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八、オシアスの祈り - la prière de l’Oceias -
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キセは混乱した。息ができない。呼吸をしようにもテオドリックの唇が自分の唇を覆っている。
この息苦しさから逃れようとテオドリックの胸を押し返そうとしたが、腰を強く抱き寄せられてますます身体がくっついた。
「んん…」
なんとか息をしようとすると、鼻から声が抜けていった。理由はよく分からないがひどく恥ずかしくなった。自分でも身体がカッと熱くなったのが分かる。しかし、相手の方が熱い。
触れ合っている唇と、腰を抱き寄せる手のひらから熱が伝わってくる。波と共に迫り来る春の海の冷たさが、それをいっそう熱く感じさせた。熱くて、湿っていて、柔らかい。
「あんたは――」
テオドリックが唇を浮かせ、囁いた。
「隙が多すぎるな、オシアス・リュミエット」
キセは逃げようとして身体を捩ったが、金色の長い睫毛の向こうから強い光を孕んだ瞳に射られ、動けなくなった。
テオドリックが頬に触れ、顔の角度を変えてもう一度唇を塞いできた時も動けなかった。
これがどういう感覚なのか分からない。分からないが、混乱する頭のどこかでふわふわと不思議な熱っぽさを感じた。その熱が身体中へ伝わり、心臓に早鐘を打たせ、肌を汗で湿らせた。
キセが自我を取り戻したのは、テオドリックの熱い舌がキセの下唇を這い、つついた時だ。
「ん、んんー!」
キセが抗議の声を上げると、意外にもテオドリックはあっさりと唇を解放し、キセから離れた。
「儀式の邪魔をして悪かった」
言葉とは裏腹に、テオドリックは輝くような微笑を浮かべている。
「東屋で待つ」
キセは怒ることも詰ることもできず、浜辺へ上がっていくテオドリックの後ろ姿を茫然と見送った。外套を脱いで東屋の長椅子に腰掛けたテオドリックが柱の奥から顔を出して声を掛けるまで、キセは動けなかった。
「儀式はいいのか?」
「あ…、そうでした。儀式…」
声に出したかどうかも定かではない。キセは崩れ落ちそうになった。羞恥のせいか衝撃のせいか、まだ身体が熱い。海に向かって古代の言葉で唱える神への祈りも、女神に捧げる舞いも、まるで心を尽くせない。抜け殻になった身体が勝手に動いてオシアスとしての義務を果たしているだけだ。
(ど、どうしたら…)
儀式にどれほどの時間をかけたかわからないが、あっという間に終わってしまった。いつもと同じことをしていれば二十分は経ったはずだが、感覚で言えば二十秒くらいだ。テオドリックの待つ東屋へ行かなければならない。
こういう時何をどう祈れば良いのか、経典には書いていなかった。何となく両手を組んで海へ向かい、オスイア神への祈りを心の中で唱え、波の音から答えが返ってこないかと耳を済ませてみたが、そんなはずもない。
(…そう。悪い方ではないはずです)
キセは意を決して海から上がり、東屋へ向かった。最初の直感を信じてみることにしたのだ。
テオドリックは東屋の四方に設えられた燭台へ既に火を入れていた。
柔らかい蝋燭の灯りが、奥の椅子の前に立つテオドリックの顔を照らし出した。少し灰色がかった金色の髪が海風に揺れている。その奥で光る瞳は、南部の海のように鮮やかなエメラルドグリーンだった。
その目が、感情を殺したような静けさでこちらをじっと見つめてくる。
キセは顔を赤くした。恥ずかしくて堪らなかった。相手が何を思ってしたことか知らないが、自分に何をしたのかははっきりしている。とても目を合わせられず、東屋の手前で立ち止まり、意味もなく視線を足元へ落とした。
「今のは――」
テオドリックが口を開いた。
「女神へ捧げる舞いなのか」
やはり、この人の声は胸をざわざわさせる。
「はい…」
と、キセはやっとのことで声を出した。
「美しい舞いだった。舞い手がいいんだな」
今度は優しい声色だ。キセが顔を上げると、テオドリックが柔らかく目を細めている。キセも思わず顔を綻ばせた。
「ありがとうございます、テオドリック殿下」
「夫となる身だ。‘殿下’はいらない」
「あ…」
キセの顔にみるみる血色が上っていく。テオドリックは無言で見つめた。
「あの、そのお話ですが…」
「すんなり受け入れてくれるとは思っていない」
キセは少しだけ安堵した。無理矢理連れて行かれるようなことはなさそうだ。が、テオドリックは表情を変えずに続けた。
「だが受け入れてもらう」
「それは、できません。わたしはオシアスです。オスイア様の祝福を受けました」
キセは左手の薬指に嵌められた指輪の小さなカメオを見せた。女神の横顔だった。テオドリックの見たところ、これも貝で作られている。
「夫を持つまでは、だろう」
それがどうした、と言ってやりたかったが、キセの瞳は真剣そのものだった。また、あの揺らぎのない光が見える。
「生涯オシアスとして、人々のために祈りを捧げて生きるつもりです」
そう言って胸を張ったキセは、まるで遥か遠くを見つめるような微笑を浮かべていた。
これほど美しい娘が生涯を女神に捧げては、世界に哀しみが一つ増える。が、そうはさせない。如何に信仰心が強くても、彼女は王の娘だ。女神よりも国民のために生涯を捧げる義務がある。生まれた時から王になる者としての教育を受けてきたテオドリックには、キセの気持ちが理解できなかった。
しかし、それよりも何故キセが女神に生涯を捧げるつもりでいるのかに興味がある。
「それは、母親がオシアスだったからか?」
「いいえ」
キセは即答した。
冷たい海風がひゅっと吹き、燭台の火を揺らした。動き出したテオドリックの挙動をキセは大人しく見守った。外套を手に取ったので立ち去るものと思ったのだ。
しかし、外套が覆ったのはキセの肩だった。キセがちょっと驚いて礼を告げると、テオドリックは「ハッ」と口を開けて少年のように笑い出した。キセは意味もなく薄衣の胸元を掴んだ。ざわざわする。
「あんたはもっと警戒心を持った方がいいな。さっきも言ったが隙が多すぎる。俺に何をされたか忘れたのか?」
キセの顔がみるみる赤く染まっていく。
テオドリックは面白そうにそれを眺めながら、キセに座るよう促した。
「長くなる。俺はあんたが‘はい’というまでここを離れるつもりはない」
キセは赤い顔のまま押し黙ってテオドリックの立つ場所から一番遠い椅子にちょこんと腰掛けたが、テオドリックは構わずキセの隣にどかっと座った。キセは困惑した。距離を取ろうかと思ったが、それではあまりにもあからさまで無礼な振る舞いだ。逃げ出したい気持ちを抑え込み、辛うじて足を地面にくっつけた。素足のまま踏み締める砂の冷たい感触が、キセの心を叱咤した。
「どうして、ここがわかったのですか?それに、わたしが国王の娘だということも…。家族の他は、数名の者しか知らないはずです」
「そのうちの誰かが漏らしたとすれば、どうする」
「それはあり得ません」
「どうかな。裏切り者はどこにでも潜んでいる」
「ですが、わたしは皆さんを信頼していますし、素晴らしい方々ですよ。仮に、彼らのうちの誰かがわたしの居場所を話したのだとしたら、それほどのご事情があるのでしょうから、それは致し方ありません」
意地悪いテオドリックの言葉にも、キセは朗らかに微笑して応えた。
「お人好しにも程がある」
テオドリックは吐き棄てるように言った。
「教えてくれ。あんたはあんなことをされて何故怒らないんだ」
