獅子王と海の神殿の姫

若島まつ

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三十五、怒りと救い - la colère et le salut -

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 王都から一時間余り北へ駆けて、ガイウスはキセを小高い丘の上へ連れてきた。高さはそれほどなく、青々と草が生い茂る長閑な場所だ。少し離れた場所に森があり、周囲には民家もなく、建物と言えば炭焼き小屋がいくつか建っているのみだ。どこからか牛の鳴き声が聞こえてくるから、近くに牧場があるのだろう。
「あっちを見てごらん」
 ガイウスが指差した方向を見ると、遠くに水平線が見えた。海だ。
 キセは声を上げることも忘れ、両手を組んでオスイア神への祈りを唱え始めた。
 ガイウスは心地よいキセの声を聞きながら目を閉じ、草の上に寝転がった。不思議だ。耳慣れない言葉なのに、そよ風のようなキセの声が皮膚から身体に染み込んでいくような心地さえする。
 どれくらい経ったのか、ガイウスはまぶたを開けた。驚いたことにしばらく眠ってしまっていたらしい。隣に視線を移すと、キセは既に祈りを終えて膝を抱えるように座り、海を眺めていた。
 ガイウスがやおら手を伸ばしてその冷たい頬に触れたのは、涙を拭ってやるためだ。
「…ありがとうございます」
 キセがすんすんと赤い鼻を鳴らして言った。
「王太子殿下と喧嘩でもしたのかな」
「いいえ、そういうわけでは…」
 喧嘩だったらよかった。喧嘩をする仲だと言うことは、それだけ親しいと言うことだ。テオドリックとはそこまでの関係を築けていない。
「そうなのか?あなたが怒っているように見えたから、てっきり喧嘩かと思っていた。春の宴の日に飛び出してしまうほどの」
「怒っているように見えましたか?」
「ああ。激怒…いや、憤怒という感じだった。雷神が嵐を起こすほどの」
「えっ!?そんな…」
 キセが慌てて否定しようと隣を向くと、ガイウスは既に上体を起こし、ニヤニヤと唇を吊り上げていた。
 揶揄われたのだ。キセは苦笑した。
「冗談がお上手です」
「雷神は言い過ぎだが、怒っているように見えたのは本当だ。だから様子がおかしいと思った」
 キセはちょっと考えて、なるほどと思った。今まで誰かに対して腹を立てた経験がないから、この虚ろで歪な感情の正体が自分ではよくわからなかったが、怒りと言われてみれば、なんとなくしっくりくる。
「そうですね…。怒っているのかもしれません」
「あなたのような穏やかな人を怒らせることができるとは、大したものだな。願わくばわたしもそうありたいものだ」
 ガイウスはくっくと肩を震わせた。
「ガイウスさまもわたしを怒らせたいのですか?」
「ああ。それだけあなたの心を乱せるということだからな」
 このガイウスの真意は、キセには伝わらなかった。キセの黒い瞳が遠くキラキラと輝く波を眺め、頭は別のことに思いを馳せていたからだ。
「心が乱れるのは――」
 と、キセは独り言のように言った。
「オシアスとしての責務を担う上では良くないことだと思っていましたが、そうではないのですね。新たな発見があります」
「オシアス?」
「オスタ教の女性の神官のことを、オシアスと言うのです」
 キセは耳慣れない言葉を聞いて首を捻ったガイウスに教えてやった。
「わたしはついこの間まで神官としてオスイアの女神さまに祈りを捧げる生活をしていました」
 ガイウスの頭に、素肌の上に白い薄衣を纏って祈るキセの姿が思い浮かんだ。なかなか扇情的だ。
「驚いた。と言いたいところだが、何故だか驚かないな。神官で、王太子の婚約者――あなたにはまだ秘密がありそうだ。‘ルミエッタ’も本名ではないかも」
 キセは挑戦的な目で顔を覗き込んでくるガイウスに向かって穏やかに微笑みかけた。
「本名ですよ。正確には、キセ・ルミエッタです」
「また耳慣れない名だ」
「もう少し内緒にしておいてくださいね」
「内緒なのか?」
「はい。ですがガイウスさまはお友達ですから、やっぱりキセと呼んで欲しいです」
「‘お友達’、ね…。王太子殿下の婚約者なら‘キセさま’と呼ぶべきかな」
「とんでもない。婚約者と言ってもただの――」
 キセは言葉を詰まらせ、もう一度遠い海へ目を向けた。
「ただの?」
「なんなのでしょう…。オスイアさまの声に耳を傾けてみても、わかりません」
 ガイウスは再びごろりと草の上に背を預けた。さわさわと穏やかな風が吹き、草花を揺らした。土と花と、水分をよく含んだ草のみずみずしい香りが漂ってくる。なんだかキセが心の中で祈りの言葉を唱えるのが聞こえるような気がした。
「…簡単なことだ」
 ガイウスは長い脚を組んで目を閉じ、眠たそうに言った。
「神の声が聞こえないのは、あなたの心が迷っていないからだ。日差しが強いからと言って、帽子はふたつも必要ないだろう」
 目の前に星が散った。不思議だ。なんだかすとんと腑に落ちた感じがする。
「道理です」
 キセは目だけで笑い、外套を脱いで横たわるガイウスに掛けてやった。着ているのは植物の文様が地紋になっているティールブルーのドレスだ。テレーズが春の宴のためにキセの寝室に用意していたものを、そのまま着てきてしまった。四角い襟は広く開いていて肘から手首に向かって袖が軽やかに風に揺れるように広がっているから、風が吹くと肌寒く感じる。
 しかし今はその寒さが心地よかった。頭が冴える。遠くの海から微かに潮の匂いが香ってくる。髪が風に靡いて僅かな海の空気を纏った。それだけで、勇気が出る。
「…戻りましょう。責務を放り出してきてしまいました。皆さんにも心配をかけているはずです」
「もういいのか?」
 ガイウスは言葉の端に出る未練を隠さなかった。自分としてはもう少しこのままでもいい。が、まあ、彼女の言うことも道理だ。女衒の後始末を命じた従者には行き先を告げていないし、弟のセオスは恐らく大切な宴に領主である兄が来ないことをきっとひどく不安がるだろう。
「はい」
 と、そう答えたキセの顔は今日の空のように晴れ晴れとしていた。この顔を見られただけでも、不本意な助言をした甲斐があるというものだ。
「それはよかった」
 ガイウスは腰を上げた。

