を増してイノイルに攻め入り、その領土を奪取した暁には、オベロン王が戴冠する」という計画を練っていた。が、彼らよりも若いオベロンの方が一枚上手だった。
彼らの計画に乗り気な様子を見せ、その確固たる叛逆の証拠を集めていたのだ。例外なく、彼らの母親はヴェロニクの取り巻きだ。当然、母親たちと、次第によっては父親たちも捕縛されることになる。
そして散会の前に、今ひとつ異例のことが起きた。王太子テオドリックが臣下を前に頭を下げたのである。
臣下たちは仰天した。無論、この議会に参席しているガイウスも鮮烈な驚きを持って王太子を見た。
「我々王家はもっと早くにイノイルとの戦を終わらせられていたかも知れない。そう考えるとこれまで命を落とした者たちに申し訳なく思う。そしてエマンシュナ王国を守り、支えてくれたことに心から感謝している。陛下が和平への気持ちを固められたことはわたしとしても嬉しく思う。が、君たちにもいろいろな思いがあるだろう。受け入れたくないと感じている者もいると思う。しかし、イノイル王国の次代を担うスクネ・バルーク王太子をはじめ、ここにいるキセ・ルミエッタ王女、その他、多くのイノイルの人々との関わりを持って、わたしは今確信している。この和平は大きな繁栄を、この国にもたらすに違いない。わたしがイノイルの姫を愛したからというだけではない。彼らは義理堅く、情が深く、家族を裏切らない。わたしたちと同じだ。我らがエマンシュナとイノイルが家族になることで、その絆を深めていきたい。皆にも、どうか信じて欲しい。そしてアストルが新たに示す道を、民の希望として、皆にもついてきてもらいたい。よろしく頼む」
テオドリックが言葉を終えると、キセも席から立ち上がり、テオドリックと同じように頭を下げた。
「せ、僭越ながら、わたしからも、どうぞお願い申し上げます!必ず、皆さまのお役に立って見せます!」
珍しい光景に臣下たちは呆気に取られていたが、主君とその妃の真摯な姿勢に感涙した南方の領主が革のグローブを嵌めたような大きな手で噎びながら拍手を送ったのを合図に、場内には割れんばかりの拍手が響いた。
「俺はあまり感心しないね。主君が臣下に頭を下げるべきじゃない」
と、帰路の馬上で苦言を呈したのは、イサクだ。テオドリックは前を見たまま言った。
「今回だけだ。もう二度とない。だがあのメギツネを入り込ませたのは、俺たちアストル家の責任だ」
「陛下の、だろ」
「いや、キセの言う通り、父上には支えが必要だった。だが俺たち全員が背を向けた。父上一人に背負わせるのは、違うだろ」
キセはとつとつと愛馬トルノの歩調を速め、テオドリックに並んで、にっこりと微笑んだ。
「ご立派でした」
テオドリックは唇の端をちょっと上げて、複雑そうに笑った。
「俺は、多分、キセがいれば何があっても大丈夫だ」
「ふふ」
嬉しそうに微笑むキセを後方から眺め、イサクはヤレヤレと首を振って呆れ顔を隣で馬を駆るセレンに巡らせた。セレンも同じような顔で苦笑している。
ところが、キセだけはこの時のテオドリックの感情に気付いていた。
この夜、キセはハーブティーを用意して、執務室で机に向かうテオドリックの傍らにそっと置いた。
テオドリックは羽ペンを走らせる手を止め、しばしの間ティーカップから立ちのぼる柑橘や林檎に似た香りを含んだ湯気を眺めて、キセの手をそっと掴んだ。
「ありがとう。もう寝るのか?」
「いいえ」
そう言って、キセはテオドリックを後ろから抱き締めた。
「お仕事が終わるまで、ここで本を読んでいてもよいですか?」
「本?」
テオドリックが唇に優しい笑みを浮かべてキセの頬を引き寄せ、唇に羽が触れるようなキスをした。
