48 / 105
四十八、家族のかたち - parents, enfants -
しおりを挟む
ネフェリアの言ったとおり、庭園の南側には三角屋根のガラス張りの大きな温室があり、中からは聞いたことのない賑やかな鳥の鳴き声が聞こえてくる。その隣には白い石板を敷き詰めて造られた小さな建物があり、この広く美しい庭園に調和していた。
「このお城の庭師さんたちは素晴らしい腕前をお持ちですね。そういう方を集められたネフェリアさまのご人徳も素晴らしいです」
キセが庭を見渡し、惚れ惚れと称賛した。
「スクネも同じようなことを言っていた」
ネフェリアは快活に笑いながら言った。
「そなたたち兄妹はよく似ているな。母親が違うと言うのに、それほどまでに似るものなのか」
「家族のことを、お聞きになったのですね」
とキセが訊ねたのは、キセが初めて家族のことを語った時にテオドリックが見せた、拒絶にも似た反応を思い出したからだ。
知り合った翌日の朝、初めて朝食を共にした後のことだった。
父には妻が三人おり、母親がそのうちの第三妃であることをキセが告げた後、テオドリックは‘妾腹’と忌々しげに吐き捨てた。その反応にキセはひどく傷付いたが、すぐに後悔した様子のテオドリックを見て感じた。多分、テオドリックも何かにひどく傷付いているのだろうと。
ネフェリアはどうだろうかと、キセは少し心配になった。スクネが家族の話をした時、テオドリックのようにいやな思いをしなかっただろうか。
ところがキセの心配をよそに、ネフェリアは穏やかに微笑んだ。
「ああ、聞いた。よい家族のようだな。スクネやそなたを見ていれば分かる。のびのびとしていて、心が晴れやかだ。まあ、…母が三人もいると口煩そうだが。厳しさも三倍になるのかな」
「はい。三人ともそれぞれ着眼点が違うので、とても学ぶことが多いのですよ」
「それは忙しいな」
ネフェリアが温室の扉を開けながら、おかしそうに言った。
温室に足を踏み入れると、花や樹木の独特な香りが濃くなり、暖かな湿気を含んだ空気が肌にしっとりと張り付いた。
濃い緑の大きな葉をつけた木々が植えられ、至る所で明るい色の大輪の花が咲いている。中には壺のような形をした植物や棘の生えた二枚貝のような植物もある。
「こいつらは虫を食べる植物だ。こっちの口が閉じているやつは、捕食後だな。甘い匂いを放ち、待ち伏せて、獲物が来たら、こう――」
と、ネフェリアは両手を使って花の形をまね、両手を素早く閉じた。
「閉じ込める。捕らえた獲物は溶かして、そいつの養分を吸収するんだ。面白いだろう」
「へえ!」
キセは目を見張ってまじまじとその鉢植えを眺めた。
「不思議です…」
この時、キーッと外で聞いたのと同じ鳥の鳴き声がすぐ近くから聞こえてきたので、キセは頭上を見上げてキョロキョロとその姿を探した。
ボコボコと大きな鱗のような樹皮を持つシュロに似た高い木の枝に、濃いオレンジ色の太い嘴をした大きな鳥を見つけた。体が黒く、顔は白く、目の周りは黄色や空色が混ざったような色をしていて、奇妙だが、美しい。
「わあ…!かわいいです!」
キセが祈るように手を組んで感嘆したので、ネフェリアは思わず笑い出した。
「かわいいか?」
「はい!お化粧してるみたいで、オシャレさんですね。お名前はなんと言いますか?」
「オオハシだ。わたしは‘バナーヌ’と呼んでいる」
「バナーヌちゃん…。ふふ、嘴の形ですね」
「そうだ」
ネフェリアがニッと笑った。
二人が話しているともう一羽の同じ鳥が飛んできて、同じ木にとまった。後から来たほうが嘴が小さい。
「あれが番いの‘バナネット’だ」
「バナネットちゃん」
「繁殖を試みているが、やはり自然と違うからうまく行かないな。本当はあいつらも国に帰りたいだろうが、ここから放すにしても故郷は遠すぎる」
「…ネフェリアさまもテオドリックとよく似ていらっしゃいますね」
ちょっと寂しそうに鳥を見上げるネフェリアに向かって、キセが言った。テオドリックと同じ優しさを、ネフェリアも持っている。
ネフェリアはキセに向かって優しく目を細めた。
「そうか」
「ネフェリアさまから見て、アストル家のみなさんはどのようなご家族ですか?」
この質問をネフェリアはちょっと意外に思ったらしい。少しだけ驚いたような顔でキセを見、あとは大真面目な顔でうーんと悩み始めた。
「初めて訊かれた。そうだな…。姉のサフィールは堅実で利口。婚約者候補の中から一番自分を尊重してくれる相手を巧く選び、窮屈な王家をさっさと離れて、それほど影響力のない無難な貴族の家へ降嫁したからな。テオドリックは孤高の強情っ張り、だが最近は様子が変わってきた。ずいぶんと良い変化があったらしい」
と言いながら、ネフェリアがキセに笑いかけた。キセはちょっと頬を染めてはにかんだ。
「――オベロンは、繊細さゆえに人の空気に敏感だ。それから、家族は――そうだな。主軸を無くして機能不全を起こしているが、みなそれぞれに情深い。それゆえの危うさもあるかな。…父上が良い例だ」
「主軸は、お母さまのことですね」
「そうだ。家族の中心にはいつも母上がいた。それが突然消えて、みんなバラバラだ。父上は寂しさに耐えきれず、わたしたちを遠ざけた。子供にはみな母の面影があるから、近くにいるのがつらかったのだろうと今は分かるがね。わたしもテオドリックも当時は子供で、拒絶されたという思いしか残らなかった。あいつは、まだそう思っているだろうな。信念の強い男だから、尚更許せない思いもあるのだろう」
キセは宴でのテオドリックとテオフィル王の会話を思い出した。二人とも親子なのに交わす言葉が極端に少なく、どこかよそよそしかった。
(でも――)
あの時、キセの目にはもう一つ違うものが映っていた。
「初めてお会いした時の国王陛下は、なんだかとても、‘お父さま’のお顔をなさっていました」
「あの人が父親の顔を?」
「はい。とってもお父さまでした」
「それはあの人をよく知らないからだ」
と厳しい口調で言ったのは、ネフェリアではなかった。
二人が振り返ると、温室の入り口にテオドリックが立っている。
「なんだ、無粋なやつだな。女同士の話に割って入るな」
ネフェリアが苦々しげに言ったが、テオドリックは黙殺してゆっくりと二人に近づいた。
「妻を亡くしてつらかったのはわかるが、母を亡くした子供も同じだ。父親なら、家族を支えるべきだろ。父上は、俺たちを捨てた。国事も」
「デレク」
ネフェリアが弟の肩に手を置き、ぽんぽんと叩いた。
「わたしたちはもう親を失った子供ではないよ」
(ああ、なんて――)
キセは無意識のうちに祈る時のように両手を組んでいた。
(なんて、愛の深い方たち)
キセには初めてこの家族のかたちが見えた気がした。
「…とても素敵なお母さまだったのですね」
キセが言うと、テオドリックとネフェリアは顔を見合わせ、なんだか意味ありげに含み笑いをした。
「そうだな」
テオドリックが言うと、ネフェリアも「ああ」と笑った。
「かなり破天荒な人だったが」
「それは意外です。お母さまのお話をもっと聞かせてくださいますか?」
「いいぞ、キセ・ルルー。庭園とサロンと、どちらで茶を飲みたい?」
ネフェリアがキセの肩に手を回して訊ねると、キセはちょっと口元をむずむずさせた。家族以外の人から幼い頃のあだ名で呼ばれるのは、嬉しくもあるがやっぱりなんだか恥ずかしくもある。このあだ名をネフェリアに教えたのはスクネに間違いないが、兄が外で自分をキセ・ルルーと呼んでいた事実を思うと、それも少し気恥ずかしい。
が、これも裏を返せば別の事実が見えてくる。あの兄が極めて個人的な家族のことを話すほどに、ネフェリアに気を許していると言うことだ。これは、妹としてはとても喜ばしい。
「庭園がいいです。お天気も良いですし、お母さまの思い出話は、お花に囲まれてしたらもっと楽しくなりそうです」
キセが笑うと、またしてもネフェリアの手を払いのけるようにテオドリックの手がキセの肩に伸びてきて自分の方へ抱き寄せ、キセの身体がテオドリックの胸にぴったりくっついた。
赤くなったキセの顔を、テオドリックがにこりともせずに覗き込んだ。テオドリックに重なって表情は見えないが、キセにはなんとなくネフェリアが目を細めている様子がわかる気がした。
三人が温室から出ると、オベロンが待っていた。
ガラスの扉の横に背を預け、三人の姿を認めると少年っぽさの残る顔に屈託ない笑みを浮かべて手を振った。
「わたしが呼んだ。たまには姉弟で集まるのもいいだろう」
と、ネフェリアが得意げに胸を膨らませた。
オベロンはさり気ない優雅さでキセの手を取ってその甲に口付けの挨拶をし、二人の姉弟には抱擁の挨拶をした。人懐こい中型犬のようだ。
「サフィ姉上も来られたら良かったですね」
オベロンが心の底から残念そうに言うと、テオドリックは弟に向かって人差し指を立て、ちょっと眉を寄せた。
「それよりお前、来ていたなら何故入って来ない?」
テオドリックは不思議そうに訊ねたが、キセの見るところ、ネフェリアはどうやらその理由を知っている。秀麗な貌にちょっと面白そうな笑みを浮かべているからだ。この含み笑いは、テオドリックとそっくり同じだ。
「だって、あれがいるでしょう。あ、‘いる’っていうのも何だか変ですけど、虫を食べる花。あれは気味が悪いから好きじゃないんですよ。この中はじめじめするし、空気も何だかちょっと奇妙な感じがして苦手です」
「生命力あふれるとっても可愛いお花でしたよ」
「本気で?」
オベロンがうげ、と顔で訴えたので、キセは思わず笑い出した。
四姉弟の母エヴァンジェリーヌ・アストルは、かなり活動的な人物だったらしい。陽射しの中の小麦の穂のような色の髪に深い森のような緑色の目をしていて、背が高く目鼻立ちはテオドリックやネフェリアとよく似ていたというから、相当の美人だったはずだ。
エヴァンジェリーヌの特技は、歌学や刺繍よりも狩猟だったらしい。それも子供たちに体験をもって教えようとした。まだ三歳のテオドリックを自分の胴に子守帯で括り付けて馬に乗り、「王家の子はかくあるべし」と言って次々と鹿や猪を狩る自分の勇姿を特等席で見守らせていたという。
キセは最初、冗談を言っているのだと思った。が、どうやら言葉通りの事実らしい。
「度を越した英才教育だったな」
テオドリックが春の暖かい風を受けながらおかしそうに笑った。
「最初の時のことは覚えていないが、五歳で自分の馬に乗れるようになるまではそうやって連れて行かれた。それも、少なくとも月に二回の頻度で」
「もしかして…」
キセは持っていたティーカップに口を付けるのをやめ、ネフェリアのほうを向いた。ネフェリアは茶を飲みながらニヤリと笑った。
「わたしもされた。そなたの兄上に聞いてみると良いぞ。母との思い出話をさんざん聞かせたからな」
「本当か」
と、ネフェリアに聞いたのはテオドリックだった。ネフェリアは驚いた様子の弟を特に気に留めることなく、「ああ」と言った。
「サフィとオベロンは免れたがね」
「僕は嫌がって大暴れしたらしいから」
オベロンが肩をすくめると、キセはくすくす笑った。
「賢明でしょう。今考えても、絶対に御免です」
「だが代わりに水練をさせられていたな」
テオドリックが揶揄うように言った。
「おかげで姉弟の誰より泳ぎが得意になりましたよ。海で遭難したら一番長く生き残るのはきっと僕」
オベロンが胸を張ったので、キセは目を輝かせた。
「わたしも泳ぎは得意なのですよ。生みのお母さまに二歳の頃からみっちり鍛えられましたから。お母さまは泳ぎに関してはとても教育熱心だったんです。オシアスになると決めたときには、船で一時間ほどの小さな島に連れて行かれて、泳いで帰ってこられなければ認められないと言われました」
「それは、…想像できないな。あの温厚そうなオミ・アリア妃にそんな激しい一面があったとは」
テオドリックがちょっと疑わしげに言った。あの穏やかで凪の海のような佇まいの貴婦人がする所業と思えない。
「オスイアさまの神殿は海の近くなので、水難事故に備えるためです。命に関わることだからと、オミお母さまは本当に厳しくて、泳ぎの訓練中は他のお母さまたちが引くほど人が変わっていました。言葉も変わるんです。お母さまの生まれた地域の方言になったり、祈りの時の古代語で叱られたり…」
キセは平素穏やかな実母に激しく叱咤されたことを思い出し、ちょっと遠い目をした。
「はは、根性があるな」
テオドリックが笑うと、ネフェリアとオベロンも声を上げて笑った。キセは‘よいことを思いついた’と言うように、両手をパチンと合わせた。
「そうです、オベロン。夏になったら競泳しませんか?アストレンヌの近くに湖があると聞きました」
「こら、キセ」
オベロンが応える前に、テオドリックが顔をしかめた。
「だめですか?」
「だめだ」
理由が分からず、キセは首を傾げた。
「兄上はあなたの水浴姿を他の誰にも見せたくないそうですよ」
オベロンが理由を代弁してやると、キセは顔を赤くして隣のテオドリックを見上げた。テオドリックの目は‘余計なことを言うな’と、オベロンに向いている。
「我々の母親と、キセの母上には少し似ているところがありそうだな」
ネフェリアが愉快そうに言った。
その後も、エヴァンジェリーヌの武勇伝は尽きなかった。夫と子供たちを伴って花見をしに森へ入っていったら冬眠明けのクマが現れたので護衛よりも早くそれを討ち取り肉を焼いて家臣たちに振る舞ったとか、風邪を引いて寝込んだ夫に滋養のあるものを食べさせるために漁へ出、仕掛け網でサメを引き揚げて城へ帰ってきたとか、様々だ。
彼らが語ったのは、王家でも何でもない、ただの幸せな家族の思い出だった。
きっとこれが本来の姿なのだろうとキセは思った。
「このお城の庭師さんたちは素晴らしい腕前をお持ちですね。そういう方を集められたネフェリアさまのご人徳も素晴らしいです」
キセが庭を見渡し、惚れ惚れと称賛した。
「スクネも同じようなことを言っていた」
ネフェリアは快活に笑いながら言った。
「そなたたち兄妹はよく似ているな。母親が違うと言うのに、それほどまでに似るものなのか」
「家族のことを、お聞きになったのですね」
とキセが訊ねたのは、キセが初めて家族のことを語った時にテオドリックが見せた、拒絶にも似た反応を思い出したからだ。
知り合った翌日の朝、初めて朝食を共にした後のことだった。
父には妻が三人おり、母親がそのうちの第三妃であることをキセが告げた後、テオドリックは‘妾腹’と忌々しげに吐き捨てた。その反応にキセはひどく傷付いたが、すぐに後悔した様子のテオドリックを見て感じた。多分、テオドリックも何かにひどく傷付いているのだろうと。
ネフェリアはどうだろうかと、キセは少し心配になった。スクネが家族の話をした時、テオドリックのようにいやな思いをしなかっただろうか。
ところがキセの心配をよそに、ネフェリアは穏やかに微笑んだ。
「ああ、聞いた。よい家族のようだな。スクネやそなたを見ていれば分かる。のびのびとしていて、心が晴れやかだ。まあ、…母が三人もいると口煩そうだが。厳しさも三倍になるのかな」
「はい。三人ともそれぞれ着眼点が違うので、とても学ぶことが多いのですよ」
「それは忙しいな」
ネフェリアが温室の扉を開けながら、おかしそうに言った。
温室に足を踏み入れると、花や樹木の独特な香りが濃くなり、暖かな湿気を含んだ空気が肌にしっとりと張り付いた。
濃い緑の大きな葉をつけた木々が植えられ、至る所で明るい色の大輪の花が咲いている。中には壺のような形をした植物や棘の生えた二枚貝のような植物もある。
「こいつらは虫を食べる植物だ。こっちの口が閉じているやつは、捕食後だな。甘い匂いを放ち、待ち伏せて、獲物が来たら、こう――」
と、ネフェリアは両手を使って花の形をまね、両手を素早く閉じた。
「閉じ込める。捕らえた獲物は溶かして、そいつの養分を吸収するんだ。面白いだろう」
「へえ!」
キセは目を見張ってまじまじとその鉢植えを眺めた。
「不思議です…」
この時、キーッと外で聞いたのと同じ鳥の鳴き声がすぐ近くから聞こえてきたので、キセは頭上を見上げてキョロキョロとその姿を探した。
ボコボコと大きな鱗のような樹皮を持つシュロに似た高い木の枝に、濃いオレンジ色の太い嘴をした大きな鳥を見つけた。体が黒く、顔は白く、目の周りは黄色や空色が混ざったような色をしていて、奇妙だが、美しい。
「わあ…!かわいいです!」
キセが祈るように手を組んで感嘆したので、ネフェリアは思わず笑い出した。
「かわいいか?」
「はい!お化粧してるみたいで、オシャレさんですね。お名前はなんと言いますか?」
「オオハシだ。わたしは‘バナーヌ’と呼んでいる」
「バナーヌちゃん…。ふふ、嘴の形ですね」
「そうだ」
ネフェリアがニッと笑った。
二人が話しているともう一羽の同じ鳥が飛んできて、同じ木にとまった。後から来たほうが嘴が小さい。
「あれが番いの‘バナネット’だ」
「バナネットちゃん」
「繁殖を試みているが、やはり自然と違うからうまく行かないな。本当はあいつらも国に帰りたいだろうが、ここから放すにしても故郷は遠すぎる」
「…ネフェリアさまもテオドリックとよく似ていらっしゃいますね」
ちょっと寂しそうに鳥を見上げるネフェリアに向かって、キセが言った。テオドリックと同じ優しさを、ネフェリアも持っている。
ネフェリアはキセに向かって優しく目を細めた。
「そうか」
「ネフェリアさまから見て、アストル家のみなさんはどのようなご家族ですか?」
この質問をネフェリアはちょっと意外に思ったらしい。少しだけ驚いたような顔でキセを見、あとは大真面目な顔でうーんと悩み始めた。
「初めて訊かれた。そうだな…。姉のサフィールは堅実で利口。婚約者候補の中から一番自分を尊重してくれる相手を巧く選び、窮屈な王家をさっさと離れて、それほど影響力のない無難な貴族の家へ降嫁したからな。テオドリックは孤高の強情っ張り、だが最近は様子が変わってきた。ずいぶんと良い変化があったらしい」
と言いながら、ネフェリアがキセに笑いかけた。キセはちょっと頬を染めてはにかんだ。
「――オベロンは、繊細さゆえに人の空気に敏感だ。それから、家族は――そうだな。主軸を無くして機能不全を起こしているが、みなそれぞれに情深い。それゆえの危うさもあるかな。…父上が良い例だ」
「主軸は、お母さまのことですね」
「そうだ。家族の中心にはいつも母上がいた。それが突然消えて、みんなバラバラだ。父上は寂しさに耐えきれず、わたしたちを遠ざけた。子供にはみな母の面影があるから、近くにいるのがつらかったのだろうと今は分かるがね。わたしもテオドリックも当時は子供で、拒絶されたという思いしか残らなかった。あいつは、まだそう思っているだろうな。信念の強い男だから、尚更許せない思いもあるのだろう」
キセは宴でのテオドリックとテオフィル王の会話を思い出した。二人とも親子なのに交わす言葉が極端に少なく、どこかよそよそしかった。
(でも――)
あの時、キセの目にはもう一つ違うものが映っていた。
「初めてお会いした時の国王陛下は、なんだかとても、‘お父さま’のお顔をなさっていました」
「あの人が父親の顔を?」
「はい。とってもお父さまでした」
「それはあの人をよく知らないからだ」
と厳しい口調で言ったのは、ネフェリアではなかった。
二人が振り返ると、温室の入り口にテオドリックが立っている。
「なんだ、無粋なやつだな。女同士の話に割って入るな」
ネフェリアが苦々しげに言ったが、テオドリックは黙殺してゆっくりと二人に近づいた。
「妻を亡くしてつらかったのはわかるが、母を亡くした子供も同じだ。父親なら、家族を支えるべきだろ。父上は、俺たちを捨てた。国事も」
「デレク」
ネフェリアが弟の肩に手を置き、ぽんぽんと叩いた。
「わたしたちはもう親を失った子供ではないよ」
(ああ、なんて――)
キセは無意識のうちに祈る時のように両手を組んでいた。
(なんて、愛の深い方たち)
キセには初めてこの家族のかたちが見えた気がした。
「…とても素敵なお母さまだったのですね」
キセが言うと、テオドリックとネフェリアは顔を見合わせ、なんだか意味ありげに含み笑いをした。
「そうだな」
テオドリックが言うと、ネフェリアも「ああ」と笑った。
「かなり破天荒な人だったが」
「それは意外です。お母さまのお話をもっと聞かせてくださいますか?」
「いいぞ、キセ・ルルー。庭園とサロンと、どちらで茶を飲みたい?」
ネフェリアがキセの肩に手を回して訊ねると、キセはちょっと口元をむずむずさせた。家族以外の人から幼い頃のあだ名で呼ばれるのは、嬉しくもあるがやっぱりなんだか恥ずかしくもある。このあだ名をネフェリアに教えたのはスクネに間違いないが、兄が外で自分をキセ・ルルーと呼んでいた事実を思うと、それも少し気恥ずかしい。
が、これも裏を返せば別の事実が見えてくる。あの兄が極めて個人的な家族のことを話すほどに、ネフェリアに気を許していると言うことだ。これは、妹としてはとても喜ばしい。
「庭園がいいです。お天気も良いですし、お母さまの思い出話は、お花に囲まれてしたらもっと楽しくなりそうです」
キセが笑うと、またしてもネフェリアの手を払いのけるようにテオドリックの手がキセの肩に伸びてきて自分の方へ抱き寄せ、キセの身体がテオドリックの胸にぴったりくっついた。
赤くなったキセの顔を、テオドリックがにこりともせずに覗き込んだ。テオドリックに重なって表情は見えないが、キセにはなんとなくネフェリアが目を細めている様子がわかる気がした。
三人が温室から出ると、オベロンが待っていた。
ガラスの扉の横に背を預け、三人の姿を認めると少年っぽさの残る顔に屈託ない笑みを浮かべて手を振った。
「わたしが呼んだ。たまには姉弟で集まるのもいいだろう」
と、ネフェリアが得意げに胸を膨らませた。
オベロンはさり気ない優雅さでキセの手を取ってその甲に口付けの挨拶をし、二人の姉弟には抱擁の挨拶をした。人懐こい中型犬のようだ。
「サフィ姉上も来られたら良かったですね」
オベロンが心の底から残念そうに言うと、テオドリックは弟に向かって人差し指を立て、ちょっと眉を寄せた。
「それよりお前、来ていたなら何故入って来ない?」
テオドリックは不思議そうに訊ねたが、キセの見るところ、ネフェリアはどうやらその理由を知っている。秀麗な貌にちょっと面白そうな笑みを浮かべているからだ。この含み笑いは、テオドリックとそっくり同じだ。
「だって、あれがいるでしょう。あ、‘いる’っていうのも何だか変ですけど、虫を食べる花。あれは気味が悪いから好きじゃないんですよ。この中はじめじめするし、空気も何だかちょっと奇妙な感じがして苦手です」
「生命力あふれるとっても可愛いお花でしたよ」
「本気で?」
オベロンがうげ、と顔で訴えたので、キセは思わず笑い出した。
四姉弟の母エヴァンジェリーヌ・アストルは、かなり活動的な人物だったらしい。陽射しの中の小麦の穂のような色の髪に深い森のような緑色の目をしていて、背が高く目鼻立ちはテオドリックやネフェリアとよく似ていたというから、相当の美人だったはずだ。
エヴァンジェリーヌの特技は、歌学や刺繍よりも狩猟だったらしい。それも子供たちに体験をもって教えようとした。まだ三歳のテオドリックを自分の胴に子守帯で括り付けて馬に乗り、「王家の子はかくあるべし」と言って次々と鹿や猪を狩る自分の勇姿を特等席で見守らせていたという。
キセは最初、冗談を言っているのだと思った。が、どうやら言葉通りの事実らしい。
「度を越した英才教育だったな」
テオドリックが春の暖かい風を受けながらおかしそうに笑った。
「最初の時のことは覚えていないが、五歳で自分の馬に乗れるようになるまではそうやって連れて行かれた。それも、少なくとも月に二回の頻度で」
「もしかして…」
キセは持っていたティーカップに口を付けるのをやめ、ネフェリアのほうを向いた。ネフェリアは茶を飲みながらニヤリと笑った。
「わたしもされた。そなたの兄上に聞いてみると良いぞ。母との思い出話をさんざん聞かせたからな」
「本当か」
と、ネフェリアに聞いたのはテオドリックだった。ネフェリアは驚いた様子の弟を特に気に留めることなく、「ああ」と言った。
「サフィとオベロンは免れたがね」
「僕は嫌がって大暴れしたらしいから」
オベロンが肩をすくめると、キセはくすくす笑った。
「賢明でしょう。今考えても、絶対に御免です」
「だが代わりに水練をさせられていたな」
テオドリックが揶揄うように言った。
「おかげで姉弟の誰より泳ぎが得意になりましたよ。海で遭難したら一番長く生き残るのはきっと僕」
オベロンが胸を張ったので、キセは目を輝かせた。
「わたしも泳ぎは得意なのですよ。生みのお母さまに二歳の頃からみっちり鍛えられましたから。お母さまは泳ぎに関してはとても教育熱心だったんです。オシアスになると決めたときには、船で一時間ほどの小さな島に連れて行かれて、泳いで帰ってこられなければ認められないと言われました」
「それは、…想像できないな。あの温厚そうなオミ・アリア妃にそんな激しい一面があったとは」
テオドリックがちょっと疑わしげに言った。あの穏やかで凪の海のような佇まいの貴婦人がする所業と思えない。
「オスイアさまの神殿は海の近くなので、水難事故に備えるためです。命に関わることだからと、オミお母さまは本当に厳しくて、泳ぎの訓練中は他のお母さまたちが引くほど人が変わっていました。言葉も変わるんです。お母さまの生まれた地域の方言になったり、祈りの時の古代語で叱られたり…」
キセは平素穏やかな実母に激しく叱咤されたことを思い出し、ちょっと遠い目をした。
「はは、根性があるな」
テオドリックが笑うと、ネフェリアとオベロンも声を上げて笑った。キセは‘よいことを思いついた’と言うように、両手をパチンと合わせた。
「そうです、オベロン。夏になったら競泳しませんか?アストレンヌの近くに湖があると聞きました」
「こら、キセ」
オベロンが応える前に、テオドリックが顔をしかめた。
「だめですか?」
「だめだ」
理由が分からず、キセは首を傾げた。
「兄上はあなたの水浴姿を他の誰にも見せたくないそうですよ」
オベロンが理由を代弁してやると、キセは顔を赤くして隣のテオドリックを見上げた。テオドリックの目は‘余計なことを言うな’と、オベロンに向いている。
「我々の母親と、キセの母上には少し似ているところがありそうだな」
ネフェリアが愉快そうに言った。
その後も、エヴァンジェリーヌの武勇伝は尽きなかった。夫と子供たちを伴って花見をしに森へ入っていったら冬眠明けのクマが現れたので護衛よりも早くそれを討ち取り肉を焼いて家臣たちに振る舞ったとか、風邪を引いて寝込んだ夫に滋養のあるものを食べさせるために漁へ出、仕掛け網でサメを引き揚げて城へ帰ってきたとか、様々だ。
彼らが語ったのは、王家でも何でもない、ただの幸せな家族の思い出だった。
きっとこれが本来の姿なのだろうとキセは思った。
10
お気に入りに追加
47
あなたにおすすめの小説
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/love.png?id=38b9f51b5677c41b0416)
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/love.png?id=38b9f51b5677c41b0416)
人生を共にしてほしい、そう言った最愛の人は不倫をしました。
松茸
恋愛
どうか僕と人生を共にしてほしい。
そう言われてのぼせ上った私は、侯爵令息の彼との結婚に踏み切る。
しかし結婚して一年、彼は私を愛さず、別の女性と不倫をした。
断る――――前にもそう言ったはずだ
鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」
結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。
周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。
けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。
他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。
(わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)
そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。
ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。
そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/love.png?id=38b9f51b5677c41b0416)
公爵令嬢は嫁き遅れていらっしゃる
夏菜しの
恋愛
十七歳の時、生涯初めての恋をした。
燃え上がるような想いに胸を焦がされ、彼だけを見つめて、彼だけを追った。
しかし意中の相手は、別の女を選びわたしに振り向く事は無かった。
あれから六回目の夜会シーズンが始まろうとしている。
気になる男性も居ないまま、気づけば、崖っぷち。
コンコン。
今日もお父様がお見合い写真を手にやってくる。
さてと、どうしようかしら?
※姉妹作品の『攻略対象ですがルートに入ってきませんでした』の別の話になります。
【掌編集】今までお世話になりました旦那様もお元気で〜妻の残していった離婚受理証明書を握りしめイケメン公爵は涙と鼻水を垂らす
まほりろ
恋愛
新婚初夜に「君を愛してないし、これからも愛するつもりはない」と言ってしまった公爵。
彼は今まで、天才、美男子、完璧な貴公子、ポーカーフェイスが似合う氷の公爵などと言われもてはやされてきた。
しかし新婚初夜に暴言を吐いた女性が、初恋の人で、命の恩人で、伝説の聖女で、妖精の愛し子であったことを知り意気消沈している。
彼の手には元妻が置いていった「離婚受理証明書」が握られていた……。
他掌編七作品収録。
※無断転載を禁止します。
※朗読動画の無断配信も禁止します
「Copyright(C)2023-まほりろ/若松咲良」
某小説サイトに投稿した掌編八作品をこちらに転載しました。
【収録作品】
①「今までお世話になりました旦那様もお元気で〜ポーカーフェイスの似合う天才貴公子と称された公爵は、妻の残していった離婚受理証明書を握りしめ涙と鼻水を垂らす」
②「何をされてもやり返せない臆病な公爵令嬢は、王太子に竜の生贄にされ壊れる。能ある鷹と天才美少女は爪を隠す」
③「運命的な出会いからの即日プロポーズ。婚約破棄された天才錬金術師は新しい恋に生きる!」
④「4月1日10時30分喫茶店ルナ、婚約者は遅れてやってきた〜新聞は星座占いを見る為だけにある訳ではない」
⑤「『お姉様はズルい!』が口癖の双子の弟が現世の婚約者! 前世では弟を立てる事を親に強要され馬鹿の振りをしていましたが、現世では奴とは他人なので天才として実力を充分に発揮したいと思います!」
⑥「婚約破棄をしたいと彼は言った。契約書とおふだにご用心」
⑦「伯爵家に半世紀仕えた老メイドは伯爵親子の罠にハマり無一文で追放される。老メイドを助けたのはポーカーフェイスの美女でした」
⑧「お客様の中に褒め褒めの感想を書ける方はいらっしゃいませんか? 天才美文感想書きVS普通の少女がえんぴつで書いた感想!」
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/love.png?id=38b9f51b5677c41b0416)
【完結】仰る通り、貴方の子ではありません
ユユ
恋愛
辛い悪阻と難産を経て産まれたのは
私に似た待望の男児だった。
なのに認められず、
不貞の濡れ衣を着せられ、
追い出されてしまった。
実家からも勘当され
息子と2人で生きていくことにした。
* 作り話です
* 暇つぶしにどうぞ
* 4万文字未満
* 完結保証付き
* 少し大人表現あり
廃妃の再婚
束原ミヤコ
恋愛
伯爵家の令嬢としてうまれたフィアナは、母を亡くしてからというもの
父にも第二夫人にも、そして腹違いの妹にも邪険に扱われていた。
ある日フィアナは、川で倒れている青年を助ける。
それから四年後、フィアナの元に国王から結婚の申し込みがくる。
身分差を気にしながらも断ることができず、フィアナは王妃となった。
あの時助けた青年は、国王になっていたのである。
「君を永遠に愛する」と約束をした国王カトル・エスタニアは
結婚してすぐに辺境にて部族の反乱が起こり、平定戦に向かう。
帰還したカトルは、族長の娘であり『精霊の愛し子』と呼ばれている美しい女性イルサナを連れていた。
カトルはイルサナを寵愛しはじめる。
王城にて居場所を失ったフィアナは、聖騎士ユリシアスに下賜されることになる。
ユリシアスは先の戦いで怪我を負い、顔の半分を包帯で覆っている寡黙な男だった。
引け目を感じながらフィアナはユリシアスと過ごすことになる。
ユリシアスと過ごすうち、フィアナは彼と惹かれ合っていく。
だがユリシアスは何かを隠しているようだ。
それはカトルの抱える、真実だった──。
5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?
gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。
そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて
「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」
もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね?
3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。
4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。
1章が書籍になりました。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる