獅子王と海の神殿の姫

若島まつ

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十八、王の帰還 - il Re dell'Aquila di Mare -

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 イノイル国王オーレン・ヴィットーレ・シトーは既に六十を超えているが壮健な外見の持ち主で、筋骨は未だ衰えず、白髪も殆どなく黒々としており、その背まで伸びた髪をいつも後ろで一つに束ねている。オーレンが軍の司令官だった頃から変わらないスタイルだ。国民は軍神と称された若き英雄の頃と変わらない姿を見ることで、彼らが王に選んだ男への畏怖を鮮烈に感じ続けている。
 外見に衰えを感じさせないというのは、国民の支持を得続ける為のオーレンの戦略の一つでもあるが、髪を長くしているのには別の理由がある。軍人の頃からの習慣で、戦の時には髪を切らないのだ。ただし、戦場で身体に傷をつけられた時には髪を切る。この行為に、オーレンは邪を払うという意味合いを持たせている。とはいっても宗教的な観念はなく、オーレン流の願掛けといったところだ。
 一つに束ねられた波打つ漆黒の髪と鷲の紋章が刺繍された黒い外套を風に靡かせ、オーレン王はオアリス城の緑がかった黒の石畳の上に足を下ろした。後ろには同じく黒の外套に身を包んだ黒髪の王太子スクネ・バルークが馬上で控え、その後方に赤い髪を後頭部で大きなお団子に結った第一妃ユヤ・マリア、明るい栗毛を一束の太く長い三つ編みに結った第二妃シノ・カティア、真っ直ぐな黒髪を編み込んで肩へ下ろした第三妃オミ・アリアがいずれも騎乗して控えている。
 供連れの兵三十人も同様にそれぞれ馬に跨っている。どの馬も異大陸から渡ってきた駿馬で、毛艶が良く足は太く馬体も大きく、よく馴らされている。王の一行にしては装飾が華美でないのは、エマンシュナとの戦時中だから豪華なものは控えているという理由もあるが、それ以上に軍人であったオーレン王が外見よりも機動性や実用性を重視しているからだ。
 そういう気風は妻たちにも影響している。第一妃ユヤ・マリアを筆頭に、豪華な宝飾品は避け、柄のない代わりに蔦や波模様の地紋の入った麻と絹の織物のドレスを身に付け、下には乗馬用のズボンとブーツを履いている。一見地味ながら洗練された装いは、ユヤ・マリアの発案だ。
 オーレン王が青鹿毛の愛馬の鼻を撫でて馬丁に手綱を渡すと、慌ただしく出迎えに来た家令のミシナの肩を叩いた。沿岸部の視察を兼ねた漁の成果が上々だったのだろう。髭の中の口が上機嫌に吊り上がっている。
「どうも騒がしいな。皆で寝坊でもしたか?」
 スクネもその後に続いて下馬し、黒い目を巡らせて城の様子を伺った。スクネの風貌は父親よりも実母のシノ・カティアに似ている。漆黒の髪は父譲りだが、父親のように長くはせず、兵卒と同じように短く刈り込んで常に甲冑を素早く着けられるようにするのがスクネの習慣だ。目はくっきりした二重まぶたの父親に対して、母譲りの切れ長の奥二重だ。こちらも母親の血筋で、背が父親よりもスラリと高い。
 スクネは年長のユヤ・マリア妃に手を差し伸べて下馬を手伝いながら、家令のミシナが白髪混じりの栗色の頭を父に向かって下げるのを見た。
「それが、昨日キセ姫さまがお戻りになりまして――」
「何、キセ・ルルーが!」
 オーレンは娘をよちよち歩きの頃からの愛称で呼び、嬉しそうに声を弾ませた。が、ミシナの表情を見てすぐに尋常の事態ではないことを察した。
「何があった」
 オーレンは眉間に皺を寄せ、目元を陰らせた。軍人からの叩き上げで国王になったこの豪胆な男も、溺愛する一人娘のこととなると平常心を忘れる。
「昨夜からお姿が見えず、ただいま城の者が総出で探しております」
 王妃たちは三人で顔を見合わせ、深刻そうに口元を隠した。
「何故急に戻ってきたんだ?帰省はいつも式典のときだけなのに」
 スクネが静かな声色で尋ねた。父親に似て平素冷静なこの王太子もまた可愛い妹にはめっぽう弱いが、父親と違うのはそれをあからさまな態度に出さないところだ。
 問われたミシナは、平素は明朗で物事をはっきり言い切る質のこの男には珍しく言葉を詰まらせた。
「…それは、その、えー…、高貴な身なりの、…殿方を連れて――」
「男」
 と聞いた瞬間にオーレンは眦をギッと上げ、鬼のような形相をした。ミシナはちょっと肩を落として続けた。
「――お帰りになりまして、イユリ・スキロス殿下がご対応を」
「イユリはどこだ」
 オーレンが訊くと、寝癖のついた髪をそよそよ風に泳がせながら、寝衣姿のままのイユリが足取りも重く現れた。顔だけは、気品に満ちた笑みを浮かべている。
「ここです、父上。兄上と母上方も、お帰りなさい」
「キセが連れてきた――」
 オーレンは言葉を切り、不快そうに鼻を鳴らした。
「男というやつは、どこのどいつで、今どこにいる」
 イユリは肩を竦めて悪童のようにニヤリと笑った。
「鷲の塔の最上階にご案内しましたよ。どこの誰かは知りません。外国人のようだけど」
「どこの誰かも知らない男を塔に閉じ込めたというのか!」
 怒声を発したのは、スクネだ。下馬したばかりの実母シノ・カティア妃が溜め息をつきながら怒れる息子の腕をさすり、なだめた。
「だってキセを誑かした男には、塔がお似合いだろ?」
「キセもそこにいるんじゃないのか」
 第三妃のオミ・アリアが馬から下りるのを手伝いながらスクネが言った。
「塔は見たって」
「塔の部屋の中も見たのか?」
「施錠したから開けられないよ。鍵は僕が持ってる。ホラ」
 イユリが得意げに鍵をポケットから出し、鍵に付いている輪を指に引っかけてくるくると回した。スクネは溜め息をついた。
「あまり妹を甘く見ないほうがいい」
 息子たちの話が終わらないうちに、オーレンは無言で歩き出した。行く先は、鷲の塔だ。
 
 テオドリックはキセの甘い香りに包まれて意識を取り戻した。目を開けると、カーテンも付けられていない窓から日光が矢のように射し、目の前で眠るキセの顔を照らしている。キセの薄いまぶたがぴくりと動いたが、キセは小さく唸って首の位置を変え、テオドリックの腕に頭を預けてもう一度穏やかな寝息を立て始めた。
 テオドリックがその柔らかさに誘われるように頬をちょんちょんつついた。キセのまぶたがゆっくり開き、黒い瞳がテオドリックを映した。
「おはよう」
「おはようございます…」
 テオドリックが機嫌よく言うと、キセは掠れた声で挨拶を返した。
 また寝ぼけてセレンか誰かと間違えるのではと思ったが、キセは頬をじわじわと赤く染め、自分がテオドリックの腕に頭を乗せていることに気が付いて弾けるように身体を起こした。
「すっ、すみ――」
 と謝ろうとしたキセの唇を、テオドリックは触れるだけのキスをして塞ぎ、すぐに離れた。
「あんたはいつになったらすぐに謝るのをやめるんだ。これからは謝る度にこうやって口を塞ぐことにしようか」
 ぐっ、とキセは口を閉じた。うかうかしているとまた無闇に謝罪を口にしてしまいかねない。その度にキスをされては、心臓が破裂してしまう。
「…あの、腕は痛くありませんか」
「一晩中あんたの頭を乗せておくくらい平気だ。それより喉が痛いんじゃないか」
「あ…」
 確かに声が少し掠れている。多少痛みもある。一瞬風邪でも引いたかと思ったが、これは違う。昨夜テオドリックによってもたらされた快楽が、キセに声を上げさせた結果だ。キセは昨夜の痴態をありありと思い出し、身体中が燃えるように恥ずかしくなった。もうテオドリックの顔も見ていられず、キセは毛布を手繰り寄せて顔を隠した。
「無駄だぞ、キセ・ルミエッタ。昨夜可愛い顔はたっぷり見たからな」
 テオドリックは毛布を握るキセの手を退け、ほつれた髪を直してやり、額にキスをした。
 キセは泣き出しそうなほどに目を潤ませ、今度は両手で顔を覆った。が、赤く染まった耳までは隠せていない。
(可愛い)
 些細な抵抗なのだろう。テオドリックが機嫌よくキセの柔らかい髪を弄んでいると、両手の下からキセがもごもご喋り始めた。
「夫婦になると…あの……、あれを、毎晩するのですか」
 テオドリックは眉を上げ、ちょっと面白そうに唇を吊り上げた。
「毎晩して欲しいのか?」
「ちっ、ち、違います!ただ…」
「ただ?」
「あ、あんなことを毎晩されては、心臓がもちません…」
 テオドリックは笑い出した。キセの手を顔から引き剥がしてキセと目が合うように正面から彼女の顔を覗き込み、頬を両手で包んで、親指でその甘やかな唇をふにふにと弄んだ。キセの顔がまたしても赤く染まっていく。テオドリックはニヤリと唇を吊り上げた。
「キセ、あれでは終わらない。二人の行為を完成させるのには到底足りない」
 キセは目を閉じたくなった。が、エメラルドグリーンの目に惹き付けられるようにまぶたを閉じることができなかった。一体、そんなことになったら自分はどうなってしまうのだろう。とても想像がつかない。
(だって、昨日のあれは――)
 とても素敵だった。考えるだけで鳩尾が苦しくなり、腹の奥が疼く。テオドリックは誘惑するような視線でキセを見、唇の端に口付けしながら低い声で囁いた。
「この次俺と夜を過ごそうと言うときは、この先を覚悟しておけ。昨夜のように途中でやめたりしない。あんたのもっと深いところに――」
 二人の唇が触れるか触れないかという時だった。足音が響いてこちらへ近付いてくる。姿も見ずに怒りが伝わってくる足音だ。鍵穴に鍵を差し込む音もなく、バン!と大きな木の扉が開いた。
 戸口に立っているのは、波打つ黒髪が逆立ちそうなほどに怒りを露わにした黒い外套の男だった。男の纏う空気は雷雲のように重く、肌に痛みを感じるほどの緊張感が漂っている。そして腰には大きな剣を佩いている。華美な装飾のない、ざらざらした質感の黒色の鞘に仕舞われた、実戦用のものだ。長い外套の裾が横に払われ、剣が外套の外に出ている。つまり、この剣をいつでも抜けるようにしているのだ。
 この男がオーレン王であることは、テオドリックには明白だった。
(斬られるかもしれない)
 と、さすがのテオドリックも身構えたが、それより先にキセがぱあっと顔を明るくして立ち上がった。
「お父さま!」
 キセは春の陽のような笑顔で父親に駆け寄り、ぎゅうっと抱き付いた。
「お会いできて嬉しいです!」
 あの‘千里の微笑み’だ。オーレンの怒りの形相がたちまちとろけるような笑顔になった。テオドリックはやや茫然としてその様子を見守った。
「キセ・ルルー」
 オーレンは娘をきつく抱き締めて幼な子を抱えるようにひょいと抱き上げ、声を上げて笑いながらくるくると三回転してキセを下ろした。
「息災か」
 オーレンは恭しく王への挨拶として深く膝を折ったキセに優しく笑いかけた。たった今この扉を開けた悪鬼――テオドリックにはそう見えた――と同じ人物であるとは、とても信じられない。
「はい!お父さまもお元気でしたか?ご病気などはされませんでしたか?」
 キセが気遣わしげに言うと、娘が可愛くて仕方がないと言ったようにオーレンがキセの頭を撫で回した。
「わたしを誰だと思っている。鷲の国の王だぞ」
「そして六人の子のお父さまで、三人の奥さまの旦那さまで、見た目は若々しいけれど御年六十一歳の男性ですよ」
「お前も言うようになった。口振りがユヤに似てきたな」
 オーレンは苦々しげに言ったが、どことなく嬉しそうだ。終始唇の両端が上を向いている。その唇が、オーレンの猛禽のような眼が部屋の奥を向くと不愉快そうに歪んだ。
「ではそろそろ、この客人がどういう者か教えてもらおう」
 テオドリックは立ち上がって気品ある微笑を浮かべ、右手を胸の前に添えて、国王への礼を示した。
「オーレン国王陛下」
 ビュッ、とオーレンが剣を抜いた。テオドリックは微動だにせず、それを見た。鞘はついたままだ。キセが後ろで叫んだが、オーレンは激しい目つきのまま剣をテオドリックの肩に乗せ、圧迫した。
「頭が高い」
 オーレンがますます力を込め、テオドリックの肩を物凄い力で圧迫し続けた。肩に激痛が走ったが、テオドリックは膝を折らなかった。
「そうは思いません」
 テオドリックの緑色の目が陰り、剣呑な光を帯びた。
 キセは顔を青白くして父親の袖を引いた。
「お父さま…」
「お前は危ないから下がっていなさい」
「危ないことをなさるのですか?」
 オーレンはキセを下がらせようとしたが、キセは父親の袖を離さなかった。
「相手がするかもしれん」
「なさいません」
 キセはきっぱり言った。テオドリックはキセの顔を見た。曇りも疑念もない、真っ直ぐな目だ。
「テオドリックはわたしの前で危ないことはなさいません」
「…テオドリック」
 オーレンは眉を寄せ、信じられないと言ったようにテオドリックの顔をまじまじと見た。みるみるうちに眉の下が暗く翳り、双眸が鋭く光った。エマンシュナ軍を震え上がらせた将軍の顔だ。鞘に包まれた剣の切っ先が喉に突きつけられても、テオドリックは怯まなかった。
「――何のつもりだ」
「お父さま、この方は…」
「お前は黙っていなさい、キセ・ルミエッタ!」
 オーレンが激昂したのと同時に、スクネとイユリが開け放たれた扉の前に現れた。
「あれっ、キセ!鍵…」
「鍵は開いていたぞ!」
 イユリはオーレンの怒声にビクッと肩を竦め、直立した。スクネは切れ長の目で呆れたようにイユリを一瞥した。
「どうやって入国し、どうやって娘に近付いた」
 父親の唸るような声を聞き、スクネはその顔を見た。どうも父親の様子が尋常ではない。いくら溺愛する娘が突然連れてきた男だと言っても、ちょっと度を超している。
「父上、この男が何者かご存じなのですか」
 スクネは眉を寄せた。
「テオドリック・レオネ・ルイ・アリスティド・ヴィタリス――」
 テオドリックが礼儀正しい微笑を浮かべて名乗った。
「――アストル・プランス・エリティエ・デマンシュナエマンシュナ王太子。お目にかかれて光栄です。オーレン国王陛下、スクネ・バルーク王太子殿下、イユリ・スキロス王子殿下」
 これを聞くや否や、イユリが怒声を放って飛び出した。
「イユリ!」
 スクネは弟の腕を掴んで制止しようとしたが、間に合わなかった。が、イユリがテオドリックに掴みかかるより先にキセがテオドリックの前に飛び出した。イユリは慌てたが、振り上げた拳の勢いが瞬時に止められない。テオドリックは瞬時にキセの身体を抱き止めて覆い被さるように自分が前へ出、イユリの拳を左後頭部で受けた。
「テオドリック!大丈夫ですか」
 テオドリックは答えず、キセに渋面を見せた。
「自分を傷つけるようなことをするなと言っただろ」
「と、とっさに…」
「どけ、キセ。俺がそいつを殺す」
 イユリはキセと似た美しい目を憎悪に歪め、唸るように言った。
「よせ、イユリ!父上も、少し落ち着いてください。相手は丸腰ですよ」
 スクネがイユリの腕を強く引き、静かな声色で窘めた。オーレンは怒りに燃える目を長男に向け、次に忌々しげにテオドリックを一瞥すると、フン、と鼻を鳴らして娘を見た。
「キセ、その男は――」
「わ、わたしの夫です!」
 キセは叫ぶように言った。テオドリックは目を丸くしてキセを見た。まさかこの娘が家族に向かって嘘を吐くとは。
「テオドリックはわたしの夫です。わたしたちは女神の祝福を受けました」
 父親と兄たちは目を点にして言葉を失ってしまった。怒号も出てこないらしい。テオドリックはその様子がおかしくなって笑い出しそうになったが、唇がひくひくしないように耐えた。
「あらあら」
 と、この修羅場にのんびりした様子で現れたのは、つやつやした赤毛をゆったりと後頭部でまとめ、地味だが上品なイノイル風のドレスを着こなしたふくよかな貴婦人だった。
「小さなキセ・ルルーに春が来たのですね。嬉しいこと」
「ユヤお母さま!」
 キセはぱあっと顔を明るくしたが、すぐにそれどころではない事を思い出してしゅん、と肩を落とした。ユヤは構わずキセに近寄り、娘を抱き締めた。
「お帰りなさい、キセ」
 次にテオドリックににっこりと笑いかけ、右手を差し出した。テオドリックも笑い返し、その手を取って甲にキスをした。
「ユヤ・マリア王妃、光栄です」
 ユヤは穏やかな表情でゆっくりと頷き、次にキビキビと夫と息子たちの方を振り返ると、パンパンと手を叩いた。
「さあさあ!ほら、あなたたちは身支度をしてくださいまし!お客さまを迎えるのに旅装のままだなんて、王家の恥ですよ!」
「ユヤ母上、こいつは――」
 なおも言いかけたイユリを、ユヤは厳しい母の微笑みで黙らせた。オーレンも納得いかない様子ではあったが、唇を引き結んで踵を返した。シトー家でこの母に口答えできる者はいない。
「よろしい」
 ユヤ・マリア王妃はさくらんぼ色の唇を上機嫌に吊り上げ、キセとテオドリックにウインクして見せた。
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