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四十二、失態 - la faute -
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十六歳のオベロンはまだ少年っぽさの残る頬を不満気に引き締めながら、兄テオドリックの居城であるレグルス城の食堂に現れた。若者らしく明るい空色の上衣をまとい、流行りのピンストライプのタイをきちんと巻き、ダークブロンドの髪は昨夜の宴の時と同様、美しく整えられている。
兄にフラリと会いにきたというよりは貴人に謁見するような格好だ。
「兄上、突然お邪魔して――」
と、オベロンは異様な雰囲気を感じ取って周囲を見渡した。
王族の居城というにはやや殺風景なこの食堂の壁に施された唯一の装飾と言っても良い神話のレリーフの前で、客人らしい髪の長い男と黒髪の女性が手を握り合い、兄が見たこともないような厳しい形相でそれを見ている。この上なく険悪な雰囲気だ。イサクもこの事態にどう対処すべきか悩んでいるらしく、難しい顔で直立していた。
オベロンは、黒髪の女性が昨日姉が突然婚約者だと言って連れてきたエキゾチックな紳士によく似ていることに、すぐに気が付いた。
「弟君の、オベロンさまですね!」
黒髪の女性がこの場には全くそぐわないほどきらきらと顔を輝かせて駆け寄ってきた。何も教えてくれない兄を詰りに来たオベロンにとっては拍子抜けもよいところだ。
「お目にかかれて光栄です、美しい方」
非の打ち所のない貴公子の笑顔と作法でそう応じたのは、オベロンにとってはもはや条件反射と言っていい。
「キセです。お会いできて嬉しいです」
キセが本当に嬉しそうに笑った。不思議とこちらもつられて笑顔になる。しかし、今はそれどころではない。オベロンは緩んだ口元をきゅっと結んだ。
「…何かあったんですか?」
「あ!そうでした。わたしのお兄さまが昨夜から戻っていなくて、みんなで心配しているところなのです」
「え?姉上のところでしょ?」
まさかそういう事態だとは思っていなかったから、オベロンはうっかり素の口調になった。首を傾げるキセの後ろからテオドリックが眉を寄せて詰め寄った。
「知っているのか」
「姉上が宴に連れて来た黒髪で背の高い紳士のことを言っているなら、昨日二人で宴を抜けて行ったのを見ましたよ。僕が帰る頃には姉上の馬は見当たらなかったから、ヌンキ城に一緒に帰ったんだと思ったけど」
「あ!それでは――」
キセは両手を祈るように組み、ぱあっと顔を輝かせた。
「お兄さまとネフェリアさまは仲良くなられたのですね!素敵です!ね、ヒクイさん」
ヒクイは王女の眩しい笑顔にたじろいで、ちょっと気まずそうに唸るような返事をした。
「わたしが、殿下をお迎えに上がります。オベロン殿下、感謝致します。テオドリック殿下――」
と、ヒクイはオベロンに頭を下げた後でテオドリックに向き直り、改まった。
「ご無礼をいたしました。どうかお許しください」
テオドリックが顎を引くと、ヒクイは深々と頭を下げ、慌ただしく食堂を出て行った。彼らがヒクイを見送った直後に、扉の向こうからテレーズのまろやかな声が聞こえてきた。
「あら、お出かけですか?ヒクイさんの分も紅茶をお淹れしましたのよ」
「はっ、ありがたく頂戴します――あっつ!」
「アラアラ、大丈夫?」
「はっ、失礼いたしました。…と…とても、おいしいです。香りが…ぐ…違いますね!」
などと言いながら、時折ヒクイがふうふうと紅茶を冷ます音とズルズルと熱い紅茶を無理にすする音が聞こえてくる。
