88 / 105
八十八、忠誠、献身、友愛 - allégeance, dévotion, fraternité -
しおりを挟む
事態が急変したのは、国王同士の会合を翌週に控えた日のことだった。
‘アントワーヌ・デヴェスキ’と言う人物が存在しないことを、メルレットの会の婦人たちが突き止めたのだ。
「‘存在しない’とは、どういうことでしょうか」
シダリーズが法律家のマルゴ・ランビエ伯爵夫人に訊ねた。
場所は、レグルス城の二階の奥まった客間で、貴婦人四人だけが集まっている。‘お茶会’という名目で集まっているから、みな普段よりも洒落たドレス姿だ。茶会を偽装してまで少人数が集まったのは、メルレットの会の中でもごく限られた人物しか知らない秘匿情報が話題の中心であるためだ。
ランビエ伯爵夫人はヤマドリの羽飾りのついた黒い山高帽子のツバをちょっと上げ、頬骨の高いキリリとした顔をシダリーズとキセに向けて、赤い唇を左右に引き伸ばした。目はくっきりとしていて口が大きく、どことなく南国の陽気さを思わせる面立ちだ。が、その口から出た言葉はその笑顔には似つかわしくなかった。
「‘アントワーヌ・デヴェスキ’という人物は、記録によれば五十年以上前に死んでいます」
シダリーズとキセは顔を見合わせ、同時にごくりと生唾を呑み込んだ。なんとも薄気味悪い。
ランビエ伯爵夫人は続けた。
「この土地を買った人物の書類に記されている、出生地、氏族、家紋を照らし合わせると、過去百年を辿ってもこの‘アントワーヌ・デヴェスキ’しか一致する人物はいません。おまけにこの人物の存命中に残されていた記録を調べた限りでは、確かに王都の南の所有権を主張できる立場にあります。――いえ、‘あった’と言う方が正しいですね。若くして亡くなったので、後継者もいません」
これを突き止めたのは、系譜学に精通しているエメリーヌ・ドニーズ夫人だ。
王立アストレンヌ大学で教鞭を執る夫の伝手を利用して、驚くほどの短期間でアントワーヌ・デヴェスキおよびルネ・コルネール――旧姓ヴィエルニルの足跡を調べ上げた。
更に、シダリーズの権限で王立図書館のうち、古い氏族や昔の戸籍など機密情報が集められている一画へ夫人が立ち入ることを許され、その起源を知るに至った。
これによれば、存在しないのはデヴェスキだけではない。
「ルネ・ヴィエルニルという人物の形跡も、どの記録を見てもないのです」
と、ドニーズ夫人は言う。
「名門に婿入りしたほどの方の形跡がないのですか?」
キセは大きな驚きを持って訊ねた。脳裏によぎったのは、アニエスのことだ。
「確か、その幽霊は大陸のあちこちを行商していたとおっしゃいましたね。わたくしの憶測の域を出ませんが、エマンシュナ人ではないのではないでしょうか」
と、ランビエ伯爵夫人は法律家らしい堅い口調に皮肉を混ぜて言った。
キセはアニエスから父親の話を多少聞いてはいるが、外国出身だということは聞いたことがない。アニエスもガイウスも自分達の父親がどこから来た人物なのか、知らないのではないか。
「実は、そのことで。キセ殿下、シダリーズ殿下」
ドニーズ夫人が丸い顔にちょっと気まずそうな愛想笑いを浮かべて両手の指をもじもじさせた。
「えぇと、系譜を辿るのは非常に興味深くて、エマンシュナ人が実は大昔に遠い異国の地からやって来た移民だったなんていうこともよくあるのですよ。父親からその母親へ、その両親、更にその両方の祖父母…と遡っていくと、膨大な人数が一人の人間に関わっていることになります。そうしていくうちに、この国ではない、どこか全く別の場所に辿り着くのです」
ドニーズ夫人は持参した旅行用かと思われるほどのトランクから筒状に巻かれた大きな紙を取り出し、何も置かれていないティーテーブルに地図のように広げ始めた。
「ふふ。こういうの、作戦会議みたいでワクワクしますわね」
そう言って声を弾ませたシダリーズに、キセはちょっとおかしそうに微笑みかけた。
ドニーズ夫人が広げたのは、家系図だった。コルネール家の長い歴史がそこに記されている。何百年か前に二度ほどアストル家とも婚姻を結んでいたらしいことや、エマンシュナとは敵対しているアミラ王国の女性を遠い昔に娶っていたことなどが分かる。そのずっと下方にコンスタンス・コルネールと問題のルネ・ヴィエルニルの名が横の線で結ばれ、その下にガイウス、セオスの名が、更に、ルネからもう一本横の線が伸びて‘Jeanne Untelle’と結ばれ、その下に縦線でアニエスの名が結ばれている。無論、これも秘匿情報だ。
