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六十八、心の神殿 - l’abîme -
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頭が重い。
全身が何か悪い病に罹ったように熱く、思うように動かない。
意識が靄に覆われたようにはっきりせず、なぜ自分が再びベッドの上に横たわっているのか考えるのも億劫になった。心にあるのは、ただ一事だ。
「テオドリック…」
声になっていたかもわからない。
困ったことになった。
と、底知れぬ恐怖の中、頭のどこかで呑気な自分が呟くのを聞いた気がした。
(わたしとジャンさんに何かあったら、テオドリックが傷つきます…)
キセは唇を微かな力で動かした。ほとんど無意識のうちに、オスイア神への祈りを古代の言葉で繰り返し唱えていた。
きっとテオドリックは自分を責めるだろう。テオドリックには、笑っていてほしい。ただでさえ責任感が強く己を顧みない人だから、せめて自分のことを思うときは、幸せな気持ちになってほしい。たとえば自分が先に人生を終えたとしても、二人の思い出は幸福で溢れるものであってほしい。
だからこそ、こんなところでは終われない。何が何でもテオドリックのもとへ無事に帰らなければならない。
「馬鹿な子」
と、鈴の鳴るような声が落ちてきた。
キセはぼんやりと目を開いて扉の前に佇む人影を見つめた。
いつからいたのか、その貴婦人はアヤメ色の腰から広がるドレープの美しいドレスを着て、片手に花模様の美しい陶器の香炉を持ち、こちらを観察するように見眺めている。
「アニエスさま…」
自分でも驚くほど小さく、掠れた声が出た。
「なぜ来たの」
アニエスはこちらへ近づきながら、眉を寄せて猫のような目を不愉快そうに眇めた。キセは目だけを動かしてアニエスの持つ香炉から立ち上る白い煙を見た。――馬車と同じ匂いがする。
キセは重い口を開いた。
「アニエスさまと、もっとお話がしたかったんです…」
「冗談でしょう。あんなに邪険にしたのに」
「ですが、アニエスさまはわたしに興味をお持ちでした。ですから、仲良くなれるかなって…」
「だからあんな招待状にホイホイ付いてきたとでも?」
キセは顎を引いた。
「…ジャンさん――わたしと一緒に馬車にいた方はどちらですか」
「わからないわ。わたしはあなたが来ているのもさっき知ったばかりよ」
冷たく言って、アニエスは香炉をマントルピースの上に置いた。
口調こそ冷たいが、アニエスは真実を言っているとキセは思った。ジャンのことが心配で、胸がぐるぐると気持ち悪くなる。こみあげてくるものを堪え、生唾を飲み込んだ。
アニエスはすぐにマントルピースから離れてベッドの脇に立ち、力なく横たわるキセを見下ろした。顔を覆えるほどの大きさの真っ白な布をドレスのポケットから取り出して鼻から下を覆い、後ろで縛った。この様子を見て、キセは静かに口を開いた。
「…これは、オピウムでしょうか」
「花の園で、あなたは鼻が利くって侯爵夫人が知ってしまったから、いろいろ混ぜたのよ」
「なるほどです。アニエスさまは大丈夫なのですか」
「ずっと吸い続けなければ影響はないわ。わたしは替えの香炉を持っていくよう侯爵夫人に言われただけだし」
「よかったです…」
それならアニエスの身体に悪影響が出ることはなさそうだ。
キセが心底ほっとして呟くと、アニエスは不快なものを見るように眉間に皺を寄せ、「やめて」と声を荒げた。
「この期に及んで、聖人ぶるのはやめてちょうだい」
キセは穏やかな表情のまま、ゆっくり首を振った。
「聖人ではありません。元オシアスで、イノイルの王女で、テオドリックの妻です」
「もう王太子妃気取りというわけ」
「いいえ。他の誰でもない、テオドリック・レオネの妻になるのです」
消え入りそうな声なのに、毅然とした態度だ。
この時アニエスが見せた表情を、キセは読み解くことができなかった。彼女の顔をじっくり観察するには、意識がぼんやりし過ぎている。
「…あなたはイノイルに帰るべきだわ」
「わたしが帰るところは、テオドリックのもとです」
「まさか、本気で?そんなに王太子殿下が好きだというの?あの馬鹿げたロマンスが実話だとでも?」
アニエスは甲高い声で嘲笑った。
「信じないわ。あなたは政略の生贄として、女神の元から堕落させられたのよ。男たちの、道具として」
キセは全身にじっとりと汗をかいた。だが、これはアニエスの言葉とは関係ない。アニエスの持ってきた香の煙が作用しているからだ。
(生贄?)
アニエスはどうしてそんなことを言うのだろう。頭に霧がかかって思考を巡らせることができない。
「…わたしが、もし――」
キセはアニエスの顔をまっすぐ見上げた。何故か、アニエスの茶色い瞳が、どこか哀しそうだ。
「生贄だとしたら、こんなに慈悲深い神さまはいません。だって、生贄でさえこんなに幸せなのですもの。ぜんぶうまくいく気がしませんか?」
「あきれた。このカラス娘」
アニエスは吐き捨てるように言ったが、キセはにっこりと目を細めた。
「ふふ、嬉しいです…」
「罵ったのよ」
「はい。でも、カラスは賢くて逞しくて美しい鳥ですし、神聖な存在でもあります。嬉しいですよ」
アニエスは眉間に皺を寄せ、忌々しげにキセを睨めつけた。
「アニエスさまがこうしてたくさん話してくださるのも、嬉しいです。本当の心を見せてくださっている気がします…」
キセが力なく微笑むと、アニエスは不愉快そうな表情を変えずにキセの傍らに腰掛け、キセの耳元に唇を寄せた。
「…これから起きることを知ってもそんなことが言えるかしら」
キセは頭が枕に沈んでいくのを感じながら、アニエスのチョコレート色の瞳を見上げた。
鼻から下を布で覆っているせいか、茶色い双眸がより多くを語っている気がする。
「このまま香を吸い続けると、辛うじて意識を保ったまま身体の自由を失って、話すこともできなくなる。そこに侯爵夫人の僕が現れるの。彼らはあなたを花の園の貴婦人たちと同じように扱う。あなたを他の招待客と同じだと思っているから。彼らは持てる技術を駆使してあなたに快楽を与え、王太子殿下しか知らないこの清らかな身体を堕落させた後、他の招待客に捧げる。薬や酒に溺れて享楽の虜になった快楽主義者たちはあなたのように可憐な獲物をただではおかないわ。群がり、貪り、あらゆる手段であなたを犯す」
アニエスのほっそりした指がつ、とキセの首筋を這った。
キセは心臓がぐにゃりと歪んだ気がした。恐怖のためだ。脚を動かすこともできない。身体の自由を奪われても涙を堪えることができることに、キセは感謝した。喉の奥がひどく痛む。
「その後は、わたしは殺されるのでしょうか」
キセの問いに、アニエスは首を振った。
「意識を失ったあなたは、大勢の男たちと裸で寝ているところを王城の関係者に発見される。そして、聖女のような評判は地に落ち、婚約は解消され、娘を傷付けられたイノイル王は怒り狂って再び戦乱が戻る」
(そんな…)
キセは愕然とした。
自分を傷付けるだけの目的であればまだましだ。だが、収まろうとしている戦を再燃させ多くの犠牲を強いるなど、身も凍りつくほどの罪深さだ。そんなことは絶対に起こさせてはならない。
「アニエスさまの目的も同じですか」
「まさか。わたしはコルネールの不利益になるようなことはしないわ」
「でしたら、どうかご協力ください」
アニエスの目が細まった。これがどういう表情なのか、よくわからない。
この時、扉が静かに開いた。
現れたのは、まるで神話の女神のような赤い薄衣のドレスに身を包み、ゆったりと金色の髪を結い上げた官能的な貴婦人だ。
黒い蝶のような形の仮面で目元を隠しているが、キセには誰だかすぐに分かった。――ヴェロニク・ルコントだ。
「ごきげんよう。キセ王女殿下」
仮面の奥でヴェロニクがにんまりと笑った。
「侯爵夫人、どうかやめてください。あなたも恐ろしい罰を受けることになります」
「まだお喋りできる余裕があるのね。少し薬が弱いかしら」
ヴェロニクが首を傾げ、つかつかとベッドへ近づいて、キセの方へ身を乗り出した。甘いバラの香りがした。
「ご心配には及ばないわ、お優しい王女殿下。今夜わたくしはシェダル宮で国王陛下と褥を共にしていることになっているの。今頃陛下は亡くなった王妃さまの夢をご覧になっていることでしょうけど、朝お目覚めになったら、眠りについたときと同じように、隣にはわたくしがいる。わたくしの保証人は他ならぬ国王陛下よ。今夜ここで行われたことにわたしが関わっているなんて、誰も疑わない――疑えないわ」
そう言って、ヴェロニクはキセの身体を抱きしめた。
キセは全身をねっとりとした不快な恐怖が巡るのを感じた。身体が自由に動けば、激しく抵抗してこの腕から離れるに違いないが、不幸なことに力が入らない。
「可哀想な王女殿下。あなたがもっと愚かなら、この身だけは無事でいられたのに」
「わたしには、この身よりも大切なものがあります」
これは、キセのヴェロニクに対する宣戦布告のようなものだった。‘あなたとは違う’と、一線を引いたのだ。
ヴェロニクは冷酷な笑みを浮かべ、キセの背中に回した手でひとつずつ小さなボタンを外していった。
「…あなたが淫蕩の限りを尽くして公衆の面前に晒される時には今よりももっと意識が朦朧としているから、きっとそれほど恥ずかしい思いをしなくて済むわ。まあ、その後は地獄でしょうけど、あなたは自分を犠牲にできるのですものね」
ふふ、と楽しそうにヴェロニクが笑った。
「あなたは清純な顔をした淫乱なメス犬として蔑まれ、男たちに下品な目で見られるようになる。娼婦のように」
「そしてその代償に戦が始まるのですか」
「あら、そんなことまで話したの?」
ヴェロニクが悪戯した子供を叱るような調子で咎めると、アニエスは肩をすくめて見せた。
「楽しくなってしまったんですもの」
「悪い子ね」
ヴェロニクの赤い唇が弧を描いた。
「わたくしは地獄に堕ちるのかしら?オシアス」
「オスタ教の宗教観では、‘地獄’というものは存在しません。死者の魂はみな等しく海に還ります。善良で清い魂は女神さまの加護を受け、大海原に輝く存在になります」
「そうでない魂は?」
ヴェロニクがそう訊きながら、キセのドレスをするりと肩から滑り落とした。袖のない白のアンダードレスが辛うじて肌を隠しているが、あまりに頼りない。
二の腕を這う冷たい肌の感触が、キセはいやで堪らなかった。叫んで逃げ出したかったが、無様に恐怖に泣き叫ぶようなことはしない。これは、イノイルの王女としての矜持だ。
「――永遠に、孤独な海を彷徨います。救いもなく、愛も光もなく、暗黒の海に呑まれて、ひとり」
キセの眠たそうな声色が、夜の海のような静けさで響いた。
キセはまっすぐ見据えたヴェロニク・ルコントの冷たい色の瞳に、何故か動揺が浮かぶのを見た気がした。が、それはすぐに消え、いつものねっとりした笑みがその貌にのぼった。
「では余生を思い切り楽しまなければなりませんわね」
「楽しいですか?」
ああ、唇が重い。喉を震わせて声を発するという作業がこれほど困難に感じたことはない。
しかし、この細い声にヴェロニクは灰色の目を凍り付かせた。
「あなたのように悲しい方が真実の幸福を手に入れられるとしたら、わたしの受ける責め苦にも善い面があるということですね」
キセは穏やかに目を細め、小さく祈りの言葉を唱えた。
(女神さま、この方の魂をお救いください。わたしに何があっても、決して戦が起こることがないよう、お護りください。民を護る力をわたしにお与えください)
今夜自分の身に起こることが止められなかったとしても、きっとその先は回避できる。と、キセは確信している。
この身を汚されたくらいでは、テオドリックが決死の思いで結んだ絆は壊れない。ただ、そのために自分がテオドリックの妃として相応しくない存在となってしまったとしたら、喜んで身を引こう。それが和平のための最善の選択であるならば、本望だ。
テオドリックは出逢ったとき、自分たちは千年の戦を終わらせることができると言った。それは、夫婦という形でなくても実現できる。イノイルの王女として、エマンシュナとの絆を海の向こうから繋ぎ続ければ良いのだ。
(どうか、オスイアの女神さま。テオドリックの心を護る力を、わたしに――)
キセは目を閉じ、祈り続けた。
この時キセに起きた現象は、五年前、水以外の飲食を全て絶ち海に向かって三日三晩祈り続けるオシアスの修行をしたときと同じものだった。
割れそうなほど打っていた心拍がだんだんと落ち着き、次第に周囲の声が聞こえなくなる。すぐ側で会話しているヴェロニクとアニエスの声さえ耳に入らなくなった。
間もなくキセは心の奥の神殿に意識を閉じ込めた。やがて呼吸と祈りが同化し、精神と肉体が乖離した。
全身が何か悪い病に罹ったように熱く、思うように動かない。
意識が靄に覆われたようにはっきりせず、なぜ自分が再びベッドの上に横たわっているのか考えるのも億劫になった。心にあるのは、ただ一事だ。
「テオドリック…」
声になっていたかもわからない。
困ったことになった。
と、底知れぬ恐怖の中、頭のどこかで呑気な自分が呟くのを聞いた気がした。
(わたしとジャンさんに何かあったら、テオドリックが傷つきます…)
キセは唇を微かな力で動かした。ほとんど無意識のうちに、オスイア神への祈りを古代の言葉で繰り返し唱えていた。
きっとテオドリックは自分を責めるだろう。テオドリックには、笑っていてほしい。ただでさえ責任感が強く己を顧みない人だから、せめて自分のことを思うときは、幸せな気持ちになってほしい。たとえば自分が先に人生を終えたとしても、二人の思い出は幸福で溢れるものであってほしい。
だからこそ、こんなところでは終われない。何が何でもテオドリックのもとへ無事に帰らなければならない。
「馬鹿な子」
と、鈴の鳴るような声が落ちてきた。
キセはぼんやりと目を開いて扉の前に佇む人影を見つめた。
いつからいたのか、その貴婦人はアヤメ色の腰から広がるドレープの美しいドレスを着て、片手に花模様の美しい陶器の香炉を持ち、こちらを観察するように見眺めている。
「アニエスさま…」
自分でも驚くほど小さく、掠れた声が出た。
「なぜ来たの」
アニエスはこちらへ近づきながら、眉を寄せて猫のような目を不愉快そうに眇めた。キセは目だけを動かしてアニエスの持つ香炉から立ち上る白い煙を見た。――馬車と同じ匂いがする。
キセは重い口を開いた。
「アニエスさまと、もっとお話がしたかったんです…」
「冗談でしょう。あんなに邪険にしたのに」
「ですが、アニエスさまはわたしに興味をお持ちでした。ですから、仲良くなれるかなって…」
「だからあんな招待状にホイホイ付いてきたとでも?」
キセは顎を引いた。
「…ジャンさん――わたしと一緒に馬車にいた方はどちらですか」
「わからないわ。わたしはあなたが来ているのもさっき知ったばかりよ」
冷たく言って、アニエスは香炉をマントルピースの上に置いた。
口調こそ冷たいが、アニエスは真実を言っているとキセは思った。ジャンのことが心配で、胸がぐるぐると気持ち悪くなる。こみあげてくるものを堪え、生唾を飲み込んだ。
アニエスはすぐにマントルピースから離れてベッドの脇に立ち、力なく横たわるキセを見下ろした。顔を覆えるほどの大きさの真っ白な布をドレスのポケットから取り出して鼻から下を覆い、後ろで縛った。この様子を見て、キセは静かに口を開いた。
「…これは、オピウムでしょうか」
「花の園で、あなたは鼻が利くって侯爵夫人が知ってしまったから、いろいろ混ぜたのよ」
「なるほどです。アニエスさまは大丈夫なのですか」
「ずっと吸い続けなければ影響はないわ。わたしは替えの香炉を持っていくよう侯爵夫人に言われただけだし」
「よかったです…」
それならアニエスの身体に悪影響が出ることはなさそうだ。
キセが心底ほっとして呟くと、アニエスは不快なものを見るように眉間に皺を寄せ、「やめて」と声を荒げた。
「この期に及んで、聖人ぶるのはやめてちょうだい」
キセは穏やかな表情のまま、ゆっくり首を振った。
「聖人ではありません。元オシアスで、イノイルの王女で、テオドリックの妻です」
「もう王太子妃気取りというわけ」
「いいえ。他の誰でもない、テオドリック・レオネの妻になるのです」
消え入りそうな声なのに、毅然とした態度だ。
この時アニエスが見せた表情を、キセは読み解くことができなかった。彼女の顔をじっくり観察するには、意識がぼんやりし過ぎている。
「…あなたはイノイルに帰るべきだわ」
「わたしが帰るところは、テオドリックのもとです」
「まさか、本気で?そんなに王太子殿下が好きだというの?あの馬鹿げたロマンスが実話だとでも?」
アニエスは甲高い声で嘲笑った。
「信じないわ。あなたは政略の生贄として、女神の元から堕落させられたのよ。男たちの、道具として」
キセは全身にじっとりと汗をかいた。だが、これはアニエスの言葉とは関係ない。アニエスの持ってきた香の煙が作用しているからだ。
(生贄?)
アニエスはどうしてそんなことを言うのだろう。頭に霧がかかって思考を巡らせることができない。
「…わたしが、もし――」
キセはアニエスの顔をまっすぐ見上げた。何故か、アニエスの茶色い瞳が、どこか哀しそうだ。
「生贄だとしたら、こんなに慈悲深い神さまはいません。だって、生贄でさえこんなに幸せなのですもの。ぜんぶうまくいく気がしませんか?」
「あきれた。このカラス娘」
アニエスは吐き捨てるように言ったが、キセはにっこりと目を細めた。
「ふふ、嬉しいです…」
「罵ったのよ」
「はい。でも、カラスは賢くて逞しくて美しい鳥ですし、神聖な存在でもあります。嬉しいですよ」
アニエスは眉間に皺を寄せ、忌々しげにキセを睨めつけた。
「アニエスさまがこうしてたくさん話してくださるのも、嬉しいです。本当の心を見せてくださっている気がします…」
キセが力なく微笑むと、アニエスは不愉快そうな表情を変えずにキセの傍らに腰掛け、キセの耳元に唇を寄せた。
「…これから起きることを知ってもそんなことが言えるかしら」
キセは頭が枕に沈んでいくのを感じながら、アニエスのチョコレート色の瞳を見上げた。
鼻から下を布で覆っているせいか、茶色い双眸がより多くを語っている気がする。
「このまま香を吸い続けると、辛うじて意識を保ったまま身体の自由を失って、話すこともできなくなる。そこに侯爵夫人の僕が現れるの。彼らはあなたを花の園の貴婦人たちと同じように扱う。あなたを他の招待客と同じだと思っているから。彼らは持てる技術を駆使してあなたに快楽を与え、王太子殿下しか知らないこの清らかな身体を堕落させた後、他の招待客に捧げる。薬や酒に溺れて享楽の虜になった快楽主義者たちはあなたのように可憐な獲物をただではおかないわ。群がり、貪り、あらゆる手段であなたを犯す」
アニエスのほっそりした指がつ、とキセの首筋を這った。
キセは心臓がぐにゃりと歪んだ気がした。恐怖のためだ。脚を動かすこともできない。身体の自由を奪われても涙を堪えることができることに、キセは感謝した。喉の奥がひどく痛む。
「その後は、わたしは殺されるのでしょうか」
キセの問いに、アニエスは首を振った。
「意識を失ったあなたは、大勢の男たちと裸で寝ているところを王城の関係者に発見される。そして、聖女のような評判は地に落ち、婚約は解消され、娘を傷付けられたイノイル王は怒り狂って再び戦乱が戻る」
(そんな…)
キセは愕然とした。
自分を傷付けるだけの目的であればまだましだ。だが、収まろうとしている戦を再燃させ多くの犠牲を強いるなど、身も凍りつくほどの罪深さだ。そんなことは絶対に起こさせてはならない。
「アニエスさまの目的も同じですか」
「まさか。わたしはコルネールの不利益になるようなことはしないわ」
「でしたら、どうかご協力ください」
アニエスの目が細まった。これがどういう表情なのか、よくわからない。
この時、扉が静かに開いた。
現れたのは、まるで神話の女神のような赤い薄衣のドレスに身を包み、ゆったりと金色の髪を結い上げた官能的な貴婦人だ。
黒い蝶のような形の仮面で目元を隠しているが、キセには誰だかすぐに分かった。――ヴェロニク・ルコントだ。
「ごきげんよう。キセ王女殿下」
仮面の奥でヴェロニクがにんまりと笑った。
「侯爵夫人、どうかやめてください。あなたも恐ろしい罰を受けることになります」
「まだお喋りできる余裕があるのね。少し薬が弱いかしら」
ヴェロニクが首を傾げ、つかつかとベッドへ近づいて、キセの方へ身を乗り出した。甘いバラの香りがした。
「ご心配には及ばないわ、お優しい王女殿下。今夜わたくしはシェダル宮で国王陛下と褥を共にしていることになっているの。今頃陛下は亡くなった王妃さまの夢をご覧になっていることでしょうけど、朝お目覚めになったら、眠りについたときと同じように、隣にはわたくしがいる。わたくしの保証人は他ならぬ国王陛下よ。今夜ここで行われたことにわたしが関わっているなんて、誰も疑わない――疑えないわ」
そう言って、ヴェロニクはキセの身体を抱きしめた。