「ぅぐっ、…ごちそうさまでした!それでは!」
慌ただしいヒクイの足音が遠くなった頃、テレーズが人数分の紅茶を盆に載せてひょっこりと食堂へ顔を出した。
「あら、どうなさったんです?」
テオドリックとイサクは顔を見合わせてにやにやと含み笑いをし、オベロンは呆れ顔で腕を組み、キセは心配そうに両手を胸の前に組んで扉の前に立ち尽くしている。
「何でもないよ」
イサクがくすくすと笑いながらテレーズから盆を受け取って、よく磨かれた明るい色のテーブルに紅茶を置き始めた時、テオドリックが肩をおかしそうに揺らしながらキセに言った。
「スクネ殿の周りはいつもあんなに慌ただしいのか?」
「ヒクイさんは、真面目で一生懸命な方なんです。火傷をされなかったでしょうか」
キセが気遣わしげに言うと、オベロンがぽつりと呟いた。
「あの人の舌より、お兄さんの心配をした方が良いと思いますよ。姉上に潰されてるかも」
「お兄さまがですか?」
「姉は酒豪だ。しかも度を超してる」
テオドリックはキセのために椅子を引きながら言った。キセがちょっと頬を染めて唇をもじもじさせながら椅子に座ると、テオドリックはその肩をするりと撫でて頬にキスをし、自分も隣の椅子に腰掛けた。
オベロンはその様子を注意深く観察するように眺め、自分も二人の向かいに腰掛けて居住まいを正した。
「で、何が起きてるか教えてもらえるんですよね」
オベロンが暗い笑みを浮かべた。オベロンの顔には少年っぽさがあり、やや下がり気味の目元はテオドリックとは似ていないが、憂鬱な笑みを浮かべた時の顔は皮肉げに笑うテオドリックとよく似ている。
「兄上といい姉上といい、秘密はもうたくさんです。僕はいつも蚊帳の外だ。そちらの麗しい貴婦人のことも――」
オベロンがキセの方に礼儀正しく視線を移して目礼し、またすぐ兄に視線を戻した。
「先に紹介して欲しかった。兄弟なのに…」
「わかった」
テオドリックは頷いた。
「昼食を取りながらゆっくり話そう、オベロン」
オベロンは兄とその隣で柔らかい笑みを浮かべるキセの顔を見、短く顎を引いた。
スクネがぼんやり目を覚まして最初にしたことは、昨夜の記憶を辿ることだった。
天蓋の開け放たれたベッドには既に陽が射し、雪のように真っ白なシーツを太陽の色に輝かせている。ずいぶん陽が高い時間まで眠ってしまったことに気付くと、スクネは柄にもなく動揺して飛び起き、頭を抱えた。頭蓋骨を金槌で叩かれるほどのひどい頭痛がする。
(しまった)
従者やレグルス城の者に何も告げずに外泊してしまったことになる。
しかも――もっと悪いことに、何も身に付けていない。下着もない。
最後の鮮明な記憶は、ネフェリアと一曲踊ったあと、予定通りアストレンヌ城の執務室で船の模型と海図を出し、海戦の想定をして戦術についての議論を展開したことだ。女性の相手をするというよりは趣味の合う男友達と遊んでいる感覚に近かった。それだけに思いがけず楽しい時間を過ごし、そのために、つい酒を飲みすぎた。
ワイン、ブランデー、エール、その他様々な国や地域で作られている珍しい酒を、ネフェリアはいくつも持っていた。どこから手に入れたのか、ネフェリアの寝室にはイノイルの酒まで用意されていた。
(寝室。――)
はっ、とスクネは顔を上げた。
今自分がいるのは確かにネフェリアの居城だ。しかし、いつアストレンヌ城から移動したのか全く思い出せない。
混乱した記憶の中から浮かんできたのは、ネフェリアの温かく柔らかい唇の感触だ。
(ああ、違う)
あれは宴の時の記憶だ。
そう思いつくと、記憶が鮮明に蘇った。
「別の場所で飲み直そう」
と提案したのは、ネコの模様が彫られたグラスを片手に勝気な笑みをたたえるネフェリアだった。スクネの記憶が正しければ、グラスには琥珀色のブランデーがなみなみと注がれていたはずだ。それも、五杯目を超えていた。
‘海戦において数で敵に勝っていながら敗北した場合’に想定される敗因と相手側の戦略についての議論が一段落した頃合のことだ。
「どこで?」
そう訊ねながら、スクネはネフェリアの返答を確信していた。
果たしてヌンキ城のネフェリアの自室へ案内された後は、その言葉通り二人で酒を飲み直した。
ネフェリアの部屋には数々の剣や珍しい酒が多く壁や棚に飾られ、見ているだけでも飽きることがない。物をあまり自室に持ち込まない性格のスクネからすると異様とも言える光景だが、それらは形や大きさ、色などを考慮して美しく配置され、まるでこの部屋そのものが芸術作品のようだった。
ネフェリアが曰く、自室の壁が全て白いビロード張りになっているのは、それらの美しさをそのまま感じることができるからだと言う。他にも机や本棚、ベッド、ソファに至るまで、あらゆる調度品が白を基調としていて、ネフェリアのコレクションを際立たせている。おまけに、それらには、シミひとつ見当たらない。
「使用人泣かせだ」
スクネが苦笑すると、ネフェリアは白いソファに腰掛けたスクネに琥珀色の蒸留酒が入ったガラスのゴブレットを手渡し、自分も手酌で同じゴブレットに酒を注ぎながら、「ふむ」と唸った。
「確かにそういう見方もあるな。新しい視点だ。彼女たちにはもっと感謝せねば」
ネフェリアはスクネの隣に腰掛け、脚を組んでゴブレットに口を付けた。深い緋色のドレスの裾から組んだ脚の白い脛が覗いている。スクネは猫脚のサイドテーブルにゴブレットを置き、さっさとドレスの裾を払って直してやった。
ネフェリアはその挙動を酒を飲みながら黙って見守った後、ゴブレットを再び手に取ったスクネに向かって「ふ」と息だけで笑った。
「ドレスを着ているのを忘れていた。貴殿は王子のくせにまるで母親のように細やかだな」
「はっ」
スクネは思わず笑い出した。
「手のかかる弟妹が多いからかな」
「わたしも弟妹のようか?」
ネフェリアは寛いだ様子でスクネに問いかけた。その孔雀石のような瞳が熱を孕んでいるのを、スクネは見たような気がした。
「いや。君は、違う」
その後、ネフェリアの部屋にあった珍しい酒を端から端まで試すという暴挙に出たのは、間違いなく失敗だった。
何故こんなに愚かなことをしたのか、考えないようにしたが理由は明白だ。
酒で気を紛らわせなければ、その場で手を出してしまいそうだったからだ。酒に飲まれてしまえば、万が一ネフェリアに襲いかかっても物の役に立たなくなるだろうと思った。自分の面目は無事では済まないが、彼女の名誉を傷付けるよりはずっといい。
しかし、これは悪手だった。
これまで大酔した経験がない分、正体を無くすまで酒に酔ったときに自分がどうなるのかをスクネは知らなかったのだ。
結果、酔いと眠気が最大限に回り始めたとき、身体は健全なまま、頭では正常な判断ができなくなった。それが一体どれほど危険な状態であるかさえも考えられなかった。自分が何をしているか自覚もないまま、自分と同じかそれ以上に杯を重ねているにも関わらず顔色ひとつ変えないネフェリアが軍での他愛もない出来事を楽しそうに話すのを遮り、唇を奪っていた。
「君と寝たい」
と、普段の品行方正なスクネらしくもなく露骨な言葉を口にした時には、ソファにその身体を押し倒し、スカートの中に手を入れて膝に触れていた。
ネフェリアの反応を、今ならはっきりと思い出せる。
彼女はこの礼儀も手順も無視した、誘惑とも呼べない稚拙な要求に怒りもせず、いつもの勝気な微笑みの奥に熱情を映し、簡潔に応えた。
「望むところだ」
その後はどちらが先だったか、息もできないほどの激しいキスを交わし合い、ベッドになだれ込んだ。スクネはドレスを脱がせるのもままならないほど急いていたが、ネフェリアはスクネの上衣とシャツを脱がせ、寝台の外に放って、ドレスの前に編み上げられた紐を自分で解いた。
彼女の肢体は今まで見たどの女性よりも素晴らしかった。一見して細く見える腕や脚にはしっかりと筋肉がつき、腹の薄い肉の下には硬い隆起があり、その中心を臍に向かって谷が走って、全身がしなやかに鍛え上げられていた。
最初に身体を繋げたとき、彼女は上にいた。上に乗るのを許した女性は、ネフェリアが初めてだ。スクネはあまりの快楽に自我を忘れ、意識が飛ぶまでネフェリアとの行為に没頭した。
「起きたか」
溌剌としたネフェリアの声で、スクネの意識は陽光の射す寝室へ戻された。
ネフェリアは生成りの麻織物のローブを一枚纏っただけの姿で寝台の側へやってきた。V字型に開いたローブの胸元から鎖骨のくっきりした形が浮かび、その下には皮膚に強く吸い付けられた痕が覗いている。明らかに自分の仕業だが、いつそんなことをしたのか全く覚えていない。
スクネがぼんやりとその美しい姿を眺めていると、ネフェリアは血色の良い唇を吊り上げてベッド脇のサイドテーブルから白磁の茶器を取り上げ、青い鳥の描かれたカップに湯気の立つ茶を注いだ。
「カモミールとヨモギの茶を用意させた。二日酔いに効くぞ」
スクネはネフェリアからカップを受け取り、茶を一口飲んで顔をしかめた。ひどい味だ。自分は酒に飲まれて王太子としても男としても恥を晒した上、とんでもなく苦い茶を口に含んでいるというのに、ネフェリアは女神のように完璧に美しく凜々しいままだ。
「…君は健勝そうだ」
「貴殿よりはな」
ネフェリアは快活に笑い声を上げた。
「風呂も用意してある。茶を飲んだら使うといい」
「感謝する」
「――なんだ」
スクネの何か言いたげな視線に気付き、ネフェリアが首を傾げた。
「…身体の具合は」
「わたしは酒に酔わない」
「酒のことじゃない」
「ああ」
と、ネフェリアは合点がいったように頷いた。
「酔ってわたしの処女を奪ったと思っているのなら安心しろ。生娘じゃない」
「それは、そうだろうが…」
スクネはちょっと言葉に詰まった。そういうことではない。色々と気にすべき事がある。が、ネフェリアはあっけらかんとしている。
「がっかりしたか」
「まさか。関係ないさ。それに君と…したいと思ったのは、酒のせいじゃない」
「まあ、それならいい」
ネフェリアは目を細めた。
何となく予想していたことだが、ネフェリアは城でも侍女を付けていないらしい。あくまで自分は王女ではなく軍人であると自認しているからだろう。慣れた様子で自ら着替えを始めたことからもそれが分かる。
スクネの目の前であるにも関わらず、ネフェリアは無造作にローブを脱ぎ捨て、武人のような足捌きで歩き、美しい裸体を陽光に晒して、寝室の隅に置かれたワードローブから胸の部分が平らになっている革のビスチェを取り出して身に付け、胸元の紐を編み始めた。
上まで紐を締める前に、ネフェリアは手を止めた。
スクネが背後からネフェリアを抱き寄せ、紐を締め終えようとしていたネフェリアの手を取って止めさせたからだ。
「やり直しをさせてくれ」
スクネがネフェリアの耳をつ、と舌先で舐め、ビスチェの前を開き、空いた隙間から胸元へ手を忍び込ませた。
「素面で君と抱き合いたい。ダメか?」
ネフェリアは艶然と微笑んでスクネの頬を引き寄せ、キスをした。
「仕方のない男だ」
「そんなことを俺に言ったのは君が初めてだ」
スクネはわざとしかめ面をして見せた。
自分を仕方のない男だとは思わない。が、どうしてか、ネフェリアに言われると身体が熱くなる。スクネは背後からネフェリアの身体を抱き寄せたまま唇をもう一度重ねた。
兄にフラリと会いにきたというよりは貴人に謁見するような格好だ。
「兄上、突然お邪魔して――」
と、オベロンは異様な雰囲気を感じ取って周囲を見渡した。
王族の居城というにはやや殺風景なこの食堂の壁に施された唯一の装飾と言っても良い神話のレリーフの前で、客人らしい髪の長い男と黒髪の女性が手を握り合い、兄が見たこともないような厳しい形相でそれを見ている。この上なく険悪な雰囲気だ。イサクもこの事態にどう対処すべきか悩んでいるらしく、難しい顔で直立していた。
オベロンは、黒髪の女性が昨日姉が突然婚約者だと言って連れてきたエキゾチックな紳士によく似ていることに、すぐに気が付いた。
「弟君の、オベロンさまですね!」
黒髪の女性がこの場には全くそぐわないほどきらきらと顔を輝かせて駆け寄ってきた。何も教えてくれない兄を詰りに来たオベロンにとっては拍子抜けもよいところだ。
「お目にかかれて光栄です、美しい方」
非の打ち所のない貴公子の笑顔と作法でそう応じたのは、オベロンにとってはもはや条件反射と言っていい。
「キセです。お会いできて嬉しいです」
キセが本当に嬉しそうに笑った。不思議とこちらもつられて笑顔になる。しかし、今はそれどころではない。オベロンは緩んだ口元をきゅっと結んだ。
「…何かあったんですか?」
「あ!そうでした。わたしのお兄さまが昨夜から戻っていなくて、みんなで心配しているところなのです」
「え?姉上のところでしょ?」
まさかそういう事態だとは思っていなかったから、オベロンはうっかり素の口調になった。首を傾げるキセの後ろからテオドリックが眉を寄せて詰め寄った。
「知っているのか」
「姉上が宴に連れて来た黒髪で背の高い紳士のことを言っているなら、昨日二人で宴を抜けて行ったのを見ましたよ。僕が帰る頃には姉上の馬は見当たらなかったから、ヌンキ城に一緒に帰ったんだと思ったけど」
「あ!それでは――」
キセは両手を祈るように組み、ぱあっと顔を輝かせた。
「お兄さまとネフェリアさまは仲良くなられたのですね!素敵です!ね、ヒクイさん」
ヒクイは王女の眩しい笑顔にたじろいで、ちょっと気まずそうに唸るような返事をした。
「わたしが、殿下をお迎えに上がります。オベロン殿下、感謝致します。テオドリック殿下――」
と、ヒクイはオベロンに頭を下げた後でテオドリックに向き直り、改まった。
「ご無礼をいたしました。どうかお許しください」
テオドリックが顎を引くと、ヒクイは深々と頭を下げ、慌ただしく食堂を出て行った。彼らがヒクイを見送った直後に、扉の向こうからテレーズのまろやかな声が聞こえてきた。
「あら、お出かけですか?ヒクイさんの分も紅茶をお淹れしましたのよ」
「はっ、ありがたく頂戴します――あっつ!」
「アラアラ、大丈夫?」
「はっ、失礼いたしました。…と…とても、おいしいです。香りが…ぐ…違いますね!」
などと言いながら、時折ヒクイがふうふうと紅茶を冷ます音とズルズルと熱い紅茶を無理にすする音が聞こえてくる。
「ぅぐっ、…ごちそうさまでした!それでは!」
慌ただしいヒクイの足音が遠くなった頃、テレーズが人数分の紅茶を盆に載せてひょっこりと食堂へ顔を出した。
「あら、どうなさったんです?」
テオドリックとイサクは顔を見合わせてにやにやと含み笑いをし、オベロンは呆れ顔で腕を組み、キセは心配そうに両手を胸の前に組んで扉の前に立ち尽くしている。
