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八十、王都の南 - le sud de la capitale -
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アントワーヌ・デヴェスキ。
という名が挙がったのは、‘謀略会議’から半月が過ぎようかという頃のことだ。
イサクはアストレンヌ城の書庫から茶色く劣化して擦り切れた何代も前の書類を引っ張り出してきて療養中のジャンと読み漁り、二百年ほど前の書類に当時の国王が「敵の将軍の首級を挙げた戦争の英雄に王都の南を下賜した」という内容の記録を見つけた。英雄の名が秘匿されているのは、彼の挙げた首級が敵ではなく、誰ぞ当時の王族かその周囲に近しい者のものだったからだろうと推測された。則ち、何か重大な暗殺の褒賞だ。
名が伏せられているから、家系図を辿ることはできない。そのために、イサクとジャンは地域の記録を調べた。それによれば、少なくとも三代前には地域を治める一族が絶えていたらしいことがわかった。町の荒廃が始まったのがその頃だったからだ。
更にはその数十年後に、今度は‘筆頭相続人’を自称する者が犯罪的とも言えるほどの安値でその土地の権利を買い上げていた。
これが、アントワーヌ・デヴェスキという男だ。
この調査結果を、ガイウスとアニエスは夜半に忍んで訪れたレグルス城の執務室で聞いた。執務室にはシャツとグレーのベストに身を包んだテオドリックが執務机に両肘をついて座り、その傍らにきちんとしたシャツと上衣を羽織ったイサクがいる。二人とも髪は乱れている。朝から働き通しで、室内着に着替える暇もないのだ。
デヴェスキという名を知る者は、王府にはいない。曲がりなりにも王都の一部を所有しているというのに、貴族の名簿にも載っていない。辺境伯として地方貴族の間では顔の広いガイウスも、聞いたことのない名だ。
アニエスは淡々と頷き、膝を折った。
「ご協力感謝いたします、王太子殿下。侯爵夫人への餌付けはお任せください。ドーリッシュの方は、兄が対処いたします」
テオドリックが頷くと、アニエスはガイウスに目配せしてその場を辞去した。
扉が閉まると、テオドリックはガイウスに向かって何か小さなものを放り投げた。ガイウスが空を掴むと、小さな銀の鍵が手のひらにある。
「あのクソ野郎はラスタヴァ監獄に収監されている」
と、テオドリックはドーリッシュのことを言った。
ラスタヴァ監獄といえば、王都で最も過酷な監獄だ。主に複数の殺人や国家叛逆などの重罪が確定した者が送られる。裁判を待つ者が送られるのは、異例だ。言うまでもなく、テオドリックが手を回したのだ。
テオドリックは冷淡な表情で続けた。
「姉はおろか誰の面会も叶わず手紙も届かず、幾日も陽の当たらない牢獄で犬の餌ほどの食事しか与えられず虐げられ、今は極限状態だ。あんたが俺に貸しがあるとでも言って解放してやれば、あいつはあんたを神の如く崇めるだろうな」
テオドリックの瞳が鈍く光った。まるで縄張りを荒らされた獅子のようにひどく剣呑な目つきだ。
ガイウスはキセがこの場にいないことに合点がいった。彼女に自分の酷薄な一面を見せたくなかったのだろう。
「それは、さぞ料理がしやすくなったことでしょう」
ガイウスは歪に唇を吊り上げた。この男のこういうところは嫌いではない。
「それで?」
と、ガイウスが続けた。
「‘叛逆’については、何か吐いたんですか」
テオドリックは首を振った。
「よほど姉が怖いのか知らないが、見上げた忠誠心だ。泥の道の事件については何も喋らない。が、多少は口を滑らせた」
「有用な情報ですか」
「さあな。自分たちは父親の旧知を探していると言ったそうだ。‘テール’という愛称しか知らないと」
