獅子王と海の神殿の姫

若島まつ

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九十一、白日 - révélé -

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 テオフィル王は闖入ちんにゅう者に叩き起こされる前に、城内の騒ぎで目を覚ました。
 寝室の重苦しく豪奢な扉の外で、困惑して何かを押し止めようとする家令の声が聞こえる。
「何事だ」
 と、扉に向かって不機嫌に叫びながら、天蓋を開け、だだっ広いベッドを降りた。
 間を置かずに寝室の扉を開けて無遠慮に入ってきたのは、灰色の夜会服姿のテオドリックだ。テオフィル王は息子の顔を見るなり、うんざりしたように深く息を吐いた。
「お前をそれほど無礼な男に育てた覚えはないのだがな」
「火急のことです」
「またそれか」
 怒れる父王に眉ひとつ動かさず、テオドリックは淡々と言った。
 後ろから深い青のドレスを着たキセが顔を出し、寝室の壁に掛かった緋色のローブを持ってテオフィル王に駆け寄った。
「それは君の仕事ではない」
 とテオフィル王は苛立ち紛れに言ったが、キセは柔らかく笑んで踵を浮かせ、その広い肩にローブをかけた。
「わたしの育った場所では、お父上を労わるのも娘の仕事です」
 この穏やかな娘の優しい行動の何を見てそう思ったのか、テオフィル王はキセの中にオーレン王そのものを見た気がした。たった一度顔を合わせただけのあの成り上がりの男を、まだ畏怖しているのか。この一瞬の混乱が、テオフィル王の心から苛立ちを消し去った。
「よい子だ」
 と、それだけ言って苦笑すると、観念して寝室の大きなソファに腰を据えた。
「で、なんだ」
 息子に向けた目は、もう笑っていない。テオドリックも直立したまま淡々と答えた。
「ヴェロニク・ルコントとジョフロワ・ドーリッシュ、アントワーヌ・デヴェスキの三名と協力者複数名を捕縛しました」
「…何の咎だ」
 テオフィル王は落ち着いている。しかし、声に怒りが滲んでいる。
「薬物、兵器の違法取引、殺人未遂、国家叛逆…もっと出ますよ」
「わたしの――」
「愛人を捕縛するからには、裏は取ってあります。勿論。証人も、誓書も用意してあります」
 テオドリックは憤る父王の言葉の先を引き取って言った。
「あの、それから…」
 と、キセが扉の外で待機していたセレンからトランクを受け取り、テオフィル王の目の前のサイドテーブルに置いて中を開けた。書類が何枚も入っている。
「以前、王都の南は王府が手を出せないとおっしゃっていたので、正当に王府に帰属できる証拠をお持ちしました」
「それが今、何の関係があるというのかな」
「父上、ヴェロニク・ルコントがその地域を欲しがっていたことをご存じですか」
 息子の言葉に、テオフィル王は眉をひそめた。
「ご存じないでしょうね。あの女は違法な武器庫となったこの場所を手に入れて和平反対派を煽動し、再び戦を起こそうとしていたんですよ。国を騙してこの土地を手に入れたアントワーヌ・デヴェスキと結託して、自分の欲のために」
 テオフィル王は表情を変えずにテオドリックの話を聞いていたが、しばしの沈黙の後、静かに肩を震わせ始めた。――笑っている。
「道理で、ヴェロニク…。わたしに何も求めないわけだ。そこが気に入っていたが――」
 他の愛人たちは富や愛を、或いは愛の見返りを求めた。しかし、ヴェロニクだけは違った。その理由が、今わかった。いや、わかった、と言うより、考えようとも思わなかったことが突然目の前に突きつけられた。
「――欲しいものは自分で手に入れるということか」
 テオフィル王は喉の奥で笑った。
「笑い事じゃない」
 テオドリックは声を荒げた。
「あの女が五年前、泥の道の事件を首謀したんですよ」
 これを聞いた瞬間、テオフィル王は未知の言語を初めて聞いたような表情のまま呆然と息子の顔を見つめた。
「…何を、言っている」
「これは――」
 と、テオドリックは持参した筒状の書簡をテオフィル王の目の前で広げた。
