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三十六、光 - la lumière -
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テオドリックは朝から城下を駆け回っていた。トルノは厩舎に繋がれたままだったから、それほど遠くへは行けないはずだ。それなのに、城下の神殿や鐘楼、広場、川べり、お気に入りのパイ屋、どこを探してもキセは見つからない。
まさか犯罪に巻き込まれたのではないかと背筋が凍る思いがした。キセは控えめに言っても美人だし漆黒の髪と瞳を持つ者はエマンシュナでは珍しい。捕まって人身売買の材料にされることだって考えられる。それとも、自分の意思でもう遠くへ行ってしまったのだろうか。
そういうものかもしれない。キセほど心の美しい者であっても、ひとたび見切りをつければあっさりと去ってしまう。そうなればきっともう二度と取り戻せない。
イサクの言う通り秘密を墓まで持っていけばよかったのだろうか。ミノイを殺したことをこのまま告げずに、キセに愛して貰えばよかったのか。
(いや、違う)
テオドリックはかぶりを振った。そうではない。キセだから真実を告げることにしたのだ。誰より心の清らかな彼女が、間違った相手を愛さないように。それを乗り越える力が彼女にはある。だからいつか、自分ではない誰かと本当の幸せを手に入れることができるはずだ。その時、この国を――自分の元を離れていくのであれば、それでもいい。和平さえ叶えば、彼女は自由だ。自由にしてやれる。永遠に離れても彼女がどこか遠くで幸せに生きているのなら、きっと父のようにはならずに済む。例えそれが生き地獄でも。
テオドリックを絶望的な気分から現実へ引き戻したのは、犬の太く吠える声だった。祝祭に浮かれる人混みを縫って、大きな犬が足元に擦り寄ってくる。カールした灰色の毛に黒い斑模様があるハウンドで、七芒星の刻印がされた赤い首輪をしている。――レグルス城で飼っている猟犬だ。
テオドリックが城を出た後でイサクが城内の人員と犬をキセの捜索に当たらせたらしく、その首輪にキセらしき女性を見たという報告の書かれた紙片がくくりつけられていた。曰く、キセは少し前に誰かと一緒にアストレンヌの城門をくぐり、今は城下のどこかにいるらしい。
ひとまずは、一人でなくてよかったと思うべきなのか。城門から王都に入ったと言うのであれば、それまではどこで誰と何をしていたのか。嫌な考えばかりが頭をよぎる。そもそも、キセを責める権利はおろか、彼女の行動について追及する権利など、自分にはない。
その後のキセの足取りは簡単に予想できた。レグルス城に戻るはずだ。
果たしてキセは城の手前で見つかった。
つやつやした黒い馬体の向こうに、キセはいた。情報通り一人ではない。テオドリックは脚の力が抜けるかと思うほどに安堵した。
無事でいる。帰ってきた。しかし、同時に目を覆いたくなった。――キセが他の男の口付けを受け入れている。
キセよりも先に相手がこちらに気付いた。灰色の目を挑戦的に細めキセの肩を抱き寄せた暗い色の髪の男は、間違いなくガイウス・コルネールだ。
ガイウスはキセから離れると王太子への礼儀として型通りのお辞儀をし、にやりと笑んだ。王太子の婚約者と知った上で、あまつさえその目の前で堂々と手を出すとは、恐ろしいまでに傲岸な男だ。
キセはテオドリックに気付くと、慌てることも弁解を始めることも、罵倒することもなく、ただ立ち尽くしていた。その表情から感情を読み取ることができない。未だに貝は閉じたままだ。テオドリックにはもう二度と開いてくれないかもしれない。
この一瞬の後、キセが顔を歪めると同時に、テオドリックの足が動いた。
まったく理に適っていない。身を切るようなあの決意は一体どこへ行ってしまったのか、皆目見当もつかない。
(俺は気が狂ったのか)
そうでなければ説明がつかない。
――なぜ今、キセの手を引いてレグルス城と反対の方向へ走り出したのか。喧騒の城下を、たった二人になれる場所を探しているのか。
(なぜキセは素直についてくる)
自分の頭で考えることがひどく億劫になり、テオドリックは考えるのをやめた。もう足を止めようとも思わなかった。
気付けば昨日と同じ礼拝堂へ来ていた。昨日と同じ場所で、同じことを繰り返すことになるかもしれない。それどころか、もっと悪いことが起こるかもしれない。
それでもいい。今はただキセがそばにいると感じていたい。
テオドリックはキセの手を掴んだまま礼拝堂に入った。小さな天窓から陽光が差し、小さいが美しい祭壇に置かれた月の女神と太陽神の像をつややかに照らしている。昨日の暗がりでは見えなかったものだ。
キセはテオドリックの手をほどいて祭壇の前に膝をつき、古代の言葉で祈りを捧げ始めた。テオドリックは冷たい石の床に腰を下ろしてそれを聞きながら、キセのまっすぐ伸びた美しい背中に見蕩れていた。初めて神に祈りたくなった。しかし何を祈ったらよいのかわからない。
どのくらい時間が経ったのか、キセがくるりとテオドリックの方を向いて座り直した。テオドリックは柄にもなくドキリとした。キセの星空のような双眸が心の奥を覗き込むように見つめてくると、身体に緊張が走った。キセの張り詰めたような唇が小さく開いた。
「なぜ、わたしをここへ連れてきたのですか?」
「わからない」
そう答えるしかなかった。理由は分かっている。しかし、言葉にできない。
「…やきもちですか?」
キセが核心を突いた。
テオドリックは何も答えることができなかった。そうだ。しかしそんなことを言える立場ではない。キセはテオドリックの言葉を待たなかった。
「もし、…そうなら、矛盾しています」
キセの目が揺らぐことなくテオドリックを見つめ続けている。
「テオドリックは昨日、わたしが他の人を好きになってもいいと仰いました。和平さえ成れば、わたしは自由だと」
「そうだ」
「でも、手放してやれないとも仰いました」
「憎めとも言った。そうしろ」
「‘手放せない’というのは、どういう意味ですか」
「あんたが和平の切り札だからだ」
「それだけですか」
キセが膝をにじり寄せ、テオドリックに近付いた。
「…わたし、生まれて初めて怒っています。あなたに」
「甘んじて受け入れる」
「兄を殺したからですか?」
キセが強い口調で言った。黒い瞳が濡れている。
「わたしは、…ミノイお兄さまとあなたが殺し合ったことも、その結果お兄さまが死んでしまったことも、とても悲しいです。知ったとき、混乱しました。お兄さまには生きていて欲しかった。でも、だからって、代わりにあなたが死ねばよかったなんて、絶対に思いません。わたしたちは選べなかった。そんな酷いことが起こらなければよかった。戦なんて、起きなければよかったんです。でも過去は変えられません。悲しいことも、怖いことも、幸せなことも、全ての出来事が起きた結果の上に、わたしたちは存在しているんです。何かが一つ欠けていたら、今わたしの前にあなたはいませんでした。あなたは――」
キセの目から涙がぼろぼろとこぼれ落ちた。拭ってやりたい。抱き締めたい。しかし、そんな資格はない。兄を殺した男の手に触れられたいと思う者がどこにいるだろう。しかし、キセはテオドリックの手を取った。温かい手だった。
「あなたは生かされたのではないですか。生かされたことを罪だと嘆いて王になり、不幸であり続けることを贖罪としてずっと生きていくおつもりですか。わたしの覚悟は、なかったことにされるのですか。わたしは、和平が成るまでの間だけの、仮初めの妃になるためにあなたとこの国へ来たんじゃありません」
「キセ…」
「わたしは、女神さまに、…ミノイお兄さまに、感謝します。あなたに引き逢わせてくださったから」
キセが祈りを捧げるようにテオドリックの両手を包み、その甲に口付けをした。テオドリックは動けなかった。キセが眩しすぎて、声も出せない。
「わたしは、怒っているんです、テオドリック。わたしの幸せを犠牲だと一蹴されたから。愛する人が自分を偽り、もたらされるべき幸福を拒絶するから。ご自分の使命を見誤らないでください。あなたの…わたしたちの使命は、不幸であり続けることではないはずです。わたしは、エマンシュナの王太子の妻になることではなく、あなたを――テオドリックを選びました。わたしが、わたしの心に従って、あなたを選んだんです。甘く見ないでください。犠牲だなんて、もう二度と言わないで欲しいです」
驚いた。キセがほんとうに怒っている。普段のおっとりした話し方から考えるとかなり激しい口調だ。激怒と言っていい。しかし驚くべきはそれではない。
「‘愛する人’…」
「あなたのことです、もちろん。昨日もそう言うつもりでした。あなたが好きって…。すごく緊張して、嫉妬なんかして嫌がられたらどうしようって、悩んでいました。それなのに…」
むう、とキセが赤くなった頬を膨らませ、テオドリックの手を離した。まったくこんなに重苦しい雰囲気にそぐわない感情だ。キセが可愛い。胸が痛くなるほど愛おしい。
「…でも、もし」
キセは肩を落とし、哀しそうにまぶたを伏せた。
「――テオドリックがわたしを見るたびにミノイお兄さまを思い出してつらい気持ちになるのでしたら、離れます。必要以上に顔を合わせないように努力します。でも、わたしの気持ちは変わりません。それだけ知っておいて欲しいです」
テオドリックは言葉を発することを忘れた。キセは怒っている。例え選べなかったことだとしても、誰に許されようとも、自分はキセの兄を殺したことを生涯負い目に感じ続けるだろう。
これだけ悪い要素が揃っているのに、真実を知ってなおキセが自分を愛する人だと言った。キセが心から自分を選んだのだと。それだけで、自分のことを少し赦せる気がした。
キセは黙したままでいるテオドリックに向かって少し寂しそうに微笑み、立ち上がった。天窓の向こうで、夜の迫り始めた空が紫色に染まっていく。
「…あなたの心に光がもたらされますように」
キセは震える声で言い、扉の錆びた取っ手に手を掛けた。
次の瞬間、キセはテオドリックの腕の中にいた。冷え切ったテオドリックの手を温めてやるようにキセがその手を包み、頬を寄せた。テオドリックはこの温かさに泣きそうになった。
「行くな、キセ。そばにいてくれ」
「どうしてですか。‘それでも手放せない’のは、なぜですか。…教えてください」
テオドリックはキセの身体を離し、真正面からその泣き顔を見つめた。鼻も目も赤くぼろぼろと涙が落ち、子供のようにしゃくり上げている。それでも、この世に存在する何よりも美しく、尊く、輝きに満ちている。
「あんたが好きだ、キセ・ルミエッタ。俺の光は、もう――」
テオドリックは両手でキセの頬に触れた。
「もう、ここにある。失いたくない」
「では、離さないでください」
テオドリックはキセの涙を指で拭い、羽が触れるようにそっとキスをした。それだけの接触で、身体中の細胞が息を吹き返し、空っぽだった身体に生命が戻ったような気がした。
唇が離れた後、キセが輝くような笑顔を見せた。眩しいとか、美しいとか、そういう言葉では形容できない。「幸福」が目に見えるとしたら、きっとこれだ。
「心を殺すことはできません。あなたは愛と優しさに満ちあふれた方ですから」
「心のままに生きていいというなら、俺はあんたをもう二度と離してやらない」
「離れません」
テオドリックはキセの身体を強く抱き締め、髪に顔を埋めて花のような香りを吸い込んだ。
「そうだな」
罪の意識と強迫観念に支配されて二の足を踏んでいたのは自分だけだ。キセは最初から覚悟を決めていた。今の言葉の通り、簡潔で、揺るぎない。
「俺にはあんたが必要だ、キセ」
ほとんど縋るような思いで声を出した。
「和平のためじゃなく、俺のために」
キセは花が開いたように笑って爪先で立ち、テオドリックの頬を両手で挟んでキスをした。温かく柔らかい唇が離れようとすると、テオドリックはキセの顔を引き寄せてもう一度口付けた。キセは腕を伸ばしてテオドリックの身体を包み、それに応じた。
「ん…」
唇を啄むと、キセが僅かに口を開いてテオドリックの舌を受け入れ、小さく唸った。身体が熱くなったのは、幸福が胸に満ち、身体中に日だまりを創り出していくからだ。
互いの唇が熱を持って触れ合い、離れると名残惜しそうに熱い吐息が互いを濡らし、また重なる。キセが苦しそうに上衣の背を掴んだとき、テオドリックはようやくその身体を離した。
キセの上気した頬と赤く腫れた唇は、今は直視してはダメだ。こんな顔をしたキセと二人きりでこのまま居続けたら、確実に押し倒してしまう。
テオドリックは咳払いをして、キセの頬を優しく撫でた。
「…遅くなったが、宴に出掛けようか。婚約者どの」
「はい!」
キセは髪を乱したまま、にっこり笑って差し出されたテオドリックの手を取った。
テオドリックは堪えられず、もう一度キセの身体をぎゅうっと抱きしめた。キセは驚いたが、そろりとテオドリックの背に腕を回し、頬をその胸に擦り寄せた。
「……本当は宴などどうでもいい。このままあんたといたい」
「はい。わたしもです」
キセはくすくす笑った。この笑い声がひどく心地よい。きっとこの先どう続くか分かっているのだろう。
「だが、王太子がいなくては宴とは言えないよな」
「はい」
テオドリックはキセの柔らかい髪を梳くように撫で、そっと身体を離した。
しかし、キセが頬を染めて幸せそうな笑みを浮かべているのを見た瞬間、自分の意志の脆弱さを思い知った。
「もう一回」
「えっ」
キセが顔を真っ赤にして後退りしようとしたが、テオドリックは腰を抱き寄せてそれを阻んだ。
「えっ、え、あの、うた、宴は…んん」
テオドリックはガブリと口を開け、キセの言葉を飲み込んだ。
まさか犯罪に巻き込まれたのではないかと背筋が凍る思いがした。キセは控えめに言っても美人だし漆黒の髪と瞳を持つ者はエマンシュナでは珍しい。捕まって人身売買の材料にされることだって考えられる。それとも、自分の意思でもう遠くへ行ってしまったのだろうか。
そういうものかもしれない。キセほど心の美しい者であっても、ひとたび見切りをつければあっさりと去ってしまう。そうなればきっともう二度と取り戻せない。
イサクの言う通り秘密を墓まで持っていけばよかったのだろうか。ミノイを殺したことをこのまま告げずに、キセに愛して貰えばよかったのか。
(いや、違う)
テオドリックはかぶりを振った。そうではない。キセだから真実を告げることにしたのだ。誰より心の清らかな彼女が、間違った相手を愛さないように。それを乗り越える力が彼女にはある。だからいつか、自分ではない誰かと本当の幸せを手に入れることができるはずだ。その時、この国を――自分の元を離れていくのであれば、それでもいい。和平さえ叶えば、彼女は自由だ。自由にしてやれる。永遠に離れても彼女がどこか遠くで幸せに生きているのなら、きっと父のようにはならずに済む。例えそれが生き地獄でも。
テオドリックを絶望的な気分から現実へ引き戻したのは、犬の太く吠える声だった。祝祭に浮かれる人混みを縫って、大きな犬が足元に擦り寄ってくる。カールした灰色の毛に黒い斑模様があるハウンドで、七芒星の刻印がされた赤い首輪をしている。――レグルス城で飼っている猟犬だ。
テオドリックが城を出た後でイサクが城内の人員と犬をキセの捜索に当たらせたらしく、その首輪にキセらしき女性を見たという報告の書かれた紙片がくくりつけられていた。曰く、キセは少し前に誰かと一緒にアストレンヌの城門をくぐり、今は城下のどこかにいるらしい。
ひとまずは、一人でなくてよかったと思うべきなのか。城門から王都に入ったと言うのであれば、それまではどこで誰と何をしていたのか。嫌な考えばかりが頭をよぎる。そもそも、キセを責める権利はおろか、彼女の行動について追及する権利など、自分にはない。
その後のキセの足取りは簡単に予想できた。レグルス城に戻るはずだ。
果たしてキセは城の手前で見つかった。
つやつやした黒い馬体の向こうに、キセはいた。情報通り一人ではない。テオドリックは脚の力が抜けるかと思うほどに安堵した。
無事でいる。帰ってきた。しかし、同時に目を覆いたくなった。――キセが他の男の口付けを受け入れている。
キセよりも先に相手がこちらに気付いた。灰色の目を挑戦的に細めキセの肩を抱き寄せた暗い色の髪の男は、間違いなくガイウス・コルネールだ。
ガイウスはキセから離れると王太子への礼儀として型通りのお辞儀をし、にやりと笑んだ。王太子の婚約者と知った上で、あまつさえその目の前で堂々と手を出すとは、恐ろしいまでに傲岸な男だ。
キセはテオドリックに気付くと、慌てることも弁解を始めることも、罵倒することもなく、ただ立ち尽くしていた。その表情から感情を読み取ることができない。未だに貝は閉じたままだ。テオドリックにはもう二度と開いてくれないかもしれない。
この一瞬の後、キセが顔を歪めると同時に、テオドリックの足が動いた。
まったく理に適っていない。身を切るようなあの決意は一体どこへ行ってしまったのか、皆目見当もつかない。
(俺は気が狂ったのか)
そうでなければ説明がつかない。
――なぜ今、キセの手を引いてレグルス城と反対の方向へ走り出したのか。喧騒の城下を、たった二人になれる場所を探しているのか。
(なぜキセは素直についてくる)
自分の頭で考えることがひどく億劫になり、テオドリックは考えるのをやめた。もう足を止めようとも思わなかった。
気付けば昨日と同じ礼拝堂へ来ていた。昨日と同じ場所で、同じことを繰り返すことになるかもしれない。それどころか、もっと悪いことが起こるかもしれない。
それでもいい。今はただキセがそばにいると感じていたい。
テオドリックはキセの手を掴んだまま礼拝堂に入った。小さな天窓から陽光が差し、小さいが美しい祭壇に置かれた月の女神と太陽神の像をつややかに照らしている。昨日の暗がりでは見えなかったものだ。
キセはテオドリックの手をほどいて祭壇の前に膝をつき、古代の言葉で祈りを捧げ始めた。テオドリックは冷たい石の床に腰を下ろしてそれを聞きながら、キセのまっすぐ伸びた美しい背中に見蕩れていた。初めて神に祈りたくなった。しかし何を祈ったらよいのかわからない。
どのくらい時間が経ったのか、キセがくるりとテオドリックの方を向いて座り直した。テオドリックは柄にもなくドキリとした。キセの星空のような双眸が心の奥を覗き込むように見つめてくると、身体に緊張が走った。キセの張り詰めたような唇が小さく開いた。
「なぜ、わたしをここへ連れてきたのですか?」
「わからない」
そう答えるしかなかった。理由は分かっている。しかし、言葉にできない。
「…やきもちですか?」
キセが核心を突いた。
テオドリックは何も答えることができなかった。そうだ。しかしそんなことを言える立場ではない。キセはテオドリックの言葉を待たなかった。
「もし、…そうなら、矛盾しています」
キセの目が揺らぐことなくテオドリックを見つめ続けている。
「テオドリックは昨日、わたしが他の人を好きになってもいいと仰いました。和平さえ成れば、わたしは自由だと」
「そうだ」
「でも、手放してやれないとも仰いました」
「憎めとも言った。そうしろ」
「‘手放せない’というのは、どういう意味ですか」
「あんたが和平の切り札だからだ」
「それだけですか」
キセが膝をにじり寄せ、テオドリックに近付いた。
「…わたし、生まれて初めて怒っています。あなたに」
「甘んじて受け入れる」
「兄を殺したからですか?」
キセが強い口調で言った。黒い瞳が濡れている。
「わたしは、…ミノイお兄さまとあなたが殺し合ったことも、その結果お兄さまが死んでしまったことも、とても悲しいです。知ったとき、混乱しました。お兄さまには生きていて欲しかった。でも、だからって、代わりにあなたが死ねばよかったなんて、絶対に思いません。わたしたちは選べなかった。そんな酷いことが起こらなければよかった。戦なんて、起きなければよかったんです。でも過去は変えられません。悲しいことも、怖いことも、幸せなことも、全ての出来事が起きた結果の上に、わたしたちは存在しているんです。何かが一つ欠けていたら、今わたしの前にあなたはいませんでした。あなたは――」
キセの目から涙がぼろぼろとこぼれ落ちた。拭ってやりたい。抱き締めたい。しかし、そんな資格はない。兄を殺した男の手に触れられたいと思う者がどこにいるだろう。しかし、キセはテオドリックの手を取った。温かい手だった。
「あなたは生かされたのではないですか。生かされたことを罪だと嘆いて王になり、不幸であり続けることを贖罪としてずっと生きていくおつもりですか。わたしの覚悟は、なかったことにされるのですか。わたしは、和平が成るまでの間だけの、仮初めの妃になるためにあなたとこの国へ来たんじゃありません」
「キセ…」
「わたしは、女神さまに、…ミノイお兄さまに、感謝します。あなたに引き逢わせてくださったから」
キセが祈りを捧げるようにテオドリックの両手を包み、その甲に口付けをした。テオドリックは動けなかった。キセが眩しすぎて、声も出せない。
「わたしは、怒っているんです、テオドリック。わたしの幸せを犠牲だと一蹴されたから。愛する人が自分を偽り、もたらされるべき幸福を拒絶するから。ご自分の使命を見誤らないでください。あなたの…わたしたちの使命は、不幸であり続けることではないはずです。わたしは、エマンシュナの王太子の妻になることではなく、あなたを――テオドリックを選びました。わたしが、わたしの心に従って、あなたを選んだんです。甘く見ないでください。犠牲だなんて、もう二度と言わないで欲しいです」
驚いた。キセがほんとうに怒っている。普段のおっとりした話し方から考えるとかなり激しい口調だ。激怒と言っていい。しかし驚くべきはそれではない。
「‘愛する人’…」
「あなたのことです、もちろん。昨日もそう言うつもりでした。あなたが好きって…。すごく緊張して、嫉妬なんかして嫌がられたらどうしようって、悩んでいました。それなのに…」
むう、とキセが赤くなった頬を膨らませ、テオドリックの手を離した。まったくこんなに重苦しい雰囲気にそぐわない感情だ。キセが可愛い。胸が痛くなるほど愛おしい。
「…でも、もし」
キセは肩を落とし、哀しそうにまぶたを伏せた。
「――テオドリックがわたしを見るたびにミノイお兄さまを思い出してつらい気持ちになるのでしたら、離れます。必要以上に顔を合わせないように努力します。でも、わたしの気持ちは変わりません。それだけ知っておいて欲しいです」
テオドリックは言葉を発することを忘れた。キセは怒っている。例え選べなかったことだとしても、誰に許されようとも、自分はキセの兄を殺したことを生涯負い目に感じ続けるだろう。
これだけ悪い要素が揃っているのに、真実を知ってなおキセが自分を愛する人だと言った。キセが心から自分を選んだのだと。それだけで、自分のことを少し赦せる気がした。
キセは黙したままでいるテオドリックに向かって少し寂しそうに微笑み、立ち上がった。天窓の向こうで、夜の迫り始めた空が紫色に染まっていく。
「…あなたの心に光がもたらされますように」
キセは震える声で言い、扉の錆びた取っ手に手を掛けた。
次の瞬間、キセはテオドリックの腕の中にいた。冷え切ったテオドリックの手を温めてやるようにキセがその手を包み、頬を寄せた。テオドリックはこの温かさに泣きそうになった。
「行くな、キセ。そばにいてくれ」
「どうしてですか。‘それでも手放せない’のは、なぜですか。…教えてください」
テオドリックはキセの身体を離し、真正面からその泣き顔を見つめた。鼻も目も赤くぼろぼろと涙が落ち、子供のようにしゃくり上げている。それでも、この世に存在する何よりも美しく、尊く、輝きに満ちている。
「あんたが好きだ、キセ・ルミエッタ。俺の光は、もう――」
テオドリックは両手でキセの頬に触れた。
「もう、ここにある。失いたくない」
「では、離さないでください」
テオドリックはキセの涙を指で拭い、羽が触れるようにそっとキスをした。それだけの接触で、身体中の細胞が息を吹き返し、空っぽだった身体に生命が戻ったような気がした。
唇が離れた後、キセが輝くような笑顔を見せた。眩しいとか、美しいとか、そういう言葉では形容できない。「幸福」が目に見えるとしたら、きっとこれだ。
「心を殺すことはできません。あなたは愛と優しさに満ちあふれた方ですから」
「心のままに生きていいというなら、俺はあんたをもう二度と離してやらない」
「離れません」
テオドリックはキセの身体を強く抱き締め、髪に顔を埋めて花のような香りを吸い込んだ。
「そうだな」
罪の意識と強迫観念に支配されて二の足を踏んでいたのは自分だけだ。キセは最初から覚悟を決めていた。今の言葉の通り、簡潔で、揺るぎない。
「俺にはあんたが必要だ、キセ」
ほとんど縋るような思いで声を出した。
「和平のためじゃなく、俺のために」
キセは花が開いたように笑って爪先で立ち、テオドリックの頬を両手で挟んでキスをした。温かく柔らかい唇が離れようとすると、テオドリックはキセの顔を引き寄せてもう一度口付けた。キセは腕を伸ばしてテオドリックの身体を包み、それに応じた。
「ん…」
唇を啄むと、キセが僅かに口を開いてテオドリックの舌を受け入れ、小さく唸った。身体が熱くなったのは、幸福が胸に満ち、身体中に日だまりを創り出していくからだ。
互いの唇が熱を持って触れ合い、離れると名残惜しそうに熱い吐息が互いを濡らし、また重なる。キセが苦しそうに上衣の背を掴んだとき、テオドリックはようやくその身体を離した。
キセの上気した頬と赤く腫れた唇は、今は直視してはダメだ。こんな顔をしたキセと二人きりでこのまま居続けたら、確実に押し倒してしまう。
テオドリックは咳払いをして、キセの頬を優しく撫でた。
「…遅くなったが、宴に出掛けようか。婚約者どの」
「はい!」
キセは髪を乱したまま、にっこり笑って差し出されたテオドリックの手を取った。
テオドリックは堪えられず、もう一度キセの身体をぎゅうっと抱きしめた。キセは驚いたが、そろりとテオドリックの背に腕を回し、頬をその胸に擦り寄せた。
「……本当は宴などどうでもいい。このままあんたといたい」
「はい。わたしもです」
キセはくすくす笑った。この笑い声がひどく心地よい。きっとこの先どう続くか分かっているのだろう。
「だが、王太子がいなくては宴とは言えないよな」
「はい」
テオドリックはキセの柔らかい髪を梳くように撫で、そっと身体を離した。
しかし、キセが頬を染めて幸せそうな笑みを浮かべているのを見た瞬間、自分の意志の脆弱さを思い知った。
「もう一回」
「えっ」
キセが顔を真っ赤にして後退りしようとしたが、テオドリックは腰を抱き寄せてそれを阻んだ。
「えっ、え、あの、うた、宴は…んん」
テオドリックはガブリと口を開け、キセの言葉を飲み込んだ。
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