フム、とガイウスは思案した。‘大地’とは、仰々しい愛称だ。
「アントワーヌ・デヴェスキと同一人物でしょうか」
「可能性は高いが、どうも腑に落ちない。ドーリッシュもそれ以上は何も話さなかった。あとはあんたに任せる」
ガイウスはこれを、殺す以外は何をしても良い、と解釈した。
「何も残らなくなるまで煮込んでやれ」
テオドリックは冷笑した。
アニエスはランプの灯りが反射するほどピカピカに磨かれた板張りの床をずんずん進み、エントランスを目指している。
気分が悪い。今にも吐き出しそうだ。
アニエスは立ち止まってふっと息を吐き、拳を握りしめた。
失敗は許されない。この作戦がどんな真実へ導いても、きっと最初にそれを受け止めるのは自分になるだろう。それが灯りのない、暗黒の夜道のようでも、目を開けていなければならない。
なんだか途方もないように思えてきた。目眩を感じてアニエスが目を閉じた時、ふわりとラベンダーとオレンジの花に、乳香が混ざったような優しい香りが漂ってきた。
「アニエス!」
目蓋を開くと、目の前にゆったりした白い寝衣に身を包んだキセがいた。嬉しそうな笑顔で、ちょっと息を切らせている。髪が濡れているから、風呂上がりだろう。後ろから相変わらず色気の欠片もない軍服のようなドレスを着たセレンがタオルを持って駆け寄ってくるのが見える。
アニエスは一瞬言葉を失った。
「いらしていたのですね。お姿が見えたので、走ってきてしまいました」
「…髪くらい乾かしなさいよ。侍女が大変だわ」
「お心遣い、痛み入ります」
追いついたセレンがアニエスに苦笑して言った。
「ふふ。だって、アニエスと会える数少ない機会を逃したくないんです。それにセレンはわたしよりとても足が速いので、大丈夫ですよ」
「姫さまったら、もう」
セレンが肩を怒らせてキセの髪をワシワシと拭いた。
なんだか唐突に力が抜けた。笑いたいような泣きたいような、不思議な気分だ。
「お茶しましょう、アニエス」
「今から?」
もう夜の九時を回っている。
「はい」
「呑気ね」
と言いながら、アニエスは唇を微かに吊り上げた。これは、賛同だ。キセは花が咲いたように笑った。
「よかったです。セレン、準備をお願いできますか?」
「もちろんです」
セレンは切れ長の目に弧を描かせた。
アニエスには、わかっている。キセは決して呑気に夜中のお茶に誘ったわけではない。アニエスの不安を感じ取り、どこまで触れて良いか測っているのだ。今度ばかりは「お人好し」などと言って跳ね除けることができなかった。嵐の航海で小船の縁にしがみ付くように、小さな光に縋りたい気分だったからだ。
キセの寝室で他愛もない話で笑い合い、セレンも交えて始めたカードゲームが終盤に差し掛かった頃、それまで楽しそうにカードを揃えていたキセが、突然悲しそうな顔で囁くように言った。
「…アニエス、今夜はお屋敷に帰られますよね」
なかなか鋭い。アニエスは言葉を飲み込んでセレンの手札から一枚抜き、自分の手札一枚と合わせて白いティーテーブルの上に盛られたカードの山に置いた。
「いいえ。しばらく戻らないつもりよ」
「ではどこに?」
「侯爵夫人に餌まきをしないと。多分、一日や二日では用が済まないわ」
「姫さまの番ですよ」
セレンが静かにキセに言った。
キセはカードに描かれたアラベスクの蔦模様をぼんやり眺め、アニエスの手札からカードを一枚引いた。
「あなたに何が起きているのか、教えてください」
アニエスは手元に一枚だけ残されたクイーンの年老いた不気味な顔から、全ての手札をなくしたキセの心底心配そうな顔へ視線を移した。
「王太子妃殿下の命令?」
「‘お願い’です。でも、必要ならそう言います」
新月の夜のような瞳が曇りなくこちらを見つめてくる。アニエスはこの何でも打ち明けたくなる魔法の鏡ようなキセの才能に勝てない自分を忌々しく思いながら、口を閉ざすことを諦めた。
「…まだガイウスには言わないで」
キセが頷いた。アニエスの秘密をもう一つ受け入れる覚悟はできている。
「確証はないの」
「はい」
キセはクイーンのカードを手放したアニエスの柔らかい手を握った。アニエスが手を握り返してくる。
「あなたを信用して言うんだからね。セレン、あなたもよ」
アニエスの暗い視線を受け、セレンは顎を引いた。
「姫さまの意志なら、他言は致しません」
アニエスは一度目蓋を伏せ、開いた。茶色い瞳に燭台の炎が映って、琥珀色に輝いた。
「ヴェロニク・ルコントは遊興施設を作るために王都の南を欲しがってるんじゃない。軍事施設にする気だわ」
キセは息を呑んだ。和平反対派を煽って蜂起や政治不安を煽動するには、ちょうど良い立地だ。王都を囲う城壁の中に反対派の軍事拠点ができるとすれば、王府にとっては大きな脅威になる。
「…そ、それは、南の地域の所有者が分かったことと何か関係があるのですか?」
「アントワーヌ・デヴェスキ――」
アニエスが呪いの言葉を吐くようにその名を口にした。
「父かもしれない」
「えっ――」
キセは混乱して言葉を失った。
「え、ち、父…アニエスとガイウスさまのお父さまですか?な、なぜそう思うのですか」
握られたアニエスの手に力がこもった。さっきよりも冷たく感じる。
「コルネール家に引き取られる前、わたし、王都の南に母と暮らしていたの」
キセは更に驚いた。上品で優美なアニエスがあの荒廃した界隈で暮らしていたとは、なかなか想像できない。
「ガイウスさまはそれをご存じなのですか」
アニエスは自嘲するように唇を吊り上げた。
「まさか。血族でなくてもコルネールの人間があんなところで暮らしていたなんて情けない話、できないわ。兄たちの誇りを傷つけることになる」
「そんな…そんなこと、ありません。生まれ育ったのがどこであろうと、アニエスはガイウスさまの誇りです」
アニエスは目だけで笑い、続けた。
「――時々屋敷に現れる父を、母は‘トニ’って呼んでたわ。本名かどうかは知らない」
‘アントワーヌ’の短縮形だ。
アニエスがコルネール家に引き取られたすぐ後、兄たちに訊ねたことがある。
「ルネ・コルネールってだれ?」
セオスはアニエスとそっくりな茶色い目をぱちぱちさせて、「なんだよ」と呆れたように言った。
「父親の名前も知らないのか?」
この時アニエスは顔を赤くして思い出したように振る舞ったが、ずっと疑問に思っていた。母が呼んでいた名前とも、たまに送られて来ていた手紙の署名とも違っていたからだ。
「でも、それ以上何も訊かなかった」
アニエスがキセに言った。
「父が母に何と名乗っていたのかはもう分からない。母が死んだ時に父が手紙を全て処分してしまったから。恋人の手紙を燃やすなんて不自然よね。悪事の証拠を消すみたいに。でも、何も言わなかった。父がどういう人なのか、本当の名前は何なのか、知ろうとすることもやめた」
「怖かったのですね…」
アニエスは顔を上げてギョッとした。キセが目を真っ赤にし、涙で顔をぐしゃぐしゃにしている。すかさずセレンが花の刺繍のハンカチを取り出してキセに手渡した。
「ちょっ…なんであなたが泣くのよ」
キセはハンカチで涙と鼻水をぐしぐし拭いながら言葉を絞り出した。
「だって、アニエスがこんなに頑張ったのに、それをわかってくれる人が今までいなかったんですよ。わたし、悔しいです」
てっきり憐れまれるかと思っていた。アニエスは目を丸くし、笑い出した。
「何よ、それ」
確かに、そうだ。怖かった。
余計な詮索をしてせっかく受け入れてくれた兄たちの不興を買わないように、十歳のアニエスは口を閉ざした。
だって、‘トニ’が父親の本当の姿で、‘ルネ・コルネール’が偽物だったら?
――自分は何者でもなくなってしまう。私生児の自分が‘ルネ・コルネール’によって娘であると認知されている事実のみが、二人の兄と自分を繋いでいる。父親が本当は ‘ルネ・コルネール’の振りをしているだけの‘トニ’という男なら、自分に家族はいなくなってしまう。
幼いアニエスは逃げ場のない孤独の中で何度もそう考えた。だから、コルネール家の人間でいるために、アニエスは父親の疑わしい真実について忘れることにしたのだ。
それが今になって、邪悪な芽を伸ばしている。
「…あの時、わたしが何か行動していれば今みたいなことが起きていなかったかもしれない」
キセは胸が苦しくなった。きっとアニエスは小さな頃から一人で戦ってきたのだ。コルネール家の中で異質な自分の存在が兄たちの邪魔になってはいけないと責任を感じ、自分を押し殺していたに違いなかった。
「アニエスが負い目に感じることは、何一つないです」
キセは目に涙を溜めてキッパリと言った。
「わかってるわ」
握ったキセの手を離し、アニエスは席を立った。涙で目が滲むのを、見られたくなかった。
「アニエス」
扉を開けたアニエスを、キセは呼び止めた。振り返ったアニエスに駆け寄って、もう一度その冷たい手を両手に包み、短く祈りの言葉を呟いた後、手の甲にキスをした。
「…わたしオスタ教徒じゃないけど」
声にどこか不安が混じっていることに、キセは気付いている。
「願掛けのようなものです。きっと大丈夫。頼りないかもしれないけど、わたしも力になります。アニエスは、一人じゃありません。わたしがあなたを一人にしません。それを忘れないでください」
アニエスは柔らかく微笑み、扉の外へ出て行った。
寝室に残ったキセはセレンに決然と振り向いた。
セレンはわくわくする気持ちを顔に出さないよう、唇を引き締めた。主人のこの顔は、珍しく王女として侍女のセレンに何か命じる時の顔だ。
「お願いがあります」
図に当たった。
「はい。何なりと」
セレンは満面の笑みで応じた。
という名が挙がったのは、‘謀略会議’から半月が過ぎようかという頃のことだ。
イサクはアストレンヌ城の書庫から茶色く劣化して擦り切れた何代も前の書類を引っ張り出してきて療養中のジャンと読み漁り、二百年ほど前の書類に当時の国王が「敵の将軍の首級を挙げた戦争の英雄に王都の南を下賜した」という内容の記録を見つけた。英雄の名が秘匿されているのは、彼の挙げた首級が敵ではなく、誰ぞ当時の王族かその周囲に近しい者のものだったからだろうと推測された。則ち、何か重大な暗殺の褒賞だ。
名が伏せられているから、家系図を辿ることはできない。そのために、イサクとジャンは地域の記録を調べた。それによれば、少なくとも三代前には地域を治める一族が絶えていたらしいことがわかった。町の荒廃が始まったのがその頃だったからだ。
更にはその数十年後に、今度は‘筆頭相続人’を自称する者が犯罪的とも言えるほどの安値でその土地の権利を買い上げていた。
これが、アントワーヌ・デヴェスキという男だ。
この調査結果を、ガイウスとアニエスは夜半に忍んで訪れたレグルス城の執務室で聞いた。執務室にはシャツとグレーのベストに身を包んだテオドリックが執務机に両肘をついて座り、その傍らにきちんとしたシャツと上衣を羽織ったイサクがいる。二人とも髪は乱れている。朝から働き通しで、室内着に着替える暇もないのだ。
デヴェスキという名を知る者は、王府にはいない。曲がりなりにも王都の一部を所有しているというのに、貴族の名簿にも載っていない。辺境伯として地方貴族の間では顔の広いガイウスも、聞いたことのない名だ。
アニエスは淡々と頷き、膝を折った。
「ご協力感謝いたします、王太子殿下。侯爵夫人への餌付けはお任せください。ドーリッシュの方は、兄が対処いたします」