「はい。アニエスが目を覚ましたあと退屈しないように、選んでいるんです」
「そうか」
テオドリックはティーカップに口を付けてその正体を知り、顔を上げた。
「母上の茶だな」
「はい。オトギリソウのお茶ですよ。お母さまは素晴らしいレシピをお持ちです」
「オトギリソウか。知らなかった」
テオドリックは茶を飲みながら、キセがこれを昨日父親にも淹れていたのを思い出した。これの意味するところを理解した気がする。母はよくこのお茶は元気になるおまじないだと言っていた。
「…俺も沈んでいるように見えたか」
「はい」
「はっきり言うな」
テオドリックは苦笑交じりに言った。なんだかいつもキセには隠したはずの感情を見透かされている。それが例え、自分が感じないようにしているものであっても。
「だって、平気なはずはありません。テオドリックは――」
「父親を追い落とそうとしているから?」
「はい、そうです」
キセは言葉を包まない。そんなことに意味はないと理解しているからだ。
「こんなに優しい方が、傷付かないはずありません」
「俺は父上から全てを奪うと決めた」
「はい」
キセはテオドリックをきつく抱きしめた。
「つらい気持ちも、テオドリックの覚悟も、お父さまは分かっていらっしゃいます」
テオドリックはカップを執務机に置き、キセの方に身体を向けて、正面からキセを抱きしめた。
キセは立ったまま、甘えるように腰に強くしがみついてくるテオドリックの愛おしいアッシュブロンドの髪を撫で、その広い肩を両腕で包んだ。
「そばにいてくれ、一生」
キセは胸が苦しくなった。
その頭に王冠を戴くその日は、もう近い。テオドリックの中にある王の姿は孤独で、愛に縋ることもできない、絶望の象徴なのだ。
それを、変えなければならない。
いや、変わるはずだ。
「はい。二人ならなんでもできます」
キセはテオドリックの頬をそっと両手で包み、キスをした。
「だってわたしたち、千年の歴史を変えているんですよ。一緒なら、なんでもできます。そんな気がしませんか?」
そう言ってテオドリックに笑いかけたキセの顔は、眩いばかりに輝いていた。
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白いピカピカの大理石で造られた丸屋根の新しい建物で、私設の病院にしてはかなり立派なものだ。
ここに、アニエスが一昨日から眠り続けている。
アニエスが意識を失う前に指名した医師は、西エマンシュナ出身のブノワ・ルグラン医師だった。
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アニエスが彼を指名した理由が、キセにはすぐにわかった。指示は簡潔で、判断を下すまでに時間をかけない。更に毒物や薬物の扱いにも慣れていて、安易に過去の事例とアニエスの症例を結びつけない。考え得る対処法を一つずつ試し、体温や呼吸、目蓋の裏などの状態で快方に向かっているかを注意深く診ているようだった。
それに、アニエスのことを心底気遣っている。
診察の際は他の男性医師や看護師を近づけることが一切なく、診察以外の時は、時折病室の前を通りかかっては遠巻きに様子を伺っている。
多分、ルグラン医師はアニエスと過去に何かあったのだろう。とキセは直感した。女の勘というやつだ。
今日もアニエスは薄い目蓋をしっかりと閉じて、穏やかな呼吸を繰り返している。
キセは小さく溜め息をつき、心の中で祈りを捧げた。早くあの愛らしいネコのような目を開いて、鈴の鳴るような声でいつものように叱って欲しい。
(叱って欲しい?)