「この、‘ヴィエルニル’という姓ですが――」
ドニーズ夫人は‘Rene Viernnir’と記された場所を指した。
「そもそも、エマンシュナ的ではありません」
「確かに、そうですね…」
シダリーズが頷いた。
イノイル人のキセにはそこらへんの事情はよくわからないが、言われてみれば確かに一般的なエマンシュナ人の名前とは音や語感の持つ雰囲気が違う気がする。
「そこでわたくし、以前に調べた系譜で似たような名前を見つけたことを思い出しまして…」
ドニーズ夫人はトランクからごそごそと地図を取り出し、系図の上に重ねた。地図に記されているのは、エマンシュナ王国とその西方の国々だ。西隣の北に長年争っているアミラ王国があり、更にその西隣に‘ワルデル・ソリア’という小さな共和国がある。
キセ、シダリーズ、ランビエ伯爵夫人の視線がその小さな国に注がれた。
「ある方の先祖がこの国に起源を持っていて、その姓を‘フィエルニア’と言ったんです。この国を流れる川の名前で、その地域ではよくある姓のようなのですよ」
事実、もともと姓を持たなかった者たちが出身地やそこに縁のある名を姓として名乗ることはよくある事例だ。
ドニーズ夫人はふくふくした指でワルデル・ソリアの南に描かれた川らしき箇所を差した。――‘R.Viernnir’とある。
「‘ヴィエルニル’…」
キセはその言葉を確かめるように呟いた。
「わたくしの推測では、ヴィエルニル氏はこのあたりの出自ではないかと思います」
「本当の名が‘ヴィエルニル’だとすれば、その可能性は高いですわね」
ランビエ伯爵夫人が頷いた。
「ああ!こんがらがってきた。まるで幽霊を二人相手にしている気分だわ」
シダリーズが頭を抱えた。綺麗にお団子にまとめられた三つ編みを見出してしまう勢いだ。ランビエ伯爵夫人はシダリーズにニンマリと笑いかけた。
「幽霊なのですよ、シダリーズ殿下。ルネ・ヴィエルニルと名乗ってコルネール家にまんまと婿入りした男が、アントワーヌ・デヴェスキという名を名乗って不正に王都の南を手に入れていたのです。これだけの大嘘をついた人物が先々代のコルネール辺境伯には本名を名乗ったと思いますか?」
キセとシダリーズは目を丸くしてぶんぶんと首を振った。
「わたくしも同感です。わたくしたちが調べていたのは、本当の名を持たない幽霊です」
ランビエ伯爵夫人が細い顎を誇り高く上げて言い放った。
「詐欺師、大法螺吹きとも言いますね」
ドニーズ夫人が丸い頬に笑い皺を浮かべて付け足した。
「…これでアントワーヌ・デヴェスキさんの不正が法的に証明できますか?」
キセがランビエ伯爵夫人に訊ねた。
「もちろん。幽霊さんがご自分がアントワーヌ・デヴェスキであるという確固たる証拠を持っていない限り、王都の南は王府に帰属できるはずです」
キセは笑わなかった。
喜ばしい結果だ。しかし、気分はひどく落ち込んだ。
ただでさえ自分の出自について悩んでいるアニエスがこれを――父親がどこの誰か分からないことを知ったら、どんなに苦しむだろう。ガイウスも同様だ。ますます父親への憎しみを深くしてしまうのではないか。
血筋など、本当はどうでもいい。誰から受け継いだ血が流れていようと、アニエスはアニエスだ。
でもきっと、アニエスが欲しいのはそんな言葉ではない。気休めにもならないだろう。自分の本質が血や名では変わることがないということは、彼女も理解しているはずだから。
「心を痛めているところ悪いが、キセ――」
夜、キセの寝室でテオドリックが気遣わしげに言った。
「そのアニエス嬢から書簡が届いている」
テオドリックはツヤツヤした灰色のベストの胸ポケットから長細く小さな紙片を取り出し、キセに手渡した。大きさと巻かれた跡から見て、鳩の脚に括り付けられていたものだろう。
「明くる夕暮れに羽が二枚。無風の正子にはアネモイが、クロウタドリに木の実を届ける。――AC」
と、詩のような内容が記されている。
これは暗号だ。鳩が誰かに捕らわれたり、手紙が別の人物の手に渡っても内容を知られないように書いたに違いない。
「羽が二枚…ペンのことでしょうか」
「ルコントとデヴェスキがペンを持つという意味に取れる。契約を書面で交わすつもりだと伝えたいんだ」
テオドリックの言葉の端には、アニエスを称賛するような響きがある。実際、ここまでやるとは思っていなかった。彼女の勇気と忠誠心は見上げたものだ。
そして、「無風の正子には」は、「午前零時に風が吹かなければ」、と読める。次いで、アネモイは風の神々を意味し、クロウタドリをキセ、木の実を「結果」或いは「成功」の象徴として当てはめることができる。「結果を運ぶ風が吹かなければ」とは、多分、アニエスが結果、即ち契約書を持って外に出られなければ、ということだ。風を起こす者に「アネモイ」とわざわざ複数の神々を表す言葉を使ったのは、大勢、つまりは軍を呼べと言うことだろう。
これらをまとめると、手紙の意味はこうなる。
「明日の夕刻に書面で契約が交わされる。午前零時までにアニエスが外へ出られなければ、軍を配備して突入させ、契約書をキセの元へ届けること」
時間がない。――
キセは胃が縮こまる思いがした。
「テオドリック!」
突然強い力で手を握られ、テオドリックは目を丸くした。アニエスの手紙の意味を知ればキセは動揺するだろうと思ったが、意外にも顔つきは冷静だ。
「イサクさんを呼んでください。わたしはセレンを呼んできます」
そう言って、キセは旅行用の大きなトランクを部屋の隅から持ってきた。
「今夜は徹夜覚悟で、お願いします!」
キセが鼻息も荒く言い放った。
‘アントワーヌ・デヴェスキ’と言う人物が存在しないことを、メルレットの会の婦人たちが突き止めたのだ。
「‘存在しない’とは、どういうことでしょうか」
シダリーズが法律家のマルゴ・ランビエ伯爵夫人に訊ねた。
場所は、レグルス城の二階の奥まった客間で、貴婦人四人だけが集まっている。‘お茶会’という名目で集まっているから、みな普段よりも洒落たドレス姿だ。茶会を偽装してまで少人数が集まったのは、メルレットの会の中でもごく限られた人物しか知らない秘匿情報が話題の中心であるためだ。
ランビエ伯爵夫人はヤマドリの羽飾りのついた黒い山高帽子のツバをちょっと上げ、頬骨の高いキリリとした顔をシダリーズとキセに向けて、赤い唇を左右に引き伸ばした。目はくっきりとしていて口が大きく、どことなく南国の陽気さを思わせる面立ちだ。が、その口から出た言葉はその笑顔には似つかわしくなかった。
「‘アントワーヌ・デヴェスキ’という人物は、記録によれば五十年以上前に死んでいます」
シダリーズとキセは顔を見合わせ、同時にごくりと生唾を呑み込んだ。なんとも薄気味悪い。
ランビエ伯爵夫人は続けた。
「この土地を買った人物の書類に記されている、出生地、氏族、家紋を照らし合わせると、過去百年を辿ってもこの‘アントワーヌ・デヴェスキ’しか一致する人物はいません。おまけにこの人物の存命中に残されていた記録を調べた限りでは、確かに王都の南の所有権を主張できる立場にあります。――いえ、‘あった’と言う方が正しいですね。若くして亡くなったので、後継者もいません」
これを突き止めたのは、系譜学に精通しているエメリーヌ・ドニーズ夫人だ。
王立アストレンヌ大学で教鞭を執る夫の伝手を利用して、驚くほどの短期間でアントワーヌ・デヴェスキおよびルネ・コルネール――旧姓ヴィエルニルの足跡を調べ上げた。
更に、シダリーズの権限で王立図書館のうち、古い氏族や昔の戸籍など機密情報が集められている一画へ夫人が立ち入ることを許され、その起源を知るに至った。
これによれば、存在しないのはデヴェスキだけではない。
「ルネ・ヴィエルニルという人物の形跡も、どの記録を見てもないのです」
と、ドニーズ夫人は言う。
「名門に婿入りしたほどの方の形跡がないのですか?」
キセは大きな驚きを持って訊ねた。脳裏によぎったのは、アニエスのことだ。
「確か、その幽霊は大陸のあちこちを行商していたとおっしゃいましたね。わたくしの憶測の域を出ませんが、エマンシュナ人ではないのではないでしょうか」
と、ランビエ伯爵夫人は法律家らしい堅い口調に皮肉を混ぜて言った。
キセはアニエスから父親の話を多少聞いてはいるが、外国出身だということは聞いたことがない。アニエスもガイウスも自分達の父親がどこから来た人物なのか、知らないのではないか。
「実は、そのことで。キセ殿下、シダリーズ殿下」
ドニーズ夫人が丸い顔にちょっと気まずそうな愛想笑いを浮かべて両手の指をもじもじさせた。
「えぇと、系譜を辿るのは非常に興味深くて、エマンシュナ人が実は大昔に遠い異国の地からやって来た移民だったなんていうこともよくあるのですよ。父親からその母親へ、その両親、更にその両方の祖父母…と遡っていくと、膨大な人数が一人の人間に関わっていることになります。そうしていくうちに、この国ではない、どこか全く別の場所に辿り着くのです」
ドニーズ夫人は持参した旅行用かと思われるほどのトランクから筒状に巻かれた大きな紙を取り出し、何も置かれていないティーテーブルに地図のように広げ始めた。
「ふふ。こういうの、作戦会議みたいでワクワクしますわね」
そう言って声を弾ませたシダリーズに、キセはちょっとおかしそうに微笑みかけた。
ドニーズ夫人が広げたのは、家系図だった。コルネール家の長い歴史がそこに記されている。何百年か前に二度ほどアストル家とも婚姻を結んでいたらしいことや、エマンシュナとは敵対しているアミラ王国の女性を遠い昔に娶っていたことなどが分かる。そのずっと下方にコンスタンス・コルネールと問題のルネ・ヴィエルニルの名が横の線で結ばれ、その下にガイウス、セオスの名が、更に、ルネからもう一本横の線が伸びて‘Jeanne Untelle’と結ばれ、その下に縦線でアニエスの名が結ばれている。無論、これも秘匿情報だ。
「この、‘ヴィエルニル’という姓ですが――」
ドニーズ夫人は‘Rene Viernnir’と記された場所を指した。
「そもそも、エマンシュナ的ではありません」
「確かに、そうですね…」
シダリーズが頷いた。
イノイル人のキセにはそこらへんの事情はよくわからないが、言われてみれば確かに一般的なエマンシュナ人の名前とは音や語感の持つ雰囲気が違う気がする。
「そこでわたくし、以前に調べた系譜で似たような名前を見つけたことを思い出しまして…」
ドニーズ夫人はトランクからごそごそと地図を取り出し、系図の上に重ねた。地図に記されているのは、エマンシュナ王国とその西方の国々だ。西隣の北に長年争っているアミラ王国があり、更にその西隣に‘ワルデル・ソリア’という小さな共和国がある。
キセ、シダリーズ、ランビエ伯爵夫人の視線がその小さな国に注がれた。
「ある方の先祖がこの国に起源を持っていて、その姓を‘フィエルニア’と言ったんです。この国を流れる川の名前で、その地域ではよくある姓のようなのですよ」
事実、もともと姓を持たなかった者たちが出身地やそこに縁のある名を姓として名乗ることはよくある事例だ。
ドニーズ夫人はふくふくした指でワルデル・ソリアの南に描かれた川らしき箇所を差した。――‘R.Viernnir’とある。
「‘ヴィエルニル’…」
キセはその言葉を確かめるように呟いた。
「わたくしの推測では、ヴィエルニル氏はこのあたりの出自ではないかと思います」
「本当の名が‘ヴィエルニル’だとすれば、その可能性は高いですわね」
ランビエ伯爵夫人が頷いた。
「ああ!こんがらがってきた。まるで幽霊を二人相手にしている気分だわ」
シダリーズが頭を抱えた。綺麗にお団子にまとめられた三つ編みを見出してしまう勢いだ。ランビエ伯爵夫人はシダリーズにニンマリと笑いかけた。
「幽霊なのですよ、シダリーズ殿下。ルネ・ヴィエルニルと名乗ってコルネール家にまんまと婿入りした男が、アントワーヌ・デヴェスキという名を名乗って不正に王都の南を手に入れていたのです。これだけの大嘘をついた人物が先々代のコルネール辺境伯には本名を名乗ったと思いますか?」
キセとシダリーズは目を丸くしてぶんぶんと首を振った。
「わたくしも同感です。わたくしたちが調べていたのは、本当の名を持たない幽霊です」
ランビエ伯爵夫人が細い顎を誇り高く上げて言い放った。
「詐欺師、大法螺吹きとも言いますね」
ドニーズ夫人が丸い頬に笑い皺を浮かべて付け足した。
「…これでアントワーヌ・デヴェスキさんの不正が法的に証明できますか?」
キセがランビエ伯爵夫人に訊ねた。
「もちろん。幽霊さんがご自分がアントワーヌ・デヴェスキであるという確固たる証拠を持っていない限り、王都の南は王府に帰属できるはずです」
