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四十六、兄と妹 - frère et sœur -
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ここ数日、兄の様子がなんだかおかしい。
キセは目の前で大量の砂糖が投入されたコーヒーを銀のスプーンでぐるぐるとかき回すスクネを眺めながら、そう思った。
隣に座るテオドリックも同じことを考えたらしい。眉を寄せて怪訝そうにスクネを見、隣に座るキセと顔を見合わせた。
「スクネお兄さま、甘いものが好きになったのですか?」
「ん?」
スクネは顔を上げた。その時初めてキセとテオドリックが目の前にいることに気付いたような反応だ。黒い瞳を丸くして自分の手に視線を落とし、ティースプーンの先に白い山ができているのを認めると、無言でそれをアカンサスの模様が描かれた陶器の砂糖入れにさらさらと戻した。
キセとテオドリックはもう一度顔を見合わせた。
「こういうことはよくあるのか」
テオドリックはキセにだけ聞こえるほどの声で言った。もっとも、そうでなくとも今のスクネには聞こえなかっただろうが。
キセは困惑気味に小さく首を振った。
「初めて見ました…。いつもそれほど甘いものは召し上がらないのですが…」
キセの心配をよそに、スクネはカップを持ち上げ、既に湯気を出すのをやめてしばらく経つコーヒーに口をつけた。
「…甘い」
スクネは顔をしかめた。
「砂糖を七杯も入れれば、そうだろうな」
テオドリックは神妙な顔で頷き、キセもうんうんと首を縦に振った。
「そんなに?」
スクネの顔は大真面目だ。どうやら本当に無意識だったらしい。
「それもティースプーンから溢れるくらいです」
妹の心配そうな顔を見て、スクネはカップをテーブルに戻し、深く息を吐いて席を立った。
「朝食、うまかったと料理人に伝えておいてくれ」
テオドリックはスクネに向かって短く頷いた。
スクネの席の前には、手のつけられていないブリオッシュとサラダとスープが恨めしげに並んでいる。
「どこか行かれるのですか?」
「そうだな」
スクネの返事ははっきりしない。キセもそれ以上は聞かないことにした。
兄が食堂を後にするのを見送った後、キセは自分の皿に残ったブリオッシュの小さなかけらを口に詰め込んで急いで紅茶を飲み干し、ナプキンを膝から取ってテーブルに置き、珊瑚色のドレスの裾を直しながらサッと立ち上がった。
「ごちそうさまでした」
「おいおい」
テオドリックがキセの手を取って引き留めた。
「俺と庭園を散歩する約束を忘れたのか」
とテオドリックが言ったのは、今朝の布団の中での会話だ。そろそろレグルス城の庭園の花が満開だと話したキセに、テオドリックが政務の合間に庭園の散策をしようと提案したのだった。
キセがどうするつもりか、テオドリックにはもう分かっている。ちょっとわざとらしくしかめっ面をしてみせると、案の定キセが所在なげに眉尻を下げた。
「あっ…すみません。でも、あの、お兄さまがとても心配で…あんなお兄さまは初めてですから、もちろん、テオドリックとのお散歩はとても楽しみなのですが――」
テオドリックは困り果ててあわあわと喋り続けるキセを機嫌よく眺め、ふっと笑った。
キセは揶揄われたことに気付いたが、愛おしくて仕方がないというような目で笑いかけられたのでは、咎める気にもならない。
「冗談だ。ジャンを連れてけ」
「はい」
キセは身をかがめてテオドリックの頬に蝶々がとまるような口付けをし、花が綻ぶような笑顔を見せた。
「行ってきます」
そよ風のような声でそう言って、キセは跳ねるように去っていった。
(キセこそ心配だ)
口にこそ出さなかったが、心の底からそう思った。
あんなに可憐では、外で他の男たちから下品な視線を浴びせられるのではないか。彼女が何者であるのか知りもしない身の程知らずな輩たちから声をかけられるかもしれない。そうでなくても、あの笑顔に心を奪われる奴が一体何人いることだろう。本当なら誰にも見せずに隠しておきたい。神殿の奥の、信徒も見ることのできない秘された女神のように。――
キセが出て行ったばかりの食堂の扉を見つめながら、自分がどれほど馬鹿げたことを考えているか自覚し、テオドリックは一人で小さく首を振った。ふと視線の先にニヤニヤ顔のイサクがいるのを見つけ、「うるさい」と吐き捨てて自分も残ったコーヒーを飲んだ。
ジャンは花の刺繍が施された珊瑚色のドレスをひらひらと靡かせながら前方を馬で疾駆するキセの後ろ姿を必死で追いかけた。まさかあのおっとりした姫がこれほど巧みに手綱を握り馬を操れるとは、驚きだ。
キセは馬上の兄を追って城下の中心地とは逆方向の杉の木々が生い茂る街道を駆けている。
街へ向かう通行人が多く行き交っており、道幅が広いとは言っても彼らの間を安全に抜けるには相当の技術が必要だ。
「お兄さま!」
レグルス城から三キロほど駆けたところで、キセが声を上げた。
スクネは馬の歩調を緩めて振り返り、キセの姿を認めると馬の首をほたほたと軽く叩いて立ち止まらせた。
「キセも行きます」
「心配無用だ」
「でも、お兄さまと一緒に行きます」
「そうか」
それだけ言って、スクネは馬を再び歩ませた。
「ヒクイさんは一緒ではないのですか?」
「撒いてきた」
「えっ」
「今頃寝室でありもしない‘俺の緑の外套’を探しているはずだ」
「お兄さまったら。ヒクイさんに不誠実です。一人が良いなら、そう仰ったらよいのに」
咎めるように肩を怒らせたキセに向かって、スクネは優しく目を細め、苦笑した。
「ユヤ母上みたいなことを言うな」
キセはふふ、と小さく笑った。
「やっぱりお一人がよいですか?わたしはお兄さまと一緒にいられてとても嬉しいのですが…」
スクネはちょっと胡乱げにわざとらしく眉尻を下げたキセを一瞥した。
「ずるい言い方だ。はなから帰る気などないな」
「もちろんです」
スクネはやれやれと首を振った。この言い切りようは、三人の母のうちスクネの実母シノ・カティアと同じだ。不思議なことだ。と、スクネは常々思っている。二人の母とは血の繋がりはないのに、キセは見事に全ての母たちの性質を受け継いでいる。
スクネが向かった先は、王都から三十分ほどの距離にあるなだらかな丘陵だった。月神と太陽神を祀る赤茶色の煉瓦で造られた小さな神殿がそばにあり、そこに詣でる人々の他、春の野を散策に来た村人たちが原っぱに寝そべったり、飼い犬と遊んだり、焼き菓子を食べたりしてのどかに過ごしている。ジャンは兄妹の邪魔にならないように神殿の井戸を借りて三頭の馬に水をやり、木陰に腰を落ち着けた。
「良い場所をご存知なのですね、お兄さま。どうやって見つけたのですか?」
キセが尋ねると、スクネは黙って黒い瞳を丘の向こうへ向けていた。陽光がスクネの顔を照らして黒い瞳を茶色く透き通らせ、鼻筋の上方に僅かな出っ張りのある高い鼻梁の影を頬に落としている。
キセは子供の頃から兄の凛々しい横顔が大好きだ。肉親の欲目もあるかも知れないが、スクネほど心優しく高潔で、なおかつ顔立ちの端正な男性は、そう見つかるものではない。
(きっとネフェリアさまもお兄さまが大好きになります)
とキセが思ったのは、確信に近い。
「どうした」
そうスクネに訊かれて初めて、キセは自分が兄の腕に掴まっていたことを自覚した。
「癖です」
子供の頃から宴でキセをエスコートする役は長兄のスクネだった。隣に立つと、今でも無意識のうちにその癖が出る。
「かわいいやつ」
スクネはキセの頭をくしゃくしゃと撫で回した。
キセは腕に掴まっていない方の手で髪を直し、優しく笑った兄の顔をほんのり温かい気持ちで見た。同時に、少し寂しくもあった。こんなふうに恋をしている兄の姿は初めて見る。
スクネの視線の先――丘の下に、広大なエマンシュナ軍の馬術訓練場がある。訓練を指揮しているのが誰か、遠目でも分かる。
「ネフェリアさまを見にいらしたのですね」
「彼女は才能に溢れた、良い指揮官だ。短期間で自分の隊の弱点を克服した」
「仲良くなられたのですね」
「ああ」
スクネは唇を微かに緩めた。
「そうだな」
「ではどうしてそんなに悲しそうなのですか?」
スクネは腕に添えられた妹の手をぽんぽんと撫で、小さく息をついた。
「心配無用だと言っただろう」
「大好きなお兄さまのことですから、そういうわけにはいきません」
キセの態度ははっきりしている。
スクネは今までまだ子供だと思っていた妹がすっかり母たちと同じような顔つきになっていることに初めて気が付いた。彼女の中で何かが変わったのだ。本当の意味で覚悟を決めたのだろう。
(あいつめ)
と、少々テオドリックを小憎らしくも思ったが、やめた。
この滞在を通してスクネはテオドリックを今後長きに渡って信頼するに足る人物だと確信したし、キセのことも、多少の嘘を吐かれていたとは言え、本気で惚れて心の底から大切に想っていることがわかる。キセもそうだ。互いが同じ方向を向いている。
「…俺はお前のまっすぐさが時折羨ましくなる」
スクネがぽつりと呟いた。
「本当ですか?」
キセは驚いて兄の顔を見上げた。
兄にこんなことを言われたのは初めてだ。そういう思いを抱えていたことも知らなかった。
「ああ。お前は揺るぎない。そういうところが父上によく似ているよ」
「それなら、お兄さまだって」
「俺は違う」
スクネはキッパリと言った。
「お前はテオドリックと結婚するために国を出た。父上に認めさせ、この国でもそうしようとしている。険しい道だ。それも、和平のために」
キセは兄の視線をまっすぐ受け止めた。が、すぐに視線を落とし、目元を翳らせた。
「…そうじゃないんです、お兄さま。わたしがテオドリックと一緒にいたいだけです。最初、テオドリックが神殿にいらっしゃった時は、そのつもりでした。でも、今は――和平のためと言うにはあまりに、個人的すぎます。…好きになってしまったから」
「だが進む道は変えていないだろ。それもお前が選んだことだ。俺は――」
この時の兄の言動を、キセは奇妙なほど痛ましく感じた。なんだか自らを無理矢理に客観視しているようでもあり、言葉にすることでそれを実現しようとしているようでもあった。
「俺は、進む道を変えなければならない」
夕陽を受けて茶色く透き通った兄の瞳は、遙か丘の下を眺め続けていた。
キセは目の前で大量の砂糖が投入されたコーヒーを銀のスプーンでぐるぐるとかき回すスクネを眺めながら、そう思った。
隣に座るテオドリックも同じことを考えたらしい。眉を寄せて怪訝そうにスクネを見、隣に座るキセと顔を見合わせた。
「スクネお兄さま、甘いものが好きになったのですか?」
「ん?」
スクネは顔を上げた。その時初めてキセとテオドリックが目の前にいることに気付いたような反応だ。黒い瞳を丸くして自分の手に視線を落とし、ティースプーンの先に白い山ができているのを認めると、無言でそれをアカンサスの模様が描かれた陶器の砂糖入れにさらさらと戻した。
キセとテオドリックはもう一度顔を見合わせた。
「こういうことはよくあるのか」
テオドリックはキセにだけ聞こえるほどの声で言った。もっとも、そうでなくとも今のスクネには聞こえなかっただろうが。
キセは困惑気味に小さく首を振った。
「初めて見ました…。いつもそれほど甘いものは召し上がらないのですが…」
キセの心配をよそに、スクネはカップを持ち上げ、既に湯気を出すのをやめてしばらく経つコーヒーに口をつけた。
「…甘い」
スクネは顔をしかめた。
「砂糖を七杯も入れれば、そうだろうな」
テオドリックは神妙な顔で頷き、キセもうんうんと首を縦に振った。
「そんなに?」
スクネの顔は大真面目だ。どうやら本当に無意識だったらしい。
「それもティースプーンから溢れるくらいです」
妹の心配そうな顔を見て、スクネはカップをテーブルに戻し、深く息を吐いて席を立った。
「朝食、うまかったと料理人に伝えておいてくれ」
テオドリックはスクネに向かって短く頷いた。
スクネの席の前には、手のつけられていないブリオッシュとサラダとスープが恨めしげに並んでいる。
「どこか行かれるのですか?」
「そうだな」
スクネの返事ははっきりしない。キセもそれ以上は聞かないことにした。
兄が食堂を後にするのを見送った後、キセは自分の皿に残ったブリオッシュの小さなかけらを口に詰め込んで急いで紅茶を飲み干し、ナプキンを膝から取ってテーブルに置き、珊瑚色のドレスの裾を直しながらサッと立ち上がった。
「ごちそうさまでした」
「おいおい」
テオドリックがキセの手を取って引き留めた。
「俺と庭園を散歩する約束を忘れたのか」
とテオドリックが言ったのは、今朝の布団の中での会話だ。そろそろレグルス城の庭園の花が満開だと話したキセに、テオドリックが政務の合間に庭園の散策をしようと提案したのだった。
キセがどうするつもりか、テオドリックにはもう分かっている。ちょっとわざとらしくしかめっ面をしてみせると、案の定キセが所在なげに眉尻を下げた。
「あっ…すみません。でも、あの、お兄さまがとても心配で…あんなお兄さまは初めてですから、もちろん、テオドリックとのお散歩はとても楽しみなのですが――」
テオドリックは困り果ててあわあわと喋り続けるキセを機嫌よく眺め、ふっと笑った。
キセは揶揄われたことに気付いたが、愛おしくて仕方がないというような目で笑いかけられたのでは、咎める気にもならない。
「冗談だ。ジャンを連れてけ」
「はい」
キセは身をかがめてテオドリックの頬に蝶々がとまるような口付けをし、花が綻ぶような笑顔を見せた。
「行ってきます」
そよ風のような声でそう言って、キセは跳ねるように去っていった。
(キセこそ心配だ)
口にこそ出さなかったが、心の底からそう思った。
あんなに可憐では、外で他の男たちから下品な視線を浴びせられるのではないか。彼女が何者であるのか知りもしない身の程知らずな輩たちから声をかけられるかもしれない。そうでなくても、あの笑顔に心を奪われる奴が一体何人いることだろう。本当なら誰にも見せずに隠しておきたい。神殿の奥の、信徒も見ることのできない秘された女神のように。――
キセが出て行ったばかりの食堂の扉を見つめながら、自分がどれほど馬鹿げたことを考えているか自覚し、テオドリックは一人で小さく首を振った。ふと視線の先にニヤニヤ顔のイサクがいるのを見つけ、「うるさい」と吐き捨てて自分も残ったコーヒーを飲んだ。
ジャンは花の刺繍が施された珊瑚色のドレスをひらひらと靡かせながら前方を馬で疾駆するキセの後ろ姿を必死で追いかけた。まさかあのおっとりした姫がこれほど巧みに手綱を握り馬を操れるとは、驚きだ。
キセは馬上の兄を追って城下の中心地とは逆方向の杉の木々が生い茂る街道を駆けている。
街へ向かう通行人が多く行き交っており、道幅が広いとは言っても彼らの間を安全に抜けるには相当の技術が必要だ。
「お兄さま!」
レグルス城から三キロほど駆けたところで、キセが声を上げた。
スクネは馬の歩調を緩めて振り返り、キセの姿を認めると馬の首をほたほたと軽く叩いて立ち止まらせた。
「キセも行きます」
「心配無用だ」
「でも、お兄さまと一緒に行きます」
「そうか」
それだけ言って、スクネは馬を再び歩ませた。
「ヒクイさんは一緒ではないのですか?」
「撒いてきた」
「えっ」
「今頃寝室でありもしない‘俺の緑の外套’を探しているはずだ」
「お兄さまったら。ヒクイさんに不誠実です。一人が良いなら、そう仰ったらよいのに」
咎めるように肩を怒らせたキセに向かって、スクネは優しく目を細め、苦笑した。
「ユヤ母上みたいなことを言うな」
キセはふふ、と小さく笑った。
「やっぱりお一人がよいですか?わたしはお兄さまと一緒にいられてとても嬉しいのですが…」
スクネはちょっと胡乱げにわざとらしく眉尻を下げたキセを一瞥した。
「ずるい言い方だ。はなから帰る気などないな」
「もちろんです」
スクネはやれやれと首を振った。この言い切りようは、三人の母のうちスクネの実母シノ・カティアと同じだ。不思議なことだ。と、スクネは常々思っている。二人の母とは血の繋がりはないのに、キセは見事に全ての母たちの性質を受け継いでいる。
スクネが向かった先は、王都から三十分ほどの距離にあるなだらかな丘陵だった。月神と太陽神を祀る赤茶色の煉瓦で造られた小さな神殿がそばにあり、そこに詣でる人々の他、春の野を散策に来た村人たちが原っぱに寝そべったり、飼い犬と遊んだり、焼き菓子を食べたりしてのどかに過ごしている。ジャンは兄妹の邪魔にならないように神殿の井戸を借りて三頭の馬に水をやり、木陰に腰を落ち着けた。
「良い場所をご存知なのですね、お兄さま。どうやって見つけたのですか?」
キセが尋ねると、スクネは黙って黒い瞳を丘の向こうへ向けていた。陽光がスクネの顔を照らして黒い瞳を茶色く透き通らせ、鼻筋の上方に僅かな出っ張りのある高い鼻梁の影を頬に落としている。
キセは子供の頃から兄の凛々しい横顔が大好きだ。肉親の欲目もあるかも知れないが、スクネほど心優しく高潔で、なおかつ顔立ちの端正な男性は、そう見つかるものではない。
(きっとネフェリアさまもお兄さまが大好きになります)
とキセが思ったのは、確信に近い。
「どうした」
そうスクネに訊かれて初めて、キセは自分が兄の腕に掴まっていたことを自覚した。
「癖です」
子供の頃から宴でキセをエスコートする役は長兄のスクネだった。隣に立つと、今でも無意識のうちにその癖が出る。
「かわいいやつ」
スクネはキセの頭をくしゃくしゃと撫で回した。
キセは腕に掴まっていない方の手で髪を直し、優しく笑った兄の顔をほんのり温かい気持ちで見た。同時に、少し寂しくもあった。こんなふうに恋をしている兄の姿は初めて見る。
スクネの視線の先――丘の下に、広大なエマンシュナ軍の馬術訓練場がある。訓練を指揮しているのが誰か、遠目でも分かる。
「ネフェリアさまを見にいらしたのですね」
「彼女は才能に溢れた、良い指揮官だ。短期間で自分の隊の弱点を克服した」
「仲良くなられたのですね」
「ああ」
スクネは唇を微かに緩めた。
「そうだな」
「ではどうしてそんなに悲しそうなのですか?」
スクネは腕に添えられた妹の手をぽんぽんと撫で、小さく息をついた。
「心配無用だと言っただろう」
「大好きなお兄さまのことですから、そういうわけにはいきません」
キセの態度ははっきりしている。
スクネは今までまだ子供だと思っていた妹がすっかり母たちと同じような顔つきになっていることに初めて気が付いた。彼女の中で何かが変わったのだ。本当の意味で覚悟を決めたのだろう。
(あいつめ)
と、少々テオドリックを小憎らしくも思ったが、やめた。
この滞在を通してスクネはテオドリックを今後長きに渡って信頼するに足る人物だと確信したし、キセのことも、多少の嘘を吐かれていたとは言え、本気で惚れて心の底から大切に想っていることがわかる。キセもそうだ。互いが同じ方向を向いている。
「…俺はお前のまっすぐさが時折羨ましくなる」
スクネがぽつりと呟いた。
「本当ですか?」
キセは驚いて兄の顔を見上げた。
兄にこんなことを言われたのは初めてだ。そういう思いを抱えていたことも知らなかった。
「ああ。お前は揺るぎない。そういうところが父上によく似ているよ」
「それなら、お兄さまだって」
「俺は違う」
スクネはキッパリと言った。
「お前はテオドリックと結婚するために国を出た。父上に認めさせ、この国でもそうしようとしている。険しい道だ。それも、和平のために」
キセは兄の視線をまっすぐ受け止めた。が、すぐに視線を落とし、目元を翳らせた。
「…そうじゃないんです、お兄さま。わたしがテオドリックと一緒にいたいだけです。最初、テオドリックが神殿にいらっしゃった時は、そのつもりでした。でも、今は――和平のためと言うにはあまりに、個人的すぎます。…好きになってしまったから」
「だが進む道は変えていないだろ。それもお前が選んだことだ。俺は――」
この時の兄の言動を、キセは奇妙なほど痛ましく感じた。なんだか自らを無理矢理に客観視しているようでもあり、言葉にすることでそれを実現しようとしているようでもあった。
「俺は、進む道を変えなければならない」
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