獅子王と海の神殿の姫

若島まつ

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八十八、忠誠、献身、友愛 - allégeance, dévotion, fraternité -

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 事態が急変したのは、国王同士の会合を翌週に控えた日のことだった。
 ‘アントワーヌ・デヴェスキ’と言う人物が存在しないことを、メルレットの会の婦人たちが突き止めたのだ。
「‘存在しない’とは、どういうことでしょうか」
 シダリーズが法律家のマルゴ・ランビエ伯爵夫人に訊ねた。
 場所は、レグルス城の二階の奥まった客間で、貴婦人四人だけが集まっている。‘お茶会’という名目で集まっているから、みな普段よりも洒落たドレス姿だ。茶会を偽装してまで少人数が集まったのは、メルレットの会の中でもごく限られた人物しか知らない秘匿情報が話題の中心であるためだ。
 ランビエ伯爵夫人はヤマドリの羽飾りのついた黒い山高帽子のツバをちょっと上げ、頬骨の高いキリリとした顔をシダリーズとキセに向けて、赤い唇を左右に引き伸ばした。目はくっきりとしていて口が大きく、どことなく南国の陽気さを思わせる面立ちだ。が、その口から出た言葉はその笑顔には似つかわしくなかった。
「‘アントワーヌ・デヴェスキ’という人物は、記録によれば五十年以上前に死んでいます」
 シダリーズとキセは顔を見合わせ、同時にごくりと生唾を呑み込んだ。なんとも薄気味悪い。
 ランビエ伯爵夫人は続けた。
「この土地を買った人物の書類に記されている、出生地、氏族、家紋を照らし合わせると、過去百年を辿ってもこの‘アントワーヌ・デヴェスキ’しか一致する人物はいません。おまけにこの人物の存命中に残されていた記録を調べた限りでは、確かに王都の南の所有権を主張できる立場にあります。――いえ、‘あった’と言う方が正しいですね。若くして亡くなったので、後継者もいません」
 これを突き止めたのは、系譜学に精通しているエメリーヌ・ドニーズ夫人だ。
 王立アストレンヌ大学で教鞭を執る夫の伝手つてを利用して、驚くほどの短期間でアントワーヌ・デヴェスキおよびルネ・コルネール――旧姓ヴィエルニルの足跡を調べ上げた。
 更に、シダリーズの権限で王立図書館のうち、古い氏族や昔の戸籍など機密情報が集められている一画へ夫人が立ち入ることを許され、その起源を知るに至った。
 これによれば、存在しないのはデヴェスキだけではない。
「ルネ・ヴィエルニルという人物の形跡も、どの記録を見てもないのです」
 と、ドニーズ夫人は言う。
「名門に婿入りしたほどの方の形跡がないのですか?」
 キセは大きな驚きを持って訊ねた。脳裏によぎったのは、アニエスのことだ。
「確か、その幽霊は大陸のあちこちを行商していたとおっしゃいましたね。わたくしの憶測の域を出ませんが、エマンシュナ人ではないのではないでしょうか」
 と、ランビエ伯爵夫人は法律家らしい堅い口調に皮肉を混ぜて言った。
 キセはアニエスから父親の話を多少聞いてはいるが、外国出身だということは聞いたことがない。アニエスもガイウスも自分達の父親がどこから来た人物なのか、知らないのではないか。
「実は、そのことで。キセ殿下、シダリーズ殿下」
 ドニーズ夫人が丸い顔にちょっと気まずそうな愛想笑いを浮かべて両手の指をもじもじさせた。
「えぇと、系譜を辿るのは非常に興味深くて、エマンシュナ人が実は大昔に遠い異国の地からやって来た移民だったなんていうこともよくあるのですよ。父親からその母親へ、その両親、更にその両方の祖父母…と遡っていくと、膨大な人数が一人の人間に関わっていることになります。そうしていくうちに、この国ではない、どこか全く別の場所に辿り着くのです」
 ドニーズ夫人は持参した旅行用かと思われるほどのトランクから筒状に巻かれた大きな紙を取り出し、何も置かれていないティーテーブルに地図のように広げ始めた。
「ふふ。こういうの、作戦会議みたいでワクワクしますわね」
 そう言って声を弾ませたシダリーズに、キセはちょっとおかしそうに微笑みかけた。
 ドニーズ夫人が広げたのは、家系図だった。コルネール家の長い歴史がそこに記されている。何百年か前に二度ほどアストル家とも婚姻を結んでいたらしいことや、エマンシュナとは敵対しているアミラ王国の女性を遠い昔に娶っていたことなどが分かる。そのずっと下方にコンスタンス・コルネールと問題のルネ・ヴィエルニルの名が横の線で結ばれ、その下にガイウス、セオスの名が、更に、ルネからもう一本横の線が伸びて‘Jeanneジャンヌ Untelleなんとか’と結ばれ、その下に縦線でアニエスの名が結ばれている。無論、これも秘匿情報だ。
「この、‘ヴィエルニル’という姓ですが――」
 ドニーズ夫人は‘Rene Viernnir’と記された場所を指した。
「そもそも、エマンシュナ的・・・・・・・ではありません」
「確かに、そうですね…」
 シダリーズが頷いた。
 イノイル人のキセにはそこらへんの事情はよくわからないが、言われてみれば確かに一般的なエマンシュナ人の名前とは音や語感の持つ雰囲気が違う気がする。
「そこでわたくし、以前に調べた系譜で似たような名前を見つけたことを思い出しまして…」
 ドニーズ夫人はトランクからごそごそと地図を取り出し、系図の上に重ねた。地図に記されているのは、エマンシュナ王国とその西方の国々だ。西隣の北に長年争っているアミラ王国があり、更にその西隣に‘ワルデル・ソリア’という小さな共和国がある。
 キセ、シダリーズ、ランビエ伯爵夫人の視線がその小さな国に注がれた。
「ある方の先祖がこの国に起源を持っていて、その姓を‘フィエルニア’と言ったんです。この国を流れる川の名前で、その地域ではよくある姓のようなのですよ」
 事実、もともと姓を持たなかった者たちが出身地やそこに縁のある名を姓として名乗ることはよくある事例だ。
 ドニーズ夫人はふくふくした指でワルデル・ソリアの南に描かれた川らしき箇所を差した。――‘R.Viernnir’とある。
「‘ヴィエルニル’…」
 キセはその言葉を確かめるように呟いた。
「わたくしの推測では、ヴィエルニル氏はこのあたりの出自ではないかと思います」
「本当の名が‘ヴィエルニル’だとすれば、その可能性は高いですわね」
 ランビエ伯爵夫人が頷いた。
「ああ!こんがらがってきた。まるで幽霊を二人相手にしている気分だわ」
 シダリーズが頭を抱えた。綺麗にお団子にまとめられた三つ編みを見出してしまう勢いだ。ランビエ伯爵夫人はシダリーズにニンマリと笑いかけた。
「幽霊なのですよ、シダリーズ殿下。ルネ・ヴィエルニルと名乗ってコルネール家にまんまと婿入りした男が、アントワーヌ・デヴェスキという名を名乗って不正に王都の南を手に入れていたのです。これだけの大嘘をついた人物が先々代のコルネール辺境伯には本名を名乗ったと思いますか?」
 キセとシダリーズは目を丸くしてぶんぶんと首を振った。
「わたくしも同感です。わたくしたちが調べていたのは、本当の名を持たない幽霊です」
 ランビエ伯爵夫人が細い顎を誇り高く上げて言い放った。
「詐欺師、大法螺吹きとも言いますね」
 ドニーズ夫人が丸い頬に笑い皺を浮かべて付け足した。
「…これでアントワーヌ・デヴェスキさんの不正が法的に証明できますか?」
 キセがランビエ伯爵夫人に訊ねた。
「もちろん。幽霊さんがご自分がアントワーヌ・デヴェスキであるという確固たる証拠を持っていない限り、王都の南は王府に帰属できるはずです」
 キセは笑わなかった。
 喜ばしい結果だ。しかし、気分はひどく落ち込んだ。
 ただでさえ自分の出自について悩んでいるアニエスがこれを――父親がどこの誰か分からないことを知ったら、どんなに苦しむだろう。ガイウスも同様だ。ますます父親への憎しみを深くしてしまうのではないか。
 血筋など、本当はどうでもいい。誰から受け継いだ血が流れていようと、アニエスはアニエスだ。
 でもきっと、アニエスが欲しいのはそんな言葉ではない。気休めにもならないだろう。自分の本質が血や名では変わることがないということは、彼女も理解しているはずだから。

「心を痛めているところ悪いが、キセ――」
 夜、キセの寝室でテオドリックが気遣わしげに言った。
「そのアニエス嬢から書簡が届いている」
 テオドリックはツヤツヤした灰色のベストの胸ポケットから長細く小さな紙片を取り出し、キセに手渡した。大きさと巻かれた跡から見て、鳩の脚に括り付けられていたものだろう。
「明くる夕暮れに羽が二枚。無風の正子しょうしにはアネモイが、クロウタドリに木の実を届ける。――AC」
 と、詩のような内容が記されている。
 これは暗号だ。鳩が誰かに捕らわれたり、手紙が別の人物の手に渡っても内容を知られないように書いたに違いない。
「羽が二枚…ペンのことでしょうか」
「ルコントとデヴェスキがペンを持つという意味に取れる。契約を書面で交わすつもりだと伝えたいんだ」
 テオドリックの言葉の端には、アニエスを称賛するような響きがある。実際、ここまでやるとは思っていなかった。彼女の勇気と忠誠心は見上げたものだ。
 そして、「無風の正子には」は、「午前零時に風が吹かなければ」、と読める。次いで、アネモイは風の神々を意味し、クロウタドリメルル・ノワールをキセ、木の実を「結果」或いは「成功」の象徴として当てはめることができる。「結果を運ぶ風が吹かなければ」とは、多分、アニエスが結果、即ち契約書を持って外に出られなければ、ということだ。風を起こす者に「アネモイ」とわざわざ複数の神々を表す言葉を使ったのは、大勢、つまりは軍を呼べと言うことだろう。
 これらをまとめると、手紙の意味はこうなる。
「明日の夕刻に書面で契約が交わされる。午前零時までにアニエスが外へ出られなければ、軍を配備して突入させ、契約書をキセの元へ届けること」
 時間がない。――
 キセは胃が縮こまる思いがした。
「テオドリック!」
 突然強い力で手を握られ、テオドリックは目を丸くした。アニエスの手紙の意味を知ればキセは動揺するだろうと思ったが、意外にも顔つきは冷静だ。
「イサクさんを呼んでください。わたしはセレンを呼んできます」
 そう言って、キセは旅行用の大きなトランクを部屋の隅から持ってきた。
「今夜は徹夜覚悟で、お願いします!」
 キセが鼻息も荒く言い放った。
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