「ジョフロワ・ドーリッシュの証言です」
 テオフィル王は書簡を取り、顔を蒼白にしてぶるぶると手を震わせた。
「…話せ」
 テオドリックとキセを対面の長いソファに座らせた後、テオフィル王は扉の外に控える家令のコールに酒を所望した。が、すぐに思い直して茶を用意させた。とても酔えるとは思えなかったからだ。
 テオフィル王に彼の預かり知らぬ場所で起きたことを語るのに、二時間では足りなかった。空は白み、間もなく朝を迎えようとしている。
 ことの顛末を知ったテオフィル王は倒れてしまうのではないかとキセが心配になるほどの取り乱しようだったが、キセが手ずから淹れたハーブティーで幾分か気分が和らいだようだった。以前ネフェリアから聞いた、故エヴァンジェリーヌ王妃のレシピで淹れた茶だ。
 法的執行に必要な書類は全て揃っている。昨夜テオドリックとキセと側近たちが夜を徹して用意したものだ。
 長年の愛人とその弟の大罪の証拠を目の前に突き付けられ、テオフィル王はもはや愛人を庇おうともしなかった。
「全て司法に委ねる」
 と言うのである。
 もはや、デヴェスキとヴェロニクの関係を問いただすこともない。
「議会はあなたも糾弾するかもしれませんよ」
 テオドリックが冷たく言った。これまで政治に情熱を向けず、愛人との生活に現を抜かしていながらその計略にも気付くことができなかった父親を責めているのだ。
 テオフィル王は目蓋を閉じ、眉間に皺を寄せて長く細い息を吐いた。不機嫌な時のテオドリックとそっくり同じ仕草だ。こんな状況なのに、キセは険悪そうに見える父と子の絆を感じたような気がして、なんだか胸が熱くなった。
「…わたしを裁くのならそれでいい。玉座を降りる準備はできている。テオドリック、お前がキセ王女を迎えに旅立った時から」
 そう言ったテオフィル王は、テオドリックが久しぶりに見る、父親の顔をしていた。
 こんな時に、皮肉なものだ。
「二人とも、よくやった」
 と、テオフィル王は寂しそうに微笑した。キセはこの労いににっこりと笑って応えたが、テオドリックは珍しく狼狽えて思わずキセの顔を見た。父親に褒められたことが、それほど意外だったのだ。
「明朝、議会を開く」
 テオフィル王はそう言って席を立ち、同時にソファから立ち上がった若い二人を見て髭に隠れた唇をちょっと吊り上げ、優しく目を細めた。
「泊まっていきなさい。と言ってもゆっくり休む時間などないが」
「そうします」
 テオドリックの目も優しく弧を描いている。
「お父さま」
 と、キセがテオフィル王の手を取った。冷たい手だった。
「いつでも家族がついています。そのことをどうか、覚えていてください」
 これが慰めになったかは、キセにはわからない。テオフィル王は力無く肩を落としてキセの頭をぽんぽんと撫で、コールを呼んで奥へ下がった。
 この直後、間もなく二日目の夜を徹しようという二人を、一気に眠気が襲った。キセはどこに向かっているか意識せず、テオドリックに導かれるがままにランプの灯りがユラユラと踊る廊下を進み、寝室に入るなりベッドに倒れ込んだ。
 そして、目を閉じて、もう一度開けた時、辺りはすっかり明るくなっていた。まるで時間がごっそりと消失してしまったかのようだ。どれほど眠れたのだろう。開けっぱなしのカーテンの外から白い陽光がまっすぐに射しているところから見て、少なくとも三時間は眠っていたはずだ。
 キセが見慣れない青空のような淡いブルーの明るい壁をぼんやり眺めていると、後ろから強い力で腰を引かれた。
「…もう少し……」
 背後から耳をくすぐる掠れ声が寝ぼけている。首の窪みにさらさらの金色の髪が押し付けられ、自分より高い体温が背中でもぞもぞ動き、腰に回された腕が全身を包むように身体を抱き寄せてきた。
(あったかい…)
 キセの目蓋が再び重くなった。テオドリックの温もりがもう一度眠りに誘おうとしている。
 しかし、その時。
「いけませんよ!」
 と響いた厳しい声で、キセとテオドリックは飛び起きた。
 声の主に顔を向けると、寝台のそばに腕を腰に当てて仁王立ちするテレーズがいた。
「あと二時間で議会が始まりますよ!テレーズもこうしてお手伝いに参りましたから、さぁさ、お風呂にお入りになって、お召し替えなさってくださいな」
 まだ開ききらない目をぱちぱちさせて、キセとテオドリックは顔を見合わせた。
「ふっ」
 テオドリックが笑い出したので、キセもおかしくなって笑い出した。
 着の身着のまま眠ってしまったせいで、お互い髪はボサボサ、顔には枕や互いの服の痕がついている。ひどい顔だ。
「テレーズ、風呂の用意はできているか」
「もちろんです」
 と、テレーズは部屋の奥の扉を開けた。隣り合った部屋はタイル張りの浴室になっていて、そこからモコモコと湯気が上がっている。
「隣に浴室があるのですね」
 キセは顔を輝かせた。最後に熱い湯を浴びたのは、一昨日の夕刻だった。それから食事もままならず、作戦の準備に勤しんでいたから、キセの入浴欲求はもう限界だ。
「ここは俺が子供の頃に使っていた寝室だ」
 テオドリックが言うと、テレーズは懐かしそうにウンウンと頷いた。
「コールがきちんと他に寝室を用意させておりましたのに、ご案内する間も無くこちらに引き取られてしまうのですもの」
「眠かったんだよ。疲れてるときは慣れた部屋の方がいい」
 テオドリックは母親を煙たがる息子よろしくうるさそうに言った。
「風呂、キセと入るから着替えと食事を頼む。入浴の手伝いは不要だ」
「えっ!?」
 キセは驚きの声を上げたが、テレーズは呆れたようにハイハイと応えてさっさと引き取ってしまった。
「い、一緒にですか」
「なんだ、今更。時間が勿体ないだろ」
「そ、それは、そうですが、でも…わたし昨日お風呂に入っていないので…きゃあ!」
 テオドリックはキセの言葉を最後まで聞かずにその身体を担ぎ上げた。
「だから今入るんだろ。ごちゃごちゃうるさいぞ」
 キセはあれよあれよという間にドレスを脱がされ、浴槽に浸けられてしまった。ハーブが浮かべられているのは、テレーズの計らいだろう。恥ずかしくて逃げ出したいはずだが、ローズマリーやゼラニウムの香りと熱い湯に浸かっていると思考までふやけて力が抜けてしまう。
「ふあぁ…」
「そうそう、大人しくしていろ」
 キセは遅れて浴槽へ入ってきたテオドリックの脚の間に大人しく収まってその肩口に頭を預け、目まぐるしく過ぎた夜を思った。
「…何を考えているか当ててやろうか」
 肩に柔らかいテオドリックの唇が落ちてくる。
「アニエス嬢だろ」
 ぎゅ、とキセの心臓が縮んだ。「仕事して」といつもの強気な口調で言い放ったときの、アニエスの青白い顔が頭から離れない。
「心配で堪りません。今すぐ病院に飛んでいきたいです」
 キセはくるりと背後を振り返ってテオドリックの顔を見上げた。漆黒の瞳に強い光が宿っている。
「でも、わたしはわたしの仕事をします。それが、アニエスのためにもなりますから」
「そうだな」
 テオドリックはちょっと微笑んでキセの鼻の頭にキスをした。今度はキセが唇にちょんとキスを返した。
「お父さまにとって、つらい日になると思います。家族の支えが必要です」
「わかっている」
 テオドリックはキセの頬を撫でた。
 正直、半年前の父親なら、あれだけの証拠を見せつけられても全て握り潰したのではないかと思う。しかし、最近の父は何かが変わった。ほんの僅かな差のようにも思えるが、以前よりも政務や自分の責任に向き合っている様子が見て取れるのだ。例えば、外国や諸領地との書簡のやり取りを代筆を立てずに行うことなど、もう何年もなかったことだ。テオドリックに回ってくる政務もここのところ減っていた。即ち、テオフィル王が自らそれらを宰領していると言うことになる。
 何がそうさせたのか分からないが、テオフィル王は再び、国王になろうとしているのだ。名ばかりではなく、本当の国王に。
 だからこそ、キセの言うことは正しい。
 家族が必要だ。
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