獅子王と海の神殿の姫

若島まつ

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二十五、エメネケット - l’Eménéquette -

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 翌日もダンスのレッスンは続いた。と言っても、テオドリックは留守にしていた間の政務が溜まりに溜まって執務室から出られないため、この日の相手はイサクが務めることになった。チェンバロを演奏するのは、テレーズだ。
 いつの間に作業したのか、大広間の壁からは肖像画や武具が外され、代わりに神話や植物のモチーフが浮き彫りにされた陶器の鉢が壁の高い位置に吊るされて色とりどりの花々が周囲を飾っている。
「女性をリードするのはテオより俺の方が巧いと思いますから、安心してください。キセ姫殿下」
 と、イサクは軽口を叩いてキセを笑わせた。
「どうぞ気軽にキセと呼んでください。イサクさんとも仲良くなれたら嬉しいです」
「勿体ないお言葉」
 イサクはキセの手を取り、ハシバミ色の瞳を優しく細めて手の甲に臣下の口付けをした。
「昨日の衣装も素敵でしたが、今日の菫色のドレスも実によく肌に映えてお美しいです、キセさま」
「ありがとうございます。イサクさんも深緑のジャケットがよくお似合いです」
 ふふ、とキセが心地よい声で笑ったので、イサクの顔も自然と綻んだ。ドレスを褒めたのは、社交辞令などではなく、心からの賛辞だ。可憐で、気立てがよい。あのテオドリックが夢中になるのも理解できる。
「まずはゆっくりいきますよ、お二人とも」
 テレーズが言うと、キセはくすくす笑った。昨日のイサクとそっくり同じ話し方だ。
「テレーズさんとイサクさんはよく似ていらっしゃいますね」
 チェンバロの奏でる軽快で流麗な旋律に合わせて、ゆっくりとステップを踏みながらキセが言った。
 イサクはわざと苦々しい顔をし、小さな声でキセに抗議した。
「勘弁してください。俺はあんなに口うるさくありませんよ。身体も引き締まってるし」
「聞こえてるよ、イサク!」
 テレーズが曲を弾き続けながら太く怒声を放って息子を叱咤すると、イサクが肩をびくつかせた。
 その様子がおかしくて、キセは声を上げて笑った。イサクと手を合わせて二人でひとつの円を描くように回り、もう一度向かい合ってもっと速いテンポでステップを踏んだ。
「昨日よりお上手ですよ。やっぱりパートナーが上手だからかな」
「ふふ、イサクさんはテオドリックととても親しいのですね」
「生まれたときから一緒にいますからね。おこがましいけど、本当の弟みたいに思ってます。俺は兄弟がいないから、尚更」
「あ、そういうの、わかります。うちは六人兄弟ですが女はわたしだけなので、生まれたときから一緒にいる侍女のセレンを本当のお姉さんのように思っています」
「彼女もこちらに来ると聞きましたよ。どんな女性か、楽しみです。ああ、変な意味じゃないですよ」
 キセはくすくす笑って一回転した。
「わたしが神殿から急に出て行くことになって、あとのことを色々と任せてしまったので、セレンにはたくさん苦労をかけてしまいました。こちらに来たら美味しいものをたくさん振る舞ってゆっくりしてもらおうと思います。その時は厨房を貸していただけますか?」
 イサクはちょっと驚いて眉を上げた。
「あなたが作るんですか?」
「もちろんです。あ、でも大人しく料理人の方にお任せした方がセレンも喜ぶかもしれませんね。ここの料理はどれも美味しいですし…」
 イサクは声を上げて笑い、くるりと回ってキセと場所を交代した。
「では、料理番と一緒に作るのはどうですか?セレン好みの食材をあなたが選んで、料理番が作るというのは」
「それは素敵です!とってもいい考えです」
 ここでキセが足をもつれさせたのを、イサクが受け止めた。
 キセはにっこり笑って差し出されたイサクの手を取り、満足げに立ち上がった。
「十二回も続きました。新記録です」
「おっと、このことは内緒にしていてくださいよ。愛しい人が最高記録を俺で更新したなんて知ったらテオが嫉妬する」
 イサクが人差し指を唇に当てて冗談めかして言うと、キセの顔がみるみる赤く染まった。
「あ…。そ、そんなことはないと思います。テオドリックはわたしのことは、…その、そういうふうには…。く、国同士の契約とはっきり仰っていましたし、わたしも、そのつもりでいなければ…」
(おや)
 とイサクは眉を上げた。
 どうやらテオドリックの想いは一方通行ではないらしい。が、イサクの見立てでは、テオドリックはキセの兄を殺したことを、キセは二人の関係が‘契約’の領域を出てしまうことを気にして感情を抑え込んでいる。
(厄介な壁だ)
 個人的には、乳兄弟の初めての恋を応援してやりたい。ただ一言、キセ姫もお前に恋している、兄のことは乗り越えられると助言してやればいい。が、王太子の側近として考えたときに最初に思いつくのは、やはりまつりごとを第一に考えるべきであるという一事だ。恋が燃え上がれば、政治的な判断を冷静に行えなくなる。それが起きた時、彼らは激しく後悔し、自己嫌悪に陥り、二度と元の関係に戻れなくなるだろう。このまま付かず離れずの関係でいた方が二人のためにいいということもある。
(どうしたものかな)
 などと考えながらキセとダンスを続けているうちに、スクネと従者たちが早朝の遠駆けから戻ってきて大広間に顔を出した。
「エメネケットの練習か」
 機嫌良くスクネが言った。兄にとっては不本意な旅だろうと申し訳なく思っていたが、この城の使用人の有能さやテオドリックの気遣いのお陰でのびのびと過ごせているから、スクネにとって案外快適な滞在になっているようだった。
「はい。お兄さまも一緒に踊りましょう。上達したんですよ」
「いいぞ」
 イサクがスクネにパートナーの位置を譲り、男性側のステップを教えた。
「さすが。筋がいいですね、殿下」
 兄を褒められてキセはきらきらと顔を輝かせた。
「お兄さまは何でも上手なんですよ」
「器用貧乏というやつだ」
 スクネは苦笑して言った。
 この後、スクネの従者も入り、テレーズがイサクと奏者を交代して女性側に参加し、大人数で踊った。

 キセは今日の楽しかった話をテオドリックにも聞いてもらおうと思ったが、昼食の時間も夕食の時間もテオドリックは食堂に現れなかった。
 それだけ忙しいのだろう。本来なら国王がやるべき仕事を王太子であるテオドリックがいくつも代理で片付けていることをイサクが教えてくれた。ネリでも食事はほとんど一人で摂ると言っていたから、アストレンヌに着いてからの二日間、滞在者を含む全員で食卓を囲んでいたのは例外中の例外だったに違いない。
 しかし、テオドリックと知り合ってからこのひと月ほどのあいだ毎日食事を共にしていたから、キセにとっては既にテオドリックとの食事が習慣になっている。ただでさえダンスホールのように広く装飾の少ない食堂が、テオドリックが一人いないだけでとてつもなく空虚に感じた。
(寂しい…)
 と口から出そうになって、ぶんぶんと首を振った。兄や従者や護衛たちも同じ食卓についていたというのに、物足りなく思うこと自体が礼を欠いている。
 入浴を終えて寝室へ戻った時、邪魔をしないようにと奥の扉をそっと開け、ちらりと隣の様子を覗いてみた。ランプの明かりがいくつも灯り、部屋の中は明るい。もう寝る時間だというのに、まだ仕事をしているようだ。
「どうした」
 と、奥からテオドリックの声がした。キセは素足で絨毯の床を踏みしめ、扉を大きく開いてひんやりと冷たい木の床を踏んだ。食堂ほどではないが、ここもダンスホールのように広い。壁にずらりと並べられた大きな本棚の奥に三人は寝られそうな広さの天蓋付きのベッドが置かれ、中央には長いものと一人掛け用のソファが、そしてよく磨かれた暗い色のキャビネットが窓から遠い位置にある。
 テオドリックは、窓際の執務机に向かっていた。大量の書類の山に囲まれているから、椅子に座っている後ろ姿を見つけるまでに一瞬の間があった。
「ばれていましたか」
 キセはテオドリックの背中に向かって笑いかけた。
「来そうな気配がした」
「すごいです。よくわかりましたね」
 テオドリックの嘘を、キセは信じた。テオドリックがふと顔をあげて続き部屋の扉を眺めていたらちょうど扉が動いたのだ。テオドリックはすぐに人の言うことを信用するなと諭そうと思ったが、やめた。扉を気にしていた理由をキセに告げたら、言葉を交わすだけでは満足できなくなる。
「…寝ないのか。もう遅いぞ」
「テオドリックもですよ。とてもお忙しいのですね」
「ああ…」
 とテオドリックはキセの方へ視線を移し、すぐに机へ戻した。目に毒だ。
 テレーズが用意した寝衣は四角く開いた襟が鎖骨を覗かせ、雪のように白い絹がその胸を丸く覆い、胸の下からふんわりと広がってキセの脚の影を薄く映している。
「こんなにお忙しいのに、昨日はわたしのために時間を作ってくださったのですね。ありがとうございます」
 キセが嬉しそうに頬を染めて言った。いつもならこういう時は駆け寄ってきて手を握ってくるところだが、一メートルほどの距離を保っているのは仕事中のテオドリックに遠慮しているからだろう。まったくいじらしい。自分から立ち上がってその柔らかく温かい身体を腕の中に閉じ込めたくなったが、テオドリックはこれも耐えて極力キセのまっすぐな目を見ないようにした。
「当然のことだ。気にすることはない」
「昨日あなたが教えてくださったお陰で今日はもっと上達したんですよ。イサクさんもリードがお上手で、楽しい話をたくさん聞かせてくださいました。それに、イサクさんがお兄さまにも踊り方を教えてくださったので、お兄さまやヒクイさんたちとも一緒に練習できたんです。イサクさんは親切なだけではなくてとても面白い方ですね。チェンバロの演奏もダンスもお上手で、お二人が小さい頃のお話も――」
 と、キセは口を閉じた。こちらに視線を移したテオドリックの目がひんやりと冷気を漂わせている。キセは雷に打たれたような衝撃に身体を硬くしてしまった。テオドリックからこれほど冷たい目をされたのは初めてだ。喋りすぎて煩わせたに違いない。顔を見られたのが嬉しくて、つい浮かれてしまった。申し訳なさと恥ずかしさで、頭のてっぺんから煙が出そうだ。
「すっ、すみません!一日中お忙しくされていてお疲れなのに、たくさん話しかけてお邪魔してしまいました。もう戻ります。あ、でも最後にひとつだけ…。もう夜も遅いですし、どうか早くお休みになってくださいね。本当に、お邪魔してすみませんでした。おやすみなさい」
 キセはテオドリックの顔を直視しないように俯き、逃げるように扉の方へ戻った。あの冷たい目で見られるのがつらかった。が、扉を開けた途端に背後から伸びてきたテオドリックの手が扉を閉めた。
 バタン、と音を立てて扉が閉まると同時に、どっ、とキセの心臓が跳ねた。
 テオドリックが扉に手をついたままでいるから、キセは身動きが取れない。体温を感じるほどすぐ後ろにテオドリックがいる。この閉塞感と不機嫌なテオドリックの空気が肌をひりひりさせ、鼓動を速めた。
「ヒクイとは誰だ」
 すぐ後ろでテオドリックの不機嫌な声がした。
「スクネお兄さまの従者の方です。十年ほどの付き合いで、セレンとアジロさんの従兄なんです」
「他には誰と踊った」
「護衛に来てくださった皆さんと、テレーズさんとも踊りました」
 キセは閉じられた扉に向かって答えた。吐息が髪を揺らすほど近くからテオドリックの声が聞こえる。
「楽しんだようでよかった」
「はい、とても。イサクさんやテレーズさんのお心遣いのお陰で――」
 キセが僅かに首を後ろへ向けた瞬間、身体が扉へ押し付けられた。そして、抵抗する間もなく顎を掴まれて強引に上を向かされ、噛み付くように唇を奪われた。
「ん…!」
 キセは突然のことに身体を硬くして唇を引き結び、いつものようにテオドリックが口を開けるよう唇を啄んできても応じなかった。初めてテオドリックが怖いと思った。ぴりぴりと空気が張り詰め、テオドリックの苛立ちが伝わってくるようだ。キセは息苦しさから逃げようとテオドリックの身体を押し戻そうとしたが、びくともしない。それどころか、テオドリックはキセの腰を掴むように引き寄せて身体をぴったりとくっつけた。
「口を開けろ」
 声も怒っている。混乱したキセは閉じた唇の下で歯を食いしばっていたが、テオドリックの親指が唇の間に入り込んでくると、思わず声を上げた。
「んん、やっ…」
 テオドリックはこの隙を逃さなかった。
 獣に食べられていると錯覚するようなキスだった。苦しい。恥ずかしい。怖い。テオドリックはキセの頭を扉に押し付けて隙間もないほど唇を重ね合わせ、舌で内部を蹂躙するような激しさでキセを責めた。
 いつものじっくりと味わうような優しさはなく、苛立ちをぶつけるような荒っぽさだった。これは仕置きなのだ、とキセは思った。それなのに――
(情けない)
 泣きたくなった。身体が熱い。腹の奥が疼き出し、心臓が痛いほど脈動している。
「んぁ、テオドリック…」
 キセはテオドリックの頬を両手で挟んで顔を傾け、息苦しさから逃げるように身体を離そうとした。が、テオドリックは構わずキセの両手首を掴んで扉へ押し付け、噛み付くようにもう一度唇を覆った。
「んン…!」
 テオドリックの呼吸が熱を増していく。唇が触れ合っているだけで、全身を暴かれているような感覚だった。息が上がり、頭が熱に浮かされたようにぼんやりし始めた頃、突然唇を解放された。キセが大きく息をつこうとすると、テオドリックの頭が首筋に下りてきた。
「いっ…!」
 突然痛みが走って思わず声を上げた。噛み付かれたかと思った。キセの首から顔を上げたテオドリックの目は、今まで知っていたそれとは違っていた。
「…テオドリック――」
 鼻がツンとして目が熱くなり、視界がぼやけて目の前のテオドリックの顔が見えなくなった。
「…わ、わたし、何かしてしまったでしょうか。今日だけではなくて、この間からなんだか…怒っていらっしゃいますか?もし何かあるならどうかおっしゃってください。お許しいただけるように努力しますから。ただ、何もわからないままでいるのは、つらいです…」
 頬を伝った涙を、テオドリックが拭った。緑色の目にいつもの憂鬱そうな光が戻ってきている。
 テオドリックはキセの細い肩を掴み、頭を垂れてふーっと大きく息をつき、声を絞り出すように口を開いた。
「…あんたは悪くない。俺の問題だ」
「テオドリック――」
 キセはその先を続けられなかった。こちらを見たテオドリックの目は、その先の言葉をはっきりと拒絶していた。
「もう休め」
 テオドリックの指が頬に触れる寸前で、キセは思わずびくりと身体を震わせた。テオドリックは一瞬躊躇して手を引っ込めようとしたが、思い直してそっと額に触れて前髪を分け、そこに羽が触れるようなキスをした。
 キセにはわかった。これは「ごめんなさい」のキスだ。

 続き部屋の扉が静かに閉まった後、テオドリックは執務机に戻らず中央のソファにドカッと腰を下ろし、頭を抱えた。
(やってしまった)
 激しい後悔と苛立ちが一気に胸の中に押し寄せてきた。身勝手な嫉妬に心を支配されてキセを怯えさせ、傷付けた。それでもなお、キセはテオドリックを責めようとせず、あまつさえ歩み寄ろうとした。
(どうかしている)
 とは自分のことだ。そもそも嫉妬することこそが理に適っていない。明るく社交的な王太子妃が他の男と踊ることなどこの先いくらでもあるし、相手が誰であろうと気さくに会話ができることはキセの持つ多くの美点のうち、最も基礎的なものだ。正直、キセがイサクの話を楽しそうに始めたときにはイサクのありとあらゆる欠点を語り尽くしてやろうかと思ったが、そんなことを発想すること自体があまりに子供じみている。
 本当は誰にも触らせたくない。
 しかし、そういう感情は正しくない。
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