獅子王と海の神殿の姫

若島まつ

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六十一、みそかごと - un secret -

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 誰もいないサロンの奥の廊下は広く長く、幾何学模様の赤い絨毯が続いている。神話のレリーフが施された明るい色の扉がいくつかあるが、どの扉がどんなところに続いているのか、さっぱり見当もつかない。先ほどいたサロンから不自然なほど上機嫌な貴婦人たちの話し声が聞こえてくるのみだ。静かな廊下に、彼女たちの笑い声が響いている。
 キセはキョロキョロとトイレを探す振りをしながら、壁に沿って廊下を進み、突き当たりの手前まで来ると、顔を少しだけ覗かせて曲がり角の奥の様子を窺った。その先には同じような木の扉がいくつも並んでいて、等間隔に置かれた陶器の花瓶に無数のバラが生けられている。
 バラの香りが酔いそうなほどに立ちこめる廊下の奥から、足音が聞こえてきた。キセは突き当たりの角に顔を引っ込めて背を向け、後ろから聞こえる足音に神経を集中させた。足音の主が曲がって来ても良いように再びトイレを探す振りをしてゆっくり歩いてみたが、こちらへ近付いてくる気配はない。やがて足音が止まり、扉を開く音が聞こえたので、キセはもう一度ソロソロと突き当たりの角に近付き、片目だけでそっと奥を覗いた。手前から数えて三つ目の扉の中に入って行く給仕服の男を、辛うじて見ることができた。男は、暗い色の長髪を一つに縛っていた。
 男子禁制の花の園に、例外があったらしい。
 そしてキセは、あの男の顔を知っている。
 廊下に誰もいないことを確認し、キセはたった今男が入っていった扉に近付いた。鍵穴の中を覗き込んでみると、部屋の中で先程までサロンにいた奥方たちが数人談笑しているのが小さく見えた。黒服の男とルコント侯爵夫人の姿は、鍵穴からでは見えない。が、談笑する婦人方の笑い声の中に、喉に貼り付くような笑い声が混じっている。――ルコント侯爵夫人だ。
 何の話をしているのかは、よく聞こえない。扉にぴったりと耳を付けようとしたところで、今度は元いたサロンの方から足音が聞こえてきた。絨毯の上をドレスの裾が這う音がするから、貴婦人の誰かだろう。キセは慌てて扉から離れ、向かい側からこちらへ近付いてくるアニエス・コルネールににっこりと笑いかけた。アニエス・コルネールは薄く笑みを浮かべ、片足を引いて目上の者に対するお辞儀をした。
「これは、キセ王女殿下。お探しものですか?」
「はい。実は、迷子になってしまいました。お手洗いを探していたのですが…」
 キセも膝を曲げて挨拶しながら、すっかり困ったように眉尻を下げた。我ながら演技が上手くいった。と、内心で自賛した。
「ずいぶんお迷いになりましたこと。わたくしがご案内いたします」
 アニエスは鈴が鳴るような声で弾むように言い、キセに片手を差し出した。アニエスがキセにまっすぐ笑いかけてきたのは初めてだったので、キセはどこかほっとして「はい!」と元気よく応え、その手を取った。
「とても助かります。実は、ガイウスさまにも道に迷っているところを助けていただいたことがあるんです。ご兄妹揃って親切にしていただいて、ありがとうございます」
「こちらこそ、兄と仲良くしてくださってありがとうございます。キセ殿下とお友達になれてから、兄は楽しそうにしております」
 アニエスはどこか猫を思わせる可憐な目を細めた。
「そう言っていただけると、わたしも嬉しいです。ふふ、何だか照れますね」
「兄が友人と呼ぶ人間はとても少ないのです、キセ殿下。ましてや女性の友人は初めてです。わたしも、実はどのような方か気になっていたのですよ。本当はずっと、殿下とゆっくりお話ししてみたくて――」
 アニエスは元いたサロンを通り過ぎ、明るい陽光の射す大きな窓の側で立ち止まると、添えられていたキセの手を顔の前まで持ち上げ、その指にするりと自分の長い指を絡めた。キセはびくりとした。アニエスの指は細く柔らかく、それでいてひんやりとしている。
「――知りたいと思っていました。あの人が触れた肌がどんなふうだったのか…」
 茶色の瞳が昼下がりの陽光を受けて琥珀色に光った。どこか蠱惑的な、それでいて冷たい色が宿っている。
「えっ…あの」
 キセは自分の顔が赤くなるのを止められなかった。この状況と彼女の言葉をどう受け取ったら良いのかわからない。
 アニエスは柔らかくしっとりした指で、つ、とキセの頬を撫で、そして唇に触れ、うっとり溜め息をついた。
「ふっくらした可愛らしい唇…まるでアーモンドの花びらのよう」
 キセは動けなかった。アニエスの長いまつ毛に縁取られた茶色い瞳が暗く翳り、花のような香りがふんわりと身体を包む。
「虜になる理由がわかります。数多の美女と不埒な関係を持った王太子殿下がとうとう真実の恋に落ちた相手があなただという理由が…」
