獅子王と海の神殿の姫

若島まつ

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七十二、決意と真実 - la détermination et la vérité -

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 抱き寄せられた肌からテオドリックの鼓動を感じる。肩を上下させて強く抱きしめてくるテオドリックを、キセは抱き返した。この時、特に何の意識もなく、ただ何となくテオドリックの頭を慰めるようにそっと撫でた。
「…なんだ」
 と問われて初めてキセは理由を考えた。
「ええと、何故か…泣いているのかと思ったのかもしれません」
「馬鹿を言え」
 そう言いながら、テオドリックはキセを抱きしめたまま顔を上げようとはしない。キセはちょっとおかしくなったが、同時に胸が切なく締め付けられた。
「ご心配をおかけして、すみません」
 キセは大きく硬い背を抱えるようにして撫で、肩に預けられたテオドリックの頭に頬を擦り寄せた。
「本当に、あんたを失うかもしれないと思ったら寿命が縮んだ。二度と御免だ」
「実はちょっと、諦めかけました」
 と、キセは静かに言った。
「あの場で自分が犠牲になって、あなたとの結婚がだめになっても、あなたとお兄さまなら和平を叶えられるって、それさえ叶えばいいって、考えました。あなたの妻になるって確かに心を決めたのに、どこかでずっと、王妃という役目を負うのはわたしじゃなくてもよいのではないかという思いが、引っ掛かっていたのかもしれません」
 テオドリックは身体を起こそうとしたが、キセは頬をそっと撫でて制した。テオドリックは文句を言うのをやめ、キセのさざなみのような声に耳を澄ませることにした。
「――でも、だめでした。あなたの言う通りです。祈るだけでは救えないものがあります。絶望の淵で祈りを捧げたら、女神さまが答えに導いてくださいました」
「答えって?」
「あなたです、テオドリック」
 あの時祈りの中で見つけた答えはきっと、自分の中にずっと在ったものだ。女神が発した言葉は、自分自身の言葉でもあった。
「テオドリックはわたしが必要だと、一緒にいて欲しいとおっしゃいました。他の誰でもなくわたしがテオドリックの隣に立ち続けることで、テオドリックがテオドリックとして幸福であり続けられるのならば、わたしはそのために最善を尽くします。わたしも、隣にあなたがいて欲しいです。わたしはテオドリックの光だと言ってくれました。でも、あなたこそわたしの光です。もう二度と離れても大丈夫なんて、思いません。何があっても、あなたを離しません。絶対です」
 テオドリックは顔を上げた。
 キセの瞳が新月の夜空のように輝いて、まばゆい。
 幸せそうに微笑んだキセが、この世の何より美しいと思った。
「愛しています、テオドリック。あなたの人生と、あなたが大切に想うものを、わたしにも分けてください。わたしを――」
 と、キセはテオドリックの左手を両手に包み、その甲に羽が触れるようなキスをした。
「あなたの妃にしてください」
 テオドリックは言葉も出せずにキセの腰を引き寄せて抱き上げると、湯船の中におろして壁際に追い詰め、めちゃくちゃにキスをした。
「何よりも愛してる。俺の妃」
 今にも泣き出しそうな目をしながら、テオドリックは少年のように笑った。
 ぎゅう、とキセの心臓が痛くなる。テオドリックがこんな顔を見せるのは自分だけだ。こんなに格好いい人を可愛いなんて思うのは、おかしいだろうか。
「大好きです」
 嬉しそうに弧を描くテオドリックの唇に、キセは自分からちょん、とキスをした。離れようとすると、物足りなさそうにテオドリックの唇が追いかけてくる。
(かわいいひと)
「ふふ」
 キセはおかしくなって笑い声を上げたが、すぐにまたテオドリックの愛撫に全身を蕩けさせられ、二人揃ってのぼせるまで愛の行為に没頭した。

 テオドリックがぐったりと動けなくなったキセを担いで彼女の寝室へ戻ると、長い髪を後ろで引っ詰めてオリーブ色の地味なドレスに身を包んだ女がベッドの側に立っていた。女の傍らに置かれた木製のワゴンに、薬瓶や摺鉢や清潔な布などが整然と並べられている。
 女がこちらを振り向いて猫のような目を向けた時、キセはそれが誰だかわかった。
「アニエスさま」
 化粧を落としているせいかずいぶん幼顔に見えるが、間違いない。
「やだ。ちょっと、本気で?まったく、呑気ね」
 アニエスが大いに呆れた様子で宙を仰いだ。この理由を、キセは分かっている。今の今まで二人が何に耽っていたか、アニエスにはお見通しなのだろう。首から下にいくつも付けられたキスの痕は、室内用の地味な白いドレスではとても隠せていない。キセは顔を赤くした。
「何をしに来た」
 テオドリックは刺すように言った。
 王太子の居城にのこのこやって来てこの無礼な言い草は、普通なら処断されているところだ。が、アニエス・コルネールには多少の恩義がある。テオドリックは苛立ちながらもこの不遜な態度を大目に見ることにした。
 しかし、アニエスは別段気にする様子なく肩をすくめて言った。
「医師が必要でしょう?だから侯爵夫人を逃がした後でこちらに来たのですよ」
「ヴェロニク・ルコントを――逃がした?」
 テオドリックはキセを抱えたまま怒気を発した。あの屋敷にいたのなら捕縛して泥の道の事件のことも尋問できたはずだ。それをわざわざ逃がしたとは、裏切りにも等しい行為だ。
 アニエスは面倒くさそうに首を振った。
「ああ、その話は後です、殿下。キセ姫の傷を診ますから、まずはベッドに下ろしてくださいます?」
 テオドリックはキセを抱えたままアニエスを静かに睨め付けた。この女を信用するのは、やはり軽率な気がする。
 これに痺れを切らしたのは、アニエスだ。
「わたしは医師です、殿下。仕事をさせてもらえないなら帰ります。言っておくけど一階の重傷患者の方は念のため朝まで医師がついている必要があるから、今キセ姫を診られるのはわたしだけですよ」
 キセはテオドリックの首に頭を擦り寄せた。
「わたしからもお願いします、テオドリック」
「…わかった。ここにいるからな」
「はい」
 とニッコリ笑ったキセをそっとベッドに下ろすと、テオドリックは寝室の隅に置かれた一人掛けのソファに腰を下ろした。
「アニエスさまもお医者さまだったなんて、驚きました。わざわざ、わたしの手当てのために来てくださったのですか?」
 キセはワゴンから陶器の薬瓶を取り出して準備を始めたアニエスに訊ねてみた。
 アニエスはくっきりした大きな目を眇め、つんと澄まして言った。
「兄と違ってわたしは本物の医師よ。わたしの計画にあなたが巻き込まれたんですから、これくらいはしてあげないと寝覚めが悪いじゃない。わたしのためよ」
「それでも嬉しいです。ありがとうございます」
 アニエスはキセの足の裏にできた小さな切り傷に小さなヘラで草を潰したような緑色の軟膏を手際良く塗っていく。その様子を興味深げに見守るキセに向かって、アニエスは顔をしかめて見せた。
「…あなた、何かわたしに聞きたいことがないわけ?」
「聞いてもよろしいのですか?何かお考えがあってのことと思って聞かずにいたのですが」
 アニエスは次にワゴンから包帯を取り出して、大きく溜め息をついた。
「わざわざわたしが遠ざけるような態度を取ってたのに、信用したって言うの?」
「嫌われているのかなとは思っていたのですが…最初からアニエスさまのことは信じていましたよ」
「…お人好しにしたって、度が過ぎるわ」
 キセへの辛辣な言いざまに、後ろで聞いていたテオドリックはひどく苛立った。が、まあ、それは一理ある。キセはお人好しだ。アニエス・コルネールの驚くべき無礼さなど気にも留めず、花が咲くような笑顔で語りかけるほどに。
「ふふ。なんとなく、アニエスさまは一途な方のような気がして」
「だから裏切らないって?」
「はい」
「あんな脅し方をしたのに」
 くるくると足に包帯を巻き、アニエスが不満げに呟いた。
「閉じ込められた部屋に見えた時、アニエスさまはその先に起きることを教えてくださいました。あれは、手掛かりだったのですよね。話もできず身体も動かなくなるとおっしゃいましたけれど、そうではありませんでした。侯爵夫人の意図と違うことが起きていると分かったので、逃げ出せました。替えのお香は、偽物だったのではないですか?」
「そうよ!あの女狐にバレないよう入れ替えるの、大変だったんだから」
 ちょっと怒ったように言ったアニエスの頬が、少し赤くなっている。
 アニエスはワゴンから小さな白い布の包みを取り出してテオドリックに歩み寄り、「これを」と、面前に差し出した。
「主成分はオピウムの一種。他にも色々混ざっています。煙でも効果十分だけど、飲めばもっと毒性が上がる。ヴェロニク・ルコントの違法行為を証明する材料になるわ。どう使うかは殿下にお任せしますけど」
 テオドリックは手のひらにそれを乗せ、不愉快そうに鼻に皺を寄せて、キセの手当てに戻っていくアニエスの背中に問いかけた。
「これを吸って、身体に害が残ったりはしないのか」
 声に不安が滲んでいる。
「ありますよ。毒ですから」
 アニエスは振り返りもせず、キッパリと言った。ちょっとテオドリックの反応を楽しんでいるふうでもある。
「ただし、常習的に吸い続けた場合です。キセ姫が吸っていた時間は長く見ても半日ほどですから、意識がはっきりしていて身体も自由に動くようなら問題ありません」
「それなら大丈夫だ」
 テオドリックは胸をなで下ろした。キセの身体がよく動くことは、先ほど自分が証明したばかりだ。この意図を悟り、キセはかぁっと顔を赤くした。
 アニエスは膝や脛にできた擦り傷や切り傷に丁寧に軟膏を塗って、ちょっと憂鬱そうにキセの顔を見た。
「…ヴェロニク・ルコントがいずれコルネールの名前を使うことは予想していたわ。だから、わたしに近づかないよう牽制していたのに、努力を無駄にしてくれちゃって」
「それは、すみませんでした」
 そう言いながら、キセは晴れ晴れと笑っている。アニエスは苦々しげに眉を寄せた。
「こんな目に遭って笑っていられるなんて、神経が図太いわね」
「ふふ。アニエスさまがわたしのことを思ってくださっていたのが分かって嬉しいんです。もしかして、あのキスも牽制のためですか?」
「あれはただの好奇心」
 キュッ。とアニエスがキセの脛に巻いた包帯を結んだ。
「好奇心…」
 キセは真意の計り知れないアニエスの茶色い瞳を探るように見つめた。アニエスはどこか挑戦的にその目を見つめ返し、少しだけ唇を吊り上げた。「分かってたまるか」とでも言いたげだ。
「どちらにせよ、あなたのためじゃないわ。…はい。終わったわよ」
「ありがとうございます。さすがお医者さまですね。包帯の巻き方がとてもお上手です」
「当然でしょ」
 アニエスはにこりともせずに言った。
「傷はどれも浅いけど念のため化膿止めを塗ったから、一日はこのままにしておいて。毎日入浴して傷を綺麗にしておくこと。これくらいなら跡も残らないわ」
 アニエスはひっつめた髪を解いてワゴンに薬瓶を戻し、さっさと寝室を出ようとした。
「待て」
 テオドリックが不機嫌な声色で呼び止めた。
「まだ話は終わっていない。あんたらには謎が多すぎる」
「だから、どういうことか説明しますよ。そろそろ兄も着いているはずです」
「呼んでいない」
「だってわたしが呼んだんですもの」
「頭が高いぞ、アニエス・コルネール!」
 テオドリックが一喝した。キセは臣下にこれほどの怒りをあらわにしたテオドリックを初めて見た。今までのどのテオドリックよりも王族らしい振る舞いだ。が、アニエスはまたしても面倒くさそうにシナモン色の髪を手櫛で整えながら口を開いた。
「わたしは医師として来たのですよ、王太子殿下。医師の前では、命に上下も善悪も優劣もありません」
「医師は最低限の礼儀も弁えられないのか」
「この部屋を出たら、臣下として対応しますよ。でも今は、医者と患者と、その付き添いです」
 アニエスはキッパリと言って王太子に背を向けた。
 テオドリックは不愉快極まりないというように鼻に皺を寄せてその後ろ姿を見送り、やけに口数の少ないキセへチラリと視線を移した。キセは祈るようにベッドに両膝を立てて両手を組み、頬を紅潮させ、目をキラキラと輝かせている。
「アニエスさま、格好いいです…。お医者さまとしての意識を高くお持ちで、ほんとうに素晴らしいです」
「あんたはもう少し怒るということを覚えろ。あれは王女に対する態度じゃないぞ」
「ですが、道理です。患者の命を最優先するならば、お医者さまは相手の身分を鑑みて忖度するべきではないと思います。それに、わたしだって怒ることはありますよ」
 はぁ、とテオドリックは小さく息をつき、苦笑した。
「そういえばそうだったな」
 キセが怒りを露わにしたのは、テオドリックがキセの愛から逃げようとした時だ。
「あれはもう二度と起こらないと断言できる」
 テオドリックはキセに向かってニヤリと笑った。
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