獅子王と海の神殿の姫

若島まつ

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七十七、最後の恋 - entre la fraternité et l’amour -

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 スクネはカーネーションやバラの花々が咲く中庭にネフェリアを連れ出し、腕を組んで立ったまま、背後の涼しい顔をした女を振り返った。
「どういうつもりだ」
 ネフェリアは首を傾げた。
「貴殿との結婚のことか?そのままの意味だ」
「君は、軍人として務めを全うしたいのではなかったか」
「それは変わらないさ」
「では、何が変わった。自己犠牲の精神が芽生えたとでも?」
 フム、とネフェリアは腕を組んで思案顔になった。
「そうだな。何をもって犠牲と言うのかはわたしと貴殿の間で認識を合わせる必要があるが、…まあ、それは些末なことだ。このまま貴殿を国へ帰すのが惜しくなった」
 スクネは目を見張った。
 これはもしや愛の告白なのだろうかと思いつくと同時に、なんだか理不尽な怒りが湧いてきた。
「俺が、何のために君を諦めたと思っている」
 ふ、とネフェリアの唇が吊り上がった。傍目にはいつもと変わらない静かな笑みだが、どうしてか、スクネには怒っているように見えた。
「わたしは諦めろと言ったか?少なくとも、わたしは貴殿から選択肢を与えられていない」
 初めて夜を共にした数日後、シダリーズに求婚することにしたから今後縁談で煩わせることはないとスクネに言われたのだ。これほど一方的で事務的な縁談の取り下げ方をされたのは初めてだった。いつだったか、ダメもとで求婚してきた少年ともいうべき年齢の田舎貴族の方が余程食い下がって気骨を見せたというのに。
 自分がスクネのこの淡白さに不満を感じていることを自覚したのは、ずいぶん後になってからだった。が、そのとき既にスクネはシダリーズを妃としてイノイルに連れて帰ることを決め、議会も二人の婚約を公的に認めていた。
「スクネ、ひとつ聞きたい」
 ネフェリアがスクネの黒い瞳を真っ直ぐに見つめた。
「貴殿はわたしたちに起きたことをどう処理するつもりだった」
 美しいアクアマリンの瞳に吸い込まれそうだ。スクネはそこから目を離すことができないでいた。もはや誤魔化すつもりも、その必要もない。
「最後の、恋の思い出にするつもりだった」
「それは、わたしを好いているということか」
「それ以上だ。初めて馬上で采配を振るう君を見てから、俺は君に恋をした。君が愛してやまない軍人としての人生を奪えなくなるほどに、愛してしまった」
「ハッ」
 と、ネフェリアが笑った。屈託のない、少女時代の面影を想像させるような顔だ。この顔をずっと見ていたい。と、スクネは思った。
「予想外だ」
 好きな女が他にいるのに従妹に求婚したのか、などと詰るようなことは、ネフェリアはしない。恋と結婚は別のものだと理解しているからだ。だからこそ、不可解だった。
 春の宴の夜、互いに友情と愛情の途上にあるような感情を抱いたはずだ。それは生涯続くだろうという予感があった。それに、身体の相性も良かった。あれほどの快楽は、今まで戯れに寝てみた男たちとは感じることができなかった。初めてもう一度寝たいと思った相手が、スクネだ。そして、スクネも同じように感じているのはわかった。
 ところが、王族に生まれながらそういう相手と政治的な婚姻を結べようという幸運を、あっさりとスクネは手放した。シダリーズは確かに姫君の鑑とも言うべき器量の女だが、スクネが女として彼女を見ている様子は見られなかった。
 その理由を悶々と考えるようなことはないまでも、ネフェリアはスクネの真意を測りかねていた。それがまさか、自分を愛しているから別の女に求婚したとは。
「年下のリーズの方がよほど感情の機微を理解しているな。貴殿はなかなか突拍子もないことを言う」
 ネフェリアは快活に笑い声をあげた。
「それはこちらの台詞だ」
 スクネは渋面を作りながら、内心で自分の忍耐強さを賞賛した。この場で不用意に手を出さない程度には、分別がある。
「君はどうだ。何故俺と寝た」
「船遊びが楽しかったからさ。貴殿の前でなら、ただの女になっていいと初めて思った」
 これもまた予想もしていなかった答えだ。しかし、それより――
「ただの女?」
 それはおかしい。どう考えてもネフェリア・アストルをその言葉に当てはめることは不可能だ。
 が、ネフェリアは至極真面目な顔つきで「そうだ」と言った。
「あの時、初めて軍人であることを忘れた。王の娘であることも。わたしの中にそういう衝動があると言うことを、貴殿に教えられた。そして今日、貴殿がリーズの手を握った時に、これが友情とは違うものだと気付かされた。これが何か理解したからには、わたしは後には引かない」
 ――まだだ。
 と、スクネは手を固く握って自分を戒めた。多分、今ネフェリアを抱きしめたら、止まらなくなる。
「俺の妃になるということは、君が軍人でいられなくなるということだ。それでいいのか」
「貴殿の妃になるということは、わたしの誇りを捨てることにはならない。むしろ、キセとリーズを見ていて思い知ったよ。わたしは未熟だ。変化を恐れて、最も大切なことを見失うところだった」
「それは何だ」
「ネフェリア・アストルとしての矜持だ。見たか?勇ましく堂々たるキセとリーズの顔を。惚れ惚れしたよ」
「ああ、わかるよ。俺も我が妹ながら、眩しい思いがした。シダリーズ姫も、ますます女傑に成長するだろうな」
 ネフェリアは柔らかく微笑んだ。
「彼女たちは覚悟を決めてそれまでとは違う道を選び、生き方を定めた。それなのに、年長者のわたしがいつまでも同じ場所に留まって満足していては格好がつかないだろう。それに、今ここで惚れた男を逃したら、それこそわたしの矜持に傷がつくというものだ」
「なんだその理屈は」
 スクネは思わず笑い声を上げた。こんな愛の告白があるだろうか。
「それだけじゃない」
 と、ネフェリアは続けた。
「改めてイノイルという国に興味が湧いたということもある。あの可憐なキセ・ルルーに弓の手解きをしたのはオーレン王だと聞いた。父親として尊敬できる。そういう男がどんなふうに国を采配するのか、内側から見てみたい」
「ああ、父は君と気が合うだろうな」
 同じだけ言い争いも起きそうだ。スクネはおかしくなった。
「母は生前よく言っていた。正しいことを見極めるためには、できる限り多くの場所から多くのものをその目で見るべきだと。軍に入隊したきっかけも、それだ。王族ではなく軍人として見る世界がどういうものなのか、知りたかった。当時はこの国を象徴するものが戦だと思っていたからな。だが、今は違う。貴殿たちと出会ったおかげで、視点が変わった」
「俺も同じだ。婚姻と和平など突拍子もない非現実的なものだと思ったが、この国に来て変わった」
 ネフェリアはニッと笑い、スクネを真っ直ぐに見た。アクアマリンの瞳が光を孕んで、女神の海のような広がりを見せた。なんだか現実感がない。これは本当に今起こっていることだろうか。
「さて、リーズの言った通り、わたしたちのことを明快にしよう。スクネ・バルーク」
 珊瑚色の整った唇が明瞭に言葉を発した。
「貴殿はわたしを妻に迎えるか」
 スクネは言葉を発さずに表情を消してネフェリアの顔を覗き込み、両手で頬を掴むように挟み込んで引き寄せると、荒っぽくその唇を塞いだ。
 ――答えなど、もう決まっている。
 挿し入れた舌にネフェリアのそれが触れ、首の後ろに腕が回される。スクネのうなじがぞくりと奮えた。
「…もう少し理性的な返答を想定していたが」
 その声の冷静さとは裏腹に、ネフェリアの瞳が微かに驚きを映している。どうやら意表をつくことには成功したらしい。
「君には散々振り回されているから、これくらいは許してもらわなくては」
「心外だな。誰が振り回しているって?」
 今度はネフェリアが胸ぐらを掴むようにスクネのクラバットを引き寄せ、唇を重ねてきた。
(ああ、現実だ)
 肌に伝わる熱が、触れ合う舌の感触が、そう言っている。
 スクネはネフェリアの腰を抱き寄せて、覆い被さるようにそれに応えた。
 今はみな食卓を囲んで話し合いの途中だ。ネフェリアは食事も最後までは終えていない。しかし――
「戻るか?」
 と、ネフェリアが唇が触れ合う距離で囁いた時、スクネはとうとう分別ある返答を諦めた。
「…君を部屋に連れて行く」
 言うなり、喉の奥で笑い声をあげるネフェリアを横向きに抱き上げ、そのまま中庭を突っ切って別棟へ向かって行った。

「戻っていらっしゃいませんね…」
 食後の紅茶に口を付けながらキセが言った。先程から心配そうに扉をちらちらと見ている。
「察してやれ」
 テオドリックは空になったコーヒーカップを置き、溜め息混じりに言った。正直、もう考えるのが面倒くさい。
「あ。では、仲直りができたのでしょうか」
 キセがぱあっと顔を輝かせると、シダリーズがふふ、と静かに笑った。
 アニエスとガイウスは顔を見合わせてニヤリと笑い、二人揃って意味ありげな視線をキセに送った。
「まあ、それ以上でしょうね」
「そうね。もう戻られないでしょうから、‘謀略会議’はここまでね」
 アニエスが含み笑いをしながらナプキンをテーブルに置いた。キセはすっかり元通りになったらしいコルネール兄妹に向かって花が咲いたような笑顔を向けた。
「アニエスさまとガイウスさまも、仲直りできてよかったです」
 アニエスはちょっと頬を赤くして、隣のガイウスを怒ったように一瞥し、冷たく言った。
「わたしは殴られたこと、まだ許してないわ」
「殴られた?」
 オベロンがガイウスに咎めるような視線を投げた。
「女性に手を上げるなんて、言語道断ですよ」
「ごもっとも。お恥ずかしい限りです」
 ガイウスが年若いオベロンに向かって神妙に顎を引くと、アニエスはころころと笑い声を上げた。
「お優しいオベロン殿下。でもわたしも殴り返しましたから、屋敷に帰って決着を付けますわ」
「もう御免だ。お前の一発は効いた」
 けろりと冗談を言うアニエスと苦り切った様子のガイウスがおかしくて、キセとシダリーズは堪らず吹き出した。

 同じ頃、スクネは自室のベッドの天蓋を下ろし、ネフェリアの身体をベッドに組み敷いていた。
 軍服の上衣は部屋に入ってすぐ剥ぎ取ってしまったから、ネフェリアの上半身を隠すものは襟のない丸首のシャツ一枚になっている。短い袖から覗く腕にはしなやかな筋肉が付いていて、どれほどの訓練を積んできたのか、その肢体を見れば一目瞭然だ。力比べをすればスクネが勝つだろうが、力尽くでこの腕の中から抜け出ようと思えばネフェリアには容易いだろう。が、そうやって拒絶する素振りはなく、その美しい筋肉に覆われた身体が、とても紳士的とは言えないスクネの行為を受け入れている。まるで彼女もその先を望んでいるように。
 シャツの下に手を滑り込ませる前に、スクネは申し訳程度の理性を働かせて、ネフェリアの唇から自分の唇を僅かに離した。
「――もう一度聞くが、いいんだな」
「また聞くのか」
 ネフェリアは辟易したように言った。スクネが眉間に谷を刻んで、どこか縋るような目で見つめてくる。
「伝わらないものかな。わたしは貴殿を好きだと言っているのだが」
 とつ、とスクネの心臓が打った。思春期のような高揚感だ。
 多分、ネフェリアは本心を言っている。アクアマリンの瞳が暗く翳り、スクネの姿を映している。しかし、それでは足りない。
 美しく気高いネフェリア・ジュヌヴィエーヴ・アストルの全てが欲しい。
 全く、自分がこんなに強欲になれるとは思ったこともなかった。こんな風になるのが怖かったから、あの日以降、もう抱かないと決めたのだ。ただの友情を結ぶには、ネフェリアは魅力的すぎた。
 もう一度抱いたら、二度と手放せなくなる予感があった。今まさにそれが実現しようとしている。
「もう絶対にやめないぞ。君を国に連れて帰って妻にするし、場合によっては俺の子の母親にもなってもらう」
「‘場合によっては’?」
「そうだ。場合によっては」
 珍しい言い回しだ。ネフェリアはちょっとおかしくなった。
 暫く腹をひくひくさせた後、両腕を伸ばしてスクネの首に巻き付け、自分から唇を重ねた。
「自分が母親になるのを想像したことはなかったが、スクネの子なら産みたいかな」
「では、俺の子を授かってくれ」
 スクネはネフェリアのシャツの裾から手を中へ滑り込ませ、素肌に触れた。初めて触れたときよりも身体が熱く感じる。
「いいぞ。ただし、後生、妻はわたし一人だ。貴殿がお父上のように複数の妻を持ったとき、わたしが剣を抜かないという保証はない」
 スクネは込み上げてくる嬉しさを噛み殺しきれず、ネフェリアに向かって破顔した。そういう悋気をネフェリアが自分に向けてくれるのが、ひどく嬉しいと感じた。
「俺は、君しかいらない。ネフェリア」
「では、交渉成立だ」
 ネフェリアが笑った。またあの屈託のない顔だ。きらきらと瞳が輝いている。
 短くはない口付けの後、スクネがネフェリアのシャツを裾から捲り上げて胸を覆っている下着ごと頭から抜き取ると、ネフェリアもスクネの上衣を脱がせ、白いシャツのボタンを外し始めた。
(ああ、これはまずい)
 すっかり虜にされてしまった。
 ネフェリアの細長い指が胸に触れ、そこから這い上がって肩に触れ、スクネの服を剥いでいく度、自分でも戸惑うほど身体が熱くなる。
 長い金色の睫毛が伏せられて目元に伸び、柔らかい唇が胸に触れた瞬間、スクネは堪らずネフェリアの両手を掴んでベッドに押し付け、噛み付くように細い首筋に吸い付き、露わになった美しい乳房に触れ、そこにキスをした。頭上でネフェリアの吐息が甘く変化し、自由になった手で愛おしむように髪を撫でてくる。
 ネフェリアのベルトを外す時、金具を壊したかも知れない。何か小さな金属の部品がどこかに飛んで落ちる音がしたが、そんなことはもうどうでもよかった。口付けの合間に吐息だけで小さく笑ったところから見てネフェリアも気付いているだろうが、彼女もベルトのことなど気に留めなかった。
 愛撫の時間は、長くは取れなかった。互いにとてもそんな余裕がない。が、ネフェリアの中は既に濡れて、奥までスクネの指を受け入れ、甘やかな絶頂の証しに内部を収縮させている。
「悪い、ネフェリア…。もう入りたい」
 ネフェリアはアクアマリンの瞳を柔らかく細め、スクネの腰に両手を巻き付けてその身体を引き寄せると、唇を重ねてきた。全身に火が付くようなキスだ。
 スクネは舌を絡めたままネフェリアの腰を掴んで奥まで入った。
 喉の奥でネフェリアが心地よさそうに唸り、腰をうねらせてスクネを奥まで誘い込む。その熱で全身が溶かされてしまいそうだ。
 この果てしない快楽と愛おしさに溺れながら、スクネはもう一つの予感を持った。
 多分――いや、確実にこれは、尻に敷かれる。
 それもいい。
 ネフェリアのような高潔な女なら、喜んで尻に敷かれてやろう。
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