キセは全身をねっとりとした不快な恐怖が巡るのを感じた。身体が自由に動けば、激しく抵抗してこの腕から離れるに違いないが、不幸なことに力が入らない。
「可哀想な王女殿下。あなたがもっと愚かなら、この身だけは無事でいられたのに」
「わたしには、この身よりも大切なものがあります」
これは、キセのヴェロニクに対する宣戦布告のようなものだった。‘あなたとは違う’と、一線を引いたのだ。
ヴェロニクは冷酷な笑みを浮かべ、キセの背中に回した手でひとつずつ小さなボタンを外していった。
「…あなたが淫蕩の限りを尽くして公衆の面前に晒される時には今よりももっと意識が朦朧としているから、きっとそれほど恥ずかしい思いをしなくて済むわ。まあ、その後は地獄でしょうけど、あなたは自分を犠牲にできるのですものね」
ふふ、と楽しそうにヴェロニクが笑った。
「あなたは清純な顔をした淫乱なメス犬として蔑まれ、男たちに下品な目で見られるようになる。娼婦のように」
「そしてその代償に戦が始まるのですか」
「あら、そんなことまで話したの?」
ヴェロニクが悪戯した子供を叱るような調子で咎めると、アニエスは肩をすくめて見せた。
「楽しくなってしまったんですもの」
「悪い子ね」
ヴェロニクの赤い唇が弧を描いた。
「わたくしは地獄に堕ちるのかしら?オシアス」
「オスタ教の宗教観では、‘地獄’というものは存在しません。死者の魂はみな等しく海に還ります。善良で清い魂は女神さまの加護を受け、大海原に輝く存在になります」
「そうでない魂は?」
ヴェロニクがそう訊きながら、キセのドレスをするりと肩から滑り落とした。袖のない白のアンダードレスが辛うじて肌を隠しているが、あまりに頼りない。
二の腕を這う冷たい肌の感触が、キセはいやで堪らなかった。叫んで逃げ出したかったが、無様に恐怖に泣き叫ぶようなことはしない。これは、イノイルの王女としての矜持だ。
「――永遠に、孤独な海を彷徨います。救いもなく、愛も光もなく、暗黒の海に呑まれて、ひとり」
キセの眠たそうな声色が、夜の海のような静けさで響いた。
キセはまっすぐ見据えたヴェロニク・ルコントの冷たい色の瞳に、何故か動揺が浮かぶのを見た気がした。が、それはすぐに消え、いつものねっとりした笑みがその貌にのぼった。
「では余生を思い切り楽しまなければなりませんわね」
「楽しいですか?」
ああ、唇が重い。喉を震わせて声を発するという作業がこれほど困難に感じたことはない。
しかし、この細い声にヴェロニクは灰色の目を凍り付かせた。
「あなたのように悲しい方が真実の幸福を手に入れられるとしたら、わたしの受ける責め苦にも善い面があるということですね」
キセは穏やかに目を細め、小さく祈りの言葉を唱えた。
(女神さま、この方の魂をお救いください。わたしに何があっても、決して戦が起こることがないよう、お護りください。民を護る力をわたしにお与えください)
今夜自分の身に起こることが止められなかったとしても、きっとその先は回避できる。と、キセは確信している。
この身を汚されたくらいでは、テオドリックが決死の思いで結んだ絆は壊れない。ただ、そのために自分がテオドリックの妃として相応しくない存在となってしまったとしたら、喜んで身を引こう。それが和平のための最善の選択であるならば、本望だ。
テオドリックは出逢ったとき、自分たちは千年の戦を終わらせることができると言った。それは、夫婦という形でなくても実現できる。イノイルの王女として、エマンシュナとの絆を海の向こうから繋ぎ続ければ良いのだ。
(どうか、オスイアの女神さま。テオドリックの心を護る力を、わたしに――)
キセは目を閉じ、祈り続けた。
この時キセに起きた現象は、五年前、水以外の飲食を全て絶ち海に向かって三日三晩祈り続けるオシアスの修行をしたときと同じものだった。
割れそうなほど打っていた心拍がだんだんと落ち着き、次第に周囲の声が聞こえなくなる。すぐ側で会話しているヴェロニクとアニエスの声さえ耳に入らなくなった。
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