キセは笑わなかった。
喜ばしい結果だ。しかし、気分はひどく落ち込んだ。
ただでさえ自分の出自について悩んでいるアニエスがこれを――父親がどこの誰か分からないことを知ったら、どんなに苦しむだろう。ガイウスも同様だ。ますます父親への憎しみを深くしてしまうのではないか。
血筋など、本当はどうでもいい。誰から受け継いだ血が流れていようと、アニエスはアニエスだ。
でもきっと、アニエスが欲しいのはそんな言葉ではない。気休めにもならないだろう。自分の本質が血や名では変わることがないということは、彼女も理解しているはずだから。
「心を痛めているところ悪いが、キセ――」
夜、キセの寝室でテオドリックが気遣わしげに言った。
「そのアニエス嬢から書簡が届いている」
テオドリックはツヤツヤした灰色のベストの胸ポケットから長細く小さな紙片を取り出し、キセに手渡した。大きさと巻かれた跡から見て、鳩の脚に括り付けられていたものだろう。
「明くる夕暮れに羽が二枚。無風の正子にはアネモイが、クロウタドリに木の実を届ける。――AC」
と、詩のような内容が記されている。
これは暗号だ。鳩が誰かに捕らわれたり、手紙が別の人物の手に渡っても内容を知られないように書いたに違いない。
「羽が二枚…ペンのことでしょうか」
「ルコントとデヴェスキがペンを持つという意味に取れる。契約を書面で交わすつもりだと伝えたいんだ」
テオドリックの言葉の端には、アニエスを称賛するような響きがある。実際、ここまでやるとは思っていなかった。彼女の勇気と忠誠心は見上げたものだ。
そして、「無風の正子には」は、「午前零時に風が吹かなければ」、と読める。次いで、アネモイは風の神々を意味し、クロウタドリをキセ、木の実を「結果」或いは「成功」の象徴として当てはめることができる。「結果を運ぶ風が吹かなければ」とは、多分、アニエスが結果、即ち契約書を持って外に出られなければ、ということだ。風を起こす者に「アネモイ」とわざわざ複数の神々を表す言葉を使ったのは、大勢、つまりは軍を呼べと言うことだろう。
これらをまとめると、手紙の意味はこうなる。
「明日の夕刻に書面で契約が交わされる。午前零時までにアニエスが外へ出られなければ、軍を配備して突入させ、契約書をキセの元へ届けること」
時間がない。――
キセは胃が縮こまる思いがした。
「テオドリック!」
突然強い力で手を握られ、テオドリックは目を丸くした。アニエスの手紙の意味を知ればキセは動揺するだろうと思ったが、意外にも顔つきは冷静だ。
「イサクさんを呼んでください。わたしはセレンを呼んできます」
そう言って、キセは旅行用の大きなトランクを部屋の隅から持ってきた。
「今夜は徹夜覚悟で、お願いします!」
キセが鼻息も荒く言い放った。
10
お気に入りに追加
47
あなたにおすすめの小説
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/love.png?id=38b9f51b5677c41b0416)
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/love.png?id=38b9f51b5677c41b0416)
人生を共にしてほしい、そう言った最愛の人は不倫をしました。
松茸
恋愛
どうか僕と人生を共にしてほしい。
そう言われてのぼせ上った私は、侯爵令息の彼との結婚に踏み切る。
しかし結婚して一年、彼は私を愛さず、別の女性と不倫をした。
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。
極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~
恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」
そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。
私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。
葵は私のことを本当はどう思ってるの?
私は葵のことをどう思ってるの?
意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。
こうなったら確かめなくちゃ!
葵の気持ちも、自分の気持ちも!
だけど甘い誘惑が多すぎて――
ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。
断る――――前にもそう言ったはずだ
鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」
結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。
周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。
けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。
他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。
(わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)
そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。
ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。
そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/love.png?id=38b9f51b5677c41b0416)
公爵令嬢は嫁き遅れていらっしゃる
夏菜しの
恋愛
十七歳の時、生涯初めての恋をした。
燃え上がるような想いに胸を焦がされ、彼だけを見つめて、彼だけを追った。
しかし意中の相手は、別の女を選びわたしに振り向く事は無かった。
あれから六回目の夜会シーズンが始まろうとしている。
気になる男性も居ないまま、気づけば、崖っぷち。
コンコン。
今日もお父様がお見合い写真を手にやってくる。
さてと、どうしようかしら?
※姉妹作品の『攻略対象ですがルートに入ってきませんでした』の別の話になります。
【掌編集】今までお世話になりました旦那様もお元気で〜妻の残していった離婚受理証明書を握りしめイケメン公爵は涙と鼻水を垂らす
まほりろ
恋愛
新婚初夜に「君を愛してないし、これからも愛するつもりはない」と言ってしまった公爵。
彼は今まで、天才、美男子、完璧な貴公子、ポーカーフェイスが似合う氷の公爵などと言われもてはやされてきた。
しかし新婚初夜に暴言を吐いた女性が、初恋の人で、命の恩人で、伝説の聖女で、妖精の愛し子であったことを知り意気消沈している。
彼の手には元妻が置いていった「離婚受理証明書」が握られていた……。
他掌編七作品収録。
※無断転載を禁止します。
※朗読動画の無断配信も禁止します
「Copyright(C)2023-まほりろ/若松咲良」
某小説サイトに投稿した掌編八作品をこちらに転載しました。
【収録作品】
①「今までお世話になりました旦那様もお元気で〜ポーカーフェイスの似合う天才貴公子と称された公爵は、妻の残していった離婚受理証明書を握りしめ涙と鼻水を垂らす」
②「何をされてもやり返せない臆病な公爵令嬢は、王太子に竜の生贄にされ壊れる。能ある鷹と天才美少女は爪を隠す」
③「運命的な出会いからの即日プロポーズ。婚約破棄された天才錬金術師は新しい恋に生きる!」
④「4月1日10時30分喫茶店ルナ、婚約者は遅れてやってきた〜新聞は星座占いを見る為だけにある訳ではない」
⑤「『お姉様はズルい!』が口癖の双子の弟が現世の婚約者! 前世では弟を立てる事を親に強要され馬鹿の振りをしていましたが、現世では奴とは他人なので天才として実力を充分に発揮したいと思います!」
⑥「婚約破棄をしたいと彼は言った。契約書とおふだにご用心」
⑦「伯爵家に半世紀仕えた老メイドは伯爵親子の罠にハマり無一文で追放される。老メイドを助けたのはポーカーフェイスの美女でした」
⑧「お客様の中に褒め褒めの感想を書ける方はいらっしゃいませんか? 天才美文感想書きVS普通の少女がえんぴつで書いた感想!」
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/love.png?id=38b9f51b5677c41b0416)
【完結】仰る通り、貴方の子ではありません
ユユ
恋愛
辛い悪阻と難産を経て産まれたのは
私に似た待望の男児だった。
なのに認められず、
不貞の濡れ衣を着せられ、
追い出されてしまった。
実家からも勘当され
息子と2人で生きていくことにした。
* 作り話です
* 暇つぶしにどうぞ
* 4万文字未満
* 完結保証付き
* 少し大人表現あり
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる