26 / 105
二十六、ブリュアンジュ広場 - Place de Bruange -
しおりを挟む
曇りの朝、キセは白い鏡台の楕円形の鏡に向かって座り、頬をギュムッとつねった。青白い頬がかすかに赤くなり、また白く戻った。
ふう、とキセは溜め息をつき、テレーズが用意してくれた襟が広い空色のドレスを着、再び鏡に向かって髪を整え始めた。
昨日の出来事はあまり考えないようにしたが、考えないようにすればするほどそのことばかりが頭を占め、眠ることができなかった。心で唱える祈りの言葉も効力を失った。いつになく優しさのないテオドリックが怖かった。怒りの滲んだ目で見つめられるのがつらかった。しかしそれ以上に、テオドリックがキセを拒絶し、感情をすっかり隠してしまったことが何より悲しいと思った。
心の奥を知りたいと思うのは、身勝手なことだろうか。
髪を後ろで一つに束ねたとき、髪に隠れていた首の右側に赤黒い小さな痣のようなものを見つけた。キセはちょっと首を捻って、そこが昨夜テオドリックに噛み付かれたと思った場所であることを思い出した。噛み痕とは違うが、何をされたのかはよく分からない。キセにはこれが何を意味するのか判断するだけの知識がなかった。ただ、髪は下ろしておくことにした。何となくその方が良い気がする。
そこへテレーズが扉を叩いて現れたので、キセは返事をしながら慌てて髪を解き、肩の前に下ろして首を隠した。
「本日はキセさまに城下をご案内するようにと殿下から仰せつかりましたので、わたくしがご案内申し上げますね。勿論、護衛も目立たない程度についてきますよ」
と、いつものふっくらしたにこにこ顔でテレーズが言った。
「わあ、ありがとうございます!テオドリックは一緒ではないのですか?」
「ええ。殿下はまだご政務が落ち着かないようで、今日も一日執務室に籠もりっきりだそうですよ。相手がこんなおばばで申し訳ございませんけど」
「そんな、とんでもないです!テレーズさん、よかったら美味しいお菓子やお茶を売っているお店を教えてください。それから、布地を売っているお店と、ハーブのお店と、テレーズさんのお気に入りの場所も教えて欲しいです。お願いしてもよろしいですか?」
「もちろんですよ」
テレーズが我が子に向けるような優しい笑顔で言った。
キセはいつものように微笑んだが、胸中は表情ほど穏やかではない。テオドリックが一緒でないことを残念に思う反面、安堵してもいる。政務が忙しいのは本当だろうが、もしかしたらテオドリックもキセのことを避けているのかもしれない。互いの心を理解できないままで、果たしてこの計画を遂行することができるだろうか。本心はどうあれ、民衆には自分たちが本当の愛で繋がっていることを示さなければならないというのに、この状態ではボロが出てしまう。キセはテオドリックと出会ってから、初めてこの計画が薄氷のように脆く、途方もなく長い足場の上に存在しているように感じた。
ネリを発つときには不安もあったがきっと大丈夫だと思っていた。どこか、確信めいたものがあった。テオドリックの高潔さと誠実さを知り、いつかは本当に心を通わせられる時が来るだろうと思ったからだ。
しかし今は、わからない。
この日の空は、まるでキセの心情がそのまま天気になったのではないかというような曇天だった。春の湿り気を帯びた風が優しく吹き、細い羽毛のような黄色いアカシアの花びらをふわふわと舞い散らしている。
キセはこの漠然とした心許なさを、輝くような笑顔ですべて覆い隠した。神官であった彼女は、陰鬱な感情の揺らぎを隠す技術に長けている。テレーズも護衛の青年ジャンも、キセの心情の変化には気付いていない。
テレーズはキセの要望通り、布地やハーブなどの店を案内し、キセがパイが好きだと知ると美味しいパイの店も教えてくれた。中でもキセが気に入ったのは塩漬け肉とマッシュルームとキャベツのパイだ。彼らはアストレンヌで二番目に大きなブリュアンジュ広場で休息することにした。キセが腰を下ろしたのは、広場の中央にある泉の精霊の像が飾られた大きな噴水の縁だ。テレーズが子供の頃から変わらずにあるらしく、ここでよく鬼ごっこをしていたことを教えてくれた。
五つの大通りがこの広場に繋がっていて、周囲には食べ物や酒、植物や古書を売る露店や行商、壮麗な聖堂、更には洒落たレストランや劇場などもあり、老若男女、貴賤問わず人々が多く集まって喧噪に包まれている。この雑多な雰囲気は、どこかオアリスの広場とも似ていた。アストレンヌで特徴的なのは、道が広いことだ。王都の中心は石畳で舗装されていて、道の中央から脇に向けて水捌けのための傾斜がついている。が、オアリスのように馬や馬車と人の歩く道は区別されていないから、人馬が入り乱れている。
護衛の青年ジャンは散策の邪魔にならないようにと茶色いジャケットとベストという目立たない平服のまま少し離れたところで見守っていたが、キセがにこにこ手招きして一緒にパイを食べるよう促すと、やや少年っぽさの残る顔で嬉しそうに笑い、二人に加わった。ジャンもまた、キセの持つ柔らかい空気に触れて彼女の虜になった一人だ。
「キセさま、他にも必要なものはありますか?」
と、ジャンがソーセージとトマトのパイをもぐもぐ頬張りながら尋ねた。
「はい。あとは亜麻の種があれば材料が揃います」
「何をお作りになるのですか?」
「これくらいの――」
と、キセはパイを持っていない方の指で五十センチくらいの長方形を宙に描いた。
「小さな枕です」
「枕?」
ジャンが首を傾げた。
「テレーズにはわかりましたよ。肩とか目とかに乗っけるものですわね」
「はい。温めて目に乗せたり首に巻いたりするとても気持ちよいのですよ。しばらくお忙しいそうなので、少しでもお役に立てればと思いまして…」
キセは目を伏せ、自分の手に視線を落とした。もしかしたら受け取ってもらえないかもしれないという不安が胸に湧いた。
「…あの、テオドリックには必要ないかもしれませんが」
「とんでもない!」
声を上げたのはジャンだ。
「キセさまからの贈り物を拒む人なんて、いませんよ。殿下なら、尚更です」
「そうですわよぉ。殿下ったら本当にキセさまを大切になさって。あんな殿下は初めてですわ」
口元が強張りそうになったが、キセは顔を上げて笑った。
その時、こちらに微笑みかけるテレーズとジャンの向こうに小さな子供たちが走っているのが見えた。広場で鬼ごっこを楽しんでいるらしいが、そのうちの一番小さな五歳くらいの女の子が転んでしまった。
キセが食べかけのパイを思わず手から落として立ち上がったのは、女の子を助け起こすためではなく、その後方から迫った青毛の馬を止めるためだった。キセはテレーズとジャンが後ろの馬と子供に気付く間もなく飛び出して女の子に覆い被さり、馬の脚が自分を蹴り上げる衝撃に耐えようと女の子をぎゅっと全身で包んで身体を硬くした。
「キセさま!」
テレーズが顔を蒼白にして立ち上がり、ジャンがキセの方へ飛び出した。
きつく目を閉じたキセの耳に悲鳴のような馬のいななきが聞こえ、馬の蹄がドレスの裾を踏んだのを感じた。
危険を回避したことを知ると、キセはそろそろと目を開け、腕の中で震える女の子の背をそっと撫でてやった。
「痛いところはないですか?」
女の子は声も出ないようだったが、こくこくと頷いた。キセは女の子を立たせてベージュ色のドレスと鳶色のふわふわした髪の乱れを直してやり、にっこりと笑った。
「よかったです」
キセはほっと安堵の息をついた。
青毛馬の騎乗者は身なりのよい紳士だった。紳士は興奮して首をぶるぶると振る馬を落ち着かせ、後方に控えていた黒服の従者に手綱を預けると、急いで下馬し、キセと女の子の前に膝をついた。
「誠に申し訳ない、ご婦人方。わたしの不注意で危険な目に遭わせてしまった。お怪我はありませんか」
「はい、大丈夫です。この子も」
うん、と頷いた女の子に向かってキセは微笑み、顔を上げた。男はテオドリックやイユリとそれほど変わらないくらいの年で、暗い栗色の髪に青みがかった灰色の目をした秀麗な紳士だった。テオドリックのような華やかさとは違い、一種の鋭さのある魅力の持ち主で、身分の程は定かではないが、織り目の整ったダークグレーの長い外套や、それに刺さっている巧緻な鳥の金細工のブローチから見ても、ただの上流階級ではないことがわかる。
ジャンがキセの元へ血相を変えて駆けてきて、男に掴みかかりそうな勢いで詰め寄った。
