獅子王と海の神殿の姫

若島まつ

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八十四、メルレットの会 - club des Merlettes -

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 ガイウスの計画は、順調だ。
 ジョフロワ・ドーリッシュは自分が釈放されたのがガイウスの嘆願によるものであると、すっかり信じ切っている。ガイウスが青年貴族を中心とした政治的な集まりや夜会、狩りなどに出掛けるたび、まるで腰巾着のようについて回り、常に機嫌を取ろうとしてくる。顔の周りを飛び回るハエのように不快だが、今のドーリッシュなら以前よりも容易く口を割るだろう。
 だが、まだ足りない。
 テオドリックの言うように何も残らなくなるまで煮込んでやらなければ気が済まない。
 キセに手を出した報いを受けさせなければ。――
 幸いなのは、ドーリッシュがそういうガイウスの感情を理解できる程度には賢いと言うことだった。ドーリッシュは、ガイウスがキセに心を寄せていることを知っている。それだけに、唯一の味方になってくれたガイウスの機嫌を取ることに必死だ。
 ガイウスはこういう手合を相手取るとき、稀な能力を発揮する。擦り寄ってくるドーリッシュを公の場であからさまに冷たくあしらったり、土地の買収計画が進んでいないことについて叱責したりした。それでもなお機嫌を取ろうとするドーリッシュに対して、ガイウスは言葉の贈り物をするのだ。
「わたしは君が嫌いだ、ジョフロワ。キセを傷付けた奴を許すつもりはない。だがビジネスとは切り離して考える。能力の面では君のことを姉君より買っているんだ。本当なら家長である君が舵を取るべきだろう。姉君はこう言っては何だが少々…やり方が強引だ。そう思わないか?君ならもっと賢くやれるとわたしは信じている」
 そう言ってやると、ドーリッシュはいっそ憐れになるほどの喜びようを見せる。
(愚かな男だ)
 ――あの男は姉に主導権を握られていることを不満に思っている。そこをつついて離反させろ。新しい兄貴分の言うことになら尻尾を振って従うぞ。
 と、テオドリックは暗い笑みを浮かべてガイウスに命じた。
 今、正にその通りになっている。
(しかし、こいつの兄貴分とは――)
 ガイウスは盲信的な目でこちらを見つめてくる男を一瞥した。如何に自分を煌びやかに飾ろうと、過酷な牢獄生活のために頬は痩け、そのせいで目が異様にギラついて見える。
(――不愉快だ)
 キセにもテオドリックのあの悪い顔を見せてやりたい。

 キセとシダリーズは連日婦人の集まる茶会や朗読会、誕生日会などに出席し、人脈を広げている。
 中にはルコント侯爵夫人と懇意にしている婦人もいて全員が好意的とは言えなかったが、キセへの反感ややっかみはシダリーズがそばにいることでずいぶんと和らいでいる。特に年配の婦人たちは、うら若い姫君たちが仲良くしているのを見て「可憐な花が咲いたようだ」と孫を可愛がるように二人を構いたがった。
 キセが驚いたのは、シダリーズの弁舌の強さだ。
 王都の南を王府へ帰属させ、再び街として機能させる目的を、キセはあくまで「慈善事業」であり、困っている人々を救うため、そのためにあなたがたの協力が必要だと彼女たちの母性に訴えかける一方で、シダリーズは経済的かつ実利的な面からそれを説いた。廃れている南の地域に人が住み、そこが活性化すれば、地価が上がる。王府に帰属した時点で不動産を持ち、或いは学校や図書館を建て、人々が流入するような事業を行うことで、長期的な目で見れば大きな財産になる。更に、道を作れば道に、神殿を建てれば神殿に、自分の名を残すことができる。あなたがたの夫でさえできないことが、あなたがたにはできる。と、彼女たちの眠れる野心を刺激したのだ。
 結果、図らずも、キセとシダリーズを支持する婦人たちの派閥ができた。
 享楽的で刺激的な愉しみを追い求め、退屈な生活からの解放を目的とするルコント派に対して、「メルレットの会」と婦人たちが自称するこの派閥は、社会活動を通して女性の地位を高め、より女性が自分らしく暮らせる社会を目指すというものだ。
 貴族の奥方という地位にいる人々は元々高い教養を持っている。更に、専門分野に長けている者も多い。貴族家庭では一般的な家庭教師や、学校での教育を受けて育ち、嫁いだ後は夫の事業や領地の運営に部分的にでも携わることがあるからだ。
 彼女たちの力が、南の地域の件でも大きな助けになった。
 キセとシダリーズは驚くほどの短期間で多くの賛同者を得、「メルレットの会」に属す女性法律家の助力を得て、アントワーヌ・デヴェスキが所有権を持っていることの違法性を証明するための準備を始めた。糸口が見え始めている。

