獅子王と海の神殿の姫

若島まつ

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三十七、春の宴 - la fête de Thalatte -

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 広場や通りに篝火が焚かれ始める頃、諸侯たちは宴に参列するため、それぞれが王都に所有している屋敷から王城へ向かうための行列を作り始めた。
 みな昼間に王都へ向かう途上で民衆に見せていたものとは違う装いをしている。
 王城で開かれる宴のためにいっそう格式高く、かつ春の宵に相応しい華やかなものに全て取り替えるのである。よく手入れされた馬に華美な装飾品と紋章を付け、領主本人をはじめ、その家族も自分たちが持っているものの中で最も品位の高い絢爛な衣装を纏う。
 それぞれの家が他の家よりも目立ち、その富を示すために趣向を凝らすから、こちらも昼のパレードと同様、王都の民衆にとってはある種の娯楽になっている。事実、昼よりも夜の方が見物人が多い。
 そして当然、王家はその最たるものでなければならない。
 今年の王族の装いはどんなものか、アストレンヌ城の中はどれほど煌びやかに飾られているのか、ひと目でも拝もうと城の周囲にも多くの民衆が集まり、その威光にあやかろうとしている。
 諸侯は続々と二頭の獅子の像が向かい合う白い石柱の門をくぐって入城し始めた。このため広大な城の庭園は馬や豪奢な馬車で埋め尽くされ、主人の帰りを待つ御者や馬丁たちが互いに世間話をしながら屯ろしている。
 宴の場所はアストレンヌ城の二階にある大広間で、優に千人余りを収容できるほどの広さがある。この空間を囲う四方の壁には、アストル家の象徴である天体を背景に、エマンシュナ王国の建国神話で主神とされる太陽神と月神、更に古代から現代に至るまでの英雄や、エマンシュナの神獣である金色の獅子が描かれている。
 床は白亜の城に相応しい白い大理石張りで、その上に大木を切り出したようなテーブルがぴかぴかに磨かれて整然と並び、一番奥に一際立派な獅子の脚を模した木製のテーブルが置かれている。ここに、国王が座る。
 その両脇には、それぞれ四、五人が座れる程度の獅子の脚が付いたテーブルが置かれ、左のテーブルに王の子供たち、そして右のテーブルに他の王族が着座する。
 国王は緋色の絹織物に金の刺繍で獅子の描かれた上衣の上から貂の毛皮のマントを纏い、無数のダイヤモンドがあしらわれた金の王冠を被って、王の席についた。
 その後、右のテーブルには青と淡い水色の洗練された衣装を揃いで纏った王弟とその妃、花の刺繍があしらわれた若草色のドレスを纏った年頃の娘二人が座った。
 ここまでは、毎年の慣例だ。
 ――が、今年は空席がある。それも一つではない。
 国王は白い毛の混じった金色の眉を不機嫌そうに寄せた後、すぐに表情を消し、挨拶の口上を述べるために目の前にやって来た髭もじゃの北方の領主へ鷹揚に頷いて応えた。
 長いテーブルの端にぽつんと座る第二王子オベロンは、椅子の高い背もたれに背を預けることもなく、背中を直角にして居心地悪そうに表情を殺している。こういう落ち着かない気分の時は、普段ならダークブロンドの短い前髪の毛先をちょこちょこと触る幼稚な癖が出るところだが、いつか長姉に忠告された通り、今日は耐えた。特に今日は、殊更気が張り詰めている。
 この日のために新調した流行の丈の短いジャケットも、必要以上に重く感じた。せっかく軽やかな春の日に似つかわしいようにと淡いベージュの生地を選んだというのに、それさえも滑稽に思えるほど気分が暗くなる。
 何故ならば、オベロンにとって最も頼るべき兄がいないのだ。諸侯は既に国王に見切りをつけ、次代を担う王太子を品定めに来ているようなものであるというのに。
 オベロンにとって頼るべきもう一人の兄弟であるネフェリアは、全ての諸侯が国王に挨拶の口上を述べ終わった後で大広間に現れた。
 正面の入り口に立つ姉を見つけたオベロンは人違いでもしているのではないかと思ったが、顔は間違いなくネフェリア・アストル本人だ。
 信じがたいことに、軍に入って以来初めてドレスを着ている。その上、男性と腕を組んでいる。相手は見たことのない黒髪の偉丈夫だ。背は高く、張りのある黒い上衣の上からでも分かるほど精悍な身体つきで、反面、その佇まいは武骨と言うよりむしろ気品を感じさせる。
 オベロンはこの切れ長の目をしたエキゾチックな雰囲気の男が、どこかの王族なのではないかと直感した。
 しかし、そんなことがあり得るだろうか。今同盟を結んでいる王国とは縁談は持ち上がっていないし、そもそもこの宴は国内の有力な領主や貴族たちを招くものであり、外国の要人は招待されないものだ。
 もしやこれも見間違いなのではないかと思ったが、どうやら現実だ。なぜならば、領主たちが皆一様に同じような顔をしているからだ。
 それもそのはず、彼らは国王の娘に自分の息子や兄弟を娶らせ王族の姻戚を結ぶことを諦めてはいない。王家の姻戚となれば、片田舎の貴族でありながら国王一家の真向かいに席を用意されたラバンディエ公爵家と同じ待遇を約束されるのだ。
 その優遇を得るために領主たちは息子たちに最高の装いをさせ、王女或いは国王の気に入りそうな貢物を持ってはるばるやってきたと言うのに、男嫌いと噂される王女にエスコート役がいては、出鼻を挫かれたと言うものだ。
 オベロンはチラリと隣の父を見た。無言で娘と連れの男をじっと見つめ、表情を変えずにいる。怒っているのか、この不測の事態に対応するべく王としての出方を考えているのか、或いは本当に関心が無いのか、オベロンには読み取ることができなかった。

 スクネにとっては針の筵だ。
 王女の夫の座を狙う男たちとその家族から発せられる驚愕と明らかな敵意を一身に受けている。
 しかし、そういう視線はスクネにとっては別段特別なことではないし、むしろ慣れている部類だ。スクネは王の子として生まれたが、彼が生まれた頃はまだシトー家の王権はそれほど大きなものではなかった。国民はオーレンを自分たちが選んだ王として崇め尊敬したが、息子までがその対象となるには、シトー王朝は若過ぎた。当然、出世のチャンスに恵まれない同年代の男たちの羨望と嫉妬の対象になる。「漁師の子は大人しく魚でも獲っていればよい」などと軽侮されたことも一度ではない。
 しかし、スクネはその度に彼らを黙らせた。少年の頃から血の滲む努力で武道に励み、軍人となってからは英雄である父の名に恥じぬ軍功を上げて将軍となり、複数の隊を指揮し、国王の名代として諸外国との調停役を務め、貴族階級の出身である母の英才教育により王族として相応しい立ち振る舞いも身に染みついている。
 周囲はまだこの男が誰あろう長年争っている敵国の王太子であることなどは知る由もない。とは言え、敵国で敵意のある視線に晒されながらこれだけ堂々と振る舞えるとは、見上げた度胸だ。
「貴殿はわたしが思っていた以上に適任のようだ」
 ネフェリアは背の高いスクネを見上げ、機嫌よく眉を上げた。スクネは目を穏やかに細めてその勝気な美女に微笑みかけた。
「お褒めにあずかり光栄だ、王女殿下」
 これはネフェリアの気分を少々害したらしい。今まで輝いていたアクアマリンの瞳がたちまち翳りを見せた。
「その呼び方は好きじゃない」
「だが今日は軍服を着ていないぞ。どこから見ても王女じゃないか」
「ドレスを着ていてもわたしは軍人だ」
「それはもちろん知っているが、今日の君は軍人として見るには美しすぎる」
「‘今日の’?」
 ネフェリアは目を眇めた。
「いつもと言って欲しいのか」
「まさか。聞き飽きてる」
 ネフェリアが失笑して首を振ると、スクネは声を上げて笑った。
「そうだろうな」
 周囲の刺々しい視線も気に留めることなく、スクネはネフェリアと共に国王の元へ近付いていく。威厳と恐ろしさで言えば、父オーレンに軍配が上がる。テオフィル王は恰幅が良く貫禄たっぷりに髭を生やしているが、髭と腹の肉を取り去れば間違いなく優男だ。これらが国王の威厳を保つための演出であることは、スクネの目には明白だった。
「父上、無沙汰をしています」
 ネフェリアがスクネを伴って大広間の一番奥に鎮座する父親の目の前に進み出、軍隊式の敬礼ではなく脚を後ろに下げて曲げる貴婦人の礼をし、スクネもそれに倣って胸に手を当てて片脚を下げた。
 ネフェリアの言葉は簡潔だった。
「今宵は婚約者を同伴しました。バルークです」
 諸侯がざわつき始めた。無理もない。‘婚約者’とは、ただの同伴者よりも重大で、恋人よりも厄介で、国政に大きく関わるものだ。もっと言えば、未婚の王女がエスコート役――しかも婚約者を自ら選んで宴に連れてきた例は、今のところ前例として無い。
 テオフィル王はしばらく表情を変えずに穏やかな笑みを浮かべるスクネを眺めていたが、やがて冷淡な笑みを浮かべ、白と金の混じった口髭の下で口を小さく動かした。
「我が王女の付き添い役、ご苦労だった。感謝する、バルーク殿。しかし、困ったことに――」
 テオフィル王はわざとらしくゆっくりと左右に首を巡らせた後、さらにゆっくり視線をスクネに戻した。
「‘バルーク’という名は招待者のリストに載っていない。よって、貴殿の席は用意されていない。我が王女が婚約者を連れてくるとは、もちろん父親としては嬉しい驚きだが、なにぶん急だったものでな」
「ご心配には及びません、父上。弟の席が空いています」
 スクネにはテオフィル王のこめかみに青筋が立つのが見えた気がした。
「…どこの馬の骨かも知らぬそなたの男を我が息子の席に着かせるというのか」
「それに値しないと思ったら、追い出せばよろしいではありませんか。それに我らがテオドリックは、今宵はどうも忙しいらしい。晩餐には間に合わないと思いますよ」
 ネフェリアは気軽な調子で言った。
「国王陛下」
 テオフィル王が怒声を発するのを、スクネの一声が止めた。
「わたしがどこの馬の骨か、お知りになりたくはありませんか」
 スクネの黒い瞳が弧を描いてテオフィル王の顔を覗き込んだ瞬間、テオフォル王の青い目が氷山のように凍り付いた。
(おっと)
 スクネは内心でひやりとした。
(これは、ばれたな)
 ふとネフェリアがどんな顔をしているか気になってちらりと隣を見た。ネフェリアも同じことを思ったらしい。先程までの作り笑いが本物になっている。まるで悪戯が成功した悪童だ。これにはスクネも失笑した。
「もしかして父親の鼻を明かしたかっただけとか?」
 戦意を喪失した国王の承諾を得、まんまと王太子の席に着いた後でスクネが声を潜めてネフェリアに尋ねると、ネフェリアは澄ました顔で「なんのことだ」としらばっくれた。
「ねえ…どうなってるんですか?兄上は?」
 不安そうに姉とその婚約者だと紹介された男の顔を交互に見、オベロンが小さく言った。まだ少年とも言える年齢のオベロンには、この異常事態を飲み込む術がない。大人でも対処できないのだから、尚更だ。
「大丈夫だ。じき来る」
 ネフェリアは末弟の頭をくしゃっと撫でて言ったが、オベロンはそんなことで納得するほど子供ではない。
「あとできちんと説明してくださいよ。…家族でしょ」
「無論だ。心配には及ばないよ」
 オベロンは優しく笑いかける次姉の顔を不満げに見、小さく頷いた。この家族に何かが起こっている。それなのに、いつも自分は蚊帳の外だ。
 テーブルにかぐわしい香りを伴って料理が続々と運び込まれ、それぞれのグラスに酒が注がれ、宴が始まった。
 諸侯の酒が進みあちこちで笑い声が響き始める頃、ネフェリアはスクネがこの役に適任だったと、改めて認めることになった。
 すっかり酔っ払って腫れぼったいまぶたと鼻を赤くしたの西方の領主が、大胆にも王太子の席に座るスクネに話しかけてきたのだ。それも、「あんたはどこの誰だ」とか「どうやって王女殿下を口説いた」とか、国王と王女の手前であることを憚りもせず、赤ら顔で詰め寄ってくる。王は不愉快そうに眉を寄せた。周囲はヒヤヒヤしながら酒を飲むことも忘れてその様子を見ていた。
 一方で、スクネの対応は淡々としたものだった。
「わたしは外国人だ、閣下。わたしこそあなたがどこのどなたか知らないが、少々驚いている。わたしの国ではみなもう少し国王やその家族に敬意を払う。有事においては団結がものを言うからだ。あなたの態度はいささか、火種になりそうな気配がするな。内輪であればまだしも、わたしのような外国人にそのような態度を見せない方があなたがたのためになるのではないか。エマンシュナの団結はこんなものかと知らしめているようなものだ」
 国王の顔に緊張が走ったことには誰も気付いていない。領主が顔色を変えて怒り出したから、皆がそちらに注目した。
「なにを言う。招かれざる客のくせに――」
 スクネに掴みかかろうとした西方の領主を、背後から黒い上衣の貴族が止めに入った。スクネは微動だにせず、冷淡な瞳でその様子を眺め、背後の貴族に羽交い締めにされて鼻息荒くこちらを睨め付けてくる男に向かって上品に微笑んでみせた。
「それから、一つ訂正しておくが、わたしが王女殿下を口説いたのではない。王女殿下がわたしを口説いたのだ。光栄極まりないことに」
 みなが青ざめてスクネと羽交い締めにされた惨めな西方の領主に注目する中、ネフェリアは堪えきれなくなってとうとう笑い出した。こんなに楽しい宴はいつ振りだろうか。王家が用意する奇術や楽団の余興などよりも余程面白い。
「そうだ、ソリブール男爵。この男はわたしが口説いた」
 ネフェリアは西方の領主に機嫌良く語りかけ、男が親しい友人にするようにスクネの肩に腕を乗せた。それまでハラハラと彼らを眺めていた諸侯は、驚きつつもやや安堵した様子でまた酒を飲み始めた。
「だから大目に見てくれないか。貴殿が愛国心からわたしの婚約者について意見していることは、重々承知している。王家の者として、貴殿の気持ちをありがたく思う。誇り高きエマンシュナの領主はくあらねばならぬ」
 ネフェリアは杯を上げ、西方の領主に向けた。王女にこう言われたのでは、みな黙らざるを得ない。
「素晴らしい夜だ」
 ちょっとした騒ぎを収めたあと、ネフェリアがスクネにだけ聞こえるように言った。先ほどまでの物々しい雰囲気にそぐわないほどネフェリアの楽しそうな空気が伝わってくる。これほど豪気な女を、スクネは知らない。
「君は緩急を巧く使う指揮官だな」
 おかしくなってネフェリアに笑いかけると、思ったよりもすぐそばにネフェリアの顔があった。軍人らしく日に焼けているが太陽のよく似合う健全な肌をしていて、つややかに輝いている。
 深い緑に青の混じった孔雀石のような瞳が自分の顔を映し、弧を描いた。
(美しい。――)
 と、心の中で思うや思わぬやのうちに、何かが唇に触れた。それがネフェリアの唇であることに気付いたのは、一瞬の後のことだ。
 未婚の王女がこのような大勢の前で男に口付けをするなど、前代未聞だ。
 ネフェリアは唇を離し、まるで堅物の大人たちの鼻を明かしてやったことが楽しくて仕方ない子供のように、スクネに向かってにんまりと笑って見せた。
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