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二十一、罪と許し - un péché et un pardon -
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キセは庭園の石畳を伝い、池の畔へとテオドリックを案内した。既に陽が落ち、等間隔に置かれた松明が庭園を明るく照らしている。二人が腰を落ち着けたのは、池の橋に造られた東屋だ。
「何か話したいことがあるのか」
テオドリックが先に口を開いた。キセは膝の上に乗せた両手をきゅっと握りしめた。
「…ミノイお兄さまのことを、お父さまからお聞きになりましたか」
「ああ」
「ミノイお兄さまは、知っていたのでしょうか。わたしと、お兄さまが――」
「結婚する予定だったことなら、承知していたそうだ」
「では、わたし以外はみんな知っていたのですね。お母さまたちも、驚いていないようでしたし…」
キセは肩を落とした。この事実は、未だにどう受け止めてよいのか分からない。ミノイと血が繋がっていないことは小さい頃から知っていた。だが、そんなものがなくても生まれたときから同じ母たちのもとで一緒に育ち、同じ父の子として教育を受けたミノイは、正真正銘の兄弟だ。家族として愛していた。亡くなった今でも、それは変わらない。そしてそれは、ミノイも同じだったはずだ。
「…ミノイ王子が好きだったか」
口に出してすぐ、テオドリックは馬鹿なことを言ったと後悔した。それでも、訊かずにはいられなかった。キセは遠く月を見上げるような顔で微笑み、「はい」と答えた。テオドリックは胸に棘が刺さったような気分になった。
「大好きでした。優しくて、正義感が強くて、向上心があって、リュートの演奏が上手で…自慢のお兄さまでした。ミノイお兄さまの妹になれて幸せです」
「生きていれば結婚したと思うか」
また無益なことを訊いてしまった。起こらなかったことなど、話題にする価値はない。が、これも訊かずにいられなかった。理由はよくわからない。というより、考えないようにした。
キセは笑みを消し、テオドリックの顔をじっと見つめながら少し考えた後、口を開いた。
「…できなかったと思います。わたしにとっては兄で、それは変わりようがないです。それに…」
キセは穏やかに目を細めた。テオドリックにはそれが泣いているようにも見えた。
「ミノイお兄さまは、ずっとセレンが好きだったんですよ。二人は恋人同士で、結婚するつもりだって言っていました」
「それも意外だ」
「だからよりいっそう複雑なんです。どう受け止めてよいのか…」
「受け止めなくていい」
テオドリックはきっぱりと言った。
「実際に起こらなかったことに対して心を砕く必要は無い。それよりも、これからのことを考えるべきだ。それが兄君への報いにもなる」
キセはテオドリックの手を握った。不思議な気持ちだ。重苦しくのしかかっていたものが、少し軽くなった気がする。テオドリックの言葉は自分の目を前に向けてくれる。テオドリックの目がこちらを向くと、キセは胸がむずむずして笑みがこぼれた。
「嬉しかったです。さっき、わたしを強いって言ってくださって」
「事実だ。イユリ王子はあんたを子供扱いし過ぎている。肉体的な力強さや剣の腕など、取るに足りないことだ。あんたはもっと自分を高く評価しろ。自分が兄たちのようでないことに負い目を感じる必要は無い。あんたの強さは、彼らには持ち得ないものだ」
キセは心の奥で何かがひっくり返ったように感情があふれ出すのを感じた。それは衝動となってキセの身体を動かし、キセは心のままにテオドリックを抱き締めた。
テオドリックは目を白黒させて固まったが、キセの柔らかい髪に顔を埋め、その背に腕を回して強く抱き返した。あの乳香と果実の香りがする。
「テオドリック、わたし、あなたの妻になれてよかったです」
「まだなんだろ?」
「はい。でも、大変な思いをして見つけてくださってありがとうございます。祈る以外にわたしが人々を救う道を示してくださって、ありがとうございます」
「感謝するのは俺の方だ。あんたがあんたとして存在していることにも」
キセはちょっと顔を赤くして、ふふ、と笑った。テオドリックの吐息で揺れる髪が、なんだかくすぐったい。
「…キセ、あんたに言っておきたいことがある。五年前の事件のことだ」
何故、今この話をしようと思ったのかわからない。しかし、この善良な女に隠し事をしたまま夫婦にはなれないと思った。キセを連れてオアリス城を出れば、正式に結婚の許しを得て妻を国へ連れ帰る旅となる。テオドリックには確信があった。キセは受け入れる。
キセは居住まいを正してテオドリックに向き直った。
「俺はあんたの兄が死んだあの事件の場に居合わせている。こちら側の代表だった叔父の副官として」
「はい、存じています。叔父さまが亡くなられたことも」
と、キセはテオドリックには予想外の返答をした。テオドリックの肩から力が抜けた。
「知っていたのか」
キセは顎を引いた。
「帰還した兵士の報告を聞く場にわたしもいましたから。あの時のことを何かお話しくださるのなら、あなたが話してもいいと思った時にそうしてくださると思っていました」
「自分から聞こうとは思わなかったのか?」
キセは首を振った。
「つらい記憶かと、思いまして…」
「それはあんたも同じだろう」
まったくお人好しが過ぎる。テオドリックは呆れる思いがした。一国の王女として生まれついておきながら、キセはいつも自分よりも他人のことを優先してしまう。キセが自分の価値をその程度にしか捉えていないようにも見える。それはある意味で、王国への侮辱だ。しかし、テオドリックにはそれが贖罪なのではないかとも思えた。テオドリックもそうだ。数々の国王が始めた戦で人生を奪われた人々への罪を、王族として生まれながらに背負っている。
「そうですね」
と、キセは俯いて言った。その唇は、自嘲しているようにも見えた。
「わたしがオシアスになろうと思ったきっかけは、泥の道の事件でした。あの時、ミノイお兄さまと十名の兵を亡くした悲しみよりも、怒りに我を忘れて、それまで築き上げたものを焼き払ってでも戦を始めようとする人たちへの恐怖が大きかったんです」
キセの身体がその時の恐怖を思い出した。議場で怒りの咆哮を響かせ、即時開戦しエマンシュナ人を殲滅せよと叫ぶ者たちの声が、まだ生々しく記憶に焼き付いている。彼らの目は、いつもの善良な人間のそれとは全く違っていた。怒りと憎しみが人々を豹変させた瞬間を、キセは目にしていた。
キセは心許なく自分の手をもう片方の手で握り、皮膚が白くなるほど力を込めた。テオドリックはそこに自分の手を重ね、そっとほぐしてやった。その時キセはまだ十二歳だった。まだ子供と言っていい年齢の彼女に植え付けられた恐怖心は、どれほどのものだっただろう。
「わたしは役に立たない存在でした。お母さまたちやお父さま、お兄さまたちに守られて、わたしが守るべき存在の弟もいずれは兵士として戦に行ってしまう。わたしはそれを止められないと痛感しました。大好きなお兄さまが命を落としても、何もできないのですから」
テオドリックは何も言わず、キセの頬に落ちた涙を拭ってやった。キセが顔を上げ、その奥を覗き込むようにテオドリックの目を見つめた。
「わたしもわかります、テオドリック。無力感でいっぱいになって、自分がどうしようもなく無価値な存在だって思う気持ちが。だからオシアスとして人々の心を救う存在になりたかったんです。神はいないと言う人もいます。でも、心の中に存在するんです。それがオスイアの女神さまでなくても、いろいろな形で存在しています。それは人に試練を与え、安らぎを与え、許しを与える存在です。テオドリック――」
キセがテオドリックの目をじっと見つめた。その闇夜のような瞳の中に、こぼれ落ちそうなほどの光を孕んでいる。
「あなたも許しを求めていますね」
テオドリックの瞳の中に小さな光が散った。
「…そうだ」
許しを求めている。同胞がミノイ王子を殺した時、同じ場所でイノイル人を殺したこの罪深い手で、キセを抱き締め、愛することを。
「許されます。あなたが神を信じない分は、わたしが信じますから、大丈夫です。妻ですから、半分こです」
キセはもう泣いていなかった。
「あんたは俺から何を得られるんだ?」
テオドリックが自嘲するように訊ねた。キセはにっこりと笑って答えた。
「強さを」
――女神は存在する。テオドリックはこの時そう思った。
テオドリックはキセのふわふわした黒髪に指を挿し入れ、口付けをした。キセはそれを当然のように受け入れ、腰を引き寄せられると自分もテオドリックの胸に手を添えてこの甘やかな行為を享受した。柔らかい唇の間から挿し入れた舌にキセの温かい舌が触れると、テオドリックの身体に熱が走った。
「んん、は…」
必死で口付けに応え、息継ぎをする度に苦しそうに唸るキセが堪らなく可愛かった。この肌に触れるたび、鳩尾が縮こまり、彼女がもっと欲しくなる。
「…こんなはずじゃなかった」
自分の口から呻くように言葉が出て行ったのをテオドリックは聞いた。キセがその先を問いかけるようにぼんやりと目の前の緑色の瞳を覗き込んだが、その唇から疑問が飛び出す前に、テオドリックはもう一度唇を重ねた。
そうだ。こんなはずじゃなかった。――キセがどうしようもなく愛おしい。
そして、これは口に出してはいけない。
二日後、テオドリック、キセ、スクネの三名とその側近一名、加えて護衛隊の精鋭三名が、晴天の下、母たちや兄弟と家臣に涙ながらに見送られながらオアリス城を出発した。スクネには勿論、ネフェリア王女を妻としてイノイルに連れ帰ってくるという任務が課されている。
とは言え、エマンシュナ王が和平について公言していない以上、イノイル側も公的な使者として王太子と王女をエマンシュナへ入国させるわけにはいかない。露見すれば投獄され、もっと悪ければその場で斬られるかも知れない。そのため、双方の婚姻が正式に決定するまでは引き続き内密に事を運ぶ必要がある。
オーレン王がテオドリックに示した和平の条件は、姉をイノイルに嫁がせるという項目に加え、タレステラとの優先的な交易権だった。その代わり、イノイル軍は現在旗を立てているタレステラとエマンシュナ東岸部から撤退する。
オーレンはテオドリックの読み通り水面下でタレステラに離反の交渉をしており、タレステラ内の有力者の多くがイノイル側につこうとしている。イノイルとしては戦を終わらせるのであればこのタレステラを陥落させてからの方が寧ろ都合が良いが、オーレンが志半ばでタレステラから兵を引くことになってでもこの婚姻による和平交渉を優先させたその理由は、娘可愛さによるものだ。
あの男が結婚の承諾も得ずに無垢な乙女を自分のものにしたことは縊り殺してやりたいほど腹立たしいが、それはかつての自分にも身に覚えがあることだから堂々と責められたものではない。それがなくても、キセは簡単に誘惑される質の娘でないことは分かっている。キセがこれほど大胆な行動に出たということは、それほど本気なのだ。子供の頃から自分のために何もねだったことのないキセの初めての反抗を、全力で受け入れてやりたい程にこの一人娘を愛している。
それから、テオドリック――あの男は息子たちにはないものを持っている。
昨日オーレンが家臣たちの前で両国の婚姻を宣言した時、議場は荒れたが、結局は賛同者が多数を占め、オーレンがテオドリックに示した条件の通りに決定した。
「まさかあんなにあっさりお認めになると思いませんでしたわ」
第二妃のシノ・カティアが白い陶器のポットから揃いのカップに紅茶を注ぎ入れながら言った。視線の先には、簡素な黒のローブに身を包み、唇を真一文字に引き結んでふっくらした薔薇色のソファに腰掛けるオーレンがいる。オーレンが一人でシノ・カティアの自室に現れる時は、他の妻たちに何か後ろめたいことがある時だ。
シノは朱色のドレスの広い袖を片手で押さえ、オーレンにティーカップを差し出した。
「お斬りになるかと」
オーレンは無言でカップを受け取った後、フン、と鼻を鳴らした。
「それほど短慮ではない」
シノ・カティアがころころと笑い声をあげた。
「存じていますわ。ただ、キセのことを溺愛なさっていますもの。もっと場が荒れると思っていました」
「キセは美しく素晴らしい娘だ。敵国の王太子になど本当はやりたくない」
「でも国王として決断なさいましたわね」
「…父として決断した部分もある」
「それでも結局は国王の判断ですわ。キセのためと言いながら、国のために娘を差し出したご気分でいらっしゃるはず。だからオミの顔を見られないのでしょう」
シノ・カティアは冷たく言って、自分も紅茶を注いだカップを持ち、向かいに置かれた対のソファに座った。
「ただでさえ大々的に送り出してあげられないのだから、せめてお見送りにくらいいらっしゃったらよろしゅうございましたのに。ユヤが怒っていますわよ」
「あれは呆れているだけだ。詰られるのが嫌でここに隠れているのに、そなたまで言うな。…他の男のところに行く娘の姿など、見られたものかよ」
「まあ。ご自分でお決めになりましたのに」
シノ・カティアはまたころころと笑った。漁師から国王にまで昇り詰めたこの型破りな男も、娘のこととなるとただの愚かな父親だ。
「テオドリック王太子のこともお気に召したのでしょう?いくら陛下でも、あの和平条件だけで大切なキセとの結婚を承諾するとは思えませんもの」
オーレンは黒い瞳でシノ・カティアを一瞥し、ちょっとおかしそうに目を細めた。
「…あの青二才め、自分の結婚のために実の姉を差し出しおった。スクネと姉姫の結婚を提案してきたのはあの男だ。あいつはあれの父親より肝が座っているぞ。なかなか見所がある。そう言う根性は嫌いではない」
「それでは尚更斬っておしまいになったほうがよろしかったのではなくて?後々の脅威になるかもしれませんわよ」
シノ・カティアは涼やかな薄茶色の目に優雅な弧を描かせて恐ろしげなことを口にした。こういう冷酷さは、中産階級の温かい家庭に生まれ育ったユヤ・マリアや神官であったオミ・アリアは持ち合わせていない。権謀術数の張り巡らされた貴族社会で生きてきたシノ・カティアは、妻たちの中で唯一オーレンが謀略を話題にできる悪友とも呼ぶべき存在だ。
オーレンは喉を鳴らして笑った。
「だからこそ厄介だ。そういう相手とは、手を組むに限る」
「まあ、キセも自分の道を見つけたようですし、よいのではありませんか。あの子たちは本当に愛し合っているように見えます。…それよりも、陛下」
シノのちょっと厳しい声色に、オーレンは不覚にもギクリとした。
「オミのところにお行きなさいませ。キセが行ってしまっていちばん寂しがっているのはオミなのですよ。こういう時は夫として娘を見送った母を労って差し上げるべきですわ。子供みたいに隠れていないで」
「ム、そうだな…」
「そのあとはキセたちのお見送りに行かれなかったことをユヤにお詫びに行かれるのがよろしいですわ。勿論、手ぶらは論外ですわよ」
「む…」
オーレンは短い唸り声で返事をした。
「何か話したいことがあるのか」
テオドリックが先に口を開いた。キセは膝の上に乗せた両手をきゅっと握りしめた。
「…ミノイお兄さまのことを、お父さまからお聞きになりましたか」
「ああ」
「ミノイお兄さまは、知っていたのでしょうか。わたしと、お兄さまが――」
「結婚する予定だったことなら、承知していたそうだ」
「では、わたし以外はみんな知っていたのですね。お母さまたちも、驚いていないようでしたし…」
キセは肩を落とした。この事実は、未だにどう受け止めてよいのか分からない。ミノイと血が繋がっていないことは小さい頃から知っていた。だが、そんなものがなくても生まれたときから同じ母たちのもとで一緒に育ち、同じ父の子として教育を受けたミノイは、正真正銘の兄弟だ。家族として愛していた。亡くなった今でも、それは変わらない。そしてそれは、ミノイも同じだったはずだ。
「…ミノイ王子が好きだったか」
口に出してすぐ、テオドリックは馬鹿なことを言ったと後悔した。それでも、訊かずにはいられなかった。キセは遠く月を見上げるような顔で微笑み、「はい」と答えた。テオドリックは胸に棘が刺さったような気分になった。
「大好きでした。優しくて、正義感が強くて、向上心があって、リュートの演奏が上手で…自慢のお兄さまでした。ミノイお兄さまの妹になれて幸せです」
「生きていれば結婚したと思うか」
また無益なことを訊いてしまった。起こらなかったことなど、話題にする価値はない。が、これも訊かずにいられなかった。理由はよくわからない。というより、考えないようにした。
キセは笑みを消し、テオドリックの顔をじっと見つめながら少し考えた後、口を開いた。
「…できなかったと思います。わたしにとっては兄で、それは変わりようがないです。それに…」
キセは穏やかに目を細めた。テオドリックにはそれが泣いているようにも見えた。
「ミノイお兄さまは、ずっとセレンが好きだったんですよ。二人は恋人同士で、結婚するつもりだって言っていました」
「それも意外だ」
「だからよりいっそう複雑なんです。どう受け止めてよいのか…」
「受け止めなくていい」
テオドリックはきっぱりと言った。
「実際に起こらなかったことに対して心を砕く必要は無い。それよりも、これからのことを考えるべきだ。それが兄君への報いにもなる」
キセはテオドリックの手を握った。不思議な気持ちだ。重苦しくのしかかっていたものが、少し軽くなった気がする。テオドリックの言葉は自分の目を前に向けてくれる。テオドリックの目がこちらを向くと、キセは胸がむずむずして笑みがこぼれた。
「嬉しかったです。さっき、わたしを強いって言ってくださって」
「事実だ。イユリ王子はあんたを子供扱いし過ぎている。肉体的な力強さや剣の腕など、取るに足りないことだ。あんたはもっと自分を高く評価しろ。自分が兄たちのようでないことに負い目を感じる必要は無い。あんたの強さは、彼らには持ち得ないものだ」
キセは心の奥で何かがひっくり返ったように感情があふれ出すのを感じた。それは衝動となってキセの身体を動かし、キセは心のままにテオドリックを抱き締めた。
テオドリックは目を白黒させて固まったが、キセの柔らかい髪に顔を埋め、その背に腕を回して強く抱き返した。あの乳香と果実の香りがする。
「テオドリック、わたし、あなたの妻になれてよかったです」
「まだなんだろ?」
「はい。でも、大変な思いをして見つけてくださってありがとうございます。祈る以外にわたしが人々を救う道を示してくださって、ありがとうございます」
「感謝するのは俺の方だ。あんたがあんたとして存在していることにも」
キセはちょっと顔を赤くして、ふふ、と笑った。テオドリックの吐息で揺れる髪が、なんだかくすぐったい。
「…キセ、あんたに言っておきたいことがある。五年前の事件のことだ」
何故、今この話をしようと思ったのかわからない。しかし、この善良な女に隠し事をしたまま夫婦にはなれないと思った。キセを連れてオアリス城を出れば、正式に結婚の許しを得て妻を国へ連れ帰る旅となる。テオドリックには確信があった。キセは受け入れる。
キセは居住まいを正してテオドリックに向き直った。
「俺はあんたの兄が死んだあの事件の場に居合わせている。こちら側の代表だった叔父の副官として」
「はい、存じています。叔父さまが亡くなられたことも」
と、キセはテオドリックには予想外の返答をした。テオドリックの肩から力が抜けた。
「知っていたのか」
キセは顎を引いた。
「帰還した兵士の報告を聞く場にわたしもいましたから。あの時のことを何かお話しくださるのなら、あなたが話してもいいと思った時にそうしてくださると思っていました」
「自分から聞こうとは思わなかったのか?」
キセは首を振った。
「つらい記憶かと、思いまして…」
「それはあんたも同じだろう」
まったくお人好しが過ぎる。テオドリックは呆れる思いがした。一国の王女として生まれついておきながら、キセはいつも自分よりも他人のことを優先してしまう。キセが自分の価値をその程度にしか捉えていないようにも見える。それはある意味で、王国への侮辱だ。しかし、テオドリックにはそれが贖罪なのではないかとも思えた。テオドリックもそうだ。数々の国王が始めた戦で人生を奪われた人々への罪を、王族として生まれながらに背負っている。
「そうですね」
と、キセは俯いて言った。その唇は、自嘲しているようにも見えた。
「わたしがオシアスになろうと思ったきっかけは、泥の道の事件でした。あの時、ミノイお兄さまと十名の兵を亡くした悲しみよりも、怒りに我を忘れて、それまで築き上げたものを焼き払ってでも戦を始めようとする人たちへの恐怖が大きかったんです」
キセの身体がその時の恐怖を思い出した。議場で怒りの咆哮を響かせ、即時開戦しエマンシュナ人を殲滅せよと叫ぶ者たちの声が、まだ生々しく記憶に焼き付いている。彼らの目は、いつもの善良な人間のそれとは全く違っていた。怒りと憎しみが人々を豹変させた瞬間を、キセは目にしていた。
キセは心許なく自分の手をもう片方の手で握り、皮膚が白くなるほど力を込めた。テオドリックはそこに自分の手を重ね、そっとほぐしてやった。その時キセはまだ十二歳だった。まだ子供と言っていい年齢の彼女に植え付けられた恐怖心は、どれほどのものだっただろう。
「わたしは役に立たない存在でした。お母さまたちやお父さま、お兄さまたちに守られて、わたしが守るべき存在の弟もいずれは兵士として戦に行ってしまう。わたしはそれを止められないと痛感しました。大好きなお兄さまが命を落としても、何もできないのですから」
テオドリックは何も言わず、キセの頬に落ちた涙を拭ってやった。キセが顔を上げ、その奥を覗き込むようにテオドリックの目を見つめた。
「わたしもわかります、テオドリック。無力感でいっぱいになって、自分がどうしようもなく無価値な存在だって思う気持ちが。だからオシアスとして人々の心を救う存在になりたかったんです。神はいないと言う人もいます。でも、心の中に存在するんです。それがオスイアの女神さまでなくても、いろいろな形で存在しています。それは人に試練を与え、安らぎを与え、許しを与える存在です。テオドリック――」
キセがテオドリックの目をじっと見つめた。その闇夜のような瞳の中に、こぼれ落ちそうなほどの光を孕んでいる。
「あなたも許しを求めていますね」
テオドリックの瞳の中に小さな光が散った。
「…そうだ」
許しを求めている。同胞がミノイ王子を殺した時、同じ場所でイノイル人を殺したこの罪深い手で、キセを抱き締め、愛することを。
「許されます。あなたが神を信じない分は、わたしが信じますから、大丈夫です。妻ですから、半分こです」
キセはもう泣いていなかった。
「あんたは俺から何を得られるんだ?」
テオドリックが自嘲するように訊ねた。キセはにっこりと笑って答えた。
「強さを」
――女神は存在する。テオドリックはこの時そう思った。
テオドリックはキセのふわふわした黒髪に指を挿し入れ、口付けをした。キセはそれを当然のように受け入れ、腰を引き寄せられると自分もテオドリックの胸に手を添えてこの甘やかな行為を享受した。柔らかい唇の間から挿し入れた舌にキセの温かい舌が触れると、テオドリックの身体に熱が走った。
「んん、は…」
必死で口付けに応え、息継ぎをする度に苦しそうに唸るキセが堪らなく可愛かった。この肌に触れるたび、鳩尾が縮こまり、彼女がもっと欲しくなる。
「…こんなはずじゃなかった」
自分の口から呻くように言葉が出て行ったのをテオドリックは聞いた。キセがその先を問いかけるようにぼんやりと目の前の緑色の瞳を覗き込んだが、その唇から疑問が飛び出す前に、テオドリックはもう一度唇を重ねた。
そうだ。こんなはずじゃなかった。――キセがどうしようもなく愛おしい。
そして、これは口に出してはいけない。
二日後、テオドリック、キセ、スクネの三名とその側近一名、加えて護衛隊の精鋭三名が、晴天の下、母たちや兄弟と家臣に涙ながらに見送られながらオアリス城を出発した。スクネには勿論、ネフェリア王女を妻としてイノイルに連れ帰ってくるという任務が課されている。
とは言え、エマンシュナ王が和平について公言していない以上、イノイル側も公的な使者として王太子と王女をエマンシュナへ入国させるわけにはいかない。露見すれば投獄され、もっと悪ければその場で斬られるかも知れない。そのため、双方の婚姻が正式に決定するまでは引き続き内密に事を運ぶ必要がある。
オーレン王がテオドリックに示した和平の条件は、姉をイノイルに嫁がせるという項目に加え、タレステラとの優先的な交易権だった。その代わり、イノイル軍は現在旗を立てているタレステラとエマンシュナ東岸部から撤退する。
オーレンはテオドリックの読み通り水面下でタレステラに離反の交渉をしており、タレステラ内の有力者の多くがイノイル側につこうとしている。イノイルとしては戦を終わらせるのであればこのタレステラを陥落させてからの方が寧ろ都合が良いが、オーレンが志半ばでタレステラから兵を引くことになってでもこの婚姻による和平交渉を優先させたその理由は、娘可愛さによるものだ。
あの男が結婚の承諾も得ずに無垢な乙女を自分のものにしたことは縊り殺してやりたいほど腹立たしいが、それはかつての自分にも身に覚えがあることだから堂々と責められたものではない。それがなくても、キセは簡単に誘惑される質の娘でないことは分かっている。キセがこれほど大胆な行動に出たということは、それほど本気なのだ。子供の頃から自分のために何もねだったことのないキセの初めての反抗を、全力で受け入れてやりたい程にこの一人娘を愛している。
それから、テオドリック――あの男は息子たちにはないものを持っている。
昨日オーレンが家臣たちの前で両国の婚姻を宣言した時、議場は荒れたが、結局は賛同者が多数を占め、オーレンがテオドリックに示した条件の通りに決定した。
「まさかあんなにあっさりお認めになると思いませんでしたわ」
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シノは朱色のドレスの広い袖を片手で押さえ、オーレンにティーカップを差し出した。
「お斬りになるかと」
オーレンは無言でカップを受け取った後、フン、と鼻を鳴らした。
「それほど短慮ではない」
シノ・カティアがころころと笑い声をあげた。
「存じていますわ。ただ、キセのことを溺愛なさっていますもの。もっと場が荒れると思っていました」
「キセは美しく素晴らしい娘だ。敵国の王太子になど本当はやりたくない」
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「…父として決断した部分もある」
「それでも結局は国王の判断ですわ。キセのためと言いながら、国のために娘を差し出したご気分でいらっしゃるはず。だからオミの顔を見られないのでしょう」
シノ・カティアは冷たく言って、自分も紅茶を注いだカップを持ち、向かいに置かれた対のソファに座った。
「ただでさえ大々的に送り出してあげられないのだから、せめてお見送りにくらいいらっしゃったらよろしゅうございましたのに。ユヤが怒っていますわよ」
「あれは呆れているだけだ。詰られるのが嫌でここに隠れているのに、そなたまで言うな。…他の男のところに行く娘の姿など、見られたものかよ」
「まあ。ご自分でお決めになりましたのに」
シノ・カティアはまたころころと笑った。漁師から国王にまで昇り詰めたこの型破りな男も、娘のこととなるとただの愚かな父親だ。
「テオドリック王太子のこともお気に召したのでしょう?いくら陛下でも、あの和平条件だけで大切なキセとの結婚を承諾するとは思えませんもの」
オーレンは黒い瞳でシノ・カティアを一瞥し、ちょっとおかしそうに目を細めた。
「…あの青二才め、自分の結婚のために実の姉を差し出しおった。スクネと姉姫の結婚を提案してきたのはあの男だ。あいつはあれの父親より肝が座っているぞ。なかなか見所がある。そう言う根性は嫌いではない」
「それでは尚更斬っておしまいになったほうがよろしかったのではなくて?後々の脅威になるかもしれませんわよ」
シノ・カティアは涼やかな薄茶色の目に優雅な弧を描かせて恐ろしげなことを口にした。こういう冷酷さは、中産階級の温かい家庭に生まれ育ったユヤ・マリアや神官であったオミ・アリアは持ち合わせていない。権謀術数の張り巡らされた貴族社会で生きてきたシノ・カティアは、妻たちの中で唯一オーレンが謀略を話題にできる悪友とも呼ぶべき存在だ。
オーレンは喉を鳴らして笑った。
「だからこそ厄介だ。そういう相手とは、手を組むに限る」
「まあ、キセも自分の道を見つけたようですし、よいのではありませんか。あの子たちは本当に愛し合っているように見えます。…それよりも、陛下」
シノのちょっと厳しい声色に、オーレンは不覚にもギクリとした。
「オミのところにお行きなさいませ。キセが行ってしまっていちばん寂しがっているのはオミなのですよ。こういう時は夫として娘を見送った母を労って差し上げるべきですわ。子供みたいに隠れていないで」
「ム、そうだな…」
「そのあとはキセたちのお見送りに行かれなかったことをユヤにお詫びに行かれるのがよろしいですわ。勿論、手ぶらは論外ですわよ」
「む…」
オーレンは短い唸り声で返事をした。
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