獅子王と海の神殿の姫

若島まつ

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七十一、エメラルドの海 - la mer d'Émeraude -

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 テオドリックはしゃくりあげるキセをあやすように抱き締め、震える背中をさすってやった。ついさっきネフェリアに向かって気丈に応えていたキセとはまるで別人だ。
 キセにこんな目に遭わせた奴らは、全員ただではおかない。死よりも酷い屈辱を与えなければ気が済まない。
 そして、同じくらい自分も許せなかった。シダリーズに忠告を受けていたというのに、まんまとキセを誘い出された。アニエス・コルネールが裏切っていないとしたら、彼女のキセへの態度には何らかの意図があったのではないか。その可能性を考えつきもしなかった。
 窒息しそうなほどの愛おしさと自己嫌悪で、全身が押し潰されそうだ。
 キセの呼吸が落ち着いてくると、テオドリックはそっと身体を離し、涙でぐしゃぐしゃに汚れたキセの顔を指で拭ってやった。黒く長い睫毛が濡れ、目は腫れて、鼻が赤くなっている。
「あなたの手も、傷付いてしまいました」
 キセが鼻声で言ってテオドリックの右手をそっと包み、赤く痣になった部分に労るような口付けをした。思い切り泣いていたせいか、触れる唇の温度がいつもより高い。
「こんな時に俺の心配などしなくていい。それより、まだ治まらないなら気が済むまで泣いていいぞ。誰も見ていない」
 キセは頬を赤くして俯き、スンスンと鼻を鳴らして、再びテオドリックの胸に顔を押し付けた。
「…あの、もう大丈夫です。けど、その…顔を見てはだめです」
「それじゃ涙を拭いてやれない」
「い、いいです。それより、…もっと強くぎゅうってして欲しいです」
「ん」
 テオドリックは望み通りキセの身体を軋むほど強く抱いた。

 この頃、レグルス城は恐慌状態に陥っていた。
 馬車で襲われて重傷を負ったジャンが助けを求めるため自力で城へ戻ろうとし、辿り着けずに城下の往来で腹から血を流しながら意識を失っていたのだ。
 彼を見つけたのは、シダリーズの要請で動いたネフェリアの隊の兵士たちだった。
 キセと一緒に出かけたはずのジャンが意識を失い血まみれの状態で城に戻ったところに居合わせ、シダリーズは激しく取り乱した。
「ああ、わたしのせいです。やっぱり止めればよかった。何かおかしいと思ったのに…」
 シダリーズがぽろぽろと流す涙をテレーズはやさしくハンカチで拭いてやり、母親のようにそのふくよかな胸に抱き締めた。
「シダリーズさまのせいじゃありませんよ。むしろ、あなたさまのおかげで軍が早く動いてくださったのですから、そんなふうにお泣きにならなくていいんですよ。きっとすぐにお戻りになりますわ。ね、シダリーズさま。きっと大丈夫です。大丈夫ですよ」
 それからシダリーズは食事も取らず、テレーズが用意した膝掛けも使わずに、エントランスから動こうとしなかった。広いエントランスの隅で膝を抱えていると、外が俄かに騒がしくなった。
 間もなく扉が開いて、使用人たちがバタバタと主人の帰還を迎えた。テオドリックの腕には、意識のないキセが抱かれている。
「キセ…!」
 顔面を蒼白にして駆け寄ってきたシダリーズを、テオドリックが静かな視線で黙らせた。
「大丈夫だ。寝かせてやってくれ」
「ああ」
 シダリーズは安堵して、その場にへたり込んだ。
「よかった…」
「リーズ、助かった。恩に着る」
 シダリーズは震える手で目元を拭い、小さく頷いた。
「護衛の方は、今広間で医師が診ています。すぐそちらにも――」
「ジャンの手当てが優先でいい。キセが気に病む」
 テオドリックが三階のキセの寝室へ上がっていくと、既にテレーズが湯を張ったたらいと清潔な布と、キセの新しい寝衣を用意して待っていた。
 テレーズはすごい。と、テオドリックは密かに思った。この乳母がいつもと変わらない自然な陽気さでニッコリと笑うだけで、肩の力が抜ける。
「お待ちしていましたよ。あとはわたくしがいたしますから、殿下はお風呂にお入りなさいませ」
「いや」
 と、テオドリックは硬い声で言った。
「全部俺がやる。俺の着替えをここに持ってきてくれるか」
 テレーズは優しく笑って頷き、音を立てずにキセの寝室を出ていった。
 テオドリックはキセをベッドにそっと下ろし、足の裏を湯に濡らした布で拭ってやった。布が土と血で汚れ、きれいになった白い皮膚に小さな生傷がいくつも現れる。
 余計なことは何も考えないようにした。そうでなければ、また激しい怒りが沸いてきそうだ。今はキセのことだけ考えていたい。
 足の裏をきれいに拭き終え、はぎを拭い始めた時、キセが小さく唸って目を開け、跳ね起きた。
「ひゃっ、わあ!テオドリック!ああああの、こ、これは…」
「まだ寝てろ。きれいにしてやるから」
 キセの慌てぶりに苦笑しながら、テオドリックは張り詰めていた感情がほどけていくのをまざまざと感じた。キセの顔に血色が戻り、声にも生気が戻っている。
「い、いいです!大丈夫です!」
「…触られるのが怖いか?」
 テオドリックが眉の下を暗くしたので、キセは慌てて手をふるふると振った。
「ちが、違います。恥ずかしいんです…。傷だらけですし、汚れていますし、汗もかきましたし…」
 キセの頬が真っ赤に染まったのを見て、テオドリックは自分という男がつくづく忌々しくなった。いくらキセが可愛いからと言って、状況を弁えず真正直に欲情するなんて、まるで獣だ。
「…わたし、お風呂に入りたいです」
 頬を染め、ねだるような声色でキセが言った。愛おしさと罪悪感が胸の中で混ざり、ちくちくと心の理性的な部分を刺す。一瞬の沈黙の間、今はこのまま近くにいない方がキセのためになると、テオドリックは判断した。
「わかった。運んでやるから、あとはテレーズに――」
 立ち上がったテオドリックの袖を、キセが引いた。馬車で袖を引かれた時よりも強い力だった。
「テオドリックがいいです」
 その頼りない瞳に、とつ、とテオドリックの心臓が跳ねた。
「まだ――触られた感触が消えなくて…」
 キセが顎を震わせた瞬間、テオドリックは無言でキセを抱き上げた。
 寝室を出たところで目を丸くしたテレーズに鉢合わせたが、何も言わずに通り過ぎた。
 キセはあっという間に湯気の立つ浴室へ連れ込まれ、大きな陶器の浴槽の縁に座らされた。テオドリックが腕の中にキセを閉じ込めるように浴槽に両手をつき、白い石張りの床に膝をついて、下から苦悩するようなエメラルドの瞳で見つめてくる。どうしてか、テオドリックの方が泣いてしまいそうに見えた。
「…言っておくが、洗ってやるだけでは済まないぞ」
「はい」
 キセはテオドリックの手に自分の手を重ねた。
「テオドリックでいっぱいにしてください」
 頭の中で何かが崩れた。気付いた時にはキセの唇を奪うような激しさで覆い、舌を潜らせ、上衣を剥いでいた。
 気が狂いそうだ。アンダードレスの袖から伸びる細い肩と白いかいなを見た男の目を潰してやりたい。この肌に傷をつけたやつを全員皮を剥いで吊るしてやりたい。震える手で救いを求めてくるキセを、骨の随まで溶けるほど甘やかしてやりたい。この女のためなら、何だってできる。
「愛してる、キセ」
 喉がひりついた。キセの黒い瞳が再び涙で潤んでいる。
「もう二度とこんな目に遭わせない。俺があんたを守る」
「わたしも――」
 キセはテオドリックの頬を両手で挟み、唇にささやかなキスをした。
「あなたを守れるくらい、もっと強くなります」
「もう十分だ」
 キセには、もう救われている。この光を近くに感じるだけで、強くいられる。
 キセはアンダードレスを脱がされた後、テオドリックが下着に手をかけてもいつものように羞恥に身をよじることはなかった。
 早く奥まで触れて欲しい。他の誰かの感触も、恐怖も、絶望も、テオドリックの温もりに包まれると蒸気と一緒になって空気に溶けていくような気がする。
 でも、もっと。隙間もないほどに満たしてほしい。
 この渇望とも呼ぶべき衝動が、キセをいつもより大胆にした。
 キセは縁に座ったまま湯の中に足を下ろし、自分からテオドリックの首に腕を巻き付けてその身体を引き寄せ、湯船の中へ誘った。
 テオドリックはブーツを乱雑に脱ぎ捨てて床へ放り出すと、着の身着のまま湯船に入ってキセに口付けをした。
「傷、沁みないか」
「だいじょうぶです…」
「それで、どこを触られた」
 キセは恥じ入ったように目蓋を伏せ、小さく唇を動かした。
「腕と、脚と、…首を舐められて、あと、胸も…下着の上から掴まれました」
 ――殺しておけばよかった。と、テオドリックは少なからず後悔した。怒りがピリピリと神経を過敏にさせる。
「きれいにしてやる」
 その後のテオドリックの手つきは、荒っぽいようでいてひどく優しかった。
 テオドリックの手がキセの首筋を撫で、肩に触れ、優しく乳房へと降りてくる。先端をテオドリックの唇に包まれ、舌につつかれると、唇から甘い声が漏れた。じわじわと大きくなる快楽に呼応して、腹の奥から欲望が溶け出してくる。
「んっ…あ」
 キセは胸をくすぐるテオドリックの柔らかい髪を抱きしめるように掴んだ。
 乳房や首筋にいくつも痕を残されても気付かないほど、キセはこの触れ合いに夢中になった。温かくて、気持ちいい。
 ドレスを着る時に困るかもしれない。と、テオドリックが一瞬だけ理性的を取り戻した時には、キセの身体中に花びらが散ったように赤い跡が付いていた。
(構うものか)
 テオドリックは髪を掴むキセの手を握り、顔を上げた。夜空のような瞳が幸せそうに潤んで輝き、目の前の男が好きで堪らないと、その顔が語っている。
「俺も脱がせて」
「んっ…はい」
 今度は啄むような優しい口付けだった。キセもテオドリックの唇をぺろりと舐めて舌を潜り込ませ、テオドリックのシャツのボタンを外して肩から滑り落とした。
 冷えた身体に熱が蘇る。
 突然テオドリックが湯船の中に膝をついてキセの細い足首を掴み、足の甲に唇を寄せた。キセは驚いて脚を引っ込めようとしたが、テオドリックは離さなかった。
「て、テオドリック…ひゃっ!」
 くすぐったい。
 足の指の間を舌が這い、唇が指に吸い付いてくる。
「き、汚いですから、やめて…」
「きれいにしてやると言っただろ」
「でも、これは――あ!だめ…」
「本当に?」
 舌が足首へと這い、ふくらはぎへと這い上がってくる。鈍い金色の髪の奥で緑色の虹彩が光り、こちらを見上げてくる。この強い瞳に囚われてしまったら何も考えられなくなる。
「――だ、…だめじゃないです。もっと…」
 跪くテオドリックの目が細まった。
「俺にこんな奉仕をさせられるのはあんただけだぞ、キセ」
「んんっ…。はい…。わたし以外には、してはいやです」
 キセは声を上擦らせ、身体を這い回る火花を持て余した。火がついたように顔が熱い。どんな顔をしているのか、わからない。
 脚に口付けていたテオドリックの唇が離れたと思った瞬間、テオドリックが立ち上がってキセの身体を抱き締め、乱暴とも思えるほどに噛み付くようなキスを仕掛けてきた。
「…くそ。可愛すぎる」
 そう呟いて頬を上気させたテオドリックが煩わしそうにズボンを脱ぎ捨てるのを、キセは爆発しそうな心音を身体の内側から聞きながら見た。
「ひゃ!あっ――」
 座ったまま膝を持ち上げられ、テオドリックが中に入ってくる。大して触られてもいないのに、キセの身体はすんなりとそれを受け入れた。
「んぁ…!」
「濡れすぎ。足、気持ちよかったのか?」
 テオドリックがちょっと意地悪な笑みを浮かべて額にキスをした。
「んっ、あ、い、言わないでください…」
「恥ずかしい?」
 テオドリックが腰を引いて更に奥まで入ってくると、キセは熱い息を吐いて小さく頷いた。
「俺でいっぱいにして欲しいんだろ」
「う、はい。でも、…っ」
 キセは身体の奥を容赦なく攻め立てられ、爪が食い込むほどテオドリックの背中にしがみ付いた。苦しいほどの快楽が身体中に花開いて、テオドリック以外の痕跡を消していく。
 テオドリックは大きな手で柔らかな乳房を覆い、届くところ全ての肌にキスの雨を降らせながら、キセの中で律動した。
「あっ…!テオドリック…!」
 気持ちいい。
 繋がった場所から熱が生まれて、恐怖を浄化していく。触れ合う肌が、肌に感じるテオドリックの荒い息遣いが、冷たい暗闇を溶かしていく。
 愛おしい。愛おしくてどうにかなってしまいそうだ。
 キセがテオドリックの頬を引き寄せて唇を重ねると、身体の奥でテオドリックの一部が更に大きくなってキセの内部を押し上げた。
「――ッ、キセ…」
「テオドリック、テオドリック…愛しています」
「俺も」
 ぐ、と最深部を打ち付けられ、キセは悲鳴を上げた。
「もう誰にも触れさせない。俺以外には、誰にも――」
「…っ、はい。あなただけです」
 腰を強く引き寄せられ、重ねられた唇の中で舌を激しく絡められ、二人の境界がどこに存在するのかも分からなくなると、テオドリックにもたらされる深く強い快感がキセを絶頂へ導いた。
 美しい顔を快楽に歪め、獣のように呻いてキセの内側を満たすテオドリックが、堪らなく愛おしい。そして愛おしくて堪らないと語りかけてくるエメラルドの海のような瞳に、いつまでも囚われていたい。
「好きです。テオドリック」
 キセはテオドリックの高い鼻に自分の鼻を擦り寄せて、恍惚と呟いた。
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