 気付いたときには、唇にアニエスの柔らかい唇が触れていた。キセは混乱したが、身じろぎする前にアニエスの唇が離れた。キセは茫然として目の前の美しい女を見た。アニエスは目だけで微笑み、頭を下げた。
「失礼をお許しください、キセ王女殿下」
 と言いながら、アニエスは特に悪びれる様子もない。
「あっ…。はい。あの…?」
 まだ状況が整理できない。今のは、女性に迫られたのだろうか。いや、それとは何か違う気がする。
「お探しのお手洗いは、こちらではないようですね。うっかりしておりました」
 アニエスがにっこり微笑んで言った。
「王女殿下」
 キセは無意識のうちにアニエスから一歩下がって距離を取っていた。アニエスは窓の外へ視線を巡らせている。
「…御者の方が心配されているみたいですわ」
 キセはアニエスの視線の先を見た。ちょうど鉄柵の囲いの向こうに豪奢な馬車が連なって停まり、そのうちのもっとも美しい一台から御者の格好で帽子を深く被ったテオドリックが馬車を降りてこちらを見つめている。「戻ってこい」と言う声が聞こえた気がした。
「し、心配をかけてはいけませんね。本日はこれでおいとまします」
「ええ。侯爵夫人にはわたくしから申し上げておきます」
 キセはアニエスに別れを告げていちばん近くにあった小さな扉から庭へ出、岩壁のような門番に朗らかな挨拶をして、王家の馬車へ戻った。
 門前では、テオドリックと同じく御者の格好をしたジャンが馬車の扉を開けてキセを待っていた。中に入ると、テオドリックが座っていた。
 テオドリックはキセの顔を見るなり眉の下を暗くし、キセの肩を掴んだ。
「顔色が悪い。何があった」
「な、…なんだったのでしょう」
 今日の出来事を口に出すには、もう少し整理が必要だ。
「窓際で誰と何を話していた」
 テオドリックの気掛かりは、それだ。テオドリックの位置からは最後にキセと会話していた人物が誰か窺い知ることはできなかった。
「アニエスさまです。あの――」
 と言ったままキセは言葉を失い、顔色を変えた。あの唇が触れるだけのキスが一体何だったのか、全くわからない。そして、アニエスの不可解な口付けを思い出すと同時に、その直前に彼女が放った言葉が頭の中に蘇った。
「あまたの…」
「何?」
「‘数多の美女と不埒な関係を持った’テオドリックがついに恋に落ちたわたしがどんな人間か興味があるというようなことをおっしゃっていました」
 いつになく、キセの声には抑揚がない。
 初めての感情だった。
 なんとなくそんな気がしていたし、容姿も地位も精神も、これほどのものを持っている男性を、女性たちが放っておくはずはない。当然だ。
 だが、どこかで不埒な関係などないと否定して欲しかったのかもしれない。と、キセは自分の心情を理解しようとした。しかし、テオドリックの固く閉じられた唇を見ればそれが真実だと分かる。
 なんだか急に落ち込んできた。が、今はその話題にこだわっている場合ではない。
「それから、珍しくて高価な嗜好品がたくさんありました。中にはオピウムアヘンが入っているっぽいものも――」
 サッと顔色を変えたテオドリックが口を開く前に、キセはきっぱりと言った。
「大丈夫ですよ。変なにおいのするものはちゃんと避けました。オシアスの修業でいろいろな薬草を使いますから、よくないものは分かります」
 しかし、これはあまりテオドリックを安心させる材料にはならない。
「ということは何か口にしたんだな」
「異国の花茶を三種類いただきました。両手に乗る分だけの茶葉で、中産階級の方々の一か月分の食費になりそうなほど高価なものです。お財布には良くないけれど、身体に害はありません」
 キセは冗談っぽく言ったが、まだ心配を拭いきれないテオドリックはじっとキセの顔を観察し、顔色や瞳孔に問題がなさそうだと判断すると、ようやく肩の力を抜いた。
「無茶をするな」
「他の皆さんも同じものを召し上がっていましたから、大丈夫ですよ。でも、煙草やお酒は少し気になります。時間が経つとなんだか皆さん、羽目を外されているように見えました。それから――」
 と、キセはもっとも重要なことを言った。
「ルコント侯爵夫人と他の何人かが途中でいなくなって、別の部屋にいらっしゃったんです。そこで何をされていたのかは分かりませんでした。話をこっそり聞く前にアニエスさまに見つかりそうになってしまったので」
 テオドリックは腕組みをして唇を引き結んだ。危ない橋を渡ったことを責めているようでもある。キセは「テヘ」とでも言うように笑って首を傾げ、テオドリックの渋面に構わず続けた。
「ガイウスさまの夜会で炎の演舞をされていた舞い手の男性が、給仕係としてそのお部屋に召し出されていました」
 キセが見た男は間違いなく、松明を手に持ち、中心で舞っていた男だった。
「あれほど男性の立ち入りを厳しく取り締まっているのに、なんだか変ですよね?」
「――男は一人か」
「わたしが見た方はお一人でした。ですが、他にいらっしゃらなかったとは限りません」
 キセは溜め息をついた。
「わざわざテオドリックがついてきてくださったのに、わからないことだらけですね」
「いや、十分だ。もう――」
 とテオドリックが言いかけた時、キセがおずおずと小さく折られた白いレースのついたハンカチをポケットから取り出し、テオドリックの手のひらにのせた。テオドリックがハンカチを開くと、黒っぽいシワシワの葉がひとつまみ分ほど入っている。
「これは何だ」
「変な匂いのする茶葉を少し分けていただきました。…こっそり」
 キセは聞かれてもいないのに顔を赤くして恥ずかしそうに言った。
「いつもはこんなことはしないのですよ。小さいときにイユリお兄さまと鶏小屋の鍵を庭師の方からこっそりくすねてお庭中を鶏の運動場にしてしまったことはありますが、今日の他はその時だけなのですよ。本当です」
「わかった、わかった」
 いつになく言い訳がましいキセがおかしくて、テオドリックはくっくと笑った。
「城へ持ち帰って調べてみよう。違法なものが出れば、裁判にかけることもできる。しかし、まあ――」
 テオドリックは冷たい瞳でハンカチの上の茶葉を睨んだ。
「こんなものをキセに見せて、あの女狐はどうするつもりだったんだ」
「もしかしたら、試されたのかも知れません。高価なものにわたしが興味を示すのかとか、自分の血筋に負い目を感じるか、とか…」
「血筋?」
「侯爵夫人に馬の優れた血統を残すために当て馬を用意して繁殖させると教えていただいたんです。多分、当て馬はわたしのことを示していたのだと思います」
 テオドリックは奥歯を噛んだ。そうでなければ、ひどく口汚い罵り言葉を吐き捨てそうだったからだ。
(あのくそアバズレ)
 いつか殺してやる。と心の中で毒づいた。女神のようなキセ――しかも王太子妃になる隣国の王女を当て馬になぞらえるなど、何度死んでも足りないほどの罪だ。
 テオドリックは怒りを鎮めるためにこめかみを押さえ、フーッと長く細い息を腹から吐いた。一方で、キセは平然としている。
「平気か。いやな思いをしただろ」
 テオドリックはそっとキセの頬を撫でた。
「…ちょっとだけ」
 キセは小さく言って、頬に触れるテオドリックの手に自分の手を重ねた。
「でも、過去を変えて欲しいなんて思いません。全てのものごとは、必要だから起きるのです。その時の自分に必要なものを選んで、時間を重ねた先に、わたしたちの出会いがあったのだと思うので、その、…複雑と言えば、とても複雑ですが…」
 テオドリックは首を傾げた。何か食い違っている。
「それは、血筋の話か?」
「えっ」
 テオドリックが言っているのが過去の女性関係の話ではなかったことに気づき、キセは顔を赤くした。
「あっ、間違えました。ちすじですね…血筋のことは、あまりピンときません。漁師の血が流れていることも、神官の血が流れていることも、わたしにはどちらも誇りですから」
「そうだな」
 すり、とテオドリックはキセの頬を撫でた。キセの指がきゅっと手を掴んできたので、テオドリックはキスしようと近づけた顔を引っ込めた。キセが物憂げに俯いた。胸に黒い靄がかかる。
「…不埒で不実な放蕩者だった男には、触れられたくないか?」
「そんなことはありません」
 そう言ってこちらを見上げたキセの目を見て、テオドリックは自分の身体が冷たくなるのを感じた。
 この顔を、テオドリックは知っている。
 ミノイを殺したのが自分だと告げた後に見せた、なんでもないような顔だ。あの時のキセは、テオドリックに対して心を堅く閉じていた。
 あんなふうになるのは、もう二度とごめんだ。
「怒っていいんだぞ」
「テオドリックの過去にですか?」
「俺に、だ。過去は変えられないが、そのせいであんたを苦しめているなら、それは俺が悪い。悪かったよ、キセ。すまなかった」
 あれほど謝罪を口にするなと言っていたテオドリックが謝っている。それも、必死に、心底悲しそうな顔で。エメラルドグリーンの瞳が懇願するようにキセを見つめている。
「だから嫌うな」
 この次に見せたキセのしかめっつらを見て、テオドリックは自分がひどく滑稽になった。いつも機嫌よく開いている頼りない眉が深々と谷を作って上を向いている瞬間さえも、胸を刺すほどに愛おしい。
「ずるいです、そんなの」
 愛おしい人からこんなにまっすぐ愛を向けられて、怒れるはずがない。キセはむうっと頬を膨らませてテオドリックを不満げに見上げた。
「昔のテオドリックが何かに迷ったり、苦しんだりしていたなら、抱きしめてあげたかったと思ったんです。その時もそばにいられたらって。嫉妬は…ちょっとだけ、していますけど、でも、嫌いになんかなりません。あなたが何者でも――」
 キセはテオドリックの手のひらに頬を擦り寄せ、指先にキスをした。
「愛しています」
 キセの唇が触れたところからテオドリックの身体に痺れが走った。
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