獅子王と海の神殿の姫

若島まつ

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五十五、炎の舞踊 - la danse du feu -

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 エメネケット・ロンドが終わり、雅やかな五重奏の春の曲へ、更にゆったりした旋律のワルツへと曲が変わり、ワインが大勢の招待客の頬を赤く染めた頃、突然演奏が止み、雷のような太鼓の音と共に、派手な衣装を纏った芸人の一団が大広間へと入ってきた。
 二十代から四十代くらいの男が七人、十代から三十代くらいの女が三人おり、みな日に焼けて肌が黒く、ヒョウやトラの毛皮を身体に巻きつけるように覆い、男は筋骨隆々とした胸板を、女はよく鍛えられた美しい腕と脚を惜しげもなく晒している。
 彼らは両手に火のついていない松明を一本ずつ持って、先ほどまで招待客が輪になってエメネケット・ロンドを踊っていた場所に整列した。中央に暗い色の長い髪を一つに縛った大男が立ち、その左右と後方に女たち、さらにその周囲にも男たちが菱形を描くように直立している。
 未知の余興に招待客がざわめく中、キセも期待に胸を躍らせた。オアリスでもいろいろな芸の催しがあるが、こういったものは初めて見る。
 フッ!と、中央の男が高い天井に向けて柱のような炎を吹いた。同時に松明に火が灯り、これに共鳴するように舞い手全員の松明に火が付いた。
「わあ…!」
 歓声を上げたのはキセだけではない。あちこちで歓声が上がり、中には炎に驚いて小さな悲鳴を上げた婦人もいる。
 彼らは松明を回して投げ合ったり、宙に絵を描くように振り回したりして、まるで炎を生き物のように操っている。
 大広間は歓声と炎の演舞で熱気を増し、キセはその迫力に思わずテオドリックの袖を握りしめるように掴んでいた。離れているのに、熱風がこちらまで吹いてくる。
「すごいです…。あんなに大きな炎の近くにいるのに、あの方たちは怖くないのですね」
「あれを生業にしているからな」
 テオドリックが舞い手から顔を動かさず、視線だけキセに向けて言った。
 やっぱりまだ怒っているようだ。キセはしゅんとしたが、少なくとも夜会の間はにこにこしていなければならない。
 この時、テオドリックとは反対側の隣にガイウスがやって来て、キセの肩にそっと触れ、身を屈めて小さく耳打ちした。
「誰かあなたの好みの者はいたか?」
「好み?」
 キセは意味がわからずキョトンとしてガイウスを見上げた。
「そういうことか。悪趣味な」
 そう吐き捨てるように言って、テオドリックは眉間に深く皺を寄せ、不機嫌な様子でキセの肩を自分の方へ抱き寄せた。
「どういうことですか?」
「侯爵夫人とその取り巻きを見てみろ」
 キセはテオドリックが顎でしゃくった先――大広間の一番奥で炎の舞を見物するルコント侯爵夫人とその周囲の華やかな貴婦人たちをちらりと見た。
 彼女たちのうっとりした視線の先は炎ではなく、どうやら筋骨隆々とした野性味あふれる舞い手の男性たちであるらしい。彼らのはち切れそうな胸板が炎の熱で汗ばみ、輝いている。
「キセ、芸人が売るものが芸だけとは限らないよ」
 尚も真意を理解できないキセの耳元でガイウスが囁いた。テオドリックが目をすがめてガイウスに警告の視線を送ったが、ガイウスは頬がくっつくほどにキセに顔を寄せ、構わず続けた。
「あの男たちは高貴な夫人の寝所に侍ることになる。夫の目を盗むか、或いは夫も一緒になって」
「コルネール」
 テオドリックがガイウスの肩を掴んでキセから引き離し、王太子の顔を取り繕うことも忘れて怒気を発した。
「あの、それは…」
 キセが二人の顔を交互に見た。困惑している。
「あの方たちも承知の上なのですか?」
「もちろん。彼らの生活には芸を売って得る以上の金が必要だ」
 ガイウスが言った。青灰色の瞳は何の感情も映していない。
「女たちも同じ。今夜はこの中の誰かのベッドの上で過ごすことになる」
 炎がごう、と音を立てた。
 松明があちこちを飛び、舞い手たちが弾けるような笑顔で光の輪を描くのを、キセはどこか茫然と眺めた。
「姫殿下には刺激が強すぎたかな」
 ガイウスが言った。揶揄しているわけでも、侮っているわけでもない。キセに不快な思いをさせたのではないかと、この男なりに気遣わしく思っているのだ。
 テオドリックもキセのこの沈黙の意味を図りかねた。一度オシアスとして純潔を守る道を選んだキセの目に、色をひさぐ者たちがどう映っているのかは、正直言ってよく分からない。
 やがて、キセが口を開いた。
「悔しいですね」
 漆黒の瞳は炎に生命を吹き込む舞い手たちを凝視している。
「これほど人の心を動かす技術をお持ちの方たちが、それだけで生活できるような国をつくるのが、わたしたちの使命ですね」
 王女の顔だ。
 と、テオドリックは思った。
 現状では、芸術活動に大金を出そうとする富裕層は多くない。ここ数年のイノイルとの情勢悪化が主な原因だ。
 普段であれば自らの名に箔を付けるため、多くの芸術家を抱えて彼らの芸術活動が世に出る支援を気前よく行っている富裕層も、有事の時に家や家族を守るために、今は財産を少しでも蓄えておく必要がある。つまるところ、戦が芸術家たちのパトロンを奪っていると言える。
 キセは売春を善悪で考えることなく、彼らの境遇を憐れむこともなく、そういうことを言っている。あくまで彼らの境遇は自分たちの責任の一つであると冷静な目で見ているのだ。
「そうだな」
 と、テオドリックは応えた。今まで売春をそういう目で捉えたことがなかったから、キセの視点は少なからず衝撃的だ。
 一方、ガイウスは表情を変えずにキセの肩に手を置いて言った。
「しかし、キセ。我々は彼らの仕事を有効に利用する必要がある」
 ガイウスの声には抑揚がない。
 この時、ライラック色のドレスを着たアニエス・コルネールが侯爵夫人とその取り巻きにしずしずと近付いて行くのを、キセは見た。
 アニエスはフワフワの羽のついた淡い空色の扇子で口元を隠し、彼女たちに何事か囁いているらしい。彼女たちはくすくすと艶美に笑い、互いに何か含みのある視線を交わし合った。
 キセは少しハラハラしながらその様子をそれとなく見守り、ガイウスを見上げた。
 ガイウスには、キセの言いたいことは分かっている。
「心配は無用だ。妹は心得ている」
 ガイウスはキセを安心させるように、肩に置いた手でそこをぽんぽんと撫でた。
「おい」
 テオドリックが今度はガイウスの手首を強く掴んでキセの肩に触れるのをやめさせた。エメラルドグリーンの瞳が暗く剣呑な翳りを見せている。
「キセにベタベタ触るな」
「堪え性のないお方だ。我々は任務中・・・ですよ、殿下。あなたにもご協力いただかなくては。それにわたしとキセは友人ですから、肩を触れるくらいの接触は当然のことです」
「限度がある」
 テオドリックが強くキセの肩を抱き寄せてガイウスを威嚇した。慌てたのはキセだ。ここで仲間割れするのは良くない。というか、とても悪い。
「あ、あああの、わたしなら大丈夫ですから、ね。テオドリック」
 キセが宥めるように腕に触れると、ひどく不機嫌な様子でテオドリックがキセを見下ろしてきた。 
「ガイウスさまは目的があってなさっているのですから、あまり深い意味は――」
「いいや、キセ。そうとは限らない」
 ガイウスは青灰色の目を細めて言った。冗談を言っているように見えるが、ここに本心が隠れているのを、テオドリックは知っている。
 テオドリックは鼻をふん、と鳴らしてガイウスを睨め付けた。
「前に言ったことを覚えているだろうな」
 ガイウスは不遜な笑みを浮かべてその警告を受け取った。
「ええ。目的のためキセに近付くことを承諾いただいたことははっきりと記憶にあります」
 キセはすっかり困惑してしまった。
「もう、お二人とも…」
「おやおや、楽しそうだな」
 と、キセの窮地を救ったのは、スクネの声だ。
「お兄さま」
 キセは安堵して背後を振り返った。そこにはよそ行きの笑顔で佇む兄と、その傍らにやさしく微笑むシダリーズがいた。
 炎の演舞は終盤を迎え、舞手たちが激しく松明を回し、投げ合い、いっそう激しく炎が吹き上がっている。皆がそちらに注目しているから、この小競り合いに気付く者は今のところスクネとシダリーズ以外にはいないようだった。
 スクネはキセの両肩に手を乗せてさり気なくテオドリックの手をそこから払い落とし、「さ」と、キセを二頭の猛獣から引き離して自分の方へ引き寄せた。
「そろそろ舞が終わる。向こうにアニエス嬢が用意してくれたショコラがあるぞ。砕いたクルミが入っているやつだ。お前、好きだろう」
「大好きです!…あ、でも」
 キセは喜色を浮かべたが、ハッとテオドリックとガイウスを振り返って躊躇した。険悪な状態の二人を残しては行けない。が、スクネは構わなかった。
「その二人は大丈夫だ。男同士で話をつけるだろう」
 スクネが関心のない声色で言って、キセの肩に触れていた手を未だに引っ込めようとしないテオドリックと腕組みをするガイウスを真っ黒な瞳で冷たく一瞥した。
 本当なら飢えた獣は獲物が近くにいない方が大人しかろうと言いたかったが、それではキセが気に病むことになる。
「なるほど、道理です。男性同士の方がお話ししやすいかもしれませんね」
 キセはそう解釈して眉を開き、喜んで兄の腕に掴まった。
「では、行って参りますね」
 キセに輝くような笑顔を向けられたのでは、もう何も言えない。テオドリックとガイウスは互いに目を合わせることなく微笑を貼り付けてその後ろ姿を見送った。
「シダリーズさまもショコラがお好きですか?」
 キセが訊ねると、シダリーズはスクネの反対側の腕に掴まり、にっこりと可憐に微笑んだ。
「大好きです。ガトー・オ・ショコラもあるみたいですよ」
「楽しみです!」
「わたしはクリームがのっているムース・オ・ショコラが一番楽しみなんです」
「そんなものがあるのですね。食べたことがないです」
「甘くてふわふわでとろっと溶けて、とってもおいしいですよ。キセさまも一緒に――」
 キャッキャと会話に花を咲かせる女の子たちを両脇にエスコートしながら、スクネは妹に夢中な二人の男を振り返って、フッ、と不敵に笑った。
「…わたしのキセが兄君に攫われてしまった」
 ガイウスが独り言のように呟いた。これは聞き捨てならない。
「お前のじゃない」
 テオドリックは刺すように言ったが、ガイウスは全く気に留める様子がない。
「ああ、失礼。‘わたしの友人・・のキセ’ですね」
「その不快な口を縫いつけるぞ、コルネール」
「演舞は終わりましたよ、殿下。そういう言動は注目を集めます」
 とガイウスが言ったように、ちょうど演舞を終えた舞い手たちが、あの大きな炎をどうやったのか、すでに火の消えた松明を手に整列し、観客の声援と拍手に眩しい笑顔で応じている。
 ただでさえ人気者の王太子は派手に注目を集めるというのに、その側に夜会の主催である辺境伯のガイウス・コルネールが並んでいるのでは、確かに、余計に多くの視線を集めることになる。
 それも、アッシュブロンドの髪と輝くばかりの美麗な容姿を持つテオドリックに対して、ガイウスは目つきが鋭く、髪の色は暗く、どこか影を感じさせる冷淡な美しさがある。謂わば、対極の美だ。
 今も、演舞を見終えた貴婦人たちが目の保養とばかりに熱い視線を送ってくる。
「ほら。我々は目立ちます。笑ってください」
 厚顔なガイウスの諫言に、テオドリックはイライラと小さく舌を打ちながら、辛うじて表情は取り繕った。
「俺があんたを信用したのは、あんたがキセに惚れてるからだ。キセに害が及ぶことはしないと認識している」
「無論です、殿下」
「なら、不用意にキセや俺の信頼を失うようなことはするな。あんたのあの妹は信頼に足るんだろうな」
「アニエスはわたしが誰よりも信頼している者です。親や弟よりも」
「似ていないようだが、アニエス嬢は実の妹なのか」
 ガイウスは答えず、唇を皮肉げに吊り上げて見せた。
「殿下は、血が繋がっていれば信頼できると?」
 テオドリックはガイウスの灰色の目を見て肩を竦めた。王太子に向かってずいぶん横柄な物言いだが、まあ理に適っている。
「とにかく、キセに気安く触れるな。彼女は俺のだ」
「ふ。まあ、善処しましょう」
 ガイウスは薄ら笑いを浮かべながら応えた。
 ――不愉快なやつだ。
 テオドリックは奥歯を噛んだ。
 初めてコルネール邸へ足を運んだときの、あの殊勝さはどこへいったのか。
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