獅子王と海の神殿の姫

若島まつ

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三十三、黒い小鳥 - une merlette -

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 だめだ。抗えない。
 テオドリックは貪るようにキセの唇を味わいながら、己の浅ましさを呪った。
 どうやってあの人混みを抜けたのかもわからない。キセを抱き締めるのにレグルス城に帰るよりもアストレンヌ城の庭園にある小さな礼拝堂を選んだのは、衝動の中の僅かな冷静さが働いた結果だったのかもしれない。この礼拝堂は母が生前建てたもので、母が亡くなってからは清掃以外の用事で誰も出入りしていないし、何よりイサクやテレーズの非難がましい視線を受けることがない。
 非難されて然るべきだ。それなのに、この衝動を抑えられない。何故ならば、引き合った――そう。惹き合ったからだ。あの時働いた引力は、一方的なものではなかった。今も、キセはテオドリックの荒っぽい口付けを受け入れ、背中に回された手が、その体温が、その息遣いがテオドリックを求めている。
 テオドリックはキセの身体を礼拝堂の大きなタペストリーの掛けられた壁に押し付け、喘ぐような呼吸を聞きながら唇を貪り、きちんと結われた髪に指を挿し入れてするりとそれを解いた。熱く濡れた唇が何度も触れ合い、どちらからともなく舌が絡まる。
 花火の音も聞こえないほど夢中になった。この身体の奥に触れ、体温を直に感じたい。テオドリックがキセの身体を強く抱き寄せたとき、キセが触れ合う唇の下で声を発し、何かを決したようにテオドリックの目を見つめた。
「ん、あ…、テオドリック…」
「ん?」
「わたし、聞いて欲しいことがあります…」
 キセは頬を紅潮させ、テオドリックの手を握った。テオドリックの瞳の中に緊張が走ったことには気付いていない。
「あの…わたし、あなたの望むような妻には、なれないです…」
 目の奥が痛くなった。暗いのが幸いだ。泣き顔を見られなくて済む。
 今だ、と、予感がした。ずっと自分の中の硬い殻の中に閉じ込めておいては、きっといつまでも心を見せられないまま、テオドリックの心にも触れられないまま夫婦になり、空虚な一生を過ごしてしまう気がする。幻滅されてしまうかもしれない。しかし、テレーズも言っていたではないか。夫婦関係は最初が肝心だと。
「…どういう意味だ」
「わ、わたし、初めて会ったとき、あなたを月神かと思いました。ですから、神さまを大切にするようにあなたを夫として、家族として慈しめたらよいと思って神殿を出ました。あなたと一緒に。わたしたちに最も必要なのは友愛と信頼です。ユヤお母さまがお父さまや他のお母さまたちに接するように、わたしもあなたの手助けをしようと思っていました。でも、…で、できません。わたしは、ユヤお母さまのようにはなれません。浅はかでした。ごめんなさい…」
 テオドリックは無言でいた。キセは震える呼吸を整えるために息を大きく吸ってみたが、あまり効果はない。やがてテオドリックの哀しいほどに静かな声が聞こえた。
「…もう、やめたい?」
 キセがぶんぶんと首を振った。これだけのことで、テオドリックは心の底から安堵した。引き止める資格などないのに、感情を抑えることができない。
「…その…」
 キセは顔を見られないようにテオドリックの胸に頭を預けた。暗い礼拝堂の中では顔など見えるはずもないが、顔を上げていることができなかった。
「馬術大会であなたを見た日、気付きました。わたし――わたしが、妃として相応しくない性質を持っていることに。あなたがたくさんの女性から花を受け取って、お礼のキスを彼女たちにしているのを見て、…その、すごく…彼女たちが綺麗で、羨ましくて…嫉妬しました。どうしてお花を捧げるのがわたしじゃないんだろうって、あなたが笑いかけるのが、わたしじゃないんだろうって。あの夜、あなたの、く――」
 キセは手を握り締めた。顔が熱くて火が吹き出しそうだ。
「口付けを拒んだのは、そういう理由です。…おかしいですよね。あなたは国民のものであって、わたしのものではないのに。こんな自分が恥ずかしくて、みっともなくて、すごくいやなんです。あれ以来ずっと考えていました。自分の気持ちに向き合うために。テオドリック――」
 ドン、と一瞬の閃光を放ち、花火が鳴った。
 星を散りばめた夜空のような瞳が、テオドリックを見上げた。テオドリックは自分の耳が信じられなかった。キセが嫉妬?あり得ない。しかし、それよりもあり得ないのは――
「わたし、あなたを――」
 キセの言葉が終わらないうちに、テオドリックはキセの頭を胸に引き寄せて黙らせた。この先は聞きたくない。聞いてはいけない。
「だめだ、キセ。やめろ」
 キセの目蓋が熱くなり、涙が溢れた。
「憎むべきだ。俺はオシアスとして平穏に過ごせたはずのあんたの人生を奪った。和平のためにあんたに犠牲を強いているんだ。愛のない結婚を――」
 愛され、慈しまれ、ありふれた幸せを手に入れるべき女性の人生を壊したのだ。
 が、キセは涙を流しながらきっぱりと言い切った。
「犠牲なんかじゃありません」
「犠牲だ。俺は――」
 テオドリックの声が震えている。キセは上を向こうとしたが、テオドリックがキセの頭を強く抱き寄せて離さない。キセは暗闇の中でテオドリックの声を聞いた。
「あんたの兄を、ミノイをこの手で殺した」
 最後の花火が夜気を震わせ、耳を刺すような静寂が迫ってくる。
 テオドリックは力を失ったキセの身体を離し、ゆっくりと下がって距離を取った。高い窓から月の光が射し、ぼんやりとした青い影がテオドリックの頬に落ちた。
「俺は泥の道でイノイルの兵と殺し合い、その男の頸を斬った。名前も知らなかった。オアリス城でミノイの肖像を見るまで…」
 キセはテオドリックの目が月光の薄闇の中に鈍く光るのを黙って見つめた。声を出すことを身体が忘れてしまったように、何も発することができない。ただ両側の頬を伝って溢れ続ける涙がやけに熱かった。
「それでもあんたを手放してやれない俺を憎めばいい。その代わり、和平が成った後は、あんたは自由だ。好きなところに城を用意するし、好きな男ができたら全てがうまくいくよう協力する。神殿が必要なら、それも用意する。何も不自由はさせない。できることは何でもする。最大限の望みを叶える。だから――」
「わかりました」
 キセは頬を手で拭い、毅然とした態度で言った。涙はもう流れていない。
「明日も朝早くから準備をしなければならないのでしょう?そろそろ帰りましょう」
 暗くて顔が見えない。が、テオドリックには、キセが微笑んでいるのが見えた気がした。
 その後のキセは、不気味なほどいつも通りだった。テオドリックと共に馬に乗り、一日目の夜祭りを終えて灯りが消え始めた街を眺めながら他愛もない話をし、些細なことで笑った。
(まさか、受け入れたのか?)
 と、テオドリックが柄にもなく楽観的な憶測をしてしまうほど、キセはテオドリックの重大すぎる告白に対する反応を見せなかった。
 一方、テオドリックはそういう彼女に対してどんな顔をしていたのか、何を話したのか、自分でも全く分からないほどに動揺していた。罵られ、泣き叫ばれた方が余程気が楽だった。が、キセがそういう気性を持っていないことは知っている。
 礼拝堂での告解は、予想よりも悪い方向に転がった。キセの心が、貝が閉じるように見えなくなったからだ。
 この夜、テオドリックは夢を見た。
 なぜか自分の身体は小さく、ベビーピンクとアップルグリーンのドレスを着た二人の姉たちと、真珠のついたロイヤルブルーのドレスを着て幼い弟を膝に乗せた母親、そして緋色の上衣にテンの毛皮のマントを羽織った壮健な父親と共に原っぱで午後のティータイムを楽しんでいる。やがて強い風が吹き、皆が散り散りになり、あたりは真っ暗になった。草が生い茂っていた足元はいつの間にか冷たい岩になっていて、海からは遠い場所にいたはずなのに波の音が聞こえてくる。誰の名を呼んでも返事はなく、自分の声がこだまするだけだ。
 不安で堪らなくなり岩の上に蹲って震え始めた頃、ピィルルルと伸びやかに歌うような声が聞こえてきた。美しい声に誘われて上を見上げると、小さな黒い鳥が飛んでいた。
 不思議なのは、その鳥が太陽のような光を纏っていることだ。鳥が肩に止まると、熱いミルクを飲んだ後のように身体が温かくなった。不安が消え、心が安らいだ。
 いつの間にか身体は大きくなり、大人になっていた。びゅうっと強風が吹き、小鳥は逃げ出してしまった。捕まえようとしたが、光を纏った黒い鳥は暗い空の向こうへ消えて行った。
「行くな!」
 誰かが叫ぶ声で目が覚めた。声の主が自分だと理解したのは、叫び終わってからだ。
 身体中に汗をかき、宙を掴むように腕を伸ばしていた。目の前には、金獅子の紋章が幾何学模様のようにあしらわれた重苦しい茶色の天井が見える。
 最悪の気分だ。
 しかし、もっと悪いことが起きた。
「キセ姫がいなくなった」
 そう報せに来たイサクは、顔面を蒼白にしていた。無理もない。今夜、国内の貴族や領主たちが集まる宴でキセを婚約者としてお披露目する予定なのだ。
(無理もない)
 テオドリックはキセを思った。あんな話を聞かされたのだ。いくら女神のように慈悲深い彼女でも嫌になって当然だ。
 しかし、土地勘のない若い女性が一人で行動できるほど世間は安全ではない。祝祭には大勢の人々が集まる分、犯罪も多くなる。
 テオドリックは布で顔を拭って冷水の張られた盥の中に投げ入れ、上半身が素肌のまま真っ白なシャツを被って着た。
「まだ髪が濡れてるぞ。…おい、どこへ行く」
 テオドリックはイサクの忠告を黙殺し、シャツの襟も整えずに寝室を出た。間を置かず外に控えていた若い使用人がテオドリックに光沢のある明るいグレーの上衣を着せた。
「馬を出しておけ」
 若い使用人はテオドリックの命令に短く頷き、階下へ駆けて行った。
「春の宴だぞ。お前がいなくてどうする」
 引き止めようとするイサクを振り返り、テオドリックは自嘲するように笑って言った。
「病に罹ったとでも言っておけ」
「正気と思えない」
 イサクは声を荒げた。
 まさかこの宴に王太子が出席することの意味をテオドリックが理解していないはずがない。
 国内の有力者が集まる王室主催の年間行事はいくつかあるが、それらのうち最も重要なものはこの春の宴だ。全ての地域を代表する諸侯が集まり、忠誠を確認し合う。彼らにとっては王国へ恭順の姿勢を示すと同時に、王家の品定めをする機会でもある。
 正直言って、今のところ国王への評価は芳しいものではない。が、テオドリックは違う。まだ年若いうちから王の代理を務め、その手腕を披露する機会が多かったから、この華やかな王太子に一目置く諸侯は多い。
 テオドリックにとっては、この春の宴は彼らに対して自分の存在を知らしめ、認めさせる場でもあるのだ。‘リュミエット’を探しにネリへ発った時、テオドリックが「ひと月で戻る」と言い残したのには、そう言う理由がある。
 にもかかわらず、王太子であるテオドリックが宴に顔を見せないなど、まったく理に適っていない。イサクは重ねて言った。
「キセ姫は他の誰かに任せて、お前は宴に出ろ」
「できない」
「テオ!」
「キセのことを他人に任せるくらいなら宴になど出なくていい」
 イサクは階段を下りようとするテオドリックの腕を掴んで引き止めた。無礼は百も承知だ。
「どうかしてるぞ」
「離せ!」
 遂にテオドリックが怒声を放ってイサクの腕を振りほどいた時、階下からこちらへ上ってくる人物がいた。
「朝から騒がしいな。何事だ」
 と、ネフェリアが顔をしかめて二人の目の前に立った。
 イサクはほとんど反射的に一歩下がって主君の家族への礼を示し、テオドリックは姉と同じようなしかめっ面をした。
「ネフィ、俺の城で何をしてる。しかも…」
 テオドリックは姉の頭から足元まで視線を走らせ、眉間に皺を寄せた。軍服と同じく深い緋色の地に金色の獅子の刺繍があしらわれたドレスを着、短い亜麻色の髪をピンでまとめて白いアネモネの髪飾りを付け、なんと化粧をしている。最後に着飾った姉の姿を見たのは、もう何年も前だ。
「ドレスを着てる」
「王女がドレスを着ていたらおかしいのか?」
 ネフェリアがニヤリと笑ったのにつられてテオドリックも失笑した。
「いや。きれいだよ」
「そうだろう」
「で、何してる」
スクネ・・・に会いに来た。部屋を聞こうとお前の寝室へ行くところだった」
「はっ?」
 テオドリックは一瞬言葉を詰まらせた。今日の宴で引き合わせるつもりだったからネフェリアにはまだスクネを正式には紹介していないし、いつの間に相手を呼び捨てる仲になったのかもまったく見当がつかない。が、今はそれを追及している場合ではない。テオドリックは気が急いて階段の下をちらちらと見た。
「行くなら行け。宴のことはわたしが何とかする。スクネを借りることになるが」
 いつになく落ち着きのない弟の様子を見かねてネフェリアが言うと、テオドリックは短く頷き、イサクの方を見もせずにさっさと階段を下り始めた。
「あっ!おい、テオ――」
「イサクが案内する」
 テオドリックはイサクの言葉を黙殺し、姉にそれだけ言って階段を駆け下りていった。
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