自分でおかしくなった。「失礼ね、いつも叱ってなんかないわよ」などと怒り出すかもしれない。
キセがアニエスのために選んだ植物学者の随筆や大衆向けの恋愛小説などの本数冊を病室のサイドテーブルに置いたとき、隣で衣擦れの音がした。
キセは反射的に顔をベッドで横たわるアニエスの方へ向けた。
力の抜けた目蓋の奥で、チョコレート色の瞳がぼんやりとこちらを見ている。
「ロマンスなんか、読まないわ…」
鈴が鳴るどころか、ひどいガサガサの声だった。が、間違いなくアニエスの声だ。
「アニエス!」
と、名前を呼んだかどうか定かではない。アニエスの名を呼ぼうと思った声が口から発せられてすぐに嗚咽に変わったからだ。アニエスに抱きついた反動でサイドテーブルから本がバサバサと落ちた。
「……くるしい」
「あっ、すみません!」
キセは呻いたアニエスからぴゃっと飛び退いて、顔を涙でぐしゃぐしゃにしながら、病室の外で控えているセレンに医師を呼んでガイウスへ遣いを出すよう頼んだ。
夜勤が明けて帰ろうとしていたところを呼び戻された若い医師の診察を受けた後、シダリーズがキセより一足遅れて見舞いにやって来た。シダリーズは、目を開けてキセと会話しているアニエスを見るなり飛び跳ねるようにして喜び、病室の外にいた侍女から引ったくるように籠を受け取ってアニエスの傍らに置いた。中には、オレンジやリンゴ、ブドウなどの果物が山のように入っている。
「こんな狭い病院に姫殿下が二人もいたんじゃ、人が多くて迷惑だわ」
甲斐甲斐しくリンゴの皮をくるくると剥くキセを横目で眺めながら、アニエスが掠れ声で文句を言った。
「心配しないで。わたしたち一人ずつしか侍女を連れていないから」
「侍女はね。でも馬車と護衛が外で待ってるでしょ。他の患者の迷惑になるから、もう見舞いはいいわ」
なんともアニエスらしい。
シダリーズとキセは顔を見合わせて苦笑した。
「そういうアニエスだから、わたしたち一緒にいたいのですよ」
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いつアニエスが目覚めても良いように、キセが病室に置いておいたのだ。
「大丈夫よ。あなたが気にすると思って、ちゃんと病院の前は人が通れるようになってるし、護衛も最小限にしたし、もちろん、あの爽やかなお医者さまとの関係を詮索したりもしないから」
シダリーズは冗談まじりに言って陽気に振る舞ったが、その目の下にクマができているのは、アニエスにはお見通しだ。
「ふ」
と、アニエスは気弱に笑って、キセがスプーンに乗せて差し出したリンゴを口に入れた。
「ありがとう」
小さく嚥下したあとで、アニエスがつぶやいた。
「あなたたちがいて心強いわ」
「アニエス――」
キセは泣き出しそうな思いでアニエスの手を取り、床に膝をついて、その冷たい手の甲に口づけをした。まるで臣下が主君にするような格好だ。アニエスは仰天してすぐにやめさせようと思ったが、身体に力が入らず、起き上がることができない。
「お礼を言うのはわたしの方です。再び戦乱が世を襲うのを、あなたのおかげで止めることができました。アニエス、あなたには感謝してもしきれません。何か必要なものがあればなんでもおっしゃってください」
「わたしからも、お礼を申し上げますわ、アニエス」
シダリーズもキセと同じように床に膝をついて、その長く美しい繊細なレースの裾を病室の床に広げた。
「やめて。姫殿下二人に頭を下げさせてるところなんて見られたら、気まずいじゃない」
アニエスはいつもの調子で言った。
「わたしは正しいと思ったことをしたのよ。あなたたちのためじゃない。それに、父親が迷惑かけたんだから、娘のわたしが償わせなきゃ。それが道義でしょ」
それには代償が大きすぎる。
キセは冷たいアニエスの手を握りながら、この恩人に何でもして報いようと思った。きっと金や地位は受け取ってもらえないだろうから、望むことならなんでもしてあげたい。
「…ジェラートが食べたい」
キセの心情を察したように、アニエスが言った。
「ミルクのジェラートにクリームとイチゴのソースがかかってて、フルーツがたくさんのってるやつ」
「はい!すぐに用意します!」
キセがぱあっと顔を輝かせた時、病室の扉が開き、息を切らせたガイウスが入ってきた。タイも巻かず、シャツのボタンも上まで留めないまま、上に黒いジャケットだけを羽織った姿から見て、相当慌てていたらしい。
ガイウスはアニエスのベッドまで一直線にやってきて、その時ようやく二人の姫に気付いたように礼儀正しい挨拶をし、そのまま一言も発せず、ベッドに横たわるアニエスをきつく抱きしめた。傍目から見ても、アニエスの背骨が折れてしまうのではないかとちょっと心配になるほど力強い。
シダリーズはキセの袖を引いて合図し、「それじゃあ、アニエス」と声を弾ませた。
「わたしたち、ジェラートを調達してくるわね」
「はい!クリームとイチゴのソースがかかっていて、果物がどっさり乗っているやつを」
キセもシダリーズの腕に自分の腕を絡めてにっこり笑った。
アニエスは抱きしめる腕を離そうとしないガイウスの脇からもそもそと腕を伸ばし、キセとシダリーズに向かってヒラヒラと手を振った。
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