キセはまたしても顔色を変えた。テオドリックがそのことについて触れるたびにいちいち顔が熱くなる。
「実はさっきのキスが取るに足らないほど、そういうことに慣れているのか?」
「も、もう、そのことはおっしゃらないでください!」
キセは堪らず両手で顔を覆い、ほとんど叫ぶようにして言った。‘キス’と、その言葉だけで耳を塞ぎたいほどだ。
「恥ずかしいんです!あんな、あんな、あんなの…」
突然の取り乱しように、テオドリックは目を丸くした。本当は怒っているのだろうかと思ったが、燭台の灯りでも分かるほどに顔が赤い。耳まで真っ赤だ。
さすがにここで笑ったら心底嫌われるかもしれないと思ったが、耐えられずについ唇の端をひくひくとさせた。ちょっと意地悪を言いすぎた。
「悪かった、ルミエッタ姫。あんたの同意を得ずに無礼な振る舞いだった。名を間違えていたことも謝罪する」
テオドリックはキセの前に膝をつき、顔を覆う柔らかな手をそっと取った。大きな黒目は潤み、目元が赤くなっている。それなのに、少しもこちらを責める様子がない。
(もう一度奪ってしまおうか)
と、不埒な欲求が湧き上がったが、今度は我慢することにした。急いて事をし損じるようなことは避けなければならない。現に、今さっき衝動的な振る舞いをして警戒させてしまったばかりだ。
(しかしこういう反応をするから悪い)
「…もう、けっこうです」
顔を隠すこともできず、伏し目がちに視線を逸らして羞恥に耐えるキセを眺めながらテオドリックは思った。彼女はあまりにも無垢で、無防備だ。
「俺はあんたをずっと探していた。三年間、ずっと」
「三年も?」
これには驚いた。恥ずかしさも忘れ、キセはテオドリックの顔を見た。表情は、真剣そのものだ。エメラルドグリーンの瞳が憂いを帯びてまっすぐ見つめてくる。
「あんたの言う通り内通者などいない。調べたんだ。名も知らないところから、諜者を放ちひたすら情報を集めて、どこかの神殿にいるのではないかと推測した」
「推測…。それで、ここがわかったのですか?」
キセが更に驚いて尋ねると、テオドリックが顎を引いた。
「ここだけ神官の存在が判然としなかったからだ。それと――」
テオドリックはキセの両手を包んだ。その手の柔らかさと温度がまたしても身体を熱くした。キセの頬にも再び血色が昇っていく。
「‘ここだ’と、呼んでいる気がした」
「わたしが、ですか?」
「或いは運命かもしれない。何かに導かれるようにして走り続け、辿り着いた先にあんたがいた」
キセは言葉を失ってテオドリックの美しい目を見た。――というより、その瞳の中に捕らえられてしまったような感覚だった。
(不思議)
とキセが思ったのは、自分のことだ。本当ならもっと混乱していてよいはずなのに、この突飛もない話を何の疑いもなく信じてしまっている。
「俺はいずれエマンシュナの王になる」
テオドリックは続けた。
「だが馬鹿げた戦争まで継承するつもりはない」
キセは自分の手を包むテオドリックの手のひらがひどく熱く感じた。強く握られると、ますます熱い。その温度が、鼓動を速めた。相手が何が言いたいのか、もう分かっている。
「あんたの力が必要だ、ルミエッタ。エマンシュナとイノイルが婚姻を結ぶことで和平が叶う。死ななくていいはずの命をいくつも救える。俺たちが、この不毛な千年の戦を終わらせるんだ」
テオドリックの強い言葉がキセの心を揺らした。
キセの意志は固い。オシアスとして、オスイア神を唯一の主として生きるのだと、五年前にこの神殿へ来てから決めている。それが人々への奉仕であり、人生を世のために捧げる最善の方法だと思ったからだ。
しかし、テオドリックは別の可能性を示した。この可能性を簡単に切り捨ててしまえるほど、キセの頭は単純に出来ていない。
「…少し、考えさせてください」
キセはテオドリックの手をそっと解いて立ち上がり、外套を返した。夜の空気と風が汐に濡れた身体を冷やす。
「あまり時間がない」
テオドリックは返された外套を再びキセの細い肩に掛けた。
「…二日後に巡礼者への大切な儀式があります。それまでは――」
「わかった。待つ」
この短い返事に、キセは眉を開いた。
「ありがとうございます、殿下」
「テオドリックだ」
「では、わたしのことはキセと。‘ルミエッタ’はあまり、馴染みがないんです」
テオドリックが近い位置からキセの顔を見下ろした。
「キセ」
とつ、と心臓が小さく跳ねた。その鼓動が波紋のように全身に広がる。
(名前を呼ばれただけなのに)
キセは思わず目を逸らした。この上テオドリックの目を見ていたら何かまたおかしなことを口走るかも知れない。
「神殿へ戻るんだろう。送る」
テオドリックがごく自然な動作で腕を軽く曲げ、キセに掴まるよう促した。
「せっかくですが、でん…テオドリックさま」
「テオドリック」
テオドリックがうんざりしたように目をぎょろつかせたので、キセは慌てて訂正した。
「‘テオドリック’」
「いい子だ」
テオドリックが目を細めると、キセの心臓がまたしても妙な脈動を始めた。短い時間でこんなに何度も顔が熱くなることは経験したことがない。
「…その、オスイアさまの御前で殿方に触れることはオシアスとしてできませんので、折角ですが結構です」
エスコートを断られたのは初めてだ。テオドリックはちょっと驚いてキセを見た。
「ここが神域だと言うことを気にしているなら、さっきのあれはどうするんだ。オスイアの御前で俺たちは口付けを交わしたぞ」
「あっ…!あ、あれ、あれは…」
今度はキセの顔から血の気が引いた。彼女は赤くなったり青くなったり忙しい。テオドリックは思わず笑い声をあげた。
「あれは、交わしたのではなく、ぶつかったんです。避ける間もなく。ですから心を尽くして女神さまにお祈りすれば、許されます。きっと、多分…」
彼女はオシアスだ。分かりきっていることだが、彼女の世界は女神を中心に回っている。それが、なんとなく気に食わない。
「いいから、早くしてくれ。腕が疲れる」
テオドリックはエスコートのために曲げた腕をキセの前に差し出した。
「え?でもわたしは…」
「オシアスだろうが、女性だ。俺はこんな岩場を女性一人では歩かせない。それともあんたは女神に仕えるオシアスだからと言って善良な紳士たる振る舞いをしようとした男の面子を傷付けてもいいと言うのか」
「そっ、そんな!」
キセは叫ぶように言った。
「そんなつもりでは…」
「じゃあ、エスコートくらいはさせてくれるな?」
キセはすっかり困ってしまった。が、テオドリックの言うことにも一理ある。オシアスとしての規律を守るために、正しい行いをしようとした善良な紳士の気持ちを傷付けるわけにはいかない。
「ほら」
テオドリックがもう一度キセの目の前に腕を差し出した。
「は、はい…」
とキセが言ったのでテオドリックは押し勝ったと思ったが、キセはテオドリックの肘のあたりの布をちょんとつまんだだけで紳士としての礼儀を果たさせるつもりでいるらしい。
テオドリックは何かを言いかけて、口を閉じた。
(まあ、いい)
神官を妻にしようというのだ。簡単にはいかないだろう。
(それに、これはこれで――)
と、自分の馬鹿げた考えに気付き、途中でそれを振り払った。何としてもキセ姫に結婚を承諾させなければ。そのためには、自分の立場を不利にはできない。
テオドリックは居心地悪そうに俯いたキセに微笑みかけ、小さな神殿へ向かった。
この息苦しさから逃れようとテオドリックの胸を押し返そうとしたが、腰を強く抱き寄せられてますます身体がくっついた。
「んん…」
なんとか息をしようとすると、鼻から声が抜けていった。理由はよく分からないがひどく恥ずかしくなった。自分でも身体がカッと熱くなったのが分かる。しかし、相手の方が熱い。
触れ合っている唇と、腰を抱き寄せる手のひらから熱が伝わってくる。波と共に迫り来る春の海の冷たさが、それをいっそう熱く感じさせた。熱くて、湿っていて、柔らかい。
「あんたは――」
テオドリックが唇を浮かせ、囁いた。
「隙が多すぎるな、オシアス・リュミエット」
キセは逃げようとして身体を捩ったが、金色の長い睫毛の向こうから強い光を孕んだ瞳に射られ、動けなくなった。
テオドリックが頬に触れ、顔の角度を変えてもう一度唇を塞いできた時も動けなかった。
これがどういう感覚なのか分からない。分からないが、混乱する頭のどこかでふわふわと不思議な熱っぽさを感じた。その熱が身体中へ伝わり、心臓に早鐘を打たせ、肌を汗で湿らせた。
キセが自我を取り戻したのは、テオドリックの熱い舌がキセの下唇を這い、つついた時だ。
「ん、んんー!」
キセが抗議の声を上げると、意外にもテオドリックはあっさりと唇を解放し、キセから離れた。
「儀式の邪魔をして悪かった」
言葉とは裏腹に、テオドリックは輝くような微笑を浮かべている。
「東屋で待つ」
キセは怒ることも詰ることもできず、浜辺へ上がっていくテオドリックの後ろ姿を茫然と見送った。外套を脱いで東屋の長椅子に腰掛けたテオドリックが柱の奥から顔を出して声を掛けるまで、キセは動けなかった。
「儀式はいいのか?」
「あ…、そうでした。儀式…」
声に出したかどうかも定かではない。キセは崩れ落ちそうになった。羞恥のせいか衝撃のせいか、まだ身体が熱い。海に向かって古代の言葉で唱える神への祈りも、女神に捧げる舞いも、まるで心を尽くせない。抜け殻になった身体が勝手に動いてオシアスとしての義務を果たしているだけだ。
(ど、どうしたら…)
儀式にどれほどの時間をかけたかわからないが、あっという間に終わってしまった。いつもと同じことをしていれば二十分は経ったはずだが、感覚で言えば二十秒くらいだ。テオドリックの待つ東屋へ行かなければならない。
こういう時何をどう祈れば良いのか、経典には書いていなかった。何となく両手を組んで海へ向かい、オスイア神への祈りを心の中で唱え、波の音から答えが返ってこないかと耳を済ませてみたが、そんなはずもない。
(…そう。悪い方ではないはずです)
キセは意を決して海から上がり、東屋へ向かった。最初の直感を信じてみることにしたのだ。
テオドリックは東屋の四方に設えられた燭台へ既に火を入れていた。
柔らかい蝋燭の灯りが、奥の椅子の前に立つテオドリックの顔を照らし出した。少し灰色がかった金色の髪が海風に揺れている。その奥で光る瞳は、南部の海のように鮮やかなエメラルドグリーンだった。
その目が、感情を殺したような静けさでこちらをじっと見つめてくる。
キセは顔を赤くした。恥ずかしくて堪らなかった。相手が何を思ってしたことか知らないが、自分に何をしたのかははっきりしている。とても目を合わせられず、東屋の手前で立ち止まり、意味もなく視線を足元へ落とした。
「今のは――」
テオドリックが口を開いた。
「女神へ捧げる舞いなのか」
やはり、この人の声は胸をざわざわさせる。
「はい…」
と、キセはやっとのことで声を出した。
「美しい舞いだった。舞い手がいいんだな」
今度は優しい声色だ。キセが顔を上げると、テオドリックが柔らかく目を細めている。キセも思わず顔を綻ばせた。
「ありがとうございます、テオドリック殿下」
「夫となる身だ。‘殿下’はいらない」
「あ…」
キセの顔にみるみる血色が上っていく。テオドリックは無言で見つめた。
「あの、そのお話ですが…」
「すんなり受け入れてくれるとは思っていない」
キセは少しだけ安堵した。無理矢理連れて行かれるようなことはなさそうだ。が、テオドリックは表情を変えずに続けた。
「だが受け入れてもらう」
「それは、できません。わたしはオシアスです。オスイア様の祝福を受けました」
キセは左手の薬指に嵌められた指輪の小さなカメオを見せた。女神の横顔だった。テオドリックの見たところ、これも貝で作られている。
「夫を持つまでは、だろう」
それがどうした、と言ってやりたかったが、キセの瞳は真剣そのものだった。また、あの揺らぎのない光が見える。
「生涯オシアスとして、人々のために祈りを捧げて生きるつもりです」
そう言って胸を張ったキセは、まるで遥か遠くを見つめるような微笑を浮かべていた。
これほど美しい娘が生涯を女神に捧げては、世界に哀しみが一つ増える。が、そうはさせない。如何に信仰心が強くても、彼女は王の娘だ。女神よりも国民のために生涯を捧げる義務がある。生まれた時から王になる者としての教育を受けてきたテオドリックには、キセの気持ちが理解できなかった。
しかし、それよりも何故キセが女神に生涯を捧げるつもりでいるのかに興味がある。
「それは、母親がオシアスだったからか?」
「いいえ」
キセは即答した。
冷たい海風がひゅっと吹き、燭台の火を揺らした。動き出したテオドリックの挙動をキセは大人しく見守った。外套を手に取ったので立ち去るものと思ったのだ。
しかし、外套が覆ったのはキセの肩だった。キセがちょっと驚いて礼を告げると、テオドリックは「ハッ」と口を開けて少年のように笑い出した。キセは意味もなく薄衣の胸元を掴んだ。ざわざわする。
「あんたはもっと警戒心を持った方がいいな。さっきも言ったが隙が多すぎる。俺に何をされたか忘れたのか?」
キセの顔がみるみる赤く染まっていく。
テオドリックは面白そうにそれを眺めながら、キセに座るよう促した。
「長くなる。俺はあんたが‘はい’というまでここを離れるつもりはない」
キセは赤い顔のまま押し黙ってテオドリックの立つ場所から一番遠い椅子にちょこんと腰掛けたが、テオドリックは構わずキセの隣にどかっと座った。キセは困惑した。距離を取ろうかと思ったが、それではあまりにもあからさまで無礼な振る舞いだ。逃げ出したい気持ちを抑え込み、辛うじて足を地面にくっつけた。素足のまま踏み締める砂の冷たい感触が、キセの心を叱咤した。
「どうして、ここがわかったのですか?それに、わたしが国王の娘だということも…。家族の他は、数名の者しか知らないはずです」
「そのうちの誰かが漏らしたとすれば、どうする」
「それはあり得ません」
「どうかな。裏切り者はどこにでも潜んでいる」
「ですが、わたしは皆さんを信頼していますし、素晴らしい方々ですよ。仮に、彼らのうちの誰かがわたしの居場所を話したのだとしたら、それほどのご事情があるのでしょうから、それは致し方ありません」
意地悪いテオドリックの言葉にも、キセは朗らかに微笑して応えた。
「お人好しにも程がある」
テオドリックは吐き棄てるように言った。
「教えてくれ。あんたはあんなことをされて何故怒らないんだ」
キセはまたしても顔色を変えた。テオドリックがそのことについて触れるたびにいちいち顔が熱くなる。
「実はさっきのキスが取るに足らないほど、そういうことに慣れているのか?」
「も、もう、そのことはおっしゃらないでください!」
キセは堪らず両手で顔を覆い、ほとんど叫ぶようにして言った。‘キス’と、その言葉だけで耳を塞ぎたいほどだ。
「恥ずかしいんです!あんな、あんな、あんなの…」
突然の取り乱しように、テオドリックは目を丸くした。本当は怒っているのだろうかと思ったが、燭台の灯りでも分かるほどに顔が赤い。耳まで真っ赤だ。
さすがにここで笑ったら心底嫌われるかもしれないと思ったが、耐えられずについ唇の端をひくひくとさせた。ちょっと意地悪を言いすぎた。
「悪かった、ルミエッタ姫。あんたの同意を得ずに無礼な振る舞いだった。名を間違えていたことも謝罪する」
テオドリックはキセの前に膝をつき、顔を覆う柔らかな手をそっと取った。大きな黒目は潤み、目元が赤くなっている。それなのに、少しもこちらを責める様子がない。
(もう一度奪ってしまおうか)
と、不埒な欲求が湧き上がったが、今度は我慢することにした。急いて事をし損じるようなことは避けなければならない。現に、今さっき衝動的な振る舞いをして警戒させてしまったばかりだ。
(しかしこういう反応をするから悪い)
「…もう、けっこうです」
顔を隠すこともできず、伏し目がちに視線を逸らして羞恥に耐えるキセを眺めながらテオドリックは思った。彼女はあまりにも無垢で、無防備だ。
「俺はあんたをずっと探していた。三年間、ずっと」
「三年も?」
これには驚いた。恥ずかしさも忘れ、キセはテオドリックの顔を見た。表情は、真剣そのものだ。エメラルドグリーンの瞳が憂いを帯びてまっすぐ見つめてくる。
「あんたの言う通り内通者などいない。調べたんだ。名も知らないところから、諜者を放ちひたすら情報を集めて、どこかの神殿にいるのではないかと推測した」
「推測…。それで、ここがわかったのですか?」
キセが更に驚いて尋ねると、テオドリックが顎を引いた。
「ここだけ神官の存在が判然としなかったからだ。それと――」
テオドリックはキセの両手を包んだ。その手の柔らかさと温度がまたしても身体を熱くした。キセの頬にも再び血色が昇っていく。
「‘ここだ’と、呼んでいる気がした」
「わたしが、ですか?」
「或いは運命かもしれない。何かに導かれるようにして走り続け、辿り着いた先にあんたがいた」
キセは言葉を失ってテオドリックの美しい目を見た。――というより、その瞳の中に捕らえられてしまったような感覚だった。
(不思議)
とキセが思ったのは、自分のことだ。本当ならもっと混乱していてよいはずなのに、この突飛もない話を何の疑いもなく信じてしまっている。
「俺はいずれエマンシュナの王になる」
テオドリックは続けた。
「だが馬鹿げた戦争まで継承するつもりはない」
キセは自分の手を包むテオドリックの手のひらがひどく熱く感じた。強く握られると、ますます熱い。その温度が、鼓動を速めた。相手が何が言いたいのか、もう分かっている。
「あんたの力が必要だ、ルミエッタ。エマンシュナとイノイルが婚姻を結ぶことで和平が叶う。死ななくていいはずの命をいくつも救える。俺たちが、この不毛な千年の戦を終わらせるんだ」
テオドリックの強い言葉がキセの心を揺らした。
キセの意志は固い。オシアスとして、オスイア神を唯一の主として生きるのだと、五年前にこの神殿へ来てから決めている。それが人々への奉仕であり、人生を世のために捧げる最善の方法だと思ったからだ。
しかし、テオドリックは別の可能性を示した。この可能性を簡単に切り捨ててしまえるほど、キセの頭は単純に出来ていない。
「…少し、考えさせてください」
キセはテオドリックの手をそっと解いて立ち上がり、外套を返した。夜の空気と風が汐に濡れた身体を冷やす。
「あまり時間がない」
テオドリックは返された外套を再びキセの細い肩に掛けた。
「…二日後に巡礼者への大切な儀式があります。それまでは――」
「わかった。待つ」
この短い返事に、キセは眉を開いた。
「ありがとうございます、殿下」
「テオドリックだ」
「では、わたしのことはキセと。‘ルミエッタ’はあまり、馴染みがないんです」
テオドリックが近い位置からキセの顔を見下ろした。
「キセ」
とつ、と心臓が小さく跳ねた。その鼓動が波紋のように全身に広がる。
(名前を呼ばれただけなのに)
キセは思わず目を逸らした。この上テオドリックの目を見ていたら何かまたおかしなことを口走るかも知れない。
「神殿へ戻るんだろう。送る」
テオドリックがごく自然な動作で腕を軽く曲げ、キセに掴まるよう促した。
「せっかくですが、でん…テオドリックさま」
「テオドリック」
テオドリックがうんざりしたように目をぎょろつかせたので、キセは慌てて訂正した。
「‘テオドリック’」
「いい子だ」
テオドリックが目を細めると、キセの心臓がまたしても妙な脈動を始めた。短い時間でこんなに何度も顔が熱くなることは経験したことがない。
「…その、オスイアさまの御前で殿方に触れることはオシアスとしてできませんので、折角ですが結構です」
エスコートを断られたのは初めてだ。テオドリックはちょっと驚いてキセを見た。
「ここが神域だと言うことを気にしているなら、さっきのあれはどうするんだ。オスイアの御前で俺たちは口付けを交わしたぞ」
「あっ…!あ、あれ、あれは…」
今度はキセの顔から血の気が引いた。彼女は赤くなったり青くなったり忙しい。テオドリックは思わず笑い声をあげた。
「あれは、交わしたのではなく、ぶつかったんです。避ける間もなく。ですから心を尽くして女神さまにお祈りすれば、許されます。きっと、多分…」
彼女はオシアスだ。分かりきっていることだが、彼女の世界は女神を中心に回っている。それが、なんとなく気に食わない。
「いいから、早くしてくれ。腕が疲れる」
テオドリックはエスコートのために曲げた腕をキセの前に差し出した。
「え?でもわたしは…」
「オシアスだろうが、女性だ。俺はこんな岩場を女性一人では歩かせない。それともあんたは女神に仕えるオシアスだからと言って善良な紳士たる振る舞いをしようとした男の面子を傷付けてもいいと言うのか」
「そっ、そんな!」
キセは叫ぶように言った。
「そんなつもりでは…」
「じゃあ、エスコートくらいはさせてくれるな?」
キセはすっかり困ってしまった。が、テオドリックの言うことにも一理ある。オシアスとしての規律を守るために、正しい行いをしようとした善良な紳士の気持ちを傷付けるわけにはいかない。
「ほら」
テオドリックがもう一度キセの目の前に腕を差し出した。
「は、はい…」
とキセが言ったのでテオドリックは押し勝ったと思ったが、キセはテオドリックの肘のあたりの布をちょんとつまんだだけで紳士としての礼儀を果たさせるつもりでいるらしい。
テオドリックは何かを言いかけて、口を閉じた。
(まあ、いい)
神官を妻にしようというのだ。簡単にはいかないだろう。
(それに、これはこれで――)
と、自分の馬鹿げた考えに気付き、途中でそれを振り払った。何としてもキセ姫に結婚を承諾させなければ。そのためには、自分の立場を不利にはできない。
テオドリックは居心地悪そうに俯いたキセに微笑みかけ、小さな神殿へ向かった。
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結婚してすぐに辺境にて部族の反乱が起こり、平定戦に向かう。
帰還したカトルは、族長の娘であり『精霊の愛し子』と呼ばれている美しい女性イルサナを連れていた。
カトルはイルサナを寵愛しはじめる。
王城にて居場所を失ったフィアナは、聖騎士ユリシアスに下賜されることになる。
ユリシアスは先の戦いで怪我を負い、顔の半分を包帯で覆っている寡黙な男だった。
引け目を感じながらフィアナはユリシアスと過ごすことになる。
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