「しかし、‘メルレット黒い小鳥’とはね」
 テオドリックがキセの黒髪をくるくると指で弄びながら言った。
「あの、どうも、ご婦人方の中にテオドリックが春の宴でわたしをそう呼んだことを覚えていた方がいらっしゃったようで…」
「‘エマンシュナ婦人会’よりもいい。俺は気に入った」
「よかったです…」
 キセは湯船から濛々と立ち込める湯気の中で後ろを振り返れずに、テオドリックへ背を向けたままでいる。
「発案者は誰だ?名を聞いておきたい」
「何人かいらっしゃるのですが――こ、この話、お風呂を出てからでもよいですか?」
「なぜ」
 テオドリックは指先に濡れたキセの髪を巻きつけては解いてを繰り返し、機嫌よく訊いた。キセが恥ずかしがって顔を隠しているのが幸いだ。今は底意地の悪い顔をしている自覚がある。
「恥ずかしいです…」
「何を今更」
 テオドリックはくすくす笑った。
 長く湯に浸かる習慣のないはずのテオドリックが、ここのところはよく湯船になみなみと湯を張らせ、ハーブを浮かべさせている。キセと温泉に入って以来温浴の心地よさに気付いたということもあるが、最大の理由はこれだ。入浴を口実に、キセの白く柔らかい肌が温められて桃色に染まる様と、髪を洗ってやるときの無防備で気持ち良さそうな顔を心ゆくまで堪能できる。
「もう何度もしてるのに」
 誘惑するような声色でキセの耳元に囁きかけると、キセは耳まで赤く染めて膝を抱え、身体を隠してしまった。
「そっ、そういう問題では、ありません…!」
 びく、とキセの肌が跳ねた。
 テオドリックが背中にキスをしているのだ。少しだけ温度の低い柔らかな唇の感触が、肩に触れ、肩甲骨に触れ、頸の下に触れて、背中のくぼみに落ちてくる。
「…っ、んん」
 吐息に甘い響きが混ざり、肌が快感にふるふると震えている。
(可愛い)
 テオドリックは背後からキセの腰を抱き寄せ、両脚の間にその身体を収めると、熟れたコケモモのように赤く染まった頬を引き寄せて、ガブリと噛み付くようなキスをした。
 必死で応えようと舌を触れ合わせてくるキセの仕草が、眠っているテオドリックの嗜虐心を刺激する。
 可愛いから、全部独占したい。
「…閉じ込めておきたいな」
「え…?あ」
 臀部にテオドリックの一部が触れ、既に硬くなっているのを肌で感じる。唇を触れ合わせるテオドリックの息遣いがだんだんと熱くなり、エメラルドグリーンの瞳が暗く翳り始める。キセの全てを求める合図だ。
「俺は、あんたの世界が広がっていくのは喜ばしいと思っている」
「は、はい。…っ!」
 テオドリックの手が胸へ伸びてくる。キセは唇を噛み、漏れそうな声を飲み込んだ。
「だが、なあ?俺の知らない者たちと仲を深めたり、俺が留守の間にガイウス・コルネールと二人で会ったりした話を聞かされては、やはり面白くない」
「ふ…ぅ、そ、それは、昨夜もお話しした通りガイウスさまがアニエスを心配して…、――あ!」
 テオドリックの指が既に硬く立ち上がった胸の先端を撫で、うなじに強く吸い付いた。
「ああ、それ、‘アニエス’。そいつもいたな。キセは本当に虫を寄せ付ける」
「虫だなんて、そんな言い方は――」
 キセの抗議は重なってきたテオドリックの唇の中に吸い込まれた。苛立ったような、強引な口付けだ。逃げ場もないほど舌を絡められ、息が上がる。身体があつい。
「はっ、あ…。テオドリック…」
 胸を弄られてびりびりと小さな火花が散り、もどかしい気持ちにさせる。
「あんたのことだから優しく祝福を授けたんだろうが、それはいい。詳しくは聞かない。それが慈愛だろうがなんだろうが、ガイウス・コルネールを殺したくなるからな。その代わり――」
 肌が触れるほどの距離で、テオドリックが囁いた。嫉妬に震えるような声が、官能的に耳に響く。
「…今すぐ俺だけのキセになってくれ。いいな」
 焦燥感に満ちた、懇願するような声だ。キセの鳩尾がぎゅうっと締め付けられる。腹の奥が熱く疼き、この、憂えるような緑色の瞳をした美しい人に、全てを囚われたくなる。言葉も出ないほどに、この人が欲しい。
 キセの返事を聞く前に、テオドリックの指はキセの胸と脚の間に伸びていた。
