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二十八、不可侵領域 - la zone interdite -
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テオドリックは呆気にとられるガイウスに笑顔を向け、ツカツカと近寄ってキセの腕を後ろに引き、ガイウスから引き離した。動作はゆっくりだが、腕を掴む力が強い。
キセは違和感を覚えたが、自然と顔が綻んだ。テオドリックの心遣いが嬉しかったからだ。
「わざわざ迎えに来てくださって、ありがとうございます」
と、キセが礼を言うや言わぬやのうちに、テオドリックはキセを横向きに抱き上げた。キセはひゃっと叫び、しっかりテオドリックの肩に捕まった。が、テオドリックはそれだけで満足しなかった。
「手をしっかり首の後ろへ回せ」
「う、はい…」
キセは躊躇したものの、断る理由がない。言われたとおりテオドリックの首に手を回した。鼓動が速まり、肌の触れ合ったところがじわりと熱くなる。吐息を感じるほどに顔が近付き、金色の長いまつ毛が目元に伸びて、その奥のエメラルドグリーンの瞳が憂いと安堵を映してこちらを見た。キセの心臓がギュッと縮んで強く脈打った。
テオドリックは無意識のうちにキセを抱く手に力を込めていた。礼儀正しく直立しながらも、この異常事態をどうにか理解しようとやや不躾なほどこちらをじっと見つめているガイウスに向けて冷淡な一瞥をくれてやり、口を開いた。
「コルネール公、不慮の事故と聞いたが、わたしの婚約者が怪我を負った以上は捨て置けない。後日沙汰する」
ガイウスはハッと我に返った。短く返事をして右手を胸に添えて右足を引き、頭を下げて礼をした。目の前の男は、信じがたいが本物のテオドリック王太子だ。祝宴や政治的な集まりで幾度か顔を合わせ、礼儀としての挨拶以外にもいくつか言葉を交わしたことがある。
「でも、テオドリック」
と、キセが懇願するように言った。
「わたしが足を捻ったのは完全にわたしの不注意で…」
「あんたは黙っていろ」
この冷たい声にキセは思わず肩をすくめた。目を見てはっきりわかった。怒っている――というより、激怒している。
「恐れながら、王太子殿下」
堪りかねたようにガイウスが口を開いた。
「ルミ…いや、未来の妃殿下はわたしが馬の下敷きにしそうになった女の子を救ったのです。責めは全てわたしが負うべきです。罰を受ける覚悟はできています」
キセはテオドリックの眉間にますます深い谷ができていくのを見た。どうにかしなければ。テオドリックは何か誤解をしている。転んだのは自分の責任だ。履き慣れないブーツのつま先が広場の石畳に突っ掛かり、女の子に覆い被さると同時に右足だけ着地に失敗してしまったのだ。多くの人馬が入り乱れる広場を子供たちが走り回っていたからとか、辺境から来た領主が人混みに慣れない馬に乗っていたからとか、そういうことはキセの頭には無い。自分が怪我をしたことを他の誰かのせいにするなど、思いつきもしない。
「テオドリック、ガイウスさまがびっくりしたお馬さんをうまく宥めてくださいましたから、女の子に怪我はありませんでした。足を捻ったのは、わたしが勝手に走り出しただけなので、どうか――」
「追って沙汰する」
テオドリックはキセの言葉を無視して表情を変えずに冷たく言い、畏まって礼をするガイウスに背を向けた。
キセが慌ててテオドリックの肩からひょっこりと顔を出してガイウスにひらひら手を振ると、ガイウスが感情の読めない灰色の目でキセを見返した。
「次お会いするのを楽しみにしています」
と、キセが背後のいけすかない領主に声を掛けたのを聞いて、テオドリックは不愉快で不愉快でたまらなくなり、叫び出しそうになった。このまま口を開けばキセにもつらく当たってしまいそうだ。
俺の女に触れるなと憚らずに言えたらどんなに胸がすくだろう。
しかし、だめだ。それは未来の国王として人の上に立つ者の振る舞いではない。それに、キセがいつか本当の恋を知ったら、許容してやろうと決めたではないか。そういう意図がないにしても彼女の交友関係の芽を潰すことは、矛盾している。それも忠誠心の薄いルドヴァンの領主と友誼を結ぶということは、うまく事が運べば今後の布石にもなる。ガイウス・コルネールを叱責するのは得策ではない。
それを、頭では理解している。しかし、この最悪な気分に対処する術がない。
テオドリックはキセを抱きかかえたまま孔雀が向かい合う門を抜け、つやのある黒塗りの豪奢な馬車に乗り込んだ。
「あの」
慌てたのはキセだ。何故かテオドリックは膝の上に横向きに抱えるようにキセを座らせている。
「ひ、ひとりでも座れます」
「だめだ」
と、テオドリックはにべもない。
「でも、あの、おも…」
「重くない」
キセはテオドリックの顔を見上げた。不安が水中の泥のように広がった。先程から目が合わない。
身体が触れ合っているのに、ひどく遠くにいる気がする。
「…子供を救ったと、テレーズとジャンからも聞いた。怪我なく家に帰れたのはあんたのおかげだ。勇気ある行動だ。賞賛に値する」
テオドリックの声は硬く、暗い。キセはその真意が知りたくて、窓の外を見続けるテオドリックの瞳を覗き込んだ。
キセの行動を言葉では褒めながら、テオドリックが心では違うことを思っているのは、キセには明白だった。やはりオアリスを発つ前と今では何かが違う。
「怒っていますか?怪我をしたから?」
「違う」
これは本当だ。キセはなおも訊いた。
「では、お言いつけを破ってジャンさんやテレーズさんと離れたからですか?」
「そうだ」
「たくさん心配をかけてしまったのですね。ごめんなさい」
キセはテオドリックの小指を遠慮がちに握った。手に触れることを許してくれるかわからなかったからだ。他にも理由があることを、キセは察している。
テオドリックの目が少し和らいでこちらを見たので、キセは安堵した。だから、この次の発言が不用意なものだとは考えもしなかった。
「でも、大丈夫です。ガイウスさまは善良な方でしたし、今日のことがなければお友達にはなれませんでした。ですからどうか、お咎めにはならないでください」
言い終わってすぐ、キセは小さく息を呑んだ。
気持ちを和らげたと思ったテオドリックの目が、鈍く剣呑に光っている。
「‘友達’になった?」
「は、はい。エマンシュナに来て初めてのお友達です…」
キセはわけがわからず、激しく動揺した。これほどの怒りを向けられたのは、生まれて初めてのことだ。
何がいけなかったのだろう。王太子の権限である領主の処分について口を挟んだからだろうか。でもそれはおかしい。自分がいちばんの当事者なのだから、意見することを公正なテオドリックは許してくれはずだ。
しかし、キセの目に入ったのは美しい貌を怒りに歪め、冷酷な笑みを浮かべたテオドリックだった。
「博愛主義とは、お気楽なものだな。オシアス」
テオドリックは憤然と吐き捨て、キセの顔をこちらに向かせて噛み付くように唇を重ねた。キセはその荒っぽさにびっくりして逃れようとしたが、テオドリックはキセの後頭部を押さえ、肩を馬車の隅に押しつけてまんまとキセを自分の腕の中に閉じ込めた。
(また…)
キセは息苦しさに呻いた。やはりここのところテオドリックの言動がおかしい。確かに最初のキスも強引に迫られはしたが、こうではなかった。これは違う。これは、怒りに任せた行為だ。
キセは迂闊にも口を開いた。
「んんっ、やめ…」
無論、テオドリックはやめてなどやらない。キセが抗議しようとした隙に舌を挿し入れ、テオドリックの身体を押し返そうと抵抗を始めた手を掴んで壁に押し付け、キセの舌をぞろりと舐め、唇を吸った。
「はっ…、あ」
顔の角度を変えて舌を挿し入れる度、キセの苦しそうな呼吸が聞こえる。これがテオドリックの神経を昂らせ、狂暴な衝動を高めていった。
キセはもがいたが、ますます強く身体を押し付けられただけだった。服の上からでもわかる。テオドリックの身体が熱い。
テオドリックはキセの脚の間に入り込み、ドレスの裾を捲し上げて右の膝に触れた。
びく、とキセの肌が跳ねた。
タイツがない。
「…これは」
テオドリックは唇を触れ合わせながら包帯のことを訊いた。
キセは馬鹿正直だ。適当に取り繕うことを知らない。
「あの、ガイウスさまが手当てをしてくださいました」
あの男に、肌を触れさせた。――
身体中の血が怒りに沸いた。怪我の手当てだろうが何だろうが、テオドリックには関係なかった。
テオドリックはキセの髪の中に手を挿し入れて首を傾けさせ、白い首に赤く印された痕跡の横に、昨日よりも更に強く吸い付いた。
キセは痛がったが、テオドリックはやめなかった。
「やっ、やめてください」
キセは細い声で言った。懇願しても離してもらえない。怖い。というよりも、悲しかった。触れられれば身体は熱くなる。テオドリックが望むのなら、受け止めたいとも思う。それなのに、濃い霧に包まれたように心が見えない。
テオドリックの唇が首から胸元へ這い、スカートの下で膝に触れる手が腿へと這い上がった。キセは小さく悲鳴を上げて身体を強張らせた。
「あっ…!」
テオドリックの手が腿の内側へ入り込み、下着をずらして中の柔らかい部分へ侵入しようとしたとき、キセは自分でも聞いたことがないくらい激しい口調ではっきりと拒絶した。
「いやです!」
キセが激しく身をよじって抵抗した。その拍子に足を滑らせて椅子に倒れ込み、テオドリックに押し倒される格好になった。
キセにはテオドリックの顔が見えなかった。涙が目に溜まって鬢に落ち、また溢れては視界を奪っていく。
「こ、こういうのは、…愛の行為だと聞きました。でもこれは、違います」
キセは目を両手で覆って唇を噛んだ。そうでもしないと嗚咽を漏らしてしまいそうだ。
テオドリックがキセの上から退き、顎をそっとつまんで下に引き、噛み締めた唇を開かせた。
「…傷になる」
閉ざされた視界の奥で、キセは苦悩するような声を聞いた。
「悪かった」
テオドリックの謝罪を聞いて、キセは手を退け、目を開いた。テオドリックは既に窓の外へ顔を向けている。
キセは涙を拭い、ぐしゃぐしゃの髪を手櫛で直し、乱れたドレスを直し、背をまっすぐにして座り直した。
靴を片方コルネール公の屋敷に置いてきてしまった。そういえば、タイツもそうだ。
窓の外を見た。雲がだんだんと濃くなり、夜闇が迫ってくる。
二人は城に着くまでずっと無言でいた。テオドリックは馬車が止まると逆の扉から出てキセの座る方の扉の前へ回って扉を開け、表情も声色も硬いまま
「嫌だろうが、我慢してくれ」
と言った。
嫌なはずがないのに。と思いながら、キセは小さく「はい」と返事をした。
それを告げなかったのは、テオドリックの不可侵領域を感じ取ったからだ。
その時のテオドリックは、まるで途方に暮れる野生の獣のようだった。
キセは違和感を覚えたが、自然と顔が綻んだ。テオドリックの心遣いが嬉しかったからだ。
「わざわざ迎えに来てくださって、ありがとうございます」
と、キセが礼を言うや言わぬやのうちに、テオドリックはキセを横向きに抱き上げた。キセはひゃっと叫び、しっかりテオドリックの肩に捕まった。が、テオドリックはそれだけで満足しなかった。
「手をしっかり首の後ろへ回せ」
「う、はい…」
キセは躊躇したものの、断る理由がない。言われたとおりテオドリックの首に手を回した。鼓動が速まり、肌の触れ合ったところがじわりと熱くなる。吐息を感じるほどに顔が近付き、金色の長いまつ毛が目元に伸びて、その奥のエメラルドグリーンの瞳が憂いと安堵を映してこちらを見た。キセの心臓がギュッと縮んで強く脈打った。
テオドリックは無意識のうちにキセを抱く手に力を込めていた。礼儀正しく直立しながらも、この異常事態をどうにか理解しようとやや不躾なほどこちらをじっと見つめているガイウスに向けて冷淡な一瞥をくれてやり、口を開いた。
「コルネール公、不慮の事故と聞いたが、わたしの婚約者が怪我を負った以上は捨て置けない。後日沙汰する」
ガイウスはハッと我に返った。短く返事をして右手を胸に添えて右足を引き、頭を下げて礼をした。目の前の男は、信じがたいが本物のテオドリック王太子だ。祝宴や政治的な集まりで幾度か顔を合わせ、礼儀としての挨拶以外にもいくつか言葉を交わしたことがある。
「でも、テオドリック」
と、キセが懇願するように言った。
「わたしが足を捻ったのは完全にわたしの不注意で…」
「あんたは黙っていろ」
この冷たい声にキセは思わず肩をすくめた。目を見てはっきりわかった。怒っている――というより、激怒している。
「恐れながら、王太子殿下」
堪りかねたようにガイウスが口を開いた。
「ルミ…いや、未来の妃殿下はわたしが馬の下敷きにしそうになった女の子を救ったのです。責めは全てわたしが負うべきです。罰を受ける覚悟はできています」
キセはテオドリックの眉間にますます深い谷ができていくのを見た。どうにかしなければ。テオドリックは何か誤解をしている。転んだのは自分の責任だ。履き慣れないブーツのつま先が広場の石畳に突っ掛かり、女の子に覆い被さると同時に右足だけ着地に失敗してしまったのだ。多くの人馬が入り乱れる広場を子供たちが走り回っていたからとか、辺境から来た領主が人混みに慣れない馬に乗っていたからとか、そういうことはキセの頭には無い。自分が怪我をしたことを他の誰かのせいにするなど、思いつきもしない。
「テオドリック、ガイウスさまがびっくりしたお馬さんをうまく宥めてくださいましたから、女の子に怪我はありませんでした。足を捻ったのは、わたしが勝手に走り出しただけなので、どうか――」
「追って沙汰する」
テオドリックはキセの言葉を無視して表情を変えずに冷たく言い、畏まって礼をするガイウスに背を向けた。
キセが慌ててテオドリックの肩からひょっこりと顔を出してガイウスにひらひら手を振ると、ガイウスが感情の読めない灰色の目でキセを見返した。
「次お会いするのを楽しみにしています」
と、キセが背後のいけすかない領主に声を掛けたのを聞いて、テオドリックは不愉快で不愉快でたまらなくなり、叫び出しそうになった。このまま口を開けばキセにもつらく当たってしまいそうだ。
俺の女に触れるなと憚らずに言えたらどんなに胸がすくだろう。
しかし、だめだ。それは未来の国王として人の上に立つ者の振る舞いではない。それに、キセがいつか本当の恋を知ったら、許容してやろうと決めたではないか。そういう意図がないにしても彼女の交友関係の芽を潰すことは、矛盾している。それも忠誠心の薄いルドヴァンの領主と友誼を結ぶということは、うまく事が運べば今後の布石にもなる。ガイウス・コルネールを叱責するのは得策ではない。
それを、頭では理解している。しかし、この最悪な気分に対処する術がない。
テオドリックはキセを抱きかかえたまま孔雀が向かい合う門を抜け、つやのある黒塗りの豪奢な馬車に乗り込んだ。
「あの」
慌てたのはキセだ。何故かテオドリックは膝の上に横向きに抱えるようにキセを座らせている。
「ひ、ひとりでも座れます」
「だめだ」
と、テオドリックはにべもない。
「でも、あの、おも…」
「重くない」
キセはテオドリックの顔を見上げた。不安が水中の泥のように広がった。先程から目が合わない。
身体が触れ合っているのに、ひどく遠くにいる気がする。
「…子供を救ったと、テレーズとジャンからも聞いた。怪我なく家に帰れたのはあんたのおかげだ。勇気ある行動だ。賞賛に値する」
テオドリックの声は硬く、暗い。キセはその真意が知りたくて、窓の外を見続けるテオドリックの瞳を覗き込んだ。
キセの行動を言葉では褒めながら、テオドリックが心では違うことを思っているのは、キセには明白だった。やはりオアリスを発つ前と今では何かが違う。
「怒っていますか?怪我をしたから?」
「違う」
これは本当だ。キセはなおも訊いた。
「では、お言いつけを破ってジャンさんやテレーズさんと離れたからですか?」
「そうだ」
「たくさん心配をかけてしまったのですね。ごめんなさい」
キセはテオドリックの小指を遠慮がちに握った。手に触れることを許してくれるかわからなかったからだ。他にも理由があることを、キセは察している。
テオドリックの目が少し和らいでこちらを見たので、キセは安堵した。だから、この次の発言が不用意なものだとは考えもしなかった。
「でも、大丈夫です。ガイウスさまは善良な方でしたし、今日のことがなければお友達にはなれませんでした。ですからどうか、お咎めにはならないでください」
言い終わってすぐ、キセは小さく息を呑んだ。
気持ちを和らげたと思ったテオドリックの目が、鈍く剣呑に光っている。
「‘友達’になった?」
「は、はい。エマンシュナに来て初めてのお友達です…」
キセはわけがわからず、激しく動揺した。これほどの怒りを向けられたのは、生まれて初めてのことだ。
何がいけなかったのだろう。王太子の権限である領主の処分について口を挟んだからだろうか。でもそれはおかしい。自分がいちばんの当事者なのだから、意見することを公正なテオドリックは許してくれはずだ。
しかし、キセの目に入ったのは美しい貌を怒りに歪め、冷酷な笑みを浮かべたテオドリックだった。
「博愛主義とは、お気楽なものだな。オシアス」
テオドリックは憤然と吐き捨て、キセの顔をこちらに向かせて噛み付くように唇を重ねた。キセはその荒っぽさにびっくりして逃れようとしたが、テオドリックはキセの後頭部を押さえ、肩を馬車の隅に押しつけてまんまとキセを自分の腕の中に閉じ込めた。
(また…)
キセは息苦しさに呻いた。やはりここのところテオドリックの言動がおかしい。確かに最初のキスも強引に迫られはしたが、こうではなかった。これは違う。これは、怒りに任せた行為だ。
キセは迂闊にも口を開いた。
「んんっ、やめ…」
無論、テオドリックはやめてなどやらない。キセが抗議しようとした隙に舌を挿し入れ、テオドリックの身体を押し返そうと抵抗を始めた手を掴んで壁に押し付け、キセの舌をぞろりと舐め、唇を吸った。
「はっ…、あ」
顔の角度を変えて舌を挿し入れる度、キセの苦しそうな呼吸が聞こえる。これがテオドリックの神経を昂らせ、狂暴な衝動を高めていった。
キセはもがいたが、ますます強く身体を押し付けられただけだった。服の上からでもわかる。テオドリックの身体が熱い。
テオドリックはキセの脚の間に入り込み、ドレスの裾を捲し上げて右の膝に触れた。
びく、とキセの肌が跳ねた。
タイツがない。
「…これは」
テオドリックは唇を触れ合わせながら包帯のことを訊いた。
キセは馬鹿正直だ。適当に取り繕うことを知らない。
「あの、ガイウスさまが手当てをしてくださいました」
あの男に、肌を触れさせた。――
身体中の血が怒りに沸いた。怪我の手当てだろうが何だろうが、テオドリックには関係なかった。
テオドリックはキセの髪の中に手を挿し入れて首を傾けさせ、白い首に赤く印された痕跡の横に、昨日よりも更に強く吸い付いた。
キセは痛がったが、テオドリックはやめなかった。
「やっ、やめてください」
キセは細い声で言った。懇願しても離してもらえない。怖い。というよりも、悲しかった。触れられれば身体は熱くなる。テオドリックが望むのなら、受け止めたいとも思う。それなのに、濃い霧に包まれたように心が見えない。
テオドリックの唇が首から胸元へ這い、スカートの下で膝に触れる手が腿へと這い上がった。キセは小さく悲鳴を上げて身体を強張らせた。
「あっ…!」
テオドリックの手が腿の内側へ入り込み、下着をずらして中の柔らかい部分へ侵入しようとしたとき、キセは自分でも聞いたことがないくらい激しい口調ではっきりと拒絶した。
「いやです!」
キセが激しく身をよじって抵抗した。その拍子に足を滑らせて椅子に倒れ込み、テオドリックに押し倒される格好になった。
キセにはテオドリックの顔が見えなかった。涙が目に溜まって鬢に落ち、また溢れては視界を奪っていく。
「こ、こういうのは、…愛の行為だと聞きました。でもこれは、違います」
キセは目を両手で覆って唇を噛んだ。そうでもしないと嗚咽を漏らしてしまいそうだ。
テオドリックがキセの上から退き、顎をそっとつまんで下に引き、噛み締めた唇を開かせた。
「…傷になる」
閉ざされた視界の奥で、キセは苦悩するような声を聞いた。
「悪かった」
テオドリックの謝罪を聞いて、キセは手を退け、目を開いた。テオドリックは既に窓の外へ顔を向けている。
キセは涙を拭い、ぐしゃぐしゃの髪を手櫛で直し、乱れたドレスを直し、背をまっすぐにして座り直した。
靴を片方コルネール公の屋敷に置いてきてしまった。そういえば、タイツもそうだ。
窓の外を見た。雲がだんだんと濃くなり、夜闇が迫ってくる。
二人は城に着くまでずっと無言でいた。テオドリックは馬車が止まると逆の扉から出てキセの座る方の扉の前へ回って扉を開け、表情も声色も硬いまま
「嫌だろうが、我慢してくれ」
と言った。
嫌なはずがないのに。と思いながら、キセは小さく「はい」と返事をした。
それを告げなかったのは、テオドリックの不可侵領域を感じ取ったからだ。
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