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二十九、騎射 - les archers à cheval -
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コルネール邸の一件があってからと言うもの、キセとテオドリックは三日間一度も顔を合わせていない。隣の部屋で寝起きしていると言うのに、見事なまでにすれ違っている。無論、意図的なものだ。
厳密には、テオドリックが徹底してキセと顔を合わせないように行動している。起きたら城内の西棟三階にある執務室に籠って机仕事をしているか、アストレンヌ城へ赴いて政務をし、それ以外の時間は軍の訓練に参加したり、馬の鍛錬を行ったりと、不必要なほど自分の城に腰を落ち着ける時間を削っていた。
キセはそういうテオドリックの意図に気付いている。正直、少しほっとしている部分もある。思いもよらない自分の一面を知ってしまったからだ。
キセは桜色のドレスを着、テレーズに背中のボタンを留めてもらった。テレーズは何かを察しているようだが、キセが沈黙しているからかテオドリックとのことに口を挟んだりはしなかった。キセの首に赤黒い痕を見つけた時も、何も言わずに首回りがハイネックになっているグリーンのドレスを用意してくれた。
今日テレーズが用意したドレスは首が隠れるものではないが、首から鎖骨のあたりまでを隠せるレースの付け襟が姿見の前に置かれていた。
キセは姿見に映る自分を見た。
首につけられた二つの痕は薄くなっているが、キセの白い肌にはまだやや目立つ。
顔が否応なしに赤くなった。テオドリックの唇が触れた柔らかな感触と強く吸われた痛みが肌の上に蘇ってくる。
‘愛の行為’などと、言わなければよかった。もともと自分とテオドリックの間に存在しないものなのに、まるでそうであることが当然のような口振りで拒絶してしまった。
もしかして、その拒絶がテオドリックを幻滅させたのではないだろうか。
なんだか様子がおかしかったのは、怒りの他に何か理由があるのかもしれない。あの時のテオドリックは、何故か苦しんでいるように見えた。
(知りたい)
と思った。すっかり隠れてしまったテオドリックの心がどこにあるのかを知りたい。
(でも、心に触れることを許してくださらなかったら――)
どうしたらよいのか、見当もつかない。
キセは三日間、この自問自答を繰り返している。
「はい、できましたよ」
と、テレーズがにこにこと大きな口を左右に引き伸ばしてキセの首につけたレースの付け襟をきれいに整えた。
「今日はスクネ殿下と鍛錬場の見学に行かれるそうですね」
「はい。軍の内輪の催しがあるとかで、イサクさんが見学の許可を取ってくださいました」
「では日差しに当たりすぎないように帽子が必要ですわね。被りやすいようにお髪は下の方で結いましょうね」
「はい、ありがとうございます」
キセはぎこちなく笑った。
テレーズはキセの髪を何本かに分けて細く編み、それを後ろの低い位置でくるくるとまとめ、最後に蝶のモチーフの髪飾りを差した。キセがイノイルから持ってきたものだ。
「とってもおきれいですよ。殿下もご覧になれたらよろしかったのに。こんなに可愛らしい婚約者を放って朝から王城でお仕事だなんて、まったくお気が利きませんこと」
テレーズは両手を腰に当てて肩を怒らせた。
「そんな。わたしのことよりもご政務を優先するのは当然のことです」
「キセさままで。婚約者なのですから、もう少しわがままをおっしゃってもよろしゅうございますのに。まだこちらへ来たばかりで心細いのですから、尚更お心配りが必要と言うものですわ」
「わたしなら大丈夫です。テレーズさんもイサクさんもとてもよくしてくださいますし――」
テレーズは鏡越しにキセに向かってにっこりと笑いかけた。
「それに、お兄さまやヒクイさんたちも乗馬へ連れて行ってくださいますし、読書も。ここの書庫は珍しい蔵書がたくさんあってとても興味深いです。それに、テオドリックは――」
キセは表情を曇らせた。
「…わたしが、煩わせてしまうので、避けられているのかもしれません」
思わず本音が出た。キセは視線を手元に落とし、静かに溜め息を吐いた。
きっとそうだ。テオドリックは「俺の問題だ」と言ったが、それは違う。二人の関係に支障が出ている以上、キセもその問題に向き合わなければならない。それに、キセにもキセの問題がある。
テレーズは悲しそうに目を細め、ワードローブから薄手の毛織物のショールを出してきて、キセの肩に掛けた。
「これはおばばの老婆心なのですけれども」
と、テレーズが敢えて軽い調子で言った。
「殿下はお父上さまのようになることを恐れていらっしゃるのですわ」
「国王陛下の…ですか?」
テレーズはウン、と頷いた。そういえば、テオドリックの口から父親についての話を聞いたことがない。
「仲がお悪いのですか?」
「昔はとても仲の良いご家族だったのですよ。国王陛下も妃殿下もとても仲睦まじくて、心から愛し合っていました。政略結婚とは思えないほどでしたよ、ええ。妃殿下は国王陛下を公私共によくお支えになって、陛下もそれに応えるようにご政務に邁進されていました。けれど、十年ほど前に妃殿下がご病気で亡くなられてからは、まるでお人が変わってしまったようになってしまわれて、ご自分が国王であることも父親であることも嫌になってしまったご様子で…テオドリック殿下がいつもお仕事に追われているのは、そう言う理由なのですよ。十三歳の頃から気力をなくしてしまったお父上さまに代わって国王の仕事をされていました。国王陛下がご政務に復帰なさった後もいくつかの政務をそのまま引き継いでいらっしゃいます。有能に生まれつくと恩恵を受ける分、きっと苦労も多いものなのでしょうね。わたくしはそばで見守ることしかできませんでしたけれど、殿下は本当によく頑張られたのですよ。もちろん、今も」
キセは十三歳のテオドリックを思った。
それまで当たり前に存在していた愛情や庇護が忽然となくなってしまった時の心細さは、一体どれほどのものだっただろう。少女期を神殿で過ごし、世間から離れていた自分が、少年時代から第一線で国のために尽力しているテオドリックの力になろうなどとは、あまりにおこがましい考えなのかもしれない。
「テオドリックは、頑張り屋さんですものね…」
果たしてそこに自分の入る余地はあるのだろうか。とキセは思った。
「そうです。そう見えづらいけれど、そうなのですよ」
テレーズは満面の笑みで言った。キセがテオドリックのことを理解していることが、嬉しかったのだ。
「殿下は泥の道の事件以来ずうっと何かを思い詰めて毎日暗ぁい顔をしていらっしゃいましたけど、キセさまを連れてお帰りになった殿下は本当に毎日楽しそうで、一緒にいると安らいでいらっしゃいます。今までだぁれも殿下にあんな顔をさせることはできませんでしたのよ。ですから、キセさまが煩わしいなんて言うことは絶対にありませんよ。殿下は複雑なお方ですから心の中まではわたくしにもわかりませんけれど、これだけは確かですわ」
「そうなのでしょうか」
キセは遠慮がちに微笑んだ。
「ええ。確かです。ですから、思ったことを殿下にお伝えになっても大丈夫ですよ。それに、ね。キセさま。夫婦仲を拗らせないためには、やっぱり最初が肝心ですわ」
キセは椅子からすくっと立ち上がり、テレーズの方をくるりと向いて、ぎゅっとそのふくよかな身体を抱き締めた。
「はい…。はい、頑張ります」
キセは頑固だ。一度決めたら途中で投げ出すことはありえない。そして、頑迷とも言えるほど実直な気質を持っている。
だから、テオドリックの心を知りたいと願う前に、まずは自分の心の声を聴くことにした。
「俺はお前のそういうところが愛おしいよ」
とスクネは苦笑して、下方の鍛錬場へと視線を戻した。この日は周囲に溶け込むよう、イサクから借りたエマンシュナ軍の深い緋色の軍服に身を包んでいる。
キセはちょっと照れたように微笑み、白い帽子のつばを少し上げた。
この馬術大会で言う「馬術」とは、主に騎射を意味する。
イサクの言うところによると、この馬術大会はエマンシュナ軍発足以来の伝統行事らしい。百年前までは馬上槍試合なども行われていたが、戦も終わらぬうちに貴重な兵を負傷させ、命を削るわけにはいかないというもっともな理由で行われなくなったという。
騎手となった兵士たちはみな腕章を付けたエマンシュナ軍の深い緋色の軍装で弓矢を持ち、馬には華やかな装束を着け、鍛錬場の中央に直線で引かれた二列のトラックに整列している。二列のトラックのそれぞれ外側十五メートルほどの場所に大きさの違う木の的が五つ立てられ、トラックの途中に柵などの障害物も置かれていた。
軍の内輪の大会――しかも一応は戦時中とあって規模はやや小さいが、任務に出ている者以外の軍関係者やその家族は皆アストレンヌ郊外の広大な鍛錬場に集結していた。軍の催しと言うからキセは男性ばかりが集まる印象を持っていたが、予想に反して来場者の半数近くが女性だった。子供以外の男性はみな軍装だから、女性たちのドレスの華やかさがよく引き立っている。
鍛錬場は太古の昔闘技場として使われていたコロッセオの基礎を利用して代々改築を加えながら使われてきたもので、創建当時から数えれば八百年にはなろうという建物だ。円形の観覧席に出場者以外の者たちが集まり、一番下段の中央には海軍、陸軍の責任者と思われる男たちがその妻たちと一緒に座っている。
彼らの中心にいるべき国王の姿は、ない。
王妃が存命の頃は毎回観覧に来ていたらしいが、王妃の逝去後は足が遠のいているという。
「騎手の腕章には赤い獅子と青い獅子の二種類があって、事前にくじで組み分けをするんですよ」
イサクが騎手たちを指差して言った。テオドリックからキセとスクネを大会に案内するよう言いつかっているのだ。この貴賓席もイサクが用意したもので、ちょうど軍の責任者たちがいる下段中央の席の真向かい側にあり、騎手たちの顔や馬の毛並みがよく見える。
「赤獅子と青獅子が同時に走り出して、的を射ながら柵を越えてゴールを目指します。速くゴールした者が勝つというわけではありません。大小の的を射た数、馬が柵を越えるときの技術的な美しさも勝敗に影響します」
「なるほどな。面白そうだ。俺も出たかった」
スクネがぽつりと呟いた。
「お兄さま、得意ですものね。わたしもやってみたいです。馬と弓なら、お兄さまほどは上手くいかなくてもわたしにもできますから」
キセが言うと、イサクは可笑しそうに笑い出した。
「残念ですが、大会の騎手になれるのは軍人だけなんですよ。それに、馬と弓がそれぞれできても、とても難しいんです」
「的から的への短い間に矢を番えなければならないし、そもそも襲歩の馬に乗りながら弓を構えるのにもかなりの技術が必要だぞ。両手を手綱から離して的を狙い撃つんだ」
スクネは矢を番える動作をし、小さな子供を諭すように言って妹の額をツンと指でつついた。
「そうなのですね!では今日は騎手の皆さんをよく見て勉強しなければなりませんね」
「本当にやるつもりか?」
スクネはちょっと呆れて訊いた。妹は昔から好奇心旺盛でいろいろと試したがる質だ。
「はい。大会には出られなくても、練習して的に当てられるようになりたいです」
「お望みでしたら良い教師をおつけしますよ」
イサクがくっくと笑って言った。
「本当ですか?ありがとうございます!とても楽しみです!」
キセがぱあっと顔を輝かせた。
「イサク、妹をあまり甘やかさないでくれ。君まで妹の言いなりでは困るぞ」
スクネは苦々しく言ったが、イサクの気持ちも理解できる。みな太陽のようなキセの笑顔の輝きに照らされたくなるのだ。
大会が始まり騎手がそれぞれ一騎ずつトラックのスタート位置に並ぶと、客席から歓声が起こった。
騎手は馬の最速である襲歩で駆け、弓を構えて的を射ていく。次の的までに時間がないから、みな目にも止まらぬ速さで新たな矢を番え、更に引く。一番小さな的に当たると味方と会場の歓声が大きくなり、的を外すと敵側の騎手たちからの歓声が大きくなった。
一組が走り終えると、先にゴールした得点、的に当てた数から導く得点、障害物を越える時の馬術の得点を加算し、複数人いる白い腕章の審判が双方の得点を発表する。そして得点の低かったチームが嘆く間もなく、次の組の出走が始まるのだ。
キセは声を上げることも忘れてその迫力と熱気に見入った。
「すごい…みなさん風のようです」
「で、まだやってみたいと思うか?」
スクネがニヤリと笑って訊ねた。
「はい。いっそうトルノと一緒にやってみたくなりました」
キセは鍛錬場の騎手と馬を食い入るように見つめながら言った。その馬の駆ける音、騎手がキリリと弓を引く音、矢が空を切る音、的に当たった時の破裂音、人馬一体となって躍動する姿が、あまりに鮮烈だった。
そうしている間に数十組の試合が、あっという間に最終戦になってしまった。
「あ」
と真っ先に声を上げたのはイサクだった。
キセも同時に気付き、赤い獅子の腕章を付けた騎手を注視した。
髪は輝くアッシュブロンド、恐ろしいほど容姿端麗で、つやつやした毛並みの黒鹿毛の馬に乗っている。他の騎手と同じように深い緋色の軍装だが、明らかにあれは――
「テオドリック…」
キセが呟くように言った。
「出る予定だったのですか?」
とキセに問われ、イサクは困惑して首を振った。
「いえ、俺は知りませんでした。しかも、ネフェリア殿下まで…」
この名前を聞き、スクネは無言で相手側に視線を移した。
その女性は他の男たちと同じように軍服を着、芦毛の馬に跨り、青い獅子の腕章をつけている。
髪はテオドリックと同じくらい短く、ちょうど収穫時期の麦の穂が太陽に照らされたような色の髪をしていた。
目鼻立ちがテオドリックとよく似ていて、髪型が似ていることも相まって二人が並ぶとまるで双子のように見える。
男の格好をしているというのに、その美貌は隠しようがない。
(あれが…)
自分が妻に迎えようという女性だ。
厳密には、テオドリックが徹底してキセと顔を合わせないように行動している。起きたら城内の西棟三階にある執務室に籠って机仕事をしているか、アストレンヌ城へ赴いて政務をし、それ以外の時間は軍の訓練に参加したり、馬の鍛錬を行ったりと、不必要なほど自分の城に腰を落ち着ける時間を削っていた。
キセはそういうテオドリックの意図に気付いている。正直、少しほっとしている部分もある。思いもよらない自分の一面を知ってしまったからだ。
キセは桜色のドレスを着、テレーズに背中のボタンを留めてもらった。テレーズは何かを察しているようだが、キセが沈黙しているからかテオドリックとのことに口を挟んだりはしなかった。キセの首に赤黒い痕を見つけた時も、何も言わずに首回りがハイネックになっているグリーンのドレスを用意してくれた。
今日テレーズが用意したドレスは首が隠れるものではないが、首から鎖骨のあたりまでを隠せるレースの付け襟が姿見の前に置かれていた。
キセは姿見に映る自分を見た。
首につけられた二つの痕は薄くなっているが、キセの白い肌にはまだやや目立つ。
顔が否応なしに赤くなった。テオドリックの唇が触れた柔らかな感触と強く吸われた痛みが肌の上に蘇ってくる。
‘愛の行為’などと、言わなければよかった。もともと自分とテオドリックの間に存在しないものなのに、まるでそうであることが当然のような口振りで拒絶してしまった。
もしかして、その拒絶がテオドリックを幻滅させたのではないだろうか。
なんだか様子がおかしかったのは、怒りの他に何か理由があるのかもしれない。あの時のテオドリックは、何故か苦しんでいるように見えた。
(知りたい)
と思った。すっかり隠れてしまったテオドリックの心がどこにあるのかを知りたい。
(でも、心に触れることを許してくださらなかったら――)
どうしたらよいのか、見当もつかない。
キセは三日間、この自問自答を繰り返している。
「はい、できましたよ」
と、テレーズがにこにこと大きな口を左右に引き伸ばしてキセの首につけたレースの付け襟をきれいに整えた。
「今日はスクネ殿下と鍛錬場の見学に行かれるそうですね」
「はい。軍の内輪の催しがあるとかで、イサクさんが見学の許可を取ってくださいました」
「では日差しに当たりすぎないように帽子が必要ですわね。被りやすいようにお髪は下の方で結いましょうね」
「はい、ありがとうございます」
キセはぎこちなく笑った。
テレーズはキセの髪を何本かに分けて細く編み、それを後ろの低い位置でくるくるとまとめ、最後に蝶のモチーフの髪飾りを差した。キセがイノイルから持ってきたものだ。
「とってもおきれいですよ。殿下もご覧になれたらよろしかったのに。こんなに可愛らしい婚約者を放って朝から王城でお仕事だなんて、まったくお気が利きませんこと」
テレーズは両手を腰に当てて肩を怒らせた。
「そんな。わたしのことよりもご政務を優先するのは当然のことです」
「キセさままで。婚約者なのですから、もう少しわがままをおっしゃってもよろしゅうございますのに。まだこちらへ来たばかりで心細いのですから、尚更お心配りが必要と言うものですわ」
「わたしなら大丈夫です。テレーズさんもイサクさんもとてもよくしてくださいますし――」
テレーズは鏡越しにキセに向かってにっこりと笑いかけた。
「それに、お兄さまやヒクイさんたちも乗馬へ連れて行ってくださいますし、読書も。ここの書庫は珍しい蔵書がたくさんあってとても興味深いです。それに、テオドリックは――」
キセは表情を曇らせた。
「…わたしが、煩わせてしまうので、避けられているのかもしれません」
思わず本音が出た。キセは視線を手元に落とし、静かに溜め息を吐いた。
きっとそうだ。テオドリックは「俺の問題だ」と言ったが、それは違う。二人の関係に支障が出ている以上、キセもその問題に向き合わなければならない。それに、キセにもキセの問題がある。
テレーズは悲しそうに目を細め、ワードローブから薄手の毛織物のショールを出してきて、キセの肩に掛けた。
「これはおばばの老婆心なのですけれども」
と、テレーズが敢えて軽い調子で言った。
「殿下はお父上さまのようになることを恐れていらっしゃるのですわ」
「国王陛下の…ですか?」
テレーズはウン、と頷いた。そういえば、テオドリックの口から父親についての話を聞いたことがない。
「仲がお悪いのですか?」
「昔はとても仲の良いご家族だったのですよ。国王陛下も妃殿下もとても仲睦まじくて、心から愛し合っていました。政略結婚とは思えないほどでしたよ、ええ。妃殿下は国王陛下を公私共によくお支えになって、陛下もそれに応えるようにご政務に邁進されていました。けれど、十年ほど前に妃殿下がご病気で亡くなられてからは、まるでお人が変わってしまったようになってしまわれて、ご自分が国王であることも父親であることも嫌になってしまったご様子で…テオドリック殿下がいつもお仕事に追われているのは、そう言う理由なのですよ。十三歳の頃から気力をなくしてしまったお父上さまに代わって国王の仕事をされていました。国王陛下がご政務に復帰なさった後もいくつかの政務をそのまま引き継いでいらっしゃいます。有能に生まれつくと恩恵を受ける分、きっと苦労も多いものなのでしょうね。わたくしはそばで見守ることしかできませんでしたけれど、殿下は本当によく頑張られたのですよ。もちろん、今も」
キセは十三歳のテオドリックを思った。
それまで当たり前に存在していた愛情や庇護が忽然となくなってしまった時の心細さは、一体どれほどのものだっただろう。少女期を神殿で過ごし、世間から離れていた自分が、少年時代から第一線で国のために尽力しているテオドリックの力になろうなどとは、あまりにおこがましい考えなのかもしれない。
「テオドリックは、頑張り屋さんですものね…」
果たしてそこに自分の入る余地はあるのだろうか。とキセは思った。
「そうです。そう見えづらいけれど、そうなのですよ」
テレーズは満面の笑みで言った。キセがテオドリックのことを理解していることが、嬉しかったのだ。
「殿下は泥の道の事件以来ずうっと何かを思い詰めて毎日暗ぁい顔をしていらっしゃいましたけど、キセさまを連れてお帰りになった殿下は本当に毎日楽しそうで、一緒にいると安らいでいらっしゃいます。今までだぁれも殿下にあんな顔をさせることはできませんでしたのよ。ですから、キセさまが煩わしいなんて言うことは絶対にありませんよ。殿下は複雑なお方ですから心の中まではわたくしにもわかりませんけれど、これだけは確かですわ」
「そうなのでしょうか」
キセは遠慮がちに微笑んだ。
「ええ。確かです。ですから、思ったことを殿下にお伝えになっても大丈夫ですよ。それに、ね。キセさま。夫婦仲を拗らせないためには、やっぱり最初が肝心ですわ」
キセは椅子からすくっと立ち上がり、テレーズの方をくるりと向いて、ぎゅっとそのふくよかな身体を抱き締めた。
「はい…。はい、頑張ります」
キセは頑固だ。一度決めたら途中で投げ出すことはありえない。そして、頑迷とも言えるほど実直な気質を持っている。
だから、テオドリックの心を知りたいと願う前に、まずは自分の心の声を聴くことにした。
「俺はお前のそういうところが愛おしいよ」
とスクネは苦笑して、下方の鍛錬場へと視線を戻した。この日は周囲に溶け込むよう、イサクから借りたエマンシュナ軍の深い緋色の軍服に身を包んでいる。
キセはちょっと照れたように微笑み、白い帽子のつばを少し上げた。
この馬術大会で言う「馬術」とは、主に騎射を意味する。
イサクの言うところによると、この馬術大会はエマンシュナ軍発足以来の伝統行事らしい。百年前までは馬上槍試合なども行われていたが、戦も終わらぬうちに貴重な兵を負傷させ、命を削るわけにはいかないというもっともな理由で行われなくなったという。
騎手となった兵士たちはみな腕章を付けたエマンシュナ軍の深い緋色の軍装で弓矢を持ち、馬には華やかな装束を着け、鍛錬場の中央に直線で引かれた二列のトラックに整列している。二列のトラックのそれぞれ外側十五メートルほどの場所に大きさの違う木の的が五つ立てられ、トラックの途中に柵などの障害物も置かれていた。
軍の内輪の大会――しかも一応は戦時中とあって規模はやや小さいが、任務に出ている者以外の軍関係者やその家族は皆アストレンヌ郊外の広大な鍛錬場に集結していた。軍の催しと言うからキセは男性ばかりが集まる印象を持っていたが、予想に反して来場者の半数近くが女性だった。子供以外の男性はみな軍装だから、女性たちのドレスの華やかさがよく引き立っている。
鍛錬場は太古の昔闘技場として使われていたコロッセオの基礎を利用して代々改築を加えながら使われてきたもので、創建当時から数えれば八百年にはなろうという建物だ。円形の観覧席に出場者以外の者たちが集まり、一番下段の中央には海軍、陸軍の責任者と思われる男たちがその妻たちと一緒に座っている。
彼らの中心にいるべき国王の姿は、ない。
王妃が存命の頃は毎回観覧に来ていたらしいが、王妃の逝去後は足が遠のいているという。
「騎手の腕章には赤い獅子と青い獅子の二種類があって、事前にくじで組み分けをするんですよ」
イサクが騎手たちを指差して言った。テオドリックからキセとスクネを大会に案内するよう言いつかっているのだ。この貴賓席もイサクが用意したもので、ちょうど軍の責任者たちがいる下段中央の席の真向かい側にあり、騎手たちの顔や馬の毛並みがよく見える。
「赤獅子と青獅子が同時に走り出して、的を射ながら柵を越えてゴールを目指します。速くゴールした者が勝つというわけではありません。大小の的を射た数、馬が柵を越えるときの技術的な美しさも勝敗に影響します」
「なるほどな。面白そうだ。俺も出たかった」
スクネがぽつりと呟いた。
「お兄さま、得意ですものね。わたしもやってみたいです。馬と弓なら、お兄さまほどは上手くいかなくてもわたしにもできますから」
キセが言うと、イサクは可笑しそうに笑い出した。
「残念ですが、大会の騎手になれるのは軍人だけなんですよ。それに、馬と弓がそれぞれできても、とても難しいんです」
「的から的への短い間に矢を番えなければならないし、そもそも襲歩の馬に乗りながら弓を構えるのにもかなりの技術が必要だぞ。両手を手綱から離して的を狙い撃つんだ」
スクネは矢を番える動作をし、小さな子供を諭すように言って妹の額をツンと指でつついた。
「そうなのですね!では今日は騎手の皆さんをよく見て勉強しなければなりませんね」
「本当にやるつもりか?」
スクネはちょっと呆れて訊いた。妹は昔から好奇心旺盛でいろいろと試したがる質だ。
「はい。大会には出られなくても、練習して的に当てられるようになりたいです」
「お望みでしたら良い教師をおつけしますよ」
イサクがくっくと笑って言った。
「本当ですか?ありがとうございます!とても楽しみです!」
キセがぱあっと顔を輝かせた。
「イサク、妹をあまり甘やかさないでくれ。君まで妹の言いなりでは困るぞ」
スクネは苦々しく言ったが、イサクの気持ちも理解できる。みな太陽のようなキセの笑顔の輝きに照らされたくなるのだ。
大会が始まり騎手がそれぞれ一騎ずつトラックのスタート位置に並ぶと、客席から歓声が起こった。
騎手は馬の最速である襲歩で駆け、弓を構えて的を射ていく。次の的までに時間がないから、みな目にも止まらぬ速さで新たな矢を番え、更に引く。一番小さな的に当たると味方と会場の歓声が大きくなり、的を外すと敵側の騎手たちからの歓声が大きくなった。
一組が走り終えると、先にゴールした得点、的に当てた数から導く得点、障害物を越える時の馬術の得点を加算し、複数人いる白い腕章の審判が双方の得点を発表する。そして得点の低かったチームが嘆く間もなく、次の組の出走が始まるのだ。
キセは声を上げることも忘れてその迫力と熱気に見入った。
「すごい…みなさん風のようです」
「で、まだやってみたいと思うか?」
スクネがニヤリと笑って訊ねた。
「はい。いっそうトルノと一緒にやってみたくなりました」
キセは鍛錬場の騎手と馬を食い入るように見つめながら言った。その馬の駆ける音、騎手がキリリと弓を引く音、矢が空を切る音、的に当たった時の破裂音、人馬一体となって躍動する姿が、あまりに鮮烈だった。
そうしている間に数十組の試合が、あっという間に最終戦になってしまった。
「あ」
と真っ先に声を上げたのはイサクだった。
キセも同時に気付き、赤い獅子の腕章を付けた騎手を注視した。
髪は輝くアッシュブロンド、恐ろしいほど容姿端麗で、つやつやした毛並みの黒鹿毛の馬に乗っている。他の騎手と同じように深い緋色の軍装だが、明らかにあれは――
「テオドリック…」
キセが呟くように言った。
「出る予定だったのですか?」
とキセに問われ、イサクは困惑して首を振った。
「いえ、俺は知りませんでした。しかも、ネフェリア殿下まで…」
この名前を聞き、スクネは無言で相手側に視線を移した。
その女性は他の男たちと同じように軍服を着、芦毛の馬に跨り、青い獅子の腕章をつけている。
髪はテオドリックと同じくらい短く、ちょうど収穫時期の麦の穂が太陽に照らされたような色の髪をしていた。
目鼻立ちがテオドリックとよく似ていて、髪型が似ていることも相まって二人が並ぶとまるで双子のように見える。
男の格好をしているというのに、その美貌は隠しようがない。
(あれが…)
自分が妻に迎えようという女性だ。
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