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六十六、雨の誘い - les pivoines dans la pluie -
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セレン・ビアンカ・バルカは、敵意に満ちた群青色の目でエマンシュナの王太子を睨め付けた。
セレンとアジロには兄が二人いたが、二人ともエマンシュナとの戦で命を落としている。一人目の兄はタレステラで、二番目の兄は五年前の泥の道の事件の犠牲になった。二番目の兄の遺体は潮が迫る中での乱戦で行方が分からなくなり、遂に海から戻ることはなかった。
セレンはその日、恋人と兄を揃って亡くしてしまったのだ。
それだけに、エマンシュナへは並々ならぬ恨みがある。
が、それはいい。
主君であるキセが、自らの確固たる意志でテオドリック王太子に嫁ぐと決めたのだから、セレンも遺恨を捨ててエマンシュナへ行くと、肚を決めた。ただ、キセに従うだけだ。
この敵意は兄たちを殺したエマンシュナ人へのものではなく、むしろセレンが実の家族よりも大切に思い愛してやまないキセを奪った男へのものだ。
兄のアジロはそういうセレンの気性を理解している。宥めるように肩に手を置き、二人の王太子への礼を同じように尽くした。
占拠した港の古びた砦で行われる会合は、両国の王太子が集まるにはあまりに粗末すぎた。椅子は硬い板張りの背もたれもないもので、年輪の筋が目立つテーブルの天板も至る所に傷や穴がつき、もはやテーブルとしての役割を引退せざるを得ないようなものだった。
国王の勅使でもある家令のミシナは、白髪混じりの栗色の髪を後ろへ撫でつけ、金糸で鷲と波の紋章を刺繍した黒の丈長の上衣を隙なく身につけて直立し、すらりと高い背を曲げて畏まった後、エマンシュナの王太子に向けてイノイル王の意を伝えた。
オーレンの言葉は簡潔だ。
「当方は娘を嫁がせることに同意した時点で既に和睦の準備はできている。然るべき準備の上で要請があれば即時エマンシュナへ渡るだろう」
‘然るべき準備’とは、則ち王太子スクネのエマンシュナの王女との婚姻を指す。
スクネは既に国王の娘ネフェリア王女ではなく、姪のシダリーズ姫を妻に迎える準備ができたことを本国へ報告し、‘家族会議’の上それが承認されている。
当初父は渋ったが、スクネがネフェリアをエマンシュナにおけるイノイルの友好者として力を発揮してくれるであろうこととシダリーズの王妃としての資質を示して説得すると、これに応じた。
「準備ならこちらもできている。我が父テオフィル王は諸侯と国民の意に応じ、イノイルとの和睦を受け入れるとわたしに表明している」
テオドリックはミシナに言った。
「それは重畳。しかしながら、我らが国王陛下は今ひとつエマンシュナ王府側になされるべきことがあると考えておられます」
「それは?」
「無論、泥の道の事件」
ミシナが言った瞬間、テオドリックの背を冷たい汗が流れていった。
もし第二王子ミノイ・エルヴィノの命を奪った者の処刑を求められでもしたら、この計画自体が頓挫しかねない。ミノイを殺したのは、他ならぬ自分自身なのだから。
その上、イノイルの王子を殺した代償に王太子である自分を処罰すればエマンシュナは黙っていない。エマンシュナ人も王弟レオナール・アストルを失っているのだ。これではまた戦の種が増えることになる。無論、その可能性を考慮していなかったわけではないが、それが実現した場合、穏便な解決策は皆無だ。
しかし、オーレンの要求は違っていた。かと言って、安堵できる内容ではない。
「多くの調査と報告によれば、国王や軍の命令を受けていないにも関わらず矢を放った人物がエマンシュナ側にいたとか。これにより乱戦となり、我々双方が多くの命を失う原因となりました。王ではない個人の意図で休戦協定が破られ、戦争状態に入らざるを得なくなったのであれば、これがエマンシュナ人によるエマンシュナ王国への叛逆行為であることは明白です。無論、エマンシュナ王府は叛逆者を捨て置くことはないと承知していますが――」
ミシナの視線は容赦ない。温厚そうな瞳の奥に、拒否を断固として許さない厳しさがある。
きっと国王がこの件をもはや調査する気がないことを知っているのだろう。
「国内の不統制による叛逆の結果、あなたがたが戦争を回避できなくなった事実は変えられません。この件が明確にならない限りは、例え婚姻を結んだとしても国同士の信頼関係は築けないと、オーレン国王陛下はお考えです」
「もっともだ」
テオドリックは内心の苦々しさを微塵も顔に出さず言った。
「その件についてはわたしが一任されている」
やや誇張だ。テオフィル王は息子に好きにしろとは言ったが、任せるとは言っていない。
が、どちらでもいいことだ。テオドリックもこの件を捨て置くつもりはない。そのためにヴィゴをはじめとする間諜を方々に放ち、情報を集めている。
しかし、全てを明らかにするにはまだ時間が必要だ。
キセと正式に結婚し和平を結ばなければならない約束の半年が、少しずつ見え始めている。
この夜、遠くの空で雷が唸るように鳴り無数の大きな雨粒が石壁を激しく叩き付ける中、粗末な砦でささやかな酒宴が開かれた。砦のイノイル兵の中にはまだエマンシュナとの和睦に納得いかない者もいるようだが、彼らはキセとテオドリックの睦まじい姿を一度その目にしている。
その時はまだテオドリックがエマンシュナの王太子であることを知らなかったから「誰かわからないが姫さまが見初めた貴人」という認識だったが、今は違う。
その敵国の王太子と彼らの姫君が恋に落ち、彼らの王太子とも友誼を結んでいる。おまけにそれぞれの従者も冗談を言い合うほどに親しくなっていることは、彼らにとっては驚くべきことだった。
新しい世を象徴する光景だ。
「姫さまはお元気ですか」
セレンが白い酒瓶を傾け、スクネと談笑しながら杯を交わしているテオドリックに訊ねた。
言葉の端に少し棘がある。
「セレン・ビアンカ」
とスクネが酒を注がせながらこの幼馴染みに咎めるような口調で言ったのは、そもそもこうした公的な場で下位の者が許しを得ずに目上の者へ声を掛けることがマナーとして許されていないからだ。
「いい、スクネどの。わたしは気にしない。大切なキセの侍女どのだ」
テオドリックはわざと鷹揚に言い、世の女性のみならず男性をもうっとりさせる笑顔を見せた。
「わたしの可愛い婚約者は毎日元気に過ごしているが、君をとても恋しく思っている。わたしもまた会えて嬉しく思う」
(白々しい)
セレンはキリリとした眉を不愉快そうに寄せ、しかし口元だけは笑って見せた。
「わたくしも、またお会いできて光栄の限りです、王太子殿下。これからはキセ姫さまの侍女、そして騎士、兼、外交官として、全身全霊をかけてお側に仕えいたします」
「騎士兼外交官?」
と声を上げたのはスクネだった。
「そんなのは初めて聞いたな」
「初めての官職ですから。正式な手続きを経て叙任を受け、エマンシュナでもその資格が認められるよう陛下に親書をしたためていただきました」
「なるほど。道理で時間がかかるはずだ。キセが予想より遅いと心配していた」
テオドリックが言うと、セレンは瞳を輝かせた。
「姫さまがわたしの心配を」
「ああ、口が滑った。なんでもない」
この女に喜ばれるのはなんだか嬉しくない。
テオドリックはネリの浜辺でキセとの甘い口付けをセレンの刃に邪魔されたことを、まだ忘れていない。
「父上は手厳しい。侍女と護衛の他に、公に間諜の役目まで与えるとは」
スクネがニヤリとして言った。テオドリックの前で取り繕うことを全くしようとしない。これは、牽制でもある。非公式の場とは言え、オーレン王の前でテオドリック自らがキセに侍女がついてくることを認めたのだ。
「なるほど。そのための叙任というわけか」
テオドリックが得心して言った。
(ずいぶん強引ではあるが、うまい手だ)
と思ったのは、単に妃の侍女であると言うだけでは、王家に仕える者――特に外国の出身者は、王府の許可なく出国ができない。しかし、外交官として官職に就いている者であれば例外だ。その分、迅速に本国への情報伝達が行えることになる。セレンは他ならぬテオドリック王太子自らがエマンシュナで自分の妃に仕えることを許した唯一のイノイル人だ。その侍女が外交官を兼ねていれば、異例中の異例と言えるが、イノイル王府にとってこれほど便利な存在はない。万が一にもキセに危険が迫れば、セレンは主を連れて堂々と海峡を渡ることができるのだ。
裏を返せば、キセの周りにはいつでもオーレンの目があることを示している。
(望むところだ)
テオドリックは注がれた強烈な酒を一気に飲み干した。
これまで生半可な気持ちでイノイルとの和平を画策してきたわけではないし、もはやキセを手放すことなど絶対にできるはずがない。
恒久的な和平は、国民の幸福のためだけではない。テオドリックにとっては、キセへの愛を貫くための誓いでもある。
宴の後、テオドリックは上着をイサクに渡して、砦の一画に用意された粗末なベッドにごろりと横たわり、首に掛けていた細い革紐をシャツの下から引っ張り出した。革紐の先には、金の指環が引っ掛かっている。鷲の翼を模った中央部に横顔の女神のカメオが装飾された、キセの指環だ。
出発前にキセが旅路の安全を祈り、テオドリックに預けたものだ。十二歳のキセの指に合わせて作られたもので、テオドリックのどの指にも入らないから、首から下げられるようにキセが革紐に通してくれていた。
「いつも一緒です」
と微笑んでキセが首にこれを掛けてきたときに触れた指の感触が、まだ残っているような気がする。
前夜にキセと散々抱き合い、熱に染まるその身体と可愛い声を堪能したはずだったのに、別れ際に抱き締めた身体を離したくなくて血を吐く思いがした。
今もだ。腕の中に閉じ込めて眠りにつきたい。テオドリックはキセがいつもさやさやと歌うように唱える祈りの言葉を反芻し、自分でも一度唱えて、指環にキスをした。
(ああ、早くキセのところへ帰りたい)
これほど誰かを恋しく思って過ごす夜は初めてだ。
この日もシダリーズはレグルス城に泊まった。荒天のせいで馬車を出せないという理由もあるが、テオドリックのいない間にもっとキセと一緒にいたかったからだ。シダリーズはすっかり同い年のキセを好きになってしまった。
小雨が降り出した昼間は、大広間に的を立て、鏃が布でできた練習用の矢を使って、矢を放った後に次の矢を素早く番える練習をし、シダリーズはそれを横目にピアノを弾いて、キセが二度連続で的に当てると陽気な曲を弾いて応援し、逆に弓を落としたり的を外したりして失敗すると暗く重い曲を弾いてキセやテレーズの笑いを誘った。
こうして一日を過ごした後、シダリーズはテレーズをはじめ城の使用人が心を込めて用意した快適な客室でぐっすりと眠り、キセは自室の隅に蝋燭を立ててオスイア神へ祈りを捧げた後、自分のベッドに横たわった。
暗闇にぼんやりと浮かび上がるベッドの白い天蓋を見上げて窓を叩く雨音を聞いていると、シダリーズといる時には蓋をしていた感情が湧き上がった。それが、キセの脚を動かした。
キセは燭台も持たずにベッドから降りて、裸足のまま真っ暗な寝室の中をそろそろと歩き、続き部屋の扉を開けた。
暗闇の中に、丁子にも似たテオドリックの匂いが漂い、その中に、宴の時によく付けている月夜を思わせるような香水のほのかな香りが微かに混ざっている。まるで夜道をほのかに照らす道標のようだ。
キセはテオドリックのベッドにごろりと横になってもぞもぞと毛布を手繰り寄せ、すうっとテオドリックの残り香を吸い込んだ。
おかしい。
こんなところを誰かに見られでもしたらあまりに恥ずかしい。部屋の主の不在中に忍び込んで匂いを嗅ぐなど、なんだかとても悪いことをしている気分だ。それでも、こうでもしないととても心が落ち着かない。恋しくて、寂しくてどうしようもない。
二日離れているだけでこれほど寂しくなってしまうなど、知らなかった。シダリーズが一緒にいてくれているのに、それではこの空虚な寂しさは埋まらない。
(会いたい…)
考えてみれば、テオドリックと物理的な距離がこれほど離れているのは、彼がネリの神殿へキセを迎えにきて以来、初めてのことだ。
キセは子供のように毛布を抱き締め、テオドリックの枕に頭を乗せて、心の中で祈りを唱え、大好きな人の匂いに包まれながら目を閉じた。
翌朝、来客があった。
この城の執事も兼任しているイサクはテオドリックに同行しているため、留守の間その任をジャンに委ねていた。
ジャンは突然の大抜擢に恐縮し慌てふためいたが、度々キセの護衛を務めていて主人に忠実だから、数日間の留守の間、テレーズと共にキセの身の回りのことを任せるのにちょうどよかったのだ。
未だ降り止まない雨の中、こぢんまりとした小綺麗な馬車でやってきたその使者は、女性だった。それほど顔立ちに特徴がなく、儚げな佇まいだ。
「コルネール家の遣いで参りました」
という女の言葉を、ジャンは信じた。
女が差し出したピオニーが描かれたカードには、キセを午後のお茶に招待したいという内容が美しい筆記体で記されていた。
「アニエスさまが」
意外な感じだ。あまり好かれているとは思えなかったから、尚更驚いた。
しかし、この招待に悪意があるのではないかと疑うほど、アニエスの敵意が深いものではないとキセは思っている。
アニエスが自分に向ける非友好的な態度は、悪意とは別のもののような気がしてならないのだ。
「行くの?」
シダリーズがカードを覗き込んで言った。
この滞在で、シダリーズはキセに対して随分と砕けた言葉遣いをするようになった。
「はい。アニエスさまにお聞きしたいことがありますから、ちょうど良いです」
キセはにっこり笑って言った。
セレンとアジロには兄が二人いたが、二人ともエマンシュナとの戦で命を落としている。一人目の兄はタレステラで、二番目の兄は五年前の泥の道の事件の犠牲になった。二番目の兄の遺体は潮が迫る中での乱戦で行方が分からなくなり、遂に海から戻ることはなかった。
セレンはその日、恋人と兄を揃って亡くしてしまったのだ。
それだけに、エマンシュナへは並々ならぬ恨みがある。
が、それはいい。
主君であるキセが、自らの確固たる意志でテオドリック王太子に嫁ぐと決めたのだから、セレンも遺恨を捨ててエマンシュナへ行くと、肚を決めた。ただ、キセに従うだけだ。
この敵意は兄たちを殺したエマンシュナ人へのものではなく、むしろセレンが実の家族よりも大切に思い愛してやまないキセを奪った男へのものだ。
兄のアジロはそういうセレンの気性を理解している。宥めるように肩に手を置き、二人の王太子への礼を同じように尽くした。
占拠した港の古びた砦で行われる会合は、両国の王太子が集まるにはあまりに粗末すぎた。椅子は硬い板張りの背もたれもないもので、年輪の筋が目立つテーブルの天板も至る所に傷や穴がつき、もはやテーブルとしての役割を引退せざるを得ないようなものだった。
国王の勅使でもある家令のミシナは、白髪混じりの栗色の髪を後ろへ撫でつけ、金糸で鷲と波の紋章を刺繍した黒の丈長の上衣を隙なく身につけて直立し、すらりと高い背を曲げて畏まった後、エマンシュナの王太子に向けてイノイル王の意を伝えた。
オーレンの言葉は簡潔だ。
「当方は娘を嫁がせることに同意した時点で既に和睦の準備はできている。然るべき準備の上で要請があれば即時エマンシュナへ渡るだろう」
‘然るべき準備’とは、則ち王太子スクネのエマンシュナの王女との婚姻を指す。
スクネは既に国王の娘ネフェリア王女ではなく、姪のシダリーズ姫を妻に迎える準備ができたことを本国へ報告し、‘家族会議’の上それが承認されている。
当初父は渋ったが、スクネがネフェリアをエマンシュナにおけるイノイルの友好者として力を発揮してくれるであろうこととシダリーズの王妃としての資質を示して説得すると、これに応じた。
「準備ならこちらもできている。我が父テオフィル王は諸侯と国民の意に応じ、イノイルとの和睦を受け入れるとわたしに表明している」
テオドリックはミシナに言った。
「それは重畳。しかしながら、我らが国王陛下は今ひとつエマンシュナ王府側になされるべきことがあると考えておられます」
「それは?」
「無論、泥の道の事件」
ミシナが言った瞬間、テオドリックの背を冷たい汗が流れていった。
もし第二王子ミノイ・エルヴィノの命を奪った者の処刑を求められでもしたら、この計画自体が頓挫しかねない。ミノイを殺したのは、他ならぬ自分自身なのだから。
その上、イノイルの王子を殺した代償に王太子である自分を処罰すればエマンシュナは黙っていない。エマンシュナ人も王弟レオナール・アストルを失っているのだ。これではまた戦の種が増えることになる。無論、その可能性を考慮していなかったわけではないが、それが実現した場合、穏便な解決策は皆無だ。
しかし、オーレンの要求は違っていた。かと言って、安堵できる内容ではない。
「多くの調査と報告によれば、国王や軍の命令を受けていないにも関わらず矢を放った人物がエマンシュナ側にいたとか。これにより乱戦となり、我々双方が多くの命を失う原因となりました。王ではない個人の意図で休戦協定が破られ、戦争状態に入らざるを得なくなったのであれば、これがエマンシュナ人によるエマンシュナ王国への叛逆行為であることは明白です。無論、エマンシュナ王府は叛逆者を捨て置くことはないと承知していますが――」
ミシナの視線は容赦ない。温厚そうな瞳の奥に、拒否を断固として許さない厳しさがある。
きっと国王がこの件をもはや調査する気がないことを知っているのだろう。
「国内の不統制による叛逆の結果、あなたがたが戦争を回避できなくなった事実は変えられません。この件が明確にならない限りは、例え婚姻を結んだとしても国同士の信頼関係は築けないと、オーレン国王陛下はお考えです」
「もっともだ」
テオドリックは内心の苦々しさを微塵も顔に出さず言った。
「その件についてはわたしが一任されている」
やや誇張だ。テオフィル王は息子に好きにしろとは言ったが、任せるとは言っていない。
が、どちらでもいいことだ。テオドリックもこの件を捨て置くつもりはない。そのためにヴィゴをはじめとする間諜を方々に放ち、情報を集めている。
しかし、全てを明らかにするにはまだ時間が必要だ。
キセと正式に結婚し和平を結ばなければならない約束の半年が、少しずつ見え始めている。
この夜、遠くの空で雷が唸るように鳴り無数の大きな雨粒が石壁を激しく叩き付ける中、粗末な砦でささやかな酒宴が開かれた。砦のイノイル兵の中にはまだエマンシュナとの和睦に納得いかない者もいるようだが、彼らはキセとテオドリックの睦まじい姿を一度その目にしている。
その時はまだテオドリックがエマンシュナの王太子であることを知らなかったから「誰かわからないが姫さまが見初めた貴人」という認識だったが、今は違う。
その敵国の王太子と彼らの姫君が恋に落ち、彼らの王太子とも友誼を結んでいる。おまけにそれぞれの従者も冗談を言い合うほどに親しくなっていることは、彼らにとっては驚くべきことだった。
新しい世を象徴する光景だ。
「姫さまはお元気ですか」
セレンが白い酒瓶を傾け、スクネと談笑しながら杯を交わしているテオドリックに訊ねた。
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「セレン・ビアンカ」
とスクネが酒を注がせながらこの幼馴染みに咎めるような口調で言ったのは、そもそもこうした公的な場で下位の者が許しを得ずに目上の者へ声を掛けることがマナーとして許されていないからだ。
「いい、スクネどの。わたしは気にしない。大切なキセの侍女どのだ」
テオドリックはわざと鷹揚に言い、世の女性のみならず男性をもうっとりさせる笑顔を見せた。
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テオドリックが言うと、セレンは瞳を輝かせた。
「姫さまがわたしの心配を」
「ああ、口が滑った。なんでもない」
この女に喜ばれるのはなんだか嬉しくない。
テオドリックはネリの浜辺でキセとの甘い口付けをセレンの刃に邪魔されたことを、まだ忘れていない。
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「なるほど。そのための叙任というわけか」
テオドリックが得心して言った。
(ずいぶん強引ではあるが、うまい手だ)
と思ったのは、単に妃の侍女であると言うだけでは、王家に仕える者――特に外国の出身者は、王府の許可なく出国ができない。しかし、外交官として官職に就いている者であれば例外だ。その分、迅速に本国への情報伝達が行えることになる。セレンは他ならぬテオドリック王太子自らがエマンシュナで自分の妃に仕えることを許した唯一のイノイル人だ。その侍女が外交官を兼ねていれば、異例中の異例と言えるが、イノイル王府にとってこれほど便利な存在はない。万が一にもキセに危険が迫れば、セレンは主を連れて堂々と海峡を渡ることができるのだ。
裏を返せば、キセの周りにはいつでもオーレンの目があることを示している。
(望むところだ)
テオドリックは注がれた強烈な酒を一気に飲み干した。
これまで生半可な気持ちでイノイルとの和平を画策してきたわけではないし、もはやキセを手放すことなど絶対にできるはずがない。
恒久的な和平は、国民の幸福のためだけではない。テオドリックにとっては、キセへの愛を貫くための誓いでもある。
宴の後、テオドリックは上着をイサクに渡して、砦の一画に用意された粗末なベッドにごろりと横たわり、首に掛けていた細い革紐をシャツの下から引っ張り出した。革紐の先には、金の指環が引っ掛かっている。鷲の翼を模った中央部に横顔の女神のカメオが装飾された、キセの指環だ。
出発前にキセが旅路の安全を祈り、テオドリックに預けたものだ。十二歳のキセの指に合わせて作られたもので、テオドリックのどの指にも入らないから、首から下げられるようにキセが革紐に通してくれていた。
「いつも一緒です」
と微笑んでキセが首にこれを掛けてきたときに触れた指の感触が、まだ残っているような気がする。
前夜にキセと散々抱き合い、熱に染まるその身体と可愛い声を堪能したはずだったのに、別れ際に抱き締めた身体を離したくなくて血を吐く思いがした。
今もだ。腕の中に閉じ込めて眠りにつきたい。テオドリックはキセがいつもさやさやと歌うように唱える祈りの言葉を反芻し、自分でも一度唱えて、指環にキスをした。
(ああ、早くキセのところへ帰りたい)
これほど誰かを恋しく思って過ごす夜は初めてだ。
この日もシダリーズはレグルス城に泊まった。荒天のせいで馬車を出せないという理由もあるが、テオドリックのいない間にもっとキセと一緒にいたかったからだ。シダリーズはすっかり同い年のキセを好きになってしまった。
小雨が降り出した昼間は、大広間に的を立て、鏃が布でできた練習用の矢を使って、矢を放った後に次の矢を素早く番える練習をし、シダリーズはそれを横目にピアノを弾いて、キセが二度連続で的に当てると陽気な曲を弾いて応援し、逆に弓を落としたり的を外したりして失敗すると暗く重い曲を弾いてキセやテレーズの笑いを誘った。
こうして一日を過ごした後、シダリーズはテレーズをはじめ城の使用人が心を込めて用意した快適な客室でぐっすりと眠り、キセは自室の隅に蝋燭を立ててオスイア神へ祈りを捧げた後、自分のベッドに横たわった。
暗闇にぼんやりと浮かび上がるベッドの白い天蓋を見上げて窓を叩く雨音を聞いていると、シダリーズといる時には蓋をしていた感情が湧き上がった。それが、キセの脚を動かした。
キセは燭台も持たずにベッドから降りて、裸足のまま真っ暗な寝室の中をそろそろと歩き、続き部屋の扉を開けた。
暗闇の中に、丁子にも似たテオドリックの匂いが漂い、その中に、宴の時によく付けている月夜を思わせるような香水のほのかな香りが微かに混ざっている。まるで夜道をほのかに照らす道標のようだ。
キセはテオドリックのベッドにごろりと横になってもぞもぞと毛布を手繰り寄せ、すうっとテオドリックの残り香を吸い込んだ。
おかしい。
こんなところを誰かに見られでもしたらあまりに恥ずかしい。部屋の主の不在中に忍び込んで匂いを嗅ぐなど、なんだかとても悪いことをしている気分だ。それでも、こうでもしないととても心が落ち着かない。恋しくて、寂しくてどうしようもない。
二日離れているだけでこれほど寂しくなってしまうなど、知らなかった。シダリーズが一緒にいてくれているのに、それではこの空虚な寂しさは埋まらない。
(会いたい…)
考えてみれば、テオドリックと物理的な距離がこれほど離れているのは、彼がネリの神殿へキセを迎えにきて以来、初めてのことだ。
キセは子供のように毛布を抱き締め、テオドリックの枕に頭を乗せて、心の中で祈りを唱え、大好きな人の匂いに包まれながら目を閉じた。
翌朝、来客があった。
この城の執事も兼任しているイサクはテオドリックに同行しているため、留守の間その任をジャンに委ねていた。
ジャンは突然の大抜擢に恐縮し慌てふためいたが、度々キセの護衛を務めていて主人に忠実だから、数日間の留守の間、テレーズと共にキセの身の回りのことを任せるのにちょうどよかったのだ。
未だ降り止まない雨の中、こぢんまりとした小綺麗な馬車でやってきたその使者は、女性だった。それほど顔立ちに特徴がなく、儚げな佇まいだ。
「コルネール家の遣いで参りました」
という女の言葉を、ジャンは信じた。
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「アニエスさまが」
意外な感じだ。あまり好かれているとは思えなかったから、尚更驚いた。
しかし、この招待に悪意があるのではないかと疑うほど、アニエスの敵意が深いものではないとキセは思っている。
アニエスが自分に向ける非友好的な態度は、悪意とは別のもののような気がしてならないのだ。
「行くの?」
シダリーズがカードを覗き込んで言った。
この滞在で、シダリーズはキセに対して随分と砕けた言葉遣いをするようになった。
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