テオドリックが頷くと、アニエスはガイウスに目配せしてその場を辞去した。
扉が閉まると、テオドリックはガイウスに向かって何か小さなものを放り投げた。ガイウスが空を掴むと、小さな銀の鍵が手のひらにある。
「あのクソ野郎はラスタヴァ監獄に収監されている」
と、テオドリックはドーリッシュのことを言った。
ラスタヴァ監獄といえば、王都で最も過酷な監獄だ。主に複数の殺人や国家叛逆などの重罪が確定した者が送られる。裁判を待つ者が送られるのは、異例だ。言うまでもなく、テオドリックが手を回したのだ。
テオドリックは冷淡な表情で続けた。
「姉はおろか誰の面会も叶わず手紙も届かず、幾日も陽の当たらない牢獄で犬の餌ほどの食事しか与えられず虐げられ、今は極限状態だ。あんたが俺に貸しがあるとでも言って解放してやれば、あいつはあんたを神の如く崇めるだろうな」
テオドリックの瞳が鈍く光った。まるで縄張りを荒らされた獅子のようにひどく剣呑な目つきだ。
ガイウスはキセがこの場にいないことに合点がいった。彼女に自分の酷薄な一面を見せたくなかったのだろう。
「それは、さぞ料理がしやすくなったことでしょう」
ガイウスは歪に唇を吊り上げた。この男のこういうところは嫌いではない。
「それで?」
と、ガイウスが続けた。
「‘叛逆’については、何か吐いたんですか」
テオドリックは首を振った。
「よほど姉が怖いのか知らないが、見上げた忠誠心だ。泥の道の事件については何も喋らない。が、多少は口を滑らせた」
「有用な情報ですか」
「さあな。自分たちは父親の旧知を探していると言ったそうだ。‘テール’という愛称しか知らないと」
フム、とガイウスは思案した。‘大地’とは、仰々しい愛称だ。
「アントワーヌ・デヴェスキと同一人物でしょうか」
「可能性は高いが、どうも腑に落ちない。ドーリッシュもそれ以上は何も話さなかった。あとはあんたに任せる」
ガイウスはこれを、殺す以外は何をしても良い、と解釈した。
「何も残らなくなるまで煮込んでやれ」
テオドリックは冷笑した。
アニエスはランプの灯りが反射するほどピカピカに磨かれた板張りの床をずんずん進み、エントランスを目指している。
気分が悪い。今にも吐き出しそうだ。
アニエスは立ち止まってふっと息を吐き、拳を握りしめた。
失敗は許されない。この作戦がどんな真実へ導いても、きっと最初にそれを受け止めるのは自分になるだろう。それが灯りのない、暗黒の夜道のようでも、目を開けていなければならない。
なんだか途方もないように思えてきた。目眩を感じてアニエスが目を閉じた時、ふわりとラベンダーとオレンジの花に、乳香が混ざったような優しい香りが漂ってきた。
「アニエス!」
目蓋を開くと、目の前にゆったりした白い寝衣に身を包んだキセがいた。嬉しそうな笑顔で、ちょっと息を切らせている。髪が濡れているから、風呂上がりだろう。後ろから相変わらず色気の欠片もない軍服のようなドレスを着たセレンがタオルを持って駆け寄ってくるのが見える。
アニエスは一瞬言葉を失った。
「いらしていたのですね。お姿が見えたので、走ってきてしまいました」
「…髪くらい乾かしなさいよ。侍女が大変だわ」
「お心遣い、痛み入ります」
追いついたセレンがアニエスに苦笑して言った。
「ふふ。だって、アニエスと会える数少ない機会を逃したくないんです。それにセレンはわたしよりとても足が速いので、大丈夫ですよ」
「姫さまったら、もう」
セレンが肩を怒らせてキセの髪をワシワシと拭いた。
なんだか唐突に力が抜けた。笑いたいような泣きたいような、不思議な気分だ。
「お茶しましょう、アニエス」
「今から?」
もう夜の九時を回っている。
「はい」
「呑気ね」
と言いながら、アニエスは唇を微かに吊り上げた。これは、賛同だ。キセは花が咲いたように笑った。
「よかったです。セレン、準備をお願いできますか?」
「もちろんです」
セレンは切れ長の目に弧を描かせた。
アニエスには、わかっている。キセは決して呑気に夜中のお茶に誘ったわけではない。アニエスの不安を感じ取り、どこまで触れて良いか測っているのだ。今度ばかりは「お人好し」などと言って跳ね除けることができなかった。嵐の航海で小船の縁にしがみ付くように、小さな光に縋りたい気分だったからだ。
キセの寝室で他愛もない話で笑い合い、セレンも交えて始めたカードゲームが終盤に差し掛かった頃、それまで楽しそうにカードを揃えていたキセが、突然悲しそうな顔で囁くように言った。
「…アニエス、今夜はお屋敷に帰られますよね」
なかなか鋭い。アニエスは言葉を飲み込んでセレンの手札から一枚抜き、自分の手札一枚と合わせて白いティーテーブルの上に盛られたカードの山に置いた。
「いいえ。しばらく戻らないつもりよ」
「ではどこに?」
「侯爵夫人に餌まきをしないと。多分、一日や二日では用が済まないわ」
「姫さまの番ですよ」
セレンが静かにキセに言った。
キセはカードに描かれたアラベスクの蔦模様をぼんやり眺め、アニエスの手札からカードを一枚引いた。
「あなたに何が起きているのか、教えてください」
アニエスは手元に一枚だけ残されたクイーンの年老いた不気味な顔から、全ての手札をなくしたキセの心底心配そうな顔へ視線を移した。
「王太子妃殿下の命令?」
「‘お願い’です。でも、必要ならそう言います」
新月の夜のような瞳が曇りなくこちらを見つめてくる。アニエスはこの何でも打ち明けたくなる魔法の鏡ようなキセの才能に勝てない自分を忌々しく思いながら、口を閉ざすことを諦めた。
「…まだガイウスには言わないで」
キセが頷いた。アニエスの秘密をもう一つ受け入れる覚悟はできている。
「確証はないの」
「はい」
キセはクイーンのカードを手放したアニエスの柔らかい手を握った。アニエスが手を握り返してくる。
「あなたを信用して言うんだからね。セレン、あなたもよ」
アニエスの暗い視線を受け、セレンは顎を引いた。
「姫さまの意志なら、他言は致しません」
アニエスは一度目蓋を伏せ、開いた。茶色い瞳に燭台の炎が映って、琥珀色に輝いた。
「ヴェロニク・ルコントは遊興施設を作るために王都の南を欲しがってるんじゃない。軍事施設にする気だわ」
キセは息を呑んだ。和平反対派を煽って蜂起や政治不安を煽動するには、ちょうど良い立地だ。王都を囲う城壁の中に反対派の軍事拠点ができるとすれば、王府にとっては大きな脅威になる。
「…そ、それは、南の地域の所有者が分かったことと何か関係があるのですか?」
「アントワーヌ・デヴェスキ――」
アニエスが呪いの言葉を吐くようにその名を口にした。
「父かもしれない」
「えっ――」
キセは混乱して言葉を失った。
「え、ち、父…アニエスとガイウスさまのお父さまですか?な、なぜそう思うのですか」
握られたアニエスの手に力がこもった。さっきよりも冷たく感じる。
「コルネール家に引き取られる前、わたし、王都の南に母と暮らしていたの」
キセは更に驚いた。上品で優美なアニエスがあの荒廃した界隈で暮らしていたとは、なかなか想像できない。
「ガイウスさまはそれをご存じなのですか」
アニエスは自嘲するように唇を吊り上げた。
「まさか。血族でなくてもコルネールの人間があんなところで暮らしていたなんて情けない話、できないわ。兄たちの誇りを傷つけることになる」
「そんな…そんなこと、ありません。生まれ育ったのがどこであろうと、アニエスはガイウスさまの誇りです」
アニエスは目だけで笑い、続けた。
「――時々屋敷に現れる父を、母は‘トニ’って呼んでたわ。本名かどうかは知らない」
‘アントワーヌ’の短縮形だ。
アニエスがコルネール家に引き取られたすぐ後、兄たちに訊ねたことがある。
「ルネ・コルネールってだれ?」
セオスはアニエスとそっくりな茶色い目をぱちぱちさせて、「なんだよ」と呆れたように言った。
「父親の名前も知らないのか?」
この時アニエスは顔を赤くして思い出したように振る舞ったが、ずっと疑問に思っていた。母が呼んでいた名前とも、たまに送られて来ていた手紙の署名とも違っていたからだ。
「でも、それ以上何も訊かなかった」
アニエスがキセに言った。
「父が母に何と名乗っていたのかはもう分からない。母が死んだ時に父が手紙を全て処分してしまったから。恋人の手紙を燃やすなんて不自然よね。悪事の証拠を消すみたいに。でも、何も言わなかった。父がどういう人なのか、本当の名前は何なのか、知ろうとすることもやめた」
「怖かったのですね…」
アニエスは顔を上げてギョッとした。キセが目を真っ赤にし、涙で顔をぐしゃぐしゃにしている。すかさずセレンが花の刺繍のハンカチを取り出してキセに手渡した。
「ちょっ…なんであなたが泣くのよ」
キセはハンカチで涙と鼻水をぐしぐし拭いながら言葉を絞り出した。
「だって、アニエスがこんなに頑張ったのに、それをわかってくれる人が今までいなかったんですよ。わたし、悔しいです」
てっきり憐れまれるかと思っていた。アニエスは目を丸くし、笑い出した。
「何よ、それ」
確かに、そうだ。怖かった。
余計な詮索をしてせっかく受け入れてくれた兄たちの不興を買わないように、十歳のアニエスは口を閉ざした。
だって、‘トニ’が父親の本当の姿で、‘ルネ・コルネール’が偽物だったら?
――自分は何者でもなくなってしまう。私生児の自分が‘ルネ・コルネール’によって娘であると認知されている事実のみが、二人の兄と自分を繋いでいる。父親が本当は ‘ルネ・コルネール’の振りをしているだけの‘トニ’という男なら、自分に家族はいなくなってしまう。
幼いアニエスは逃げ場のない孤独の中で何度もそう考えた。だから、コルネール家の人間でいるために、アニエスは父親の疑わしい真実について忘れることにしたのだ。
それが今になって、邪悪な芽を伸ばしている。
「…あの時、わたしが何か行動していれば今みたいなことが起きていなかったかもしれない」
キセは胸が苦しくなった。きっとアニエスは小さな頃から一人で戦ってきたのだ。コルネール家の中で異質な自分の存在が兄たちの邪魔になってはいけないと責任を感じ、自分を押し殺していたに違いなかった。
「アニエスが負い目に感じることは、何一つないです」
キセは目に涙を溜めてキッパリと言った。
「わかってるわ」
握ったキセの手を離し、アニエスは席を立った。涙で目が滲むのを、見られたくなかった。
「アニエス」
扉を開けたアニエスを、キセは呼び止めた。振り返ったアニエスに駆け寄って、もう一度その冷たい手を両手に包み、短く祈りの言葉を呟いた後、手の甲にキスをした。
「…わたしオスタ教徒じゃないけど」
声にどこか不安が混じっていることに、キセは気付いている。
「願掛けのようなものです。きっと大丈夫。頼りないかもしれないけど、わたしも力になります。アニエスは、一人じゃありません。わたしがあなたを一人にしません。それを忘れないでください」
アニエスは柔らかく微笑み、扉の外へ出て行った。
寝室に残ったキセはセレンに決然と振り向いた。
セレンはわくわくする気持ちを顔に出さないよう、唇を引き締めた。主人のこの顔は、珍しく王女として侍女のセレンに何か命じる時の顔だ。
「お願いがあります」
図に当たった。
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