獅子王と海の神殿の姫

若島まつ

文字の大きさ
上 下
43 / 105

四十三、はかりごと - des intations -

しおりを挟む
 テオドリックがオベロンに事の経緯を話すのを、キセはとびきり美味しいキッシュを頬張りながら気もそぞろで聞いていた。
 テーブルの真ん中に、ガラスの一輪挿しに生けられた白いカーネーションが飾られている。
 昼食と一緒にテレーズが運んできたものだ。曰く、昨夜キセとテオドリックを送った御者が忘れ物だと言ってわざわざ使用人に渡してくれたらしい。
 それが視界に入るたび、馬車の中で髪に挿した花が落ちたことにも気付かないほど激しい口付けをしていたことを思い出し、キセは顔が熱くなる。まるで「純潔」を象徴する白いカーネーションがその存在を忘れてしまったキセを詰っているようでもあり、揶揄っているようにも見えた。
「――仔細はわかりました」
 と、オベロンがフォークを置いた。
「兄上はキセ姫と、姉上はスクネ・バルーク殿下と結婚。で、僕の役割は?僕は何をしたらいいんです?」
「自分の身を守れ」
 テオドリックも食事を終え、フォークとナプキンをテーブルに置き、対面に座る弟の目をまっすぐ見て簡潔に言った。
「俺たちは危険な賭けをしている。俺の廃嫡を目論む者も現れるはずだ。そうなれば、オベロン、お前が担ぎ上げられる」
「僕を王太子にってこと?冗談じゃないですよ」
「彼らにとってはお前の意思は関係ない。イノイルとの同盟を反対する勢力にとっては、お前はいい切り札だ」
「僕が同盟に反対するはずないのに。むしろ、ずっと戦争なんて早く終わればいいと思ってた」
 オベロンは不満そうに口を尖らせた。
「知っているさ。それに、俺はお前のことを信頼してる。お前が権力に興味がないことも知っているし、イノイルが敵国だったからと言って目が曇るような男じゃないことも知っている。だが、俺たちがイノイルを信用するようにはいかない者もいる。そういう者たちはキセをイノイルの間諜だとか、自分たちを油断させて侵攻を始めるつもりだとか、考え得る難癖をつけて民衆を扇動するだろう。そうなればお前が真っ先に巻き込まれる」
「兄上」
 オベロンは眉をひそめ、兄をたしなめるように言った。イノイルの姫の前で、こういう話題は気まずい。しかし、キセはオベロンににっこりと笑いかけた。
「ご心配ありがとうございます、オベロンさま。でも、覚悟の上です。わたしなら大丈夫ですよ」
 オベロンは遠慮がちにキセに視線を向け、小さく頷いた。
 テオドリックはフォークを置いたキセの手をキュッと握り、そこを安心させるように撫で、オベロンに向き直った。
「最悪なのは、お前が陰謀に加担することはないとはっきり分かった時だ。確実に命を狙われることになる。そして敵は代わりの者を次の王とする算段を付け始めるだろう。だから、お前は自分の身を守ることに専念しろ。もちろん、俺もお前のことを守る。だが、いいか。信用できる者しか側に置いてはいけない。何かいつもと違うことがあったらすぐに知らせてほしい」
 オベロンは顎を引いた。
「わかりました。――兄さん」
 オベロンは立ち上がった。
「ごちそうさまでした」
 食堂を後にしたオベロンが大理石のエントランスから外へ出ようとした時、キセがその袖を取って引き止めた。
「あっ、すみません、オベロンさま。あの――」
 オベロンが振り返って首を傾げた。その仕草が、キセにはひどく所在なげに見えた。
「あの、オベロンさまは、テオドリックの力になっています。絶対に」
「なんで、そんなこと…」
「あっ、差し出がましくすみません。さきほど‘蚊帳の外’っておっしゃっていましたし、テオドリックが‘守る’と言った時に、なんだか…寂しそうに見えたので」
 キセは目を丸くして扉の前に佇むオベロンに向かって、遠慮がちに微笑んだ。
「わたしも、そういう気持ち、わかります。男女では立場も違いますけれど、お父さまやお兄さまたちがわたしを大切にしてくれているって感じるたびに、なんだか寂しさもあって…。こんなに贅沢なことを言ったら、女神さまのご加護を失ってしまいそうで恐ろしいですけれど、何でも相談し合えるお兄さまたちを羨ましく思っていました。ですから、オベロンさまもそうなのかなって」
「…うん」
 オベロンは顎を引いた。
「うん。わかります」
「一緒ですね」
 キセはきらきらと笑った。
「テオドリックはオベロンさまのことをとても大切に思っていらっしゃいます。信頼しているとも仰っていました。それは、テオドリックにとって大きな力になっているはずです。わたしも、そうありたいです」
「僕が兄上の力になっているとするなら、あなたもそうだよ」
(ああ、やっぱり)
 キセは思った。
 微笑んだ時の顔も、屈託なく笑うテオドリックによく似ている。
「それと、僕の姉上になるなら僕のことはオベロンと呼んでください」
「では、わたしのこともキセと」
 オベロンは目を細めて頷き、手を差し出した。キセが握手のつもりで手を重ねると、オベロンはキセの手を上に持ち上げてその甲に小さな口付けをした。
「はい。キセ」
 キセはちょっと顔を赤くした。仕草や甘い目線の運ばせ方がテオドリックとそっくりだ。
「あなたみたいな人がイノイルの姫でよかった」
 オベロンは赤くなったキセに気付いているのかどうか、もう一度キセににっこりと笑いかけた。

 この日、ガイウス・コルネールは祭の最終日に浮かれる城下を従者一人を伴って訪れていた。が、祭の中心である広場ではなく、狭く人通りの少ない路地をじっくり観察するように馬を歩かせている。
 辺りには人が住んでいるのかどうか判別できないぼろぼろの石造りの家屋が並び、道も舗装されていないか、或いはとうの昔に忘れ去られたままひび割れた石畳が靴底に喧嘩を売るような調子で並び、道の途中で途切れては土を覗かせている。
 煤だらけの古びた廃屋を通り過ぎた時、この場所には全く相応しくない絢爛な赤屋根の馬車が前方に停まっているのを見つけた。
 警戒した黒服の従者がガイウスの前に歩み出ると、馬車の扉が開き、扉の下からワインレッド色をした美しいビロードの靴がボロボロの石畳を踏んだ。
 扉の奥から現れたのは、靴と同じ色のフリルのドレスを身に纏ったヴェロニク・ルコント侯爵夫人だった。
 ガイウス・コルネールは婦人への礼儀として馬を降り、慇懃に静かな笑顔を貼り付けて挨拶をした。
「まあ。コルネール辺境伯マルグラーヴ閣下。なんという奇遇でしょう」
 ルコント侯爵夫人は黒く塗った長いまつ毛をぱっちりと上げ、大きく目を見開いた。
(白々しい)
 ガイウスは内心で嫌悪感を抱いたが、表情を変えなかった。
 侯爵夫人とは王都で催される夜会などで何度か面識がある。最初こそ世慣れていて美しい女性だと思ったが、会話を重ねるうちに、彼女の中に野心を見た。それも、何か暗く、陰湿で、良くない類のものだ。
「このようなところで何をなさっているのですか。この界隈はあなたのような美しい貴婦人が冒険するには、少々危険が過ぎるように思います」
「まあ。お優しいのですわね」
 ルコント侯爵夫人がにっこりと微笑んで目元に長いまつ毛を伸ばした。
 同じことをキセにも言われたことがあるが、言葉を発する人間が違うことでこうも別の言葉に聞こえるのかと不思議に思うほどだった。
「ありがたいことですけれど、ご心配は無用ですわ。優秀で忠実な番犬を連れておりますので」
 ガイウスは赤屋根の馬車をちらりと見た。刃物で削いだような眼をした男が、窓からこちらの様子を伺っている。頬は痩け、顔色が悪い。しかし、不気味にも瞳はギラギラと暴力的な輝きを見せていた。
 ガイウスは直感した。――あの男は、人を殺している。
 危険を感じ、視線をヴェロニク・ルコントへ戻した。ヴェロニクは非の打ち所のない上品な笑みをたたえ、ガイウスにしずしずと近付いて、科を作るようにその腕にそっと触れた。袖の下の肌が冷気を浴びたように総毛立った。
「ここでお会いしたことは、秘密にしていただけますか?まだ計画の段階ですから、陛下を煩わせたくないのです」
「ええ、もちろん。口の堅さには自信があります」
 ガイウスは真摯な表情を崩さなかった。父への逆心を長い間周到に隠し続けていた彼にとっては、表面を取り繕うのは簡単なことだ。
 ヴェロニクは警戒するような目でガイウスを見つめ、やがて「実は――」と赤い唇を開いた。
「この一帯で慈善事業を考えておりますの。賭け事や劇場の遊興施設を作れば、この一帯に人が増えて経済も潤うでしょう。王都から貧民と呼ばれる者たちはいなくなりますわ」
「とても素晴らしいお考えです。成功したら、国王陛下もさぞお喜びになるでしょう」
「王太子殿下と王女殿下のご婚約ほどではありませんわ」
 ヴェロニク・ルコントは赤い唇を左右に引き伸ばした。ガイウスにはその顔が、まるで蛇のように見えた。
「わたしにはあまり歓迎しているようには見えませんでしたが」
「いいえ。ああ見えて、陛下はお喜びでしたわ。王太子殿下が可愛らしいお姫さまをお連れになって…」
「あなたのことですよ、侯爵夫人」
「あら」
 ヴェロニクは目に弧を描かせた。お世辞にも嫋やかとは言えない目だ。灰色の瞳が石のように冷たい。
「あなたもそう見えましたわ」
 ガイウスは唇の左側を吊り上げた。
(食えない女だ)
「そう見えましたか?真っ先に祝福の言葉を申し上げたのはわたしですよ」
 ヴェロニク・ルコントは絹の手袋に包まれた手で口元を隠し、高らかに笑った。
「いくつになっても、女は心ときめくことに敏感なんですのよ。恋する瞳はひと目で分かりますわ」
「なるほど」
 ガイウスは否定しなかった。この女が何を考えているか知る必要がある。
「それに――」
 と、ヴェロニクは舐めるようにガイウスへ目配せし、内緒話をするように顔を寄せて声を潜めた。
「陸上貿易の要衝を守護する領主さまと海洋貿易大国の王女さまの婚姻も、双方にとって大きな利益になりますわ」
「それは同感ですね」
 ガイウスはいつも女性を虜にするときに使う笑顔を作って言った。少なくとも、半分は本心だ。
 
 この夜、ガイウスはレグルス城を訪ねた。
しおりを挟む
感想 2

あなたにおすすめの小説

もういいです、離婚しましょう。

うみか
恋愛
そうですか、あなたはその人を愛しているのですね。 もういいです、離婚しましょう。

人生を共にしてほしい、そう言った最愛の人は不倫をしました。

松茸
恋愛
どうか僕と人生を共にしてほしい。 そう言われてのぼせ上った私は、侯爵令息の彼との結婚に踏み切る。 しかし結婚して一年、彼は私を愛さず、別の女性と不倫をした。

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~

恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」 そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。 私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。 葵は私のことを本当はどう思ってるの? 私は葵のことをどう思ってるの? 意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。 こうなったら確かめなくちゃ! 葵の気持ちも、自分の気持ちも! だけど甘い誘惑が多すぎて―― ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。

断る――――前にもそう言ったはずだ

鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」  結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。  周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。  けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。  他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。 (わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)  そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。  ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。  そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?

公爵令嬢は嫁き遅れていらっしゃる

夏菜しの
恋愛
 十七歳の時、生涯初めての恋をした。  燃え上がるような想いに胸を焦がされ、彼だけを見つめて、彼だけを追った。  しかし意中の相手は、別の女を選びわたしに振り向く事は無かった。  あれから六回目の夜会シーズンが始まろうとしている。  気になる男性も居ないまま、気づけば、崖っぷち。  コンコン。  今日もお父様がお見合い写真を手にやってくる。  さてと、どうしようかしら? ※姉妹作品の『攻略対象ですがルートに入ってきませんでした』の別の話になります。

【掌編集】今までお世話になりました旦那様もお元気で〜妻の残していった離婚受理証明書を握りしめイケメン公爵は涙と鼻水を垂らす

まほりろ
恋愛
新婚初夜に「君を愛してないし、これからも愛するつもりはない」と言ってしまった公爵。  彼は今まで、天才、美男子、完璧な貴公子、ポーカーフェイスが似合う氷の公爵などと言われもてはやされてきた。  しかし新婚初夜に暴言を吐いた女性が、初恋の人で、命の恩人で、伝説の聖女で、妖精の愛し子であったことを知り意気消沈している。  彼の手には元妻が置いていった「離婚受理証明書」が握られていた……。  他掌編七作品収録。 ※無断転載を禁止します。 ※朗読動画の無断配信も禁止します 「Copyright(C)2023-まほりろ/若松咲良」  某小説サイトに投稿した掌編八作品をこちらに転載しました。 【収録作品】 ①「今までお世話になりました旦那様もお元気で〜ポーカーフェイスの似合う天才貴公子と称された公爵は、妻の残していった離婚受理証明書を握りしめ涙と鼻水を垂らす」 ②「何をされてもやり返せない臆病な公爵令嬢は、王太子に竜の生贄にされ壊れる。能ある鷹と天才美少女は爪を隠す」 ③「運命的な出会いからの即日プロポーズ。婚約破棄された天才錬金術師は新しい恋に生きる!」 ④「4月1日10時30分喫茶店ルナ、婚約者は遅れてやってきた〜新聞は星座占いを見る為だけにある訳ではない」 ⑤「『お姉様はズルい!』が口癖の双子の弟が現世の婚約者! 前世では弟を立てる事を親に強要され馬鹿の振りをしていましたが、現世では奴とは他人なので天才として実力を充分に発揮したいと思います!」 ⑥「婚約破棄をしたいと彼は言った。契約書とおふだにご用心」 ⑦「伯爵家に半世紀仕えた老メイドは伯爵親子の罠にハマり無一文で追放される。老メイドを助けたのはポーカーフェイスの美女でした」 ⑧「お客様の中に褒め褒めの感想を書ける方はいらっしゃいませんか? 天才美文感想書きVS普通の少女がえんぴつで書いた感想!」

【完結】仰る通り、貴方の子ではありません

ユユ
恋愛
辛い悪阻と難産を経て産まれたのは 私に似た待望の男児だった。 なのに認められず、 不貞の濡れ衣を着せられ、 追い出されてしまった。 実家からも勘当され 息子と2人で生きていくことにした。 * 作り話です * 暇つぶしにどうぞ * 4万文字未満 * 完結保証付き * 少し大人表現あり

処理中です...