「あなた、危ないじゃないですか!この方に何かあったら、でん――」
「じゃっ、じゃ、ジャンさん、わたしは大丈夫ですから。それよりこの子を」
キセは慌ててジャンの言葉を遮った。このままジャンが話し続けていたら自分が王太子殿下の婚約者だと明かしてしまっていただろう。が、今はまだ内密にしなければならない。
「いや、本当にすまなかった」
紳士が後ろの従者に指で合図を送ると、従者は自分の馬を引いてゆっくり近付いてきた。
「そちらの小さなご令嬢はわたしの従者が家に送り届けよう。ご家族にも事情を話して改めてお詫びをしたい。いいかな?」
紳士がやや冷淡な印象のあった目元を和らげて微笑むと、女の子はうん、と頷き、キセに礼を告げて黒服の若い従者の手を取った。キセは、女の子が心配そうに集まってきた友達になにやら話をして従者の介添えで鹿毛馬に乗るのを見守った。馬に乗ったのが初めてだったらしく、女の子はきゃっきゃと楽しそうに笑った。キセは思わず頬を緩めた。
「あなたはこの麗しいご令嬢の従者の方ですか?」
紳士がジャンに声を掛けると、ジャンは馬鹿正直に首を振った。
「いいえ、僕はおう――」
「そうですわ。わたくしどもこのお嬢さまの家人でございます。わたくしはテレーズ・マジノと申します」
テレーズが丸い頬に笑みを貼り付けてジャンの後ろからズイ、と割り込んだ。ジャンはテレーズにギュウゥっと思い切り肩を掴まれ、これ以上口を滑らせる前に黙っていることにした。
「テレーズ、光栄です」
紳士は上品な笑みを浮かべて頷き、うっとりするテレーズのふくふくした手を取ってその甲に挨拶の口付けをし、キセにも微笑みかけて手を差し出した。
「立てますか、マドモワゼル」
「はい」
と、キセが紳士の手を取って立ち上がろうとした時、右の足首に痛みが走ってバランスを崩した。紳士が咄嗟に腰を抱いて受け止めていなければ、足首だけでなく膝にも怪我を負っていただろう。
「大変だ」
「あ、足を捻ってしまっていたようです。すみません…」
キセが申し訳なさそうに言うと、紳士は表情を曇らせた。
「とんでもない。わたしのせいだ。掴まっていてください」
「そんな――きゃあ!」
突然紳士に抱き上げられ、キセは叫んだ。紳士は構わずキセを青毛の馬に乗せ、キセはバランスを崩さないように鞍にしっかり掴まった。
「わたしの屋敷はすぐ近くだ。すぐに手当てができる。あなたがたにはお家の方にお伝えいただきたい。勝手ながらデネビエール通り一番地にてご令嬢をお預かりすると」
ニコニコ顔で頷いたテレーズと困惑するジャンにそう言うや否や、紳士は鐙に足を掛け、キセの後ろに跨がった。
「あっ、ちょ、ちょっと…!」
茫然としていたジャンが慌てて叫んだが、馬はもう走り始めていた。紳士は振り返り、思い出したように名乗った。
「わたしはガイウス・コルネール・ド・ルドヴァン。ルドヴァン領主だ」
ガイウス・コルネールとキセの後ろ姿が人混みを抜けて通りの向こうへ駆けていくのを口を開けたまま見送った後、自分の置かれた状況をようやく飲み込んだジャンが顔を蒼白にして叫んだ。
「僕、テオドリック殿下に殺されます…!」
「あらいやだ、オホホ、殺されませんよ。ルドヴァンの領主さまなら身元も確かだし安心じゃありませんか。デネビエール通り一番地なら確かにコルネールさまのお屋敷がありますから、あの方は嘘をついていませんよ。ささ、お城に帰ってテオ殿下とスクネ殿下にお伝えしましょ」
テレーズが軽快に言った。ジャンはキリキリと痛み始めた胃を庇うように、ちょっと前屈みになって広場を歩き始めた。
ふう、とキセは溜め息をつき、テレーズが用意してくれた襟が広い空色のドレスを着、再び鏡に向かって髪を整え始めた。
昨日の出来事はあまり考えないようにしたが、考えないようにすればするほどそのことばかりが頭を占め、眠ることができなかった。心で唱える祈りの言葉も効力を失った。いつになく優しさのないテオドリックが怖かった。怒りの滲んだ目で見つめられるのがつらかった。しかしそれ以上に、テオドリックがキセを拒絶し、感情をすっかり隠してしまったことが何より悲しいと思った。
心の奥を知りたいと思うのは、身勝手なことだろうか。
髪を後ろで一つに束ねたとき、髪に隠れていた首の右側に赤黒い小さな痣のようなものを見つけた。キセはちょっと首を捻って、そこが昨夜テオドリックに噛み付かれたと思った場所であることを思い出した。噛み痕とは違うが、何をされたのかはよく分からない。キセにはこれが何を意味するのか判断するだけの知識がなかった。ただ、髪は下ろしておくことにした。何となくその方が良い気がする。
そこへテレーズが扉を叩いて現れたので、キセは返事をしながら慌てて髪を解き、肩の前に下ろして首を隠した。
「本日はキセさまに城下をご案内するようにと殿下から仰せつかりましたので、わたくしがご案内申し上げますね。勿論、護衛も目立たない程度についてきますよ」
と、いつものふっくらしたにこにこ顔でテレーズが言った。
「わあ、ありがとうございます!テオドリックは一緒ではないのですか?」
「ええ。殿下はまだご政務が落ち着かないようで、今日も一日執務室に籠もりっきりだそうですよ。相手がこんなおばばで申し訳ございませんけど」
「そんな、とんでもないです!テレーズさん、よかったら美味しいお菓子やお茶を売っているお店を教えてください。それから、布地を売っているお店と、ハーブのお店と、テレーズさんのお気に入りの場所も教えて欲しいです。お願いしてもよろしいですか?」
「もちろんですよ」
テレーズが我が子に向けるような優しい笑顔で言った。
キセはいつものように微笑んだが、胸中は表情ほど穏やかではない。テオドリックが一緒でないことを残念に思う反面、安堵してもいる。政務が忙しいのは本当だろうが、もしかしたらテオドリックもキセのことを避けているのかもしれない。互いの心を理解できないままで、果たしてこの計画を遂行することができるだろうか。本心はどうあれ、民衆には自分たちが本当の愛で繋がっていることを示さなければならないというのに、この状態ではボロが出てしまう。キセはテオドリックと出会ってから、初めてこの計画が薄氷のように脆く、途方もなく長い足場の上に存在しているように感じた。
ネリを発つときには不安もあったがきっと大丈夫だと思っていた。どこか、確信めいたものがあった。テオドリックの高潔さと誠実さを知り、いつかは本当に心を通わせられる時が来るだろうと思ったからだ。
しかし今は、わからない。
この日の空は、まるでキセの心情がそのまま天気になったのではないかというような曇天だった。春の湿り気を帯びた風が優しく吹き、細い羽毛のような黄色いアカシアの花びらをふわふわと舞い散らしている。
キセはこの漠然とした心許なさを、輝くような笑顔ですべて覆い隠した。神官であった彼女は、陰鬱な感情の揺らぎを隠す技術に長けている。テレーズも護衛の青年ジャンも、キセの心情の変化には気付いていない。
テレーズはキセの要望通り、布地やハーブなどの店を案内し、キセがパイが好きだと知ると美味しいパイの店も教えてくれた。中でもキセが気に入ったのは塩漬け肉とマッシュルームとキャベツのパイだ。彼らはアストレンヌで二番目に大きなブリュアンジュ広場で休息することにした。キセが腰を下ろしたのは、広場の中央にある泉の精霊の像が飾られた大きな噴水の縁だ。テレーズが子供の頃から変わらずにあるらしく、ここでよく鬼ごっこをしていたことを教えてくれた。
五つの大通りがこの広場に繋がっていて、周囲には食べ物や酒、植物や古書を売る露店や行商、壮麗な聖堂、更には洒落たレストランや劇場などもあり、老若男女、貴賤問わず人々が多く集まって喧噪に包まれている。この雑多な雰囲気は、どこかオアリスの広場とも似ていた。アストレンヌで特徴的なのは、道が広いことだ。王都の中心は石畳で舗装されていて、道の中央から脇に向けて水捌けのための傾斜がついている。が、オアリスのように馬や馬車と人の歩く道は区別されていないから、人馬が入り乱れている。
護衛の青年ジャンは散策の邪魔にならないようにと茶色いジャケットとベストという目立たない平服のまま少し離れたところで見守っていたが、キセがにこにこ手招きして一緒にパイを食べるよう促すと、やや少年っぽさの残る顔で嬉しそうに笑い、二人に加わった。ジャンもまた、キセの持つ柔らかい空気に触れて彼女の虜になった一人だ。
「キセさま、他にも必要なものはありますか?」
と、ジャンがソーセージとトマトのパイをもぐもぐ頬張りながら尋ねた。
「はい。あとは亜麻の種があれば材料が揃います」
「何をお作りになるのですか?」
「これくらいの――」
と、キセはパイを持っていない方の指で五十センチくらいの長方形を宙に描いた。
「小さな枕です」
「枕?」
ジャンが首を傾げた。
「テレーズにはわかりましたよ。肩とか目とかに乗っけるものですわね」
「はい。温めて目に乗せたり首に巻いたりするとても気持ちよいのですよ。しばらくお忙しいそうなので、少しでもお役に立てればと思いまして…」
キセは目を伏せ、自分の手に視線を落とした。もしかしたら受け取ってもらえないかもしれないという不安が胸に湧いた。
「…あの、テオドリックには必要ないかもしれませんが」
「とんでもない!」
声を上げたのはジャンだ。
「キセさまからの贈り物を拒む人なんて、いませんよ。殿下なら、尚更です」
「そうですわよぉ。殿下ったら本当にキセさまを大切になさって。あんな殿下は初めてですわ」
口元が強張りそうになったが、キセは顔を上げて笑った。
その時、こちらに微笑みかけるテレーズとジャンの向こうに小さな子供たちが走っているのが見えた。広場で鬼ごっこを楽しんでいるらしいが、そのうちの一番小さな五歳くらいの女の子が転んでしまった。
キセが食べかけのパイを思わず手から落として立ち上がったのは、女の子を助け起こすためではなく、その後方から迫った青毛の馬を止めるためだった。キセはテレーズとジャンが後ろの馬と子供に気付く間もなく飛び出して女の子に覆い被さり、馬の脚が自分を蹴り上げる衝撃に耐えようと女の子をぎゅっと全身で包んで身体を硬くした。
「キセさま!」
テレーズが顔を蒼白にして立ち上がり、ジャンがキセの方へ飛び出した。
きつく目を閉じたキセの耳に悲鳴のような馬のいななきが聞こえ、馬の蹄がドレスの裾を踏んだのを感じた。
危険を回避したことを知ると、キセはそろそろと目を開け、腕の中で震える女の子の背をそっと撫でてやった。
「痛いところはないですか?」
女の子は声も出ないようだったが、こくこくと頷いた。キセは女の子を立たせてベージュ色のドレスと鳶色のふわふわした髪の乱れを直してやり、にっこりと笑った。
「よかったです」
キセはほっと安堵の息をついた。
青毛馬の騎乗者は身なりのよい紳士だった。紳士は興奮して首をぶるぶると振る馬を落ち着かせ、後方に控えていた黒服の従者に手綱を預けると、急いで下馬し、キセと女の子の前に膝をついた。
「誠に申し訳ない、ご婦人方。わたしの不注意で危険な目に遭わせてしまった。お怪我はありませんか」
「はい、大丈夫です。この子も」
うん、と頷いた女の子に向かってキセは微笑み、顔を上げた。男はテオドリックやイユリとそれほど変わらないくらいの年で、暗い栗色の髪に青みがかった灰色の目をした秀麗な紳士だった。テオドリックのような華やかさとは違い、一種の鋭さのある魅力の持ち主で、身分の程は定かではないが、織り目の整ったダークグレーの長い外套や、それに刺さっている巧緻な鳥の金細工のブローチから見ても、ただの上流階級ではないことがわかる。
ジャンがキセの元へ血相を変えて駆けてきて、男に掴みかかりそうな勢いで詰め寄った。
「あなた、危ないじゃないですか!この方に何かあったら、でん――」
「じゃっ、じゃ、ジャンさん、わたしは大丈夫ですから。それよりこの子を」
キセは慌ててジャンの言葉を遮った。このままジャンが話し続けていたら自分が王太子殿下の婚約者だと明かしてしまっていただろう。が、今はまだ内密にしなければならない。
「いや、本当にすまなかった」
紳士が後ろの従者に指で合図を送ると、従者は自分の馬を引いてゆっくり近付いてきた。
「そちらの小さなご令嬢はわたしの従者が家に送り届けよう。ご家族にも事情を話して改めてお詫びをしたい。いいかな?」
紳士がやや冷淡な印象のあった目元を和らげて微笑むと、女の子はうん、と頷き、キセに礼を告げて黒服の若い従者の手を取った。キセは、女の子が心配そうに集まってきた友達になにやら話をして従者の介添えで鹿毛馬に乗るのを見守った。馬に乗ったのが初めてだったらしく、女の子はきゃっきゃと楽しそうに笑った。キセは思わず頬を緩めた。
「あなたはこの麗しいご令嬢の従者の方ですか?」
紳士がジャンに声を掛けると、ジャンは馬鹿正直に首を振った。
「いいえ、僕はおう――」
「そうですわ。わたくしどもこのお嬢さまの家人でございます。わたくしはテレーズ・マジノと申します」
テレーズが丸い頬に笑みを貼り付けてジャンの後ろからズイ、と割り込んだ。ジャンはテレーズにギュウゥっと思い切り肩を掴まれ、これ以上口を滑らせる前に黙っていることにした。
「テレーズ、光栄です」
紳士は上品な笑みを浮かべて頷き、うっとりするテレーズのふくふくした手を取ってその甲に挨拶の口付けをし、キセにも微笑みかけて手を差し出した。
「立てますか、マドモワゼル」
「はい」
と、キセが紳士の手を取って立ち上がろうとした時、右の足首に痛みが走ってバランスを崩した。紳士が咄嗟に腰を抱いて受け止めていなければ、足首だけでなく膝にも怪我を負っていただろう。
「大変だ」
「あ、足を捻ってしまっていたようです。すみません…」
キセが申し訳なさそうに言うと、紳士は表情を曇らせた。
「とんでもない。わたしのせいだ。掴まっていてください」
「そんな――きゃあ!」
突然紳士に抱き上げられ、キセは叫んだ。紳士は構わずキセを青毛の馬に乗せ、キセはバランスを崩さないように鞍にしっかり掴まった。
「わたしの屋敷はすぐ近くだ。すぐに手当てができる。あなたがたにはお家の方にお伝えいただきたい。勝手ながらデネビエール通り一番地にてご令嬢をお預かりすると」
ニコニコ顔で頷いたテレーズと困惑するジャンにそう言うや否や、紳士は鐙に足を掛け、キセの後ろに跨がった。
「あっ、ちょ、ちょっと…!」
茫然としていたジャンが慌てて叫んだが、馬はもう走り始めていた。紳士は振り返り、思い出したように名乗った。
「わたしはガイウス・コルネール・ド・ルドヴァン。ルドヴァン領主だ」
ガイウス・コルネールとキセの後ろ姿が人混みを抜けて通りの向こうへ駆けていくのを口を開けたまま見送った後、自分の置かれた状況をようやく飲み込んだジャンが顔を蒼白にして叫んだ。
「僕、テオドリック殿下に殺されます…!」
「あらいやだ、オホホ、殺されませんよ。ルドヴァンの領主さまなら身元も確かだし安心じゃありませんか。デネビエール通り一番地なら確かにコルネールさまのお屋敷がありますから、あの方は嘘をついていませんよ。ささ、お城に帰ってテオ殿下とスクネ殿下にお伝えしましょ」
テレーズが軽快に言った。ジャンはキリキリと痛み始めた胃を庇うように、ちょっと前屈みになって広場を歩き始めた。
10
お気に入りに追加
47
あなたにおすすめの小説
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/love.png?id=38b9f51b5677c41b0416)
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/love.png?id=38b9f51b5677c41b0416)
人生を共にしてほしい、そう言った最愛の人は不倫をしました。
松茸
恋愛
どうか僕と人生を共にしてほしい。
そう言われてのぼせ上った私は、侯爵令息の彼との結婚に踏み切る。
しかし結婚して一年、彼は私を愛さず、別の女性と不倫をした。
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。
極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~
恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」
そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。
私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。
葵は私のことを本当はどう思ってるの?
私は葵のことをどう思ってるの?
意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。
こうなったら確かめなくちゃ!
葵の気持ちも、自分の気持ちも!
だけど甘い誘惑が多すぎて――
ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。
断る――――前にもそう言ったはずだ
鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」
結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。
周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。
けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。
他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。
(わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)
そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。
ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。
そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/love.png?id=38b9f51b5677c41b0416)
公爵令嬢は嫁き遅れていらっしゃる
夏菜しの
恋愛
十七歳の時、生涯初めての恋をした。
燃え上がるような想いに胸を焦がされ、彼だけを見つめて、彼だけを追った。
しかし意中の相手は、別の女を選びわたしに振り向く事は無かった。
あれから六回目の夜会シーズンが始まろうとしている。
気になる男性も居ないまま、気づけば、崖っぷち。
コンコン。
今日もお父様がお見合い写真を手にやってくる。
さてと、どうしようかしら?
※姉妹作品の『攻略対象ですがルートに入ってきませんでした』の別の話になります。
【掌編集】今までお世話になりました旦那様もお元気で〜妻の残していった離婚受理証明書を握りしめイケメン公爵は涙と鼻水を垂らす
まほりろ
恋愛
新婚初夜に「君を愛してないし、これからも愛するつもりはない」と言ってしまった公爵。
彼は今まで、天才、美男子、完璧な貴公子、ポーカーフェイスが似合う氷の公爵などと言われもてはやされてきた。
しかし新婚初夜に暴言を吐いた女性が、初恋の人で、命の恩人で、伝説の聖女で、妖精の愛し子であったことを知り意気消沈している。
彼の手には元妻が置いていった「離婚受理証明書」が握られていた……。
他掌編七作品収録。
※無断転載を禁止します。
※朗読動画の無断配信も禁止します
「Copyright(C)2023-まほりろ/若松咲良」
某小説サイトに投稿した掌編八作品をこちらに転載しました。
【収録作品】
①「今までお世話になりました旦那様もお元気で〜ポーカーフェイスの似合う天才貴公子と称された公爵は、妻の残していった離婚受理証明書を握りしめ涙と鼻水を垂らす」
②「何をされてもやり返せない臆病な公爵令嬢は、王太子に竜の生贄にされ壊れる。能ある鷹と天才美少女は爪を隠す」
③「運命的な出会いからの即日プロポーズ。婚約破棄された天才錬金術師は新しい恋に生きる!」
④「4月1日10時30分喫茶店ルナ、婚約者は遅れてやってきた〜新聞は星座占いを見る為だけにある訳ではない」
⑤「『お姉様はズルい!』が口癖の双子の弟が現世の婚約者! 前世では弟を立てる事を親に強要され馬鹿の振りをしていましたが、現世では奴とは他人なので天才として実力を充分に発揮したいと思います!」
⑥「婚約破棄をしたいと彼は言った。契約書とおふだにご用心」
⑦「伯爵家に半世紀仕えた老メイドは伯爵親子の罠にハマり無一文で追放される。老メイドを助けたのはポーカーフェイスの美女でした」
⑧「お客様の中に褒め褒めの感想を書ける方はいらっしゃいませんか? 天才美文感想書きVS普通の少女がえんぴつで書いた感想!」
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/love.png?id=38b9f51b5677c41b0416)
【完結】仰る通り、貴方の子ではありません
ユユ
恋愛
辛い悪阻と難産を経て産まれたのは
私に似た待望の男児だった。
なのに認められず、
不貞の濡れ衣を着せられ、
追い出されてしまった。
実家からも勘当され
息子と2人で生きていくことにした。
* 作り話です
* 暇つぶしにどうぞ
* 4万文字未満
* 完結保証付き
* 少し大人表現あり
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる