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四十九、夜会への招待 - l’invitation -
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宴から半月ほどが過ぎ、キセは手紙の処理に追われていた。
海といくつもの厳重な関所を通過して、国からの手紙が一気にキセの元へ届いたのだ。
家族からの手紙は、三人の母たちと父、兄のイユリと弟のウキがそれぞれに長々と文章を認めてくるので、読むのにも返事を書くのにも時間がかかる。丸まった書簡の最後の一枚を広げたとき、キセの顔に自然と笑みが広がった。
「ふふ」
キセは静かに笑って書き物机の引き出しから小さなピンを取り出し、机の正面の壁にそれを貼り付けた。
「それは?」
テオドリックが机に向かうキセの後ろから腕を伸ばしてその身体をそっと抱き締め、頬にキスをした。こう言う触れ合いには、まだ慣れない。キセは頬を染めて口をもじもじさせ、嬉しいような、ちょっと困ったような目でテオドリックを見上げた。
「弟のカイからのお手紙です」
「美人に描けてる。この、…髪の毛とか」
四歳のカイの手紙には、大きな丸と、その中に点がふたつと、その下にUの形、丸の両側には黒いもじゃもじゃが描かれていた。笑っているキセを描いたものらしい。
「カイはついこの間まできれいな丸を描けなかったのに、人の顔を上手に描けるようになったのですね。ウキもすっかり難しい言葉を使えるようになって、キセ姉さまは鼻が高いです」
キセは弟たちへの手紙の文面を想像しながら、にこにこと絵を眺めた。ふと視線に気づいて横を見ると、後ろから身を乗り出してテオドリックがじっとキセの顔を見つめている。
「な、なんでしょうか」
テオドリックの眼差しには何かキセの心を乱す魔力のようなものが潜んでいる。
「…姉の顔をしている」
「そうですか?」
なんだか照れる。キセは口元をむずむずさせた。
「ああ。そういうあんたもいい」
テオドリックの目が弧を描くと、キセの心臓がどく、と打った。
「だが、少々妬けるな。俺の知らない顔があるというのは」
「あ…」
つ、とテオドリックの指が四角く開いた襟の中へ忍び込んでくる。
「今は俺だけのキセの顔が見たい」
「あの…、――っ!」
テオドリックが背後から覆い被さるように身を乗り出してキセの首筋に吸い付き、手紙を持つキセの手を大きな手で覆った。
「まだ陽も高いですし、きょ、今日も月の障りが…」
「わかってる。身体はつらくないか」
テオドリックはキセの肌に唇で触れ、鎖骨の線を指でそっと撫でながら言った。否応なしに体温が上がる。
「はい、もうだいじょうぶです。でも、あの…」
「心配しなくても、触れているだけだ」
「う…」
テオドリックが胸元の下着の隙間へ手のひらを滑らせて素肌に触れ、柔らかい乳房を大きな手のひらで覆った。テオドリックの指に先端を触れられ、キセの身体がびくりと跳ねる。
「あ!もっ、もう、これ以上は――」
テオドリックはキセの頬を引き寄せ、キスで黙らせた。
ぞろりとキセの舌を舐めると、キセが無自覚のうちに気持ちよさそうな呻き声をあげた。
「んん、いじわるです…」
テオドリックが満足そうに喉の奥で笑ってキセの舌を吸い、ドレスの襟の中で胸の先端をつまんだ瞬間、キセは喉の奥で高い声をあげ、首を振ってテオドリックの唇から逃れた。
「もう、ほんとうにだめです…!」
キセは顔を真っ赤にし、今にも泣き出しそうなほど瞳を潤ませた。
「こっ、このあとのことが何も手につかなくなってしまいます!」
テオドリックは顎を引いてキセの頬に慈しむようなキスをし、吐息だけで笑った。
「ふ、許せ。これでも抑えてる」
「これでも…?」
それはおかしい。最初に結ばれた夜から四日前に月の障りが始まるまで、身体を繋げなかった夜の方が少ないというのに。
ちょっと胡乱げに見上げてくるキセがおかしくて、テオドリックは喉の奥でくっくと笑った。
「イユリ殿が送ってくる文面は想像に難くないな。どうせ俺に気を付けろとか、俺を簡単に寝室に入れるなとかだろう」
「う、ご明察です」
「もう遅いのにな。マメなことだ」
テオドリックはキセの肩を抱いて髪にキスをした。この時、家族からの手紙の他に、エマンシュナ国内から届いた手紙がいくつも机に積まれていることに気付いた。
「招待状か。ずいぶん届いてるな」
春の宴でテオドリックの婚約者だと披露されて以来、キセの元には毎日のように夜会やお茶会の招待状が送られてくる。それも、敵国とは言え外国の王女へ招待状を送ろうというのだから、差出人はどれも王家の親戚筋だったり、国内の有力な貴族だったり、権力者ばかりだ。
テオドリックは一番上に積まれていた手紙をひょいと取り上げた。
「そのようです。まだ全部は読んでいないのですが…」
まだ開けられていない封筒の濃い赤の封蝋に、五芒星と‘C’の文字が刻まれている。コルネール家の家紋だ。
テオドリックがキセの書き物机に置かれた真鍮のペーパーナイフで封を開けると、中には美しいマーブル染めの料紙に流れるような筆跡でガイウス・コルネールからの直筆の手紙が入っていた。
「さっそく動き始めたようだ」
‘拝啓 美しいキセ’から始まるその手紙には、七日後の日付と、キセをささやかな夜会への招待すること、そして最後には、‘この気軽な集まりに、麗しの婚約者もご一緒にお見えになることを期待する’という一文がしたためられていた。
「あいつ、王太子を付属品扱いとは、大した度胸だ」
テオドリックは失笑し、キセに手紙を手渡した。
「ルコント侯爵夫人もいらっしゃるのでしょうか」
「恐らくは、侯爵夫人にも招待状を出しているだろう。俺たちをあの女に近づくための駒にする気だ」
「そうなのですね。駒だなんて、なんだかわくわくしますね」
今度はテオドリックがキセを胡乱げに見つめた。
「…スクネ殿の言う通り、あんたは実は父親似だな」
「そうですか?ふふ、嬉しいです」
テオドリックは何か言おうとしたが諦めて溜め息をつき、キセを後ろからぎゅ、と抱き締めた。キセもテオドリックの腕を抱き返して頬を寄せ、それに応えた。
「俺も共に行くが、頼むから急に走り出して崖から海に飛び込むような真似はしてくれるなよ」
「泳ぎは得意ですから、大丈夫です」
「…例えだ」
「ふふ、はい。わかっています」
テオドリックは一瞬苦々しげに顔を歪め、前へ身を乗り出してキセの唇にキスをした。
この招待状が、スクネにも届いていた。
スクネとガイウスは春の宴で型通りの礼儀正しい挨拶を交わしたのみだが、宴では‘王女の謎の婚約者バルーク’としてしか知られなかったスクネの本名とキセとの関係性を正しく調べ上げてくるあたりがガイウス・コルネールの抜け目ないところだ。一体どういう手を使ったのか、見当も付かない。
「ネフェリアさまとご一緒に行かれるのですか?」
夕食の席でキセは向かいに座る兄に訊ねた。
近頃スクネはネフェリアによく招かれてヌンキ城で夕食を共にしたり、彼女が休みの日には一緒に遠乗りをしているらしい。彼女とは気が合うといつも楽しそうに話しているから、キセは二人の仲が進展しているのだろうと見ていた。
だからこの質問にも当然「そうだ」と返ってくると思ったが、キセの予想は大外れだった。
「いいや」
と、スクネは静かにキセに笑いかけた。キセの初めて見る顔だった。この国に来て、兄の知らない一面をいくつか知ったが、今日のそれはあまり喜ばしいものではない。
なんだか少し前のおかしな様子が気に掛かる。あれ以来コーヒーを糖の塊にしてしまったり呆けて食事を忘れるようなことはないものの、どことなくいつもと様子が違うように感じる。スクネのことがひどく心配になったが、キセが不用意に触れてはいけないもののような気がした。だから、キセはそれきり夜会の同伴者については言及しなかった。
この時のキセのいやな予感が決定的になったのは、その二日後、キセが衣装部屋で夜会へ着て行くドレスを選んでいる時だった。
あまり手持ちの宝飾品やドレスを増やすことに熱心でないキセの代わりに仕立て屋のマダム・ルナールがいろいろと見繕って持ち込んでくるから、キセのワードローブには一度も着たことのないドレスやアクセサリーや下着類がどっさり増えている。中には、寝衣やお祈り用の装束まで何種類も用意されていた。
「どれも素敵です。迷いますね」
キセは衣装部屋の四隅に所狭しと掛けられた色とりどりのドレスをぐるりと見回した。壁を埋め尽くすほど大きく長いワードローブのつやつやした扉が開け放たれ、ドレスがグラデーションになるよう色別に並べられている。
マダム・ルナールの専門は流行の腰を絞ってスカートに膨らみを持たせたり、飾り襟で首周りを美しく見せるようなドレスだが、マダムは国内で最も優秀なプロフェッショナルだけあって、一度仕立てに来ただけでキセの好みを完全に把握した。
マダムがキセに送ってくるものは全て流行に左右されないシンプルなデザインながら、生地そのものや刺繍、例えばスカートが揺れるたびに雰囲気が違って見えるような巧妙な仕立てになっている。謂わば、優雅な静寂の中に美を見出す‘ユヤ・マリア・スタイル’だ。
「キセさま、こちらはどうです?」
テレーズが手に取ったのは、胸元と裾にレースを重ねた淡いティーローズ色のドレスだ。
「とっても可愛いです」
テレーズは姿見の前に立ったキセにドレスを当てると、渋い顔でウウン、と唸り、首を振った。
「…ダメですわね。可愛すぎました。もっと女性としての戦闘力を上げなければなりませんわ。何せ、あの女狐が現れるのですから」
「戦闘力…」
‘女狐’がヴェロニク・ルコント侯爵夫人を指しているのはわかっている。テオドリックの周囲では相当評判が悪いらしいが、キセはその為人を自分の目で見極めようと思っている。
「そうです。もっと可憐さを引き出しつつ、しかしながら女性もうっとりするような色気と、洗練された優雅さを引き立てるものでないと」
テレーズの鼻息がなんだか荒い。そう言えば、重労働をするわけでもないのにテレーズは麻の簡素なドレスに黒いエプロンを着け、袖が落ちて来ないよう肘の上までしっかりと捲り上げている。この場にセレンがいたらお互いを助長してさらに熱くなりそうだ。
(セレン、元気でしょうか)
と、キセは先日届いたセレンからの手紙を思い出した。難航していた神殿の後任選びもようやく終わり、一度王都へ赴いてオーレン王と王妃たちから改めて命を受け、諸々の支度が整い次第イノイルを発つという内容だった。
記された日付は二週間ほど前だったから、もうそろそろ着いても良い頃だ。あの初夏の陽射しのような溌剌さが恋しい。
キセがなんとなく深海のような濃い青のドレスを手に取ると、向かいのワードローブで赤系のドレスを見繕っていたテレーズが振り返り、眉を開いた。
「あら素敵。合わせてみましょうね」
ダイヤ型に開いた襟と腰の線に沿う細身の形が特徴的なドレスで、スカートは腰からゆったりと襞を作って床へ柔らかく落ち、光沢のある生地に織り込まれた地紋が美しい波模様を描き、袖が肘までぴったりと腕に沿うように細く、肘から下はスカートと同じように広がるようになっている。エマンシュナの伝統的なドレスにはない、優雅な意匠だ。
テレーズがキセのオリーブ色をした室内用のドレスを脱がせようと腰から背中へ編み上げられた紐を解き始めた時、短いノックとその一瞬の後に扉を開く音がした。
二人が衣装部屋の扉に顔を向けると、テオドリックが返事を待たずにつかつかと中へ入ってくるところだった。
「いやですわ、殿下。婚約者と言えど女性のお着替えの最中に入っていらっしゃるなんて」
「ノックはした」
子を叱るような調子でテレーズが広い肩を怒らせると、テオドリックは白々と言った。
「早すぎますよ。あんなの‘ノックした’のうちに入りません」
テレーズはぶつぶつ文句を言ったが、テオドリックは気に留めず二人のそばへ歩み寄り、テレーズの肩をポンと叩いた。
「外してくれ」
テオドリックの神妙な様子に、キセとテレーズは静かに顔を見合わせた。テレーズは小さく頷いて、半ばまで解いてしまったドレスの紐を再び編み直し始めたが、テオドリックが横から紐を取り、しごく真面目な顔つきで言った。
「俺が引き取る」
テレーズは「仕方のない子」とでも言うように肩を竦め、頭を下げてその場を後にした。
「どうかなさいましたか?」
キセが背中の紐を編むテオドリックに訊ねた。
「…スクネ殿と話したか」
「家族の話や、お庭にいるネコちゃんの話なら、朝にしましたよ」
「ネフィの話は?」
「いいえ」
「そうか」
「何があったのですか?」
背中でシュルシュルとテオドリックが紐を編む音が聞こえる。一瞬の沈黙が、妙な緊張感をキセに抱かせた。
「あんたの兄上が俺の従妹に求婚したらしい」
キセは思わず振り返った。
海といくつもの厳重な関所を通過して、国からの手紙が一気にキセの元へ届いたのだ。
家族からの手紙は、三人の母たちと父、兄のイユリと弟のウキがそれぞれに長々と文章を認めてくるので、読むのにも返事を書くのにも時間がかかる。丸まった書簡の最後の一枚を広げたとき、キセの顔に自然と笑みが広がった。
「ふふ」
キセは静かに笑って書き物机の引き出しから小さなピンを取り出し、机の正面の壁にそれを貼り付けた。
「それは?」
テオドリックが机に向かうキセの後ろから腕を伸ばしてその身体をそっと抱き締め、頬にキスをした。こう言う触れ合いには、まだ慣れない。キセは頬を染めて口をもじもじさせ、嬉しいような、ちょっと困ったような目でテオドリックを見上げた。
「弟のカイからのお手紙です」
「美人に描けてる。この、…髪の毛とか」
四歳のカイの手紙には、大きな丸と、その中に点がふたつと、その下にUの形、丸の両側には黒いもじゃもじゃが描かれていた。笑っているキセを描いたものらしい。
「カイはついこの間まできれいな丸を描けなかったのに、人の顔を上手に描けるようになったのですね。ウキもすっかり難しい言葉を使えるようになって、キセ姉さまは鼻が高いです」
キセは弟たちへの手紙の文面を想像しながら、にこにこと絵を眺めた。ふと視線に気づいて横を見ると、後ろから身を乗り出してテオドリックがじっとキセの顔を見つめている。
「な、なんでしょうか」
テオドリックの眼差しには何かキセの心を乱す魔力のようなものが潜んでいる。
「…姉の顔をしている」
「そうですか?」
なんだか照れる。キセは口元をむずむずさせた。
「ああ。そういうあんたもいい」
テオドリックの目が弧を描くと、キセの心臓がどく、と打った。
「だが、少々妬けるな。俺の知らない顔があるというのは」
「あ…」
つ、とテオドリックの指が四角く開いた襟の中へ忍び込んでくる。
「今は俺だけのキセの顔が見たい」
「あの…、――っ!」
テオドリックが背後から覆い被さるように身を乗り出してキセの首筋に吸い付き、手紙を持つキセの手を大きな手で覆った。
「まだ陽も高いですし、きょ、今日も月の障りが…」
「わかってる。身体はつらくないか」
テオドリックはキセの肌に唇で触れ、鎖骨の線を指でそっと撫でながら言った。否応なしに体温が上がる。
「はい、もうだいじょうぶです。でも、あの…」
「心配しなくても、触れているだけだ」
「う…」
テオドリックが胸元の下着の隙間へ手のひらを滑らせて素肌に触れ、柔らかい乳房を大きな手のひらで覆った。テオドリックの指に先端を触れられ、キセの身体がびくりと跳ねる。
「あ!もっ、もう、これ以上は――」
テオドリックはキセの頬を引き寄せ、キスで黙らせた。
ぞろりとキセの舌を舐めると、キセが無自覚のうちに気持ちよさそうな呻き声をあげた。
「んん、いじわるです…」
テオドリックが満足そうに喉の奥で笑ってキセの舌を吸い、ドレスの襟の中で胸の先端をつまんだ瞬間、キセは喉の奥で高い声をあげ、首を振ってテオドリックの唇から逃れた。
「もう、ほんとうにだめです…!」
キセは顔を真っ赤にし、今にも泣き出しそうなほど瞳を潤ませた。
「こっ、このあとのことが何も手につかなくなってしまいます!」
テオドリックは顎を引いてキセの頬に慈しむようなキスをし、吐息だけで笑った。
「ふ、許せ。これでも抑えてる」
「これでも…?」
それはおかしい。最初に結ばれた夜から四日前に月の障りが始まるまで、身体を繋げなかった夜の方が少ないというのに。
ちょっと胡乱げに見上げてくるキセがおかしくて、テオドリックは喉の奥でくっくと笑った。
「イユリ殿が送ってくる文面は想像に難くないな。どうせ俺に気を付けろとか、俺を簡単に寝室に入れるなとかだろう」
「う、ご明察です」
「もう遅いのにな。マメなことだ」
テオドリックはキセの肩を抱いて髪にキスをした。この時、家族からの手紙の他に、エマンシュナ国内から届いた手紙がいくつも机に積まれていることに気付いた。
「招待状か。ずいぶん届いてるな」
春の宴でテオドリックの婚約者だと披露されて以来、キセの元には毎日のように夜会やお茶会の招待状が送られてくる。それも、敵国とは言え外国の王女へ招待状を送ろうというのだから、差出人はどれも王家の親戚筋だったり、国内の有力な貴族だったり、権力者ばかりだ。
テオドリックは一番上に積まれていた手紙をひょいと取り上げた。
「そのようです。まだ全部は読んでいないのですが…」
まだ開けられていない封筒の濃い赤の封蝋に、五芒星と‘C’の文字が刻まれている。コルネール家の家紋だ。
テオドリックがキセの書き物机に置かれた真鍮のペーパーナイフで封を開けると、中には美しいマーブル染めの料紙に流れるような筆跡でガイウス・コルネールからの直筆の手紙が入っていた。
「さっそく動き始めたようだ」
‘拝啓 美しいキセ’から始まるその手紙には、七日後の日付と、キセをささやかな夜会への招待すること、そして最後には、‘この気軽な集まりに、麗しの婚約者もご一緒にお見えになることを期待する’という一文がしたためられていた。
「あいつ、王太子を付属品扱いとは、大した度胸だ」
テオドリックは失笑し、キセに手紙を手渡した。
「ルコント侯爵夫人もいらっしゃるのでしょうか」
「恐らくは、侯爵夫人にも招待状を出しているだろう。俺たちをあの女に近づくための駒にする気だ」
「そうなのですね。駒だなんて、なんだかわくわくしますね」
今度はテオドリックがキセを胡乱げに見つめた。
「…スクネ殿の言う通り、あんたは実は父親似だな」
「そうですか?ふふ、嬉しいです」
テオドリックは何か言おうとしたが諦めて溜め息をつき、キセを後ろからぎゅ、と抱き締めた。キセもテオドリックの腕を抱き返して頬を寄せ、それに応えた。
「俺も共に行くが、頼むから急に走り出して崖から海に飛び込むような真似はしてくれるなよ」
「泳ぎは得意ですから、大丈夫です」
「…例えだ」
「ふふ、はい。わかっています」
テオドリックは一瞬苦々しげに顔を歪め、前へ身を乗り出してキセの唇にキスをした。
この招待状が、スクネにも届いていた。
スクネとガイウスは春の宴で型通りの礼儀正しい挨拶を交わしたのみだが、宴では‘王女の謎の婚約者バルーク’としてしか知られなかったスクネの本名とキセとの関係性を正しく調べ上げてくるあたりがガイウス・コルネールの抜け目ないところだ。一体どういう手を使ったのか、見当も付かない。
「ネフェリアさまとご一緒に行かれるのですか?」
夕食の席でキセは向かいに座る兄に訊ねた。
近頃スクネはネフェリアによく招かれてヌンキ城で夕食を共にしたり、彼女が休みの日には一緒に遠乗りをしているらしい。彼女とは気が合うといつも楽しそうに話しているから、キセは二人の仲が進展しているのだろうと見ていた。
だからこの質問にも当然「そうだ」と返ってくると思ったが、キセの予想は大外れだった。
「いいや」
と、スクネは静かにキセに笑いかけた。キセの初めて見る顔だった。この国に来て、兄の知らない一面をいくつか知ったが、今日のそれはあまり喜ばしいものではない。
なんだか少し前のおかしな様子が気に掛かる。あれ以来コーヒーを糖の塊にしてしまったり呆けて食事を忘れるようなことはないものの、どことなくいつもと様子が違うように感じる。スクネのことがひどく心配になったが、キセが不用意に触れてはいけないもののような気がした。だから、キセはそれきり夜会の同伴者については言及しなかった。
この時のキセのいやな予感が決定的になったのは、その二日後、キセが衣装部屋で夜会へ着て行くドレスを選んでいる時だった。
あまり手持ちの宝飾品やドレスを増やすことに熱心でないキセの代わりに仕立て屋のマダム・ルナールがいろいろと見繕って持ち込んでくるから、キセのワードローブには一度も着たことのないドレスやアクセサリーや下着類がどっさり増えている。中には、寝衣やお祈り用の装束まで何種類も用意されていた。
「どれも素敵です。迷いますね」
キセは衣装部屋の四隅に所狭しと掛けられた色とりどりのドレスをぐるりと見回した。壁を埋め尽くすほど大きく長いワードローブのつやつやした扉が開け放たれ、ドレスがグラデーションになるよう色別に並べられている。
マダム・ルナールの専門は流行の腰を絞ってスカートに膨らみを持たせたり、飾り襟で首周りを美しく見せるようなドレスだが、マダムは国内で最も優秀なプロフェッショナルだけあって、一度仕立てに来ただけでキセの好みを完全に把握した。
マダムがキセに送ってくるものは全て流行に左右されないシンプルなデザインながら、生地そのものや刺繍、例えばスカートが揺れるたびに雰囲気が違って見えるような巧妙な仕立てになっている。謂わば、優雅な静寂の中に美を見出す‘ユヤ・マリア・スタイル’だ。
「キセさま、こちらはどうです?」
テレーズが手に取ったのは、胸元と裾にレースを重ねた淡いティーローズ色のドレスだ。
「とっても可愛いです」
テレーズは姿見の前に立ったキセにドレスを当てると、渋い顔でウウン、と唸り、首を振った。
「…ダメですわね。可愛すぎました。もっと女性としての戦闘力を上げなければなりませんわ。何せ、あの女狐が現れるのですから」
「戦闘力…」
‘女狐’がヴェロニク・ルコント侯爵夫人を指しているのはわかっている。テオドリックの周囲では相当評判が悪いらしいが、キセはその為人を自分の目で見極めようと思っている。
「そうです。もっと可憐さを引き出しつつ、しかしながら女性もうっとりするような色気と、洗練された優雅さを引き立てるものでないと」
テレーズの鼻息がなんだか荒い。そう言えば、重労働をするわけでもないのにテレーズは麻の簡素なドレスに黒いエプロンを着け、袖が落ちて来ないよう肘の上までしっかりと捲り上げている。この場にセレンがいたらお互いを助長してさらに熱くなりそうだ。
(セレン、元気でしょうか)
と、キセは先日届いたセレンからの手紙を思い出した。難航していた神殿の後任選びもようやく終わり、一度王都へ赴いてオーレン王と王妃たちから改めて命を受け、諸々の支度が整い次第イノイルを発つという内容だった。
記された日付は二週間ほど前だったから、もうそろそろ着いても良い頃だ。あの初夏の陽射しのような溌剌さが恋しい。
キセがなんとなく深海のような濃い青のドレスを手に取ると、向かいのワードローブで赤系のドレスを見繕っていたテレーズが振り返り、眉を開いた。
「あら素敵。合わせてみましょうね」
ダイヤ型に開いた襟と腰の線に沿う細身の形が特徴的なドレスで、スカートは腰からゆったりと襞を作って床へ柔らかく落ち、光沢のある生地に織り込まれた地紋が美しい波模様を描き、袖が肘までぴったりと腕に沿うように細く、肘から下はスカートと同じように広がるようになっている。エマンシュナの伝統的なドレスにはない、優雅な意匠だ。
テレーズがキセのオリーブ色をした室内用のドレスを脱がせようと腰から背中へ編み上げられた紐を解き始めた時、短いノックとその一瞬の後に扉を開く音がした。
二人が衣装部屋の扉に顔を向けると、テオドリックが返事を待たずにつかつかと中へ入ってくるところだった。
「いやですわ、殿下。婚約者と言えど女性のお着替えの最中に入っていらっしゃるなんて」
「ノックはした」
子を叱るような調子でテレーズが広い肩を怒らせると、テオドリックは白々と言った。
「早すぎますよ。あんなの‘ノックした’のうちに入りません」
テレーズはぶつぶつ文句を言ったが、テオドリックは気に留めず二人のそばへ歩み寄り、テレーズの肩をポンと叩いた。
「外してくれ」
テオドリックの神妙な様子に、キセとテレーズは静かに顔を見合わせた。テレーズは小さく頷いて、半ばまで解いてしまったドレスの紐を再び編み直し始めたが、テオドリックが横から紐を取り、しごく真面目な顔つきで言った。
「俺が引き取る」
テレーズは「仕方のない子」とでも言うように肩を竦め、頭を下げてその場を後にした。
「どうかなさいましたか?」
キセが背中の紐を編むテオドリックに訊ねた。
「…スクネ殿と話したか」
「家族の話や、お庭にいるネコちゃんの話なら、朝にしましたよ」
「ネフィの話は?」
「いいえ」
「そうか」
「何があったのですか?」
背中でシュルシュルとテオドリックが紐を編む音が聞こえる。一瞬の沈黙が、妙な緊張感をキセに抱かせた。
「あんたの兄上が俺の従妹に求婚したらしい」
キセは思わず振り返った。
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