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六十三、危険な遊戯 - un jeu dangereux -
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サロンには血溜まりにも見えるほど濃い色の薔薇がいくつも生けられ、噎せ返るほどの香りを放っている。淡い色の壁に掛けられた乙女の絵画さえその色に清純さを失い、その天使のような微笑みが、どこか挑発的な翳りを映すほどだ。
花柄のソファに腰掛ける屋敷の主はいつものように取り澄ました顔で真っ白なカップに赤い唇をつけ、黒いまつ毛の影を目元に落として、優雅に微笑んだ。
「意外でしたわ。閣下があれほど王太子殿下の結婚を後押しなさるとは」
ガイウスは自分も同じ真っ白なカップを持ち上げ、目の前のヴェロニク・ルコントに向かって上品な笑みを作った。いつも女性を誘惑するときに使う顔だ。
「意外なことは何もありません、侯爵夫人。わたしとしては、キセ姫にはこの国にいてもらわなければなりませんからね。どういう形であれ」
「まあ」
と、ヴェロニクは黒いレースの手袋をした手で口元を隠し、喉の奥に張り付くような笑い声をあげた。
「豪胆ですこと」
「あなたこそ、未だどちらの意志も表明していらっしゃらないではありませんか。国王陛下の態度を見てお決めになるのかな」
ガイウスが暗い栗色の眉を上げて問うと、ヴェロニクは赤い唇をにいっと引き伸ばした。
「ルコント侯爵家の心は陛下と共にありますわ」
「あなたのお心はいかがです?ヴェロニク」
ヴェロニクの冷たい色の瞳が鈍く光った。
「わたくしに意志はありませんわ、閣下。風に吹かれる枝葉のように、ただ揺れるだけ…」
ヴェロニクはすっと立ち上がって黒いドレスの裾を持ち上げ、しずしずとガイウスの座るソファの隣へ来て、しどけない仕草で腰掛けた。
薔薇の香水の匂いが濃くなる。
ガイウスは、ゆるく結われた輝くような金髪がほつれて白いうなじに落ちるのを見た。
(これで蛇蝎のような女でさえなければ抱いておくものを――)
ガイウスはソファの背もたれに肘を乗せ、ヴェロニクの方へ身体を向けて、その美しい貌と、細い首には不釣り合いにも思えるほど豊かな胸へ視線を滑らせた。
(惜しいことだ)
ガイウスはヴェロニクの誘惑を視線で慇懃に拒絶しながら、差し出された手からレースの手袋を外し、その白い甲に口付けした。
「かほどに美しい枝葉があっては、花が嫉妬します」
「まあ。閣下こそ、その氷のような美貌でどれほどの女性を虜にしてきたのかしら」
少し身動きすれば唇が触れ合うほどの距離でヴェロニクが言った。
「少なくはありませんね。ですが、わたしは常に一対一のやりとりを望みます。他人の庭から花をくすねる趣味はありませんよ」
ヴェロニクは品定めするようにガイウスの目を覗き込んだ。
「律儀なお方ね。それとも慎重なのかしら。豪胆、慎重、律儀、――強欲。どれが閣下の本質ですの?」
「どうでしょうね」
ガイウスが冷笑を浮かべると、ヴェロニクがころころと笑い声をあげてガイウスから離れて立ち上がり、サロンの白い扉に向かって声をかけた。
「どうぞ、お入りになって。大切なお兄さまに目の前で手を出したりしませんわ」
扉の向こうから現れたのは、アニエスだ。青みがかった紫色のドレスを着て、ふっくらしたさくらんぼ色の唇に弧を描かせている。
「あら、侯爵夫人。わたくしは気にしませんわ。なんなら三人でも結構ですよ」
アニエスがにっこり笑って言うと、またしてもヴェロニクは楽しそうに笑い声をあげた。
「本当に楽しい方。兄妹揃って危険なことがお好きでいらっしゃるのね」
「危険なものに魅力を感じるのは確かです。でもそれはわたくしが平和主義者だからですわ」
アニエスはヴェロニクが差し出した手を取り、二人でガイウスの向かいに腰を下ろした。
「可愛い子」
ヴェロニクがその造形を愛でるようにアニエスの頬をするりと撫で、アニエスは茶色い目をうっとりと細め、兄に向かって誘うような視線を送った。
この視線を受けて、ガイウスは静かに微笑み返した。青みがかった灰色の瞳が暗く翳っている。アニエスにだけ分かる、怒りの兆候だ。
「慈善事業は、恙なく進行中ですか?侯爵夫人」
「あら。もうヴェロニクと呼んでくださらないの?」
「お望みなら、そうしましょう。ヴェロニク」
ヴェロニクは満足そうに目を細めると、ソファにゆったりと座り直し、紅茶を口に運んだ。
「閣下は慈善事業に興味をお持ちですの?」
「ええ。あなたさえよろしければ投資をしたい。今日はそのために来たのですよ」
アニエスは兄の言葉が終わるのを待ち、ヴェロニクに向かってにっこり微笑んだ。
「兄は領地で行っている事業を王都でも広げたいと考えているのです。廃れた地域を開発して街道を造り、遊興施設や新たな町を作る計画です」
「素晴らしいわ」
「正にあなたの進めようとしている事業と同じだ。まずはあの一帯を所有している者から土地を買い上げる必要がありますが、所有者に心当たりはあるのですか?」
ガイウスが訊ねると、ヴェロニクは困ったように金色の眉を下げた。
「それが、わからないのですわ、閣下。あの一帯は何百年も前に誰かが当時の国王から拝領したものらしいということしか」
「そういうことなら、わたくしたちがお力添えできますわ。調べ物は我が家の得意とするところですもの。ね、お兄さま」
アニエスはヴェロニクの腕に自分の腕を絡め、誰もが微笑み返したくなるような可憐な笑みを向けた。
「もちろん」
ガイウスは顎を引いた。
目は笑っていない。
「悪い子ね、アニエス」
ヴェロニクが肩にもたれかかってくるアニエスの頬を撫でながら静かに言ったのは、ガイウスが辞去した後のことだった。
「なんのことでしょう」
アニエスはくすくすと笑い、脚つきのガラスの器からブドウを一粒取って口に運んだ。
「お兄さまをけしかけたわね。あの界隈の所有者は長いこと秘匿されているのを、あなたもご存じでしょう」
「そうでしたの?存じませんでした」
「嘘おっしゃい。わたくしの話を聞いていなかったとは言わせませんよ」
ヴェロニクは機嫌良く言って美しい花模様の描かれたテーブルからグラスを取り上げ、その唇と同じく赤々としたワインに口をつけた。
「ふふ、アニエスは都合の悪いことは忘れてしまうんです」
「悪戯好きなのね。お兄さまと仲がよろしいと思っていたのに」
「もちろん、兄のことは愛していますわ。だからと言って、兄が愛する人の味方になるとは限りません」
「あらあら」
ヴェロニクはわざとらしく咎めるように灰色の目を見開いた。
「海鷲の姫がお嫌い?」
「それ以上ですわ」
アニエスはきっぱりと言った。
「恋敵に消えてもらいたいと思うのは自然な感情ではありませんか?」
下手をすれば投獄されかねない発言なのに、アニエスには躊躇がない。ヴェロニクは楽しそうに唇を吊り上げ、ワインを飲んだ。
「あなたが未来の王妃になりたいと思っているなんて、意外だわ」
「愛する方の目に映りたいと願っているだけです。そうでなくても、あの方はこの国にいるべきではありませんわ。鷲の子なんて」
忌々しげに歪んだアニエスの目を見て、ヴェロニクは満足げに微笑み、しかし言葉だけは神妙な調子で諭すように言った。
「でも、それではお兄さまや王太子殿下のご意向に沿わないわ、アニエス。美しい薔薇も棘が鋭すぎては、摘まれてしまいますのよ」
アニエスは茶色い瞳に暗い翳を落とした。
「取り繕うのは苦手です。憎い相手なら、特に」
「ふふ。わたくし、正直な子がとても好き。誰にでもにこにこして誰彼構わず優しさを振りまくような子よりも、ずっと」
ヴェロニクがそう言って肩に手を添えると、アニエスは頬を染めて嬉しがった。
「ではもっと願望を曝け出しても、侯爵夫人はわたくしのことを嫌いになりませんか?」
「なるものですか。わたくしはね、アニエス。あなたがとっても好きなのよ」
「嬉しい。侯爵夫人…」
アニエスは母に甘える子のようにヴェロニクに寄り添って、その顔を見上げた。
「わたくし、和平なんてどうでもいい。あの鷲の姫が苦しめばいいと思っています。ねえ、侯爵夫人。計画があるのでしょう?わたくしの願望が叶う計画が」
この時ヴェロニクは、ぞっとするほど暗い笑みを見せた。しかし、アニエスは怖じ気づくどころか、どこか恍惚とその顔に見入った。
「アニエス、あまりあけすけな物言いは禍のもとよ。大切な言葉は、大切なときに取っておくのがいいわ」
「はい。侯爵夫人…」
ヴェロニクはアニエスの薔薇色の頬を愛おしそうに撫で、そこにキスをした。
深夜、アニエスが馬車で屋敷へ戻ると、簡素な室内用のシャツを着て腕を組んだガイウスが威圧するように戸口に立っていた。
「もう日付が変わるぞ。ずいぶん楽しんだようだ」
目は穏やかに細められているが、アニエスには怒っているのが分かる。
「ご心配をおかけしてすみません、お兄さま」
アニエスは猫のような目をにっこりと細め、いつもと同じようにガイウスの腕に手を添えた。
ガイウスは妹を冷たく一瞥し、エントランスの木の床を踏むと、低い声で言った。
「…何を考えている」
「今は早くお風呂に入りたいと考えています」
アニエスの目は兄のそれにも劣らない冷たさだった。
「わたしたちはやり方について少々議論する必要がありそうだ」
「やり方について?」
アニエスが嘲笑した。
「お兄さまがそれをおっしゃるの」
「父上のことを言っているのか」
「まさか。それだけだとでも?」
深々と眉間に皺を刻んだ兄の腕をスルリと抜け、アニエスはさっさと屋敷の奥へ進んだ。
「わたしはあの女に近付いて信用を得ろとは言ったが、媚びを売れとは言っていない」
「それは誇りの話かしら」
「アニエス」
ガイウスが明らかな怒気を発した。
「お兄さまこそ、目的を誤っておいででは?」
「何が言いたい」
「あのカラス娘――」
ガイウスの目が剣呑な光を帯びた。
「口に気をつけろ、アニエス」
アニエスは憤然と鼻で笑った。
「お兄さまの計画は、家族のため?それとも、麗しいキセ姫のためですか?」
アニエスは息を潜めるようにエントランスの隅に立っていた使用人にネックレスや耳飾りを次々に外して渡し、花の彫金が施された髪飾りを抜き取って気まずそうに佇む別の侍女へ押し付け、豊かなシナモン色の髪をワサワサと解しながらさっさと奥の階段へ向かった。
「お前がキセを気に入らないのは分かっているが、個人的な感情は邪魔だ」
途中まで階段を上ったところでアニエスは振り返り、怒りの形相を露わにしたガイウスをまっすぐに見つめ返し、剛腹にも嫣然と微笑んでみせた。
「‘キセ’。ずいぶんと個人的な呼び方をするのですね」
「わたしたちの計画は――」
と、ガイウスはアニエスの皮肉を無視した。
「特定のもののためではない。お前こそ履き違えるな」
「心得ていますわ、お兄さま」
アニエスは階下のガイウスを見下ろした後、背を向けて階段を上がっていった。
花柄のソファに腰掛ける屋敷の主はいつものように取り澄ました顔で真っ白なカップに赤い唇をつけ、黒いまつ毛の影を目元に落として、優雅に微笑んだ。
「意外でしたわ。閣下があれほど王太子殿下の結婚を後押しなさるとは」
ガイウスは自分も同じ真っ白なカップを持ち上げ、目の前のヴェロニク・ルコントに向かって上品な笑みを作った。いつも女性を誘惑するときに使う顔だ。
「意外なことは何もありません、侯爵夫人。わたしとしては、キセ姫にはこの国にいてもらわなければなりませんからね。どういう形であれ」
「まあ」
と、ヴェロニクは黒いレースの手袋をした手で口元を隠し、喉の奥に張り付くような笑い声をあげた。
「豪胆ですこと」
「あなたこそ、未だどちらの意志も表明していらっしゃらないではありませんか。国王陛下の態度を見てお決めになるのかな」
ガイウスが暗い栗色の眉を上げて問うと、ヴェロニクは赤い唇をにいっと引き伸ばした。
「ルコント侯爵家の心は陛下と共にありますわ」
「あなたのお心はいかがです?ヴェロニク」
ヴェロニクの冷たい色の瞳が鈍く光った。
「わたくしに意志はありませんわ、閣下。風に吹かれる枝葉のように、ただ揺れるだけ…」
ヴェロニクはすっと立ち上がって黒いドレスの裾を持ち上げ、しずしずとガイウスの座るソファの隣へ来て、しどけない仕草で腰掛けた。
薔薇の香水の匂いが濃くなる。
ガイウスは、ゆるく結われた輝くような金髪がほつれて白いうなじに落ちるのを見た。
(これで蛇蝎のような女でさえなければ抱いておくものを――)
ガイウスはソファの背もたれに肘を乗せ、ヴェロニクの方へ身体を向けて、その美しい貌と、細い首には不釣り合いにも思えるほど豊かな胸へ視線を滑らせた。
(惜しいことだ)
ガイウスはヴェロニクの誘惑を視線で慇懃に拒絶しながら、差し出された手からレースの手袋を外し、その白い甲に口付けした。
「かほどに美しい枝葉があっては、花が嫉妬します」
「まあ。閣下こそ、その氷のような美貌でどれほどの女性を虜にしてきたのかしら」
少し身動きすれば唇が触れ合うほどの距離でヴェロニクが言った。
「少なくはありませんね。ですが、わたしは常に一対一のやりとりを望みます。他人の庭から花をくすねる趣味はありませんよ」
ヴェロニクは品定めするようにガイウスの目を覗き込んだ。
「律儀なお方ね。それとも慎重なのかしら。豪胆、慎重、律儀、――強欲。どれが閣下の本質ですの?」
「どうでしょうね」
ガイウスが冷笑を浮かべると、ヴェロニクがころころと笑い声をあげてガイウスから離れて立ち上がり、サロンの白い扉に向かって声をかけた。
「どうぞ、お入りになって。大切なお兄さまに目の前で手を出したりしませんわ」
扉の向こうから現れたのは、アニエスだ。青みがかった紫色のドレスを着て、ふっくらしたさくらんぼ色の唇に弧を描かせている。
「あら、侯爵夫人。わたくしは気にしませんわ。なんなら三人でも結構ですよ」
アニエスがにっこり笑って言うと、またしてもヴェロニクは楽しそうに笑い声をあげた。
「本当に楽しい方。兄妹揃って危険なことがお好きでいらっしゃるのね」
「危険なものに魅力を感じるのは確かです。でもそれはわたくしが平和主義者だからですわ」
アニエスはヴェロニクが差し出した手を取り、二人でガイウスの向かいに腰を下ろした。
「可愛い子」
ヴェロニクがその造形を愛でるようにアニエスの頬をするりと撫で、アニエスは茶色い目をうっとりと細め、兄に向かって誘うような視線を送った。
この視線を受けて、ガイウスは静かに微笑み返した。青みがかった灰色の瞳が暗く翳っている。アニエスにだけ分かる、怒りの兆候だ。
「慈善事業は、恙なく進行中ですか?侯爵夫人」
「あら。もうヴェロニクと呼んでくださらないの?」
「お望みなら、そうしましょう。ヴェロニク」
ヴェロニクは満足そうに目を細めると、ソファにゆったりと座り直し、紅茶を口に運んだ。
「閣下は慈善事業に興味をお持ちですの?」
「ええ。あなたさえよろしければ投資をしたい。今日はそのために来たのですよ」
アニエスは兄の言葉が終わるのを待ち、ヴェロニクに向かってにっこり微笑んだ。
「兄は領地で行っている事業を王都でも広げたいと考えているのです。廃れた地域を開発して街道を造り、遊興施設や新たな町を作る計画です」
「素晴らしいわ」
「正にあなたの進めようとしている事業と同じだ。まずはあの一帯を所有している者から土地を買い上げる必要がありますが、所有者に心当たりはあるのですか?」
ガイウスが訊ねると、ヴェロニクは困ったように金色の眉を下げた。
「それが、わからないのですわ、閣下。あの一帯は何百年も前に誰かが当時の国王から拝領したものらしいということしか」
「そういうことなら、わたくしたちがお力添えできますわ。調べ物は我が家の得意とするところですもの。ね、お兄さま」
アニエスはヴェロニクの腕に自分の腕を絡め、誰もが微笑み返したくなるような可憐な笑みを向けた。
「もちろん」
ガイウスは顎を引いた。
目は笑っていない。
「悪い子ね、アニエス」
ヴェロニクが肩にもたれかかってくるアニエスの頬を撫でながら静かに言ったのは、ガイウスが辞去した後のことだった。
「なんのことでしょう」
アニエスはくすくすと笑い、脚つきのガラスの器からブドウを一粒取って口に運んだ。
「お兄さまをけしかけたわね。あの界隈の所有者は長いこと秘匿されているのを、あなたもご存じでしょう」
「そうでしたの?存じませんでした」
「嘘おっしゃい。わたくしの話を聞いていなかったとは言わせませんよ」
ヴェロニクは機嫌良く言って美しい花模様の描かれたテーブルからグラスを取り上げ、その唇と同じく赤々としたワインに口をつけた。
「ふふ、アニエスは都合の悪いことは忘れてしまうんです」
「悪戯好きなのね。お兄さまと仲がよろしいと思っていたのに」
「もちろん、兄のことは愛していますわ。だからと言って、兄が愛する人の味方になるとは限りません」
「あらあら」
ヴェロニクはわざとらしく咎めるように灰色の目を見開いた。
「海鷲の姫がお嫌い?」
「それ以上ですわ」
アニエスはきっぱりと言った。
「恋敵に消えてもらいたいと思うのは自然な感情ではありませんか?」
下手をすれば投獄されかねない発言なのに、アニエスには躊躇がない。ヴェロニクは楽しそうに唇を吊り上げ、ワインを飲んだ。
「あなたが未来の王妃になりたいと思っているなんて、意外だわ」
「愛する方の目に映りたいと願っているだけです。そうでなくても、あの方はこの国にいるべきではありませんわ。鷲の子なんて」
忌々しげに歪んだアニエスの目を見て、ヴェロニクは満足げに微笑み、しかし言葉だけは神妙な調子で諭すように言った。
「でも、それではお兄さまや王太子殿下のご意向に沿わないわ、アニエス。美しい薔薇も棘が鋭すぎては、摘まれてしまいますのよ」
アニエスは茶色い瞳に暗い翳を落とした。
「取り繕うのは苦手です。憎い相手なら、特に」
「ふふ。わたくし、正直な子がとても好き。誰にでもにこにこして誰彼構わず優しさを振りまくような子よりも、ずっと」
ヴェロニクがそう言って肩に手を添えると、アニエスは頬を染めて嬉しがった。
「ではもっと願望を曝け出しても、侯爵夫人はわたくしのことを嫌いになりませんか?」
「なるものですか。わたくしはね、アニエス。あなたがとっても好きなのよ」
「嬉しい。侯爵夫人…」
アニエスは母に甘える子のようにヴェロニクに寄り添って、その顔を見上げた。
「わたくし、和平なんてどうでもいい。あの鷲の姫が苦しめばいいと思っています。ねえ、侯爵夫人。計画があるのでしょう?わたくしの願望が叶う計画が」
この時ヴェロニクは、ぞっとするほど暗い笑みを見せた。しかし、アニエスは怖じ気づくどころか、どこか恍惚とその顔に見入った。
「アニエス、あまりあけすけな物言いは禍のもとよ。大切な言葉は、大切なときに取っておくのがいいわ」
「はい。侯爵夫人…」
ヴェロニクはアニエスの薔薇色の頬を愛おしそうに撫で、そこにキスをした。
深夜、アニエスが馬車で屋敷へ戻ると、簡素な室内用のシャツを着て腕を組んだガイウスが威圧するように戸口に立っていた。
「もう日付が変わるぞ。ずいぶん楽しんだようだ」
目は穏やかに細められているが、アニエスには怒っているのが分かる。
「ご心配をおかけしてすみません、お兄さま」
アニエスは猫のような目をにっこりと細め、いつもと同じようにガイウスの腕に手を添えた。
ガイウスは妹を冷たく一瞥し、エントランスの木の床を踏むと、低い声で言った。
「…何を考えている」
「今は早くお風呂に入りたいと考えています」
アニエスの目は兄のそれにも劣らない冷たさだった。
「わたしたちはやり方について少々議論する必要がありそうだ」
「やり方について?」
アニエスが嘲笑した。
「お兄さまがそれをおっしゃるの」
「父上のことを言っているのか」
「まさか。それだけだとでも?」
深々と眉間に皺を刻んだ兄の腕をスルリと抜け、アニエスはさっさと屋敷の奥へ進んだ。
「わたしはあの女に近付いて信用を得ろとは言ったが、媚びを売れとは言っていない」
「それは誇りの話かしら」
「アニエス」
ガイウスが明らかな怒気を発した。
「お兄さまこそ、目的を誤っておいででは?」
「何が言いたい」
「あのカラス娘――」
ガイウスの目が剣呑な光を帯びた。
「口に気をつけろ、アニエス」
アニエスは憤然と鼻で笑った。
「お兄さまの計画は、家族のため?それとも、麗しいキセ姫のためですか?」
アニエスは息を潜めるようにエントランスの隅に立っていた使用人にネックレスや耳飾りを次々に外して渡し、花の彫金が施された髪飾りを抜き取って気まずそうに佇む別の侍女へ押し付け、豊かなシナモン色の髪をワサワサと解しながらさっさと奥の階段へ向かった。
「お前がキセを気に入らないのは分かっているが、個人的な感情は邪魔だ」
途中まで階段を上ったところでアニエスは振り返り、怒りの形相を露わにしたガイウスをまっすぐに見つめ返し、剛腹にも嫣然と微笑んでみせた。
「‘キセ’。ずいぶんと個人的な呼び方をするのですね」
「わたしたちの計画は――」
と、ガイウスはアニエスの皮肉を無視した。
「特定のもののためではない。お前こそ履き違えるな」
「心得ていますわ、お兄さま」
アニエスは階下のガイウスを見下ろした後、背を向けて階段を上がっていった。
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