「何でもないよ」
イサクがくすくすと笑いながらテレーズから盆を受け取って、よく磨かれた明るい色のテーブルに紅茶を置き始めた時、テオドリックが肩をおかしそうに揺らしながらキセに言った。
「スクネ殿の周りはいつもあんなに慌ただしいのか?」
「ヒクイさんは、真面目で一生懸命な方なんです。火傷をされなかったでしょうか」
キセが気遣わしげに言うと、オベロンがぽつりと呟いた。
「あの人の舌より、お兄さんの心配をした方が良いと思いますよ。姉上に潰されてるかも」
「お兄さまがですか?」
「姉は酒豪だ。しかも度を超してる」
テオドリックはキセのために椅子を引きながら言った。キセがちょっと頬を染めて唇をもじもじさせながら椅子に座ると、テオドリックはその肩をするりと撫でて頬にキスをし、自分も隣の椅子に腰掛けた。
オベロンはその様子を注意深く観察するように眺め、自分も二人の向かいに腰掛けて居住まいを正した。
「で、何が起きてるか教えてもらえるんですよね」
オベロンが暗い笑みを浮かべた。オベロンの顔には少年っぽさがあり、やや下がり気味の目元はテオドリックとは似ていないが、憂鬱な笑みを浮かべた時の顔は皮肉げに笑うテオドリックとよく似ている。
「兄上といい姉上といい、秘密はもうたくさんです。僕はいつも蚊帳の外だ。そちらの麗しい貴婦人のことも――」
オベロンがキセの方に礼儀正しく視線を移して目礼し、またすぐ兄に視線を戻した。
「先に紹介して欲しかった。兄弟なのに…」
「わかった」
テオドリックは頷いた。
「昼食を取りながらゆっくり話そう、オベロン」
オベロンは兄とその隣で柔らかい笑みを浮かべるキセの顔を見、短く顎を引いた。
スクネがぼんやり目を覚まして最初にしたことは、昨夜の記憶を辿ることだった。
天蓋の開け放たれたベッドには既に陽が射し、雪のように真っ白なシーツを太陽の色に輝かせている。ずいぶん陽が高い時間まで眠ってしまったことに気付くと、スクネは柄にもなく動揺して飛び起き、頭を抱えた。頭蓋骨を金槌で叩かれるほどのひどい頭痛がする。
(しまった)
従者やレグルス城の者に何も告げずに外泊してしまったことになる。
しかも――もっと悪いことに、何も身に付けていない。下着もない。
最後の鮮明な記憶は、ネフェリアと一曲踊ったあと、予定通りアストレンヌ城の執務室で船の模型と海図を出し、海戦の想定をして戦術についての議論を展開したことだ。女性の相手をするというよりは趣味の合う男友達と遊んでいる感覚に近かった。それだけに思いがけず楽しい時間を過ごし、そのために、つい酒を飲みすぎた。
ワイン、ブランデー、エール、その他様々な国や地域で作られている珍しい酒を、ネフェリアはいくつも持っていた。どこから手に入れたのか、ネフェリアの寝室にはイノイルの酒まで用意されていた。
(寝室。――)
はっ、とスクネは顔を上げた。
今自分がいるのは確かにネフェリアの居城だ。しかし、いつアストレンヌ城から移動したのか全く思い出せない。
混乱した記憶の中から浮かんできたのは、ネフェリアの温かく柔らかい唇の感触だ。
(ああ、違う)
あれは宴の時の記憶だ。
そう思いつくと、記憶が鮮明に蘇った。
「別の場所で飲み直そう」
と提案したのは、ネコの模様が彫られたグラスを片手に勝気な笑みをたたえるネフェリアだった。スクネの記憶が正しければ、グラスには琥珀色のブランデーがなみなみと注がれていたはずだ。それも、五杯目を超えていた。
‘海戦において数で敵に勝っていながら敗北した場合’に想定される敗因と相手側の戦略についての議論が一段落した頃合のことだ。
「どこで?」
そう訊ねながら、スクネはネフェリアの返答を確信していた。
果たしてヌンキ城のネフェリアの自室へ案内された後は、その言葉通り二人で酒を飲み直した。
ネフェリアの部屋には数々の剣や珍しい酒が多く壁や棚に飾られ、見ているだけでも飽きることがない。物をあまり自室に持ち込まない性格のスクネからすると異様とも言える光景だが、それらは形や大きさ、色などを考慮して美しく配置され、まるでこの部屋そのものが芸術作品のようだった。
ネフェリアが曰く、自室の壁が全て白いビロード張りになっているのは、それらの美しさをそのまま感じることができるからだと言う。他にも机や本棚、ベッド、ソファに至るまで、あらゆる調度品が白を基調としていて、ネフェリアのコレクションを際立たせている。おまけに、それらには、シミひとつ見当たらない。
「使用人泣かせだ」
スクネが苦笑すると、ネフェリアは白いソファに腰掛けたスクネに琥珀色の蒸留酒が入ったガラスのゴブレットを手渡し、自分も手酌で同じゴブレットに酒を注ぎながら、「ふむ」と唸った。
「確かにそういう見方もあるな。新しい視点だ。彼女たちにはもっと感謝せねば」
ネフェリアはスクネの隣に腰掛け、脚を組んでゴブレットに口を付けた。深い緋色のドレスの裾から組んだ脚の白い脛が覗いている。スクネは猫脚のサイドテーブルにゴブレットを置き、さっさとドレスの裾を払って直してやった。
ネフェリアはその挙動を酒を飲みながら黙って見守った後、ゴブレットを再び手に取ったスクネに向かって「ふ」と息だけで笑った。
「ドレスを着ているのを忘れていた。貴殿は王子のくせにまるで母親のように細やかだな」
「はっ」
スクネは思わず笑い出した。
「手のかかる弟妹が多いからかな」
「わたしも弟妹のようか?」
ネフェリアは寛いだ様子でスクネに問いかけた。その孔雀石のような瞳が熱を孕んでいるのを、スクネは見たような気がした。
「いや。君は、違う」
その後、ネフェリアの部屋にあった珍しい酒を端から端まで試すという暴挙に出たのは、間違いなく失敗だった。
何故こんなに愚かなことをしたのか、考えないようにしたが理由は明白だ。
酒で気を紛らわせなければ、その場で手を出してしまいそうだったからだ。酒に飲まれてしまえば、万が一ネフェリアに襲いかかっても物の役に立たなくなるだろうと思った。自分の面目は無事では済まないが、彼女の名誉を傷付けるよりはずっといい。
しかし、これは悪手だった。
これまで大酔した経験がない分、正体を無くすまで酒に酔ったときに自分がどうなるのかをスクネは知らなかったのだ。
結果、酔いと眠気が最大限に回り始めたとき、身体は健全なまま、頭では正常な判断ができなくなった。それが一体どれほど危険な状態であるかさえも考えられなかった。自分が何をしているか自覚もないまま、自分と同じかそれ以上に杯を重ねているにも関わらず顔色ひとつ変えないネフェリアが軍での他愛もない出来事を楽しそうに話すのを遮り、唇を奪っていた。
「君と寝たい」
と、普段の品行方正なスクネらしくもなく露骨な言葉を口にした時には、ソファにその身体を押し倒し、スカートの中に手を入れて膝に触れていた。
ネフェリアの反応を、今ならはっきりと思い出せる。
彼女はこの礼儀も手順も無視した、誘惑とも呼べない稚拙な要求に怒りもせず、いつもの勝気な微笑みの奥に熱情を映し、簡潔に応えた。
「望むところだ」
その後はどちらが先だったか、息もできないほどの激しいキスを交わし合い、ベッドになだれ込んだ。スクネはドレスを脱がせるのもままならないほど急いていたが、ネフェリアはスクネの上衣とシャツを脱がせ、寝台の外に放って、ドレスの前に編み上げられた紐を自分で解いた。
彼女の肢体は今まで見たどの女性よりも素晴らしかった。一見して細く見える腕や脚にはしっかりと筋肉がつき、腹の薄い肉の下には硬い隆起があり、その中心を臍に向かって谷が走って、全身がしなやかに鍛え上げられていた。
最初に身体を繋げたとき、彼女は上にいた。上に乗るのを許した女性は、ネフェリアが初めてだ。スクネはあまりの快楽に自我を忘れ、意識が飛ぶまでネフェリアとの行為に没頭した。
「起きたか」
溌剌としたネフェリアの声で、スクネの意識は陽光の射す寝室へ戻された。
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スクネがぼんやりとその美しい姿を眺めていると、ネフェリアは血色の良い唇を吊り上げてベッド脇のサイドテーブルから白磁の茶器を取り上げ、青い鳥の描かれたカップに湯気の立つ茶を注いだ。
「カモミールとヨモギの茶を用意させた。二日酔いに効くぞ」
スクネはネフェリアからカップを受け取り、茶を一口飲んで顔をしかめた。ひどい味だ。自分は酒に飲まれて王太子としても男としても恥を晒した上、とんでもなく苦い茶を口に含んでいるというのに、ネフェリアは女神のように完璧に美しく凜々しいままだ。
「…君は健勝そうだ」
「貴殿よりはな」
ネフェリアは快活に笑い声を上げた。
「風呂も用意してある。茶を飲んだら使うといい」
「感謝する」
「――なんだ」
スクネの何か言いたげな視線に気付き、ネフェリアが首を傾げた。
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「わたしは酒に酔わない」
「酒のことじゃない」
「ああ」
と、ネフェリアは合点がいったように頷いた。
「酔ってわたしの処女を奪ったと思っているのなら安心しろ。生娘じゃない」
「それは、そうだろうが…」
スクネはちょっと言葉に詰まった。そういうことではない。色々と気にすべき事がある。が、ネフェリアはあっけらかんとしている。
「がっかりしたか」
「まさか。関係ないさ。それに君と…したいと思ったのは、酒のせいじゃない」
「まあ、それならいい」
ネフェリアは目を細めた。
何となく予想していたことだが、ネフェリアは城でも侍女を付けていないらしい。あくまで自分は王女ではなく軍人であると自認しているからだろう。慣れた様子で自ら着替えを始めたことからもそれが分かる。
スクネの目の前であるにも関わらず、ネフェリアは無造作にローブを脱ぎ捨て、武人のような足捌きで歩き、美しい裸体を陽光に晒して、寝室の隅に置かれたワードローブから胸の部分が平らになっている革のビスチェを取り出して身に付け、胸元の紐を編み始めた。
上まで紐を締める前に、ネフェリアは手を止めた。
スクネが背後からネフェリアを抱き寄せ、紐を締め終えようとしていたネフェリアの手を取って止めさせたからだ。
「やり直しをさせてくれ」
スクネがネフェリアの耳をつ、と舌先で舐め、ビスチェの前を開き、空いた隙間から胸元へ手を忍び込ませた。
「素面で君と抱き合いたい。ダメか?」
ネフェリアは艶然と微笑んでスクネの頬を引き寄せ、キスをした。
「仕方のない男だ」
「そんなことを俺に言ったのは君が初めてだ」
スクネはわざとしかめ面をして見せた。
自分を仕方のない男だとは思わない。が、どうしてか、ネフェリアに言われると身体が熱くなる。スクネは背後からネフェリアの身体を抱き寄せたまま唇をもう一度重ねた。
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