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六十、花の園 - le goûter des fleures -
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ルコント侯爵夫人から、キセに招待状が届いた。
先日のコルネール邸の夜会でキセが気軽に約束してしまった‘花の園’への招待だ。
ルコント侯爵夫人と懇意にしている貴婦人だけの集まりで、この日はいかに出席者の夫であろうと、国王であろうと、男性は例外なく侯爵夫人の住まいであるシェダル宮に立ち入ることはできない。
‘できない’というのは、禁止されているからと言う意味もあるが、物理的な意味合いも含まれている。当日は屈強な門番を何人も配置し、厳重に守られているのだ。
侯爵夫人の言葉を借りれば、「婦人同士の結束を強め、婦人たちの束の間の自由とささやかな秘密を守るため」であるらしく、花の園で具体的にどのようなことが行われているのかは、実際に参加した貴婦人しか知らない。
こういった女性限定の集まりの例は、他にもある。普段男性社会の片隅で夫に従属する存在である婦人たちが集まって人目を気にせず愚痴を言ったり思う存分噂話をしたりするような極めて個人的なものから、婦人の地位向上を目的として社会活動や慈善事業などを行うものまで、様々だ。ルコント侯爵夫人の‘花の園’が果たしてどちらに当たるか、今のところ耳に入ってくる情報はそれほどない。
キセを誘ったのは、恐らくは罠だ。キセを懐柔しようとしているのかもしれないし、何か良くないことに巻き込むつもりかもしれない。どちらにせよ、友好的な招待とは言えない。
「病気だと言って断れ」
テオドリックは強く言ったが、キセは首を縦に振らなかった。
「ヴェロニク・ルコント侯爵夫人がどういう方か知るせっかくの機会ですから、行って参ります」
キセは夕食後に読んでいた本をサイドテーブルに置き、ソファの隣に座るテオドリックに向き直って居住まいを正した。
「どういう人間かならこの間の夜会で分かっただろう。あんたが近付くに値しない、敵意に満ちた女だ」
「ではその敵意の理由を知る必要があります。それに、わたしを誘ってくださった理由も知りたいです。わたしに何を望んでいるのかも」
「キセ」
テオドリックは眉を寄せ、ひどく不機嫌な顔を見せた。
が、キセは怯まず、その漆黒の目は揺るぎない。
「行きます」
キセはテオドリックの手を握った。
「わたしを信じてくださいますか?」
「そういう訊き方はずるいぞ」
テオドリックは不機嫌なまま言った。キセはにっこりと微笑み、テオドリックの頬にキスをした。
「信じてくださって、ありがとうございます」
この微笑みに対してこれ以上怒ったままでいることはできない。テオドリックは小さく溜め息をついた。
キセを止めることができないとなれば、他の方法を考える必要がある。
「俺が女装して行くのはどう思う」
テオドリックが神妙な顔つきで言い出したのは、翌朝、執務室で机仕事に勤しんでいるときのことだ。
「…は?」
イサクはさすがに困惑して、書簡を留めようとしていた赤い蝋を封筒の口ではないまっさらな場所にぼたりと落としてしまった。
「女狐の巣に小鳥を一羽で放り込むわけにいかないだろ。女しか入れないなら、俺が女のふりをすればいいんじゃないか」
「まず落ち着け」
イサクは封蝋を机に置いてひと息ついた。
「…顔はいい。お前なら絶世の美女に化けられるだろうさ。問題はそのガタイだ。背が高すぎるし肩が広すぎる。それ以前に、ヴェロニク・ルコントの集まりは招待を受けた本人でないと屋敷にも入れない。侍女も外で待たされるんだぞ。万が一ガタイと顔が釣り合わない美女として全員に認識されたとしても、そのガタイのいい美女宛ての招待状がなければ結果は同じだ」
イサクの言う通り、ヴェロニク・ルコントが主催する‘花の園’という名の茶会は、徹底した秘密主義だ。女性同士の気軽な情報交換を楽しむ目的も含まれているだろうが、その厳重さから見るに、何かが起きている事は間違いない。
「ルコント邸にはヴィゴが潜入してる。何かあればすぐに報せがくる」
イサクは珍しく愚にもつかない策を練った主人を宥めるように言ったが、テオドリックが納得するには到底及ばない。
「ヴィゴも中には入れない」
「だが様子を窺うことはできる。キセ姫にも危なくなったらどうにかして合図を出させればいい」
「危険だ」
「彼女は小鳥のように見えても鷲の子だ、テオ。――まあ、お前の女装は個人的に見てみたい気もするが…」
ふっ、とイサクは失笑したが、テオドリックは渋面のまま腕組みをしている。それほど本気で考えていると言うことだ。
結局、どうしても心配を拭いきれなかったテオドリックが、他の方法でキセについていくことになった。
レグルス城のエントランスを出たとき、蔦模様のレリーフが美しい白い馬車の前に立つ御者がテオドリックだと気付いたキセの顔は、笑えてくるぐらい素直に驚きを表していた。
「テオドリック、その格好…」
テオドリックが着ている襟の大きなダブルボタンの長い桑の実色のジャケットは、間違いなく王家に仕える御者の服装だ。これに、ややつばの広い黒の帽子を目深に被って特徴的なアッシュブロンドの髪を隠している。
「思ったよりバレるのが早かったな」
ニヤリと笑ったテオドリックに、キセは朗らかに笑いかけた。
「どんな格好で顔を隠しても、わかります。身体つきや動き方はよく存じていますし、何を着ていてもテオドリックがいちばん素敵ですから」
キセに別の意図はないのだろうが、なかなか際どい発言だ。
テオドリックは口元が緩むのを我慢できず、御者になりすますことをこの一瞬だけ諦めることにした。
「こんなところで煽らないでくれ、姫殿下。我慢できなくなる」
「…!」
頬を赤くしたキセの手を取ってそこに口付けし、ついでに指先をペロリと舐めた。
「もう、テオドリック…」
キセは頬にキスを受け、自分からも頬にキスを返して、テオドリックの胸に頬を擦り寄せた。
「口はダメだな。御者の唇に姫殿下と同じ口紅がついていたら良くない噂が立つ」
くすくすとキセが笑ってテオドリックを見上げた。
「ついてきてくださるのですね。心強いです」
テオドリックは表情から笑みを消し、低い声で言った。
「何かあればすぐに動く。ジャンも一緒にいるから、何か危険を感じたらどうにかして外に合図をしろ」
「はい。わかりました。なるべくたくさんお土産話を持って帰れるよう、頑張りますね」
テオドリックの心配とは裏腹に、キセはいつも通りの朗らかな笑顔でいる。
(ああ、いやだ)
テオドリックはきれいに編み込まれたキセの髪が乱れないようにぽんぽんと頭を撫で、小さく溜め息をついた。
こんなに可憐な婚約者を女狐どもの群れへ放り込むなど、考えただけでぞっとする。
しかし、キセも何も考えなしで敵地に乗り込むほど愚かではない。
オリーブ色のドレスのスカート部分には動きやすいように少々の膨らみがあり、丈も床につくほどではなく、ブーツの爪先がやや覗く程度になっている。更にその下にはタイツと乗馬用の機動性のよいブーツを履いている。これらは全て何かあったときに逃げやすくするためだ。オリーブ色も、そういう場合に保護色になる。
ルコント侯爵婦人の屋敷――シェダル宮に到着したとき、キセが初めに視線を向けたのは、招待客を出迎える色とりどりの美しい薔薇ではなく、正面の大きな黒い鉄柵の門と、薔薇の咲き誇る広大な庭、その片隅に小さく見える庭師小屋だった。有事の際の退路だ。多分、この規模の庭園であればどこかに庭師や使用人専用の通路があるはずだ。
キセは御者の振りをして馬車の前に立つテオドリックににっこりと笑いかけて屋敷の中へ入り、扉の前に立っている岩のような体格の門番に侯爵夫人からの招待状を見せると、中へ入るよう促された。
広々とした木目の美しいエントランスは薔薇の香りが立ちこめ、まるで植物園のように様々な種類の薔薇が至る所に生け込まれている。
キセは立場で言えばこの茶会でいちばんの貴賓だ。ルコント侯爵夫人はエントランスでキセの到着を待っていた。
ルコント侯爵夫人は‘花の園’の名に相応しく花の刺繍があしらわれたドレスを纏い、恭しく膝を曲げてキセの来訪に礼を告げた。キセも礼儀正しく作法通りの返答をし、薔薇の花が生けられたエントランスを奥へ進んで行った。
貴婦人たちは奥の広いサロンに集まっていた。花の園に招待された貴婦人は二十人ほどで、年代は二十代から三十代であり、彼女たちの左手の薬指を見ると、ほとんどが既婚者だった。彼女たちはドレスや扇子など、身につけるもののどこかに花のモチーフをあしらっている。‘花の園’での、暗黙の共通認識なのだろう。キセもこの日はその茶会の名に相応しいように、髪に花飾りを付けてきている。
サロンにはバラやマーガレット、ヒナギク、カーネーションなど、季節の花々が色彩豊かに飾られている。婦人たちの香水の匂いが充満していなければ、それぞれの花の香りを楽しめただろう。
貴婦人たちは隣国の王女に礼儀正しい微笑みを浮かべてお辞儀をしたが、キセに送る視線はどれもどこか品定めをしているようだった。何人かは先日のコルネール家の夜会で挨拶を交わした貴族の奥方で、また何人かは同じ夜会で見た侯爵夫人の取り巻きだ。
この中に、ガイウス・コルネール辺境伯の妹アニエスの姿もある。
アニエスはオーキッド色の華やかなドレスに身を包み、先日の夜会と同じようにキセにどこか冷たい視線を送った。
しかし、キセは特に気にすることなく、まずはアニエスに先日の夜会の礼を告げて挨拶をし、他の婦人方にもひとりひとり声を掛けて回った。彼女たちが驚いたのは、コルネールの夜会では一言挨拶を交わした程度だったにもかかわらず、キセが会った者の顔と名を全員覚えていたことだ。しかも、キセはイノイルの王女という立場もさることながら、他の婦人が気後れするほど優美で可憐な佇まいであるのに、花の園ではいちばん慎ましやかだった。最初はこちらの出方を窺っていた様子の貴婦人たちも、そういうキセに好感を持った。キセがそれぞれの領地のことやお気に入りの仕立屋のことなどを訊くと、聞いてもいない贔屓の髪結いや領地のゴシップ、人気の舞台俳優と自分の個人的な関係まで進んで耳に入れた。
女同士の気軽なお喋りが至る所で花咲くなか、給仕係が木製の棚のようなワゴンを何台も押しながらぞろぞろと入ってきた。給仕係も全員女性で、一様に明るいグリーンのドレスを着ている。貴婦人が花を身に付けているから、給仕係は葉をイメージしているのだろう。何から何まで徹底している。よく見れば、ソファも花模様だ。
ワゴンに乗っていたのは、見た目にも美しい様々な菓子や、異大陸産の茶や酒、煙草などだった。どれもエマンシュナでは珍重されるものばかりで、今運ばれてきた嗜好品の総額を合わせれば、ざっと小富裕層の年収ぐらいにはなるはずだ。
しかし、キセにはどのあたりに守りたい秘密があるのか、まだわからない。珍重されている嗜好品を夫たちに隠れて贅沢に堪能できるからかもしれない。が、それにしては厳重すぎる。
当然、キセもそれらの嗜好品を勧められた。煙草は丁重に断り、珍しい茶を試すことにした。茶の色は黒っぽいが、花の香りが強く、舌触りは爽やかで、ほんのり苦みがある。
「おいしいです」
キセが呟くと、周囲の貴婦人がこぞってあれはどうかこれはどうかと他の茶や菓子を勧めてきた。みな王太子妃になるキセに良い顔をしておきたいのだ。キセは彼女たちの自尊心を傷付けることなく、なんだかいやな匂いのするものは避けた。確証はないが、恐らくこの中には常習性のあるものや、オピウムなど麻薬成分の含まれているものがいくつかある。しかも、秘密の空間とは言え、侯爵夫人が貴婦人たちに大っぴらに提供しているものだ。成分や量を法に触れない程度に調整しているかもしれない。
オシアスだったキセは人の話を聞くのが巧い。貴婦人たちの話は大体が自慢話だ。自家の財力や夫の権勢を誇り、自分の価値をこの女の園で示そうとする。キセは彼女たちの話に相槌を打つ傍ら、その裏にある孤独や行き場のない感情を読み取っていた。
花の園に招かれた婦人たちの共通点は、家族が莫大な財力と権力を持っているというだけではない。夫や家への強い不満だ。しかし、みなはっきりとは口にしない。その不満を、自分の身を飾ることで巧妙に隠し、昇華しているように見える。
(だから秘密厳守なのでしょうか)
キセは泣きぼくろの妖艶なブレーズ子爵夫人から領地で家業として営んでいる馬の繁殖場の話を興味深く聞きながら、彼女たちの秘密にしたい何かについて考えを巡らせた。
「ブレーズ子爵の領地で育った馬は本当によく走るんですのよ」
と、キセの隣に腰掛けてきたのは、ルコント侯爵夫人だ。赤い唇を吊り上げ、黒く塗った睫毛を目元に落として、キセににっこりと笑いかけた。
「ルコント侯爵夫人もブレーズ閣下の馬にお乗りになったことがあるのですか?」
「もちろんですわ。ブレーズ閣下からはこれまで三十頭ほど買い求めておりますの。よく走る馬は、やはり血統が確かなのです、王女殿下。我が領地でも、よく走る牡馬と同じく血統確かな牝馬を繁殖させているのですよ。馬の繁殖についてはご存じですか?王女殿下」
「いいえ、具体的には。どういったことをなさるのですか?」
キセが無邪気に訊ねると、ルコント侯爵夫人とブレーズ子爵夫人はちょっと意味ありげに顔を見合わせて微笑み、ルコント侯爵夫人が先を続けた。
「当て馬を用意するのです。まずは牡馬を発情させるために別の牝馬を近付けて、血統の確かな牝馬と交配させ、より速く強い馬を産ませるのですわ」
「なるほど」
と、キセは感心した。
「では、当て馬はその後どうなるのですか?」
「また別の当て馬に使われたり、時々交配させることもありますが、そういう馬はどちらにせよ血統の確かな仔を生むことはできません。牧場で老いるだけですわ」
ルコント侯爵夫人が灰色の冷たい目に弧を描かせた。が、キセはこの会話の意図に深い考えを持つことなく、感じ入ったように頷いた。
「すごいです。良い馬を育てるのにも工夫と努力が必要なのですね。わたしが馬と一緒に風を切るように走れるのは、ブレーズ子爵のような方々のおかげですね。本当にありがたいです」
キセが本心からそう言って頷くと、ブレーズ子爵夫人は毒気を抜かれて、扇子で口元を隠しながらくすくすと笑った。ルコント侯爵夫人は口元だけで笑み、キセに言った。
「仰る通りですわ、王女殿下。工夫と努力が必要ですわね。何事にも」
この時、アニエス・コルネールがしずしずと近付いてきて何事か侯爵夫人に耳打ちし、そのまま奥のテーブルで煙草を嗜む婦人たちの中に入っていった。
ルコント侯爵夫人はしばしの暇を告げて立ち上がり、サロンを後にした。
この後、キセは茶菓子を選ぶ振りをして他の婦人たちにも声を掛けながら、それとなく辺りを見回してみた。正確な数はわからないが、何人かいなくなっている。他の貴婦人たちは細長い木製のパイプから煙草を吹かし、或いは緑色をした異国の酒や、キセが飲むのをやめたものと同じ茶を飲んで声を弾ませ、おもしろおかしく会話をしている。あまり周りには注意を払っていないようだ。
なにがし夫人はどこに行ったとか、ホステスのルコント侯爵夫人が戻ってこないとか、気にする者は誰もいない。
キセは自分にも注意が払われていないのをそれとなく確認すると、トイレへ立つ振りをして、そっとサロンを出た。
先日のコルネール邸の夜会でキセが気軽に約束してしまった‘花の園’への招待だ。
ルコント侯爵夫人と懇意にしている貴婦人だけの集まりで、この日はいかに出席者の夫であろうと、国王であろうと、男性は例外なく侯爵夫人の住まいであるシェダル宮に立ち入ることはできない。
‘できない’というのは、禁止されているからと言う意味もあるが、物理的な意味合いも含まれている。当日は屈強な門番を何人も配置し、厳重に守られているのだ。
侯爵夫人の言葉を借りれば、「婦人同士の結束を強め、婦人たちの束の間の自由とささやかな秘密を守るため」であるらしく、花の園で具体的にどのようなことが行われているのかは、実際に参加した貴婦人しか知らない。
こういった女性限定の集まりの例は、他にもある。普段男性社会の片隅で夫に従属する存在である婦人たちが集まって人目を気にせず愚痴を言ったり思う存分噂話をしたりするような極めて個人的なものから、婦人の地位向上を目的として社会活動や慈善事業などを行うものまで、様々だ。ルコント侯爵夫人の‘花の園’が果たしてどちらに当たるか、今のところ耳に入ってくる情報はそれほどない。
キセを誘ったのは、恐らくは罠だ。キセを懐柔しようとしているのかもしれないし、何か良くないことに巻き込むつもりかもしれない。どちらにせよ、友好的な招待とは言えない。
「病気だと言って断れ」
テオドリックは強く言ったが、キセは首を縦に振らなかった。
「ヴェロニク・ルコント侯爵夫人がどういう方か知るせっかくの機会ですから、行って参ります」
キセは夕食後に読んでいた本をサイドテーブルに置き、ソファの隣に座るテオドリックに向き直って居住まいを正した。
「どういう人間かならこの間の夜会で分かっただろう。あんたが近付くに値しない、敵意に満ちた女だ」
「ではその敵意の理由を知る必要があります。それに、わたしを誘ってくださった理由も知りたいです。わたしに何を望んでいるのかも」
「キセ」
テオドリックは眉を寄せ、ひどく不機嫌な顔を見せた。
が、キセは怯まず、その漆黒の目は揺るぎない。
「行きます」
キセはテオドリックの手を握った。
「わたしを信じてくださいますか?」
「そういう訊き方はずるいぞ」
テオドリックは不機嫌なまま言った。キセはにっこりと微笑み、テオドリックの頬にキスをした。
「信じてくださって、ありがとうございます」
この微笑みに対してこれ以上怒ったままでいることはできない。テオドリックは小さく溜め息をついた。
キセを止めることができないとなれば、他の方法を考える必要がある。
「俺が女装して行くのはどう思う」
テオドリックが神妙な顔つきで言い出したのは、翌朝、執務室で机仕事に勤しんでいるときのことだ。
「…は?」
イサクはさすがに困惑して、書簡を留めようとしていた赤い蝋を封筒の口ではないまっさらな場所にぼたりと落としてしまった。
「女狐の巣に小鳥を一羽で放り込むわけにいかないだろ。女しか入れないなら、俺が女のふりをすればいいんじゃないか」
「まず落ち着け」
イサクは封蝋を机に置いてひと息ついた。
「…顔はいい。お前なら絶世の美女に化けられるだろうさ。問題はそのガタイだ。背が高すぎるし肩が広すぎる。それ以前に、ヴェロニク・ルコントの集まりは招待を受けた本人でないと屋敷にも入れない。侍女も外で待たされるんだぞ。万が一ガタイと顔が釣り合わない美女として全員に認識されたとしても、そのガタイのいい美女宛ての招待状がなければ結果は同じだ」
イサクの言う通り、ヴェロニク・ルコントが主催する‘花の園’という名の茶会は、徹底した秘密主義だ。女性同士の気軽な情報交換を楽しむ目的も含まれているだろうが、その厳重さから見るに、何かが起きている事は間違いない。
「ルコント邸にはヴィゴが潜入してる。何かあればすぐに報せがくる」
イサクは珍しく愚にもつかない策を練った主人を宥めるように言ったが、テオドリックが納得するには到底及ばない。
「ヴィゴも中には入れない」
「だが様子を窺うことはできる。キセ姫にも危なくなったらどうにかして合図を出させればいい」
「危険だ」
「彼女は小鳥のように見えても鷲の子だ、テオ。――まあ、お前の女装は個人的に見てみたい気もするが…」
ふっ、とイサクは失笑したが、テオドリックは渋面のまま腕組みをしている。それほど本気で考えていると言うことだ。
結局、どうしても心配を拭いきれなかったテオドリックが、他の方法でキセについていくことになった。
レグルス城のエントランスを出たとき、蔦模様のレリーフが美しい白い馬車の前に立つ御者がテオドリックだと気付いたキセの顔は、笑えてくるぐらい素直に驚きを表していた。
「テオドリック、その格好…」
テオドリックが着ている襟の大きなダブルボタンの長い桑の実色のジャケットは、間違いなく王家に仕える御者の服装だ。これに、ややつばの広い黒の帽子を目深に被って特徴的なアッシュブロンドの髪を隠している。
「思ったよりバレるのが早かったな」
ニヤリと笑ったテオドリックに、キセは朗らかに笑いかけた。
「どんな格好で顔を隠しても、わかります。身体つきや動き方はよく存じていますし、何を着ていてもテオドリックがいちばん素敵ですから」
キセに別の意図はないのだろうが、なかなか際どい発言だ。
テオドリックは口元が緩むのを我慢できず、御者になりすますことをこの一瞬だけ諦めることにした。
「こんなところで煽らないでくれ、姫殿下。我慢できなくなる」
「…!」
頬を赤くしたキセの手を取ってそこに口付けし、ついでに指先をペロリと舐めた。
「もう、テオドリック…」
キセは頬にキスを受け、自分からも頬にキスを返して、テオドリックの胸に頬を擦り寄せた。
「口はダメだな。御者の唇に姫殿下と同じ口紅がついていたら良くない噂が立つ」
くすくすとキセが笑ってテオドリックを見上げた。
「ついてきてくださるのですね。心強いです」
テオドリックは表情から笑みを消し、低い声で言った。
「何かあればすぐに動く。ジャンも一緒にいるから、何か危険を感じたらどうにかして外に合図をしろ」
「はい。わかりました。なるべくたくさんお土産話を持って帰れるよう、頑張りますね」
テオドリックの心配とは裏腹に、キセはいつも通りの朗らかな笑顔でいる。
(ああ、いやだ)
テオドリックはきれいに編み込まれたキセの髪が乱れないようにぽんぽんと頭を撫で、小さく溜め息をついた。
こんなに可憐な婚約者を女狐どもの群れへ放り込むなど、考えただけでぞっとする。
しかし、キセも何も考えなしで敵地に乗り込むほど愚かではない。
オリーブ色のドレスのスカート部分には動きやすいように少々の膨らみがあり、丈も床につくほどではなく、ブーツの爪先がやや覗く程度になっている。更にその下にはタイツと乗馬用の機動性のよいブーツを履いている。これらは全て何かあったときに逃げやすくするためだ。オリーブ色も、そういう場合に保護色になる。
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サロンにはバラやマーガレット、ヒナギク、カーネーションなど、季節の花々が色彩豊かに飾られている。婦人たちの香水の匂いが充満していなければ、それぞれの花の香りを楽しめただろう。
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この中に、ガイウス・コルネール辺境伯の妹アニエスの姿もある。
アニエスはオーキッド色の華やかなドレスに身を包み、先日の夜会と同じようにキセにどこか冷たい視線を送った。
しかし、キセは特に気にすることなく、まずはアニエスに先日の夜会の礼を告げて挨拶をし、他の婦人方にもひとりひとり声を掛けて回った。彼女たちが驚いたのは、コルネールの夜会では一言挨拶を交わした程度だったにもかかわらず、キセが会った者の顔と名を全員覚えていたことだ。しかも、キセはイノイルの王女という立場もさることながら、他の婦人が気後れするほど優美で可憐な佇まいであるのに、花の園ではいちばん慎ましやかだった。最初はこちらの出方を窺っていた様子の貴婦人たちも、そういうキセに好感を持った。キセがそれぞれの領地のことやお気に入りの仕立屋のことなどを訊くと、聞いてもいない贔屓の髪結いや領地のゴシップ、人気の舞台俳優と自分の個人的な関係まで進んで耳に入れた。
女同士の気軽なお喋りが至る所で花咲くなか、給仕係が木製の棚のようなワゴンを何台も押しながらぞろぞろと入ってきた。給仕係も全員女性で、一様に明るいグリーンのドレスを着ている。貴婦人が花を身に付けているから、給仕係は葉をイメージしているのだろう。何から何まで徹底している。よく見れば、ソファも花模様だ。
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しかし、キセにはどのあたりに守りたい秘密があるのか、まだわからない。珍重されている嗜好品を夫たちに隠れて贅沢に堪能できるからかもしれない。が、それにしては厳重すぎる。
当然、キセもそれらの嗜好品を勧められた。煙草は丁重に断り、珍しい茶を試すことにした。茶の色は黒っぽいが、花の香りが強く、舌触りは爽やかで、ほんのり苦みがある。
「おいしいです」
キセが呟くと、周囲の貴婦人がこぞってあれはどうかこれはどうかと他の茶や菓子を勧めてきた。みな王太子妃になるキセに良い顔をしておきたいのだ。キセは彼女たちの自尊心を傷付けることなく、なんだかいやな匂いのするものは避けた。確証はないが、恐らくこの中には常習性のあるものや、オピウムなど麻薬成分の含まれているものがいくつかある。しかも、秘密の空間とは言え、侯爵夫人が貴婦人たちに大っぴらに提供しているものだ。成分や量を法に触れない程度に調整しているかもしれない。
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「ルコント侯爵夫人もブレーズ閣下の馬にお乗りになったことがあるのですか?」
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「いいえ、具体的には。どういったことをなさるのですか?」
キセが無邪気に訊ねると、ルコント侯爵夫人とブレーズ子爵夫人はちょっと意味ありげに顔を見合わせて微笑み、ルコント侯爵夫人が先を続けた。
「当て馬を用意するのです。まずは牡馬を発情させるために別の牝馬を近付けて、血統の確かな牝馬と交配させ、より速く強い馬を産ませるのですわ」
「なるほど」
と、キセは感心した。
「では、当て馬はその後どうなるのですか?」
「また別の当て馬に使われたり、時々交配させることもありますが、そういう馬はどちらにせよ血統の確かな仔を生むことはできません。牧場で老いるだけですわ」
ルコント侯爵夫人が灰色の冷たい目に弧を描かせた。が、キセはこの会話の意図に深い考えを持つことなく、感じ入ったように頷いた。
「すごいです。良い馬を育てるのにも工夫と努力が必要なのですね。わたしが馬と一緒に風を切るように走れるのは、ブレーズ子爵のような方々のおかげですね。本当にありがたいです」
キセが本心からそう言って頷くと、ブレーズ子爵夫人は毒気を抜かれて、扇子で口元を隠しながらくすくすと笑った。ルコント侯爵夫人は口元だけで笑み、キセに言った。
「仰る通りですわ、王女殿下。工夫と努力が必要ですわね。何事にも」
この時、アニエス・コルネールがしずしずと近付いてきて何事か侯爵夫人に耳打ちし、そのまま奥のテーブルで煙草を嗜む婦人たちの中に入っていった。
ルコント侯爵夫人はしばしの暇を告げて立ち上がり、サロンを後にした。
この後、キセは茶菓子を選ぶ振りをして他の婦人たちにも声を掛けながら、それとなく辺りを見回してみた。正確な数はわからないが、何人かいなくなっている。他の貴婦人たちは細長い木製のパイプから煙草を吹かし、或いは緑色をした異国の酒や、キセが飲むのをやめたものと同じ茶を飲んで声を弾ませ、おもしろおかしく会話をしている。あまり周りには注意を払っていないようだ。
なにがし夫人はどこに行ったとか、ホステスのルコント侯爵夫人が戻ってこないとか、気にする者は誰もいない。
キセは自分にも注意が払われていないのをそれとなく確認すると、トイレへ立つ振りをして、そっとサロンを出た。
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