 二人がアストレンヌの城壁を再びくぐったのは、間もなく夕刻になろうかという時間だった。太陽は西に傾き始め、今宵の宴に向けて街の人々も活発に行動している。特に祝祭の二日目の夜は国王から民へ向けて酒が無料で振る舞われるから、空の瓶を抱えながら広場で酒樽を待つ者も多く、中には二本も三本も瓶を持って来た者もいるが、一人に配れる酒の量はそれほど多くない。
 彼らが揉め事を起こさないように監督するのは、軍の役目だ。そこかしこに深い緋色の軍服を来た衛兵が立ち、大切な宴の日に王都で狼藉を働く者がいないか目を光らせている。
「戦時中の財政難にあって領主たちのご機嫌取りにこれほどの金をかけるとは、王家も面目を保つのに必死だ」
 ガイウスが辺りを見回しながら言った。
「この国が分裂するのにそれほど大きな力は必要ない。古いものは必ず廃れる。廃れたものには、悪いものが棲みつく」
「あの神殿のように、ですか?」
 ガイウスは後ろを振り返ったキセに向かって息だけで笑った。
「そ、それは、わたしが聞いてよい話なのでしょうか…」
 キセから婚約者であるテオドリックの耳に入るかもしれないことを、ガイウスが理解していない筈がない。が、ガイウスは平然と言ってのけた。はらはらするほど豪胆だ。
 キセの気遣わしげな様子を見て、ガイウスは思わずそのふわふわした黒髪をくしゃっと撫でた。
「あなただから話してる。あなたが嫁ごうとしているのは、そういう家だ」
「心配してくださっているのですね。お優しいです」
「さあな。試しているだけかもしれないぞ」
「では応えられるように頑張ります」
 キセはにっこりと笑った。
「あなたは、なかなかどうして…強かな人だな」
「そんなことは――」
 ぐう。と、この時キセの腹が鳴った。朝食も食べずにフラフラ出てきてしまったから、空腹が限界を迎えているのだ。
「くっ」
 ガイウスが鋭い目を可笑しそうに細め、声をあげて笑った。キセもちょっと顔を赤くして笑った。
「わたしも空腹だ。キセ、何か食べたいものは?」
 そう聞かれて思い出したのは、あてもなく彷徨っている時に嗅いだパイの匂いだ。
「朝通りかかったお店でパイを買いたいです。でも場所をよく覚えていないので、一緒に探していただけますか?」
「喜んで」
 むしろこの時間がずっと続けばいい。
 ガイウスはそう思っていたが、意外にもあっさりと店は見つかった。キセがパイの匂いをよく覚えていたからだ。
 人の良さそうな奥方といかにも職人っぽい無骨な佇まいの主人の店でソーセージのパイとトマトのパイを買った後、二人は広場でダンスに興じる人々を眺めながらパイを食べ、再び馬に乗ってレグルス城へ向かった。
 キセは春を祝う民衆を楽しそうに眺め、少し後ろへ首を傾けてガイウスに笑いかけた。
「今日は本当にありがとうございました。ガイウスさまのお陰で向かうべき場所が見えた気がします」
「いや、わたしはたいしたことは何もしていない」
「危ないところを助けてくださいました。それに、海の見える場所へ導いてくださいました。…何も聞かずに。それから、助言もたくさん…。どうお礼をしたらよいかわかりません」
 ガイウスは唐突にキセを帰したくなくなった。城門はもう間近で、何人か衛兵も立っている。宴に向かう時間は近い。しかし、ガイウスは次にいつ会えるかなどと訊くようなことはしない。欲しいものは自分から取りに行く主義だ。
 キセが馬を降りようとしたとき、ガイウスは先に下に立って手を差し伸べたが、キセの身体を支えるためではなかった。
 キセは混乱した。
 いつの間にかガイウスの腕の中にいる。
「…あ、…あの…」
 キセは困惑して身動きできずにいたが、しばらくするとガイウスはキセを離し、灰色の瞳を翳らせた。
「礼はこれでいい」
 キセが何かを疑問に思う前にガイウスの唇がキセのそれを塞いだ。

 テオドリックがようやくキセを見つけたのは、そういう折だ。
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