 はっ。とキセが熱い息を吐いた。瞳が星空のように輝き、潤んで、欲望に霞み始める。指で触れたキセの内部はもう熱く潤って、テオドリックの与える快楽を受け入れていた。
「…っ!」
「ダメとは言わないよな。こんなにして」
 意地悪に揶揄うような口調で言うくせに、キセに触れる手は優しく、甘美だ。
「んっ、んん、あ――!」
 キセは柔らかい部分を蕩かされてやすやすと昇り詰め、自分の衝動に戸惑いながら後ろを振り向くと、余裕をなくして懊悩するような顔をしたテオドリックに自分から抱きついてキスをした。
 恥ずかしい。いくつものランプで照らされた明るい浴室に互いに素裸でいることも、素肌を余すところなく触れ合わせていることも、恥ずかしくて全身から火が出そうだ。しかし、それよりもその先を求める気持ちの方が大きい。快楽に染まった腹の奥がじくじくと疼いている。
「…も、もう、…してください」
「ん」
 と、テオドリックは満足そうに唇を吊り上げ、キセを壁際に追い遣って、臀部を支えるようにして脚を抱え上げ、その中に入った。
「あ…!」
「――ッ、こら。あんまり締めるな」
 食いしばった歯の間から唸るようにテオドリックが言った。
「むっ、むりです…。だって――ああ!」
 奥を突かれてキセは悲鳴をあげた。理性と羞恥は、テオドリックの体温と律動がもたらす快楽に溶け、愛おしさに胸がひどく苦しくなる。
「かわいい。キセ…」
 掠れたテオドリックの声と共に、キスの雨が全身に降ってくる。
 キセはテオドリックの硬い筋肉の隆起に触れ、至る所に残る小さな傷跡を慈しむように撫で、恍惚の叫びをあげてテオドリックの全てを受け入れた。
 ぼんやりした頭に思考が戻ってきた頃、まだ刺激に敏感になっているキセの肌をするすると撫で、或いは啄むようにキスしながら、テオドリックが口を開いた。
「親父殿と会う日が決まったぞ、キセ。二週間後、アクイラ海峡の船の上だ。母上方も見える」
 これは、オーレン王の要求だった。
 無論、思惑がある。エマンシュナに――というよりも、テオドリックに圧力をかけているのだ。
 前回戦火を再び燃え上がらせるきっかけとなった場所でまたしても同じようなことがあれば、二つの国の和平は永遠に失われ、エマンシュナ王国の国際的な信用も地に落ちる。
 一方で、和平反対派にとってはイノイル国王を攻撃するまたとない好機だ。暗殺者が船に紛れ込んで首を狙うことは、難しくはない。
 オーレン王には、より安全な道があった。
 エマンシュナ北西部のタレステラ地方はイノイル軍が未だ占拠し、タレステラもそれを歓迎している。イノイルと貿易の協力関係を結びたがっているからだ。ここであれば、タレステラの有力者や同領内の自警団からも守られ、安全に会合を開くことができる。
 が、オーレンはそれを選ばない。
 タレステラはあくまでエマンシュナの領土であると認識していることを示すためでもあり、反対派を含むエマンシュナ人の前に自ら立つことで、エマンシュナ国王の統率力を測るためでもあるのだ。
 テオドリックは泥の道の事件の首謀者を含む諸々の問題を、それまでに片付けておかなければならない。
 キセもそれを理解している。が、テオドリックよりも楽観的だ。
「では、あと二週間で準備をしなければなりませんね。楽しみです」
 キラキラと瞳を輝かせたキセを見て、テオドリックは思わず笑い出した。
「あんたが妻でよかった」
 なんだかキセが笑うと、不思議と大丈夫な気がしてくる。
 テオドリックは少しぬるくなった湯の中でキセの温かい身体を抱き寄せ、ラベンダーとローズマリーの石鹸の残り香とキセの肌から香る乳香に似た柔らかい匂いを吸い込んだ。
 くすぐったそうに身体を捩るキセの手を取り、指先にキスをした。目の前の男が愛おしくて仕方がないというようにキセの顔が綻ぶとき、胸に幸せが満ちるのだ。
「あんたは俺の女神だ」
 キセが囀るように笑ってテオドリックの背に腕を回した。
「ふふ。愛しています、テオドリック」
 キセはこの時、ひとつ心に決めたことがある。
 次兄ミノイについてのことだ。
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