獅子王と海の神殿の姫

若島まつ

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七、オスイア神殿の姫 - la Prêtresse aux yeux des nouvelles lunes -

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 東に広がる海が夕闇を導こうとする頃、岬が見えた。――ネリだ。岬というにはやや丸みを帯びた地形で、海流もそれほど激しくない。この岬の平坦な場所に、丸屋根の白っぽい建物がぽつんと建っている。小屋のようにも見える。その小屋の丸い窓から、明かりが漏れている。
 数百メートル手前で、槍を持ち、つばのない黒の帽子をかぶった若い警備兵に前方を塞がれた。イノイル軍の兵士かと思ったが、イノイル軍の波と鷲の紋章がついた青い隊服ではなく、エメラルドグリーンの法衣のような丈の長い上衣を着、首には店主がくれたものと同じような帆立の首飾りをかけているからオスイア神殿に仕える僧兵か何かだろう。
「ここに来た理由は」
 テオドリックは馬を降り、懐から首飾りを出して見せた。警備兵は暗い色の瞳で注意深くテオドリックの顔と帆立の首飾りを交互に見た後、小さく頷いて道を開けた。
「オシアスによる満月の儀式は明後日までないが、礼拝堂の祭壇は開いているから、そこで祈りを捧げるといいぞ」
 と、丁寧に案内までしてくれた。最後に警備兵は、店主がテオドリックに見せたのと同じような目をし、「なあ、あんた」と優しく呼びかけた。
「あまり思い詰めるなよ。オスイアさまはすべての者の言葉を聞いてくださる」
 まるで自殺志願者の説得でもしているような口ぶりだ。
(俺はそんなに憐れみを誘う顔をしているのか)
 確かにアストレンヌを発ってから必要最低限の食事しかせず、特に身なりを整えることもしなかったから、十日前と比べれば多少はみすぼらしく痩せているかもしれないが、少なくとも姫に求婚するために早朝に湯に浸かり髭を剃り髪を整え、衣服も綺麗なものに替えた。それに、容姿について劣等感を持ったことなど今まで一度もない。ちょっと心外だ。が、今はそれが好都合でもある。テオドリックは無表情を崩さずに無言で顎を引き、再び馬に跨って前方を目指した。
 汐の香りが濃くなり、肌に感じる空気に海の湿気が混ざり始めた頃、目の前に丸屋根の白い神殿が現れた。
 神殿と言うには小さく、ひと家族が慎ましく暮らすのに丁度良い程度の大きさだ。この小さなドームの側面に設けられた木の扉が開け放たれ、濃くなった夕闇に向かって光を伸ばし、その中から何か香木を燃やすような芳香が漂ってくる。
 この中に探し続けていた光の姫がいる。テオドリックは馬を降り、岩肌の露出した地面を踏みしめた。柄にもなく緊張しているのか、一歩が重い。
 扉の前に立って中を覗くと、神殿の中央に太い木の幹を滑らかに削って造られた祭壇があり、その上に立つ等身大の女神の石像が両腕を軽く広げて微笑を湛え、巡礼者を歓迎していた。女神の足元には香炉やいくつもの蝋燭が置かれ、それらの中央に祈りを捧げるために膝をつくクッションが置かれている。中央はサテンの深い青の生地が擦れて薄くなり、巡礼者たちの足跡を残していた。
 が、内部には誰の姿もない。
 テオドリックは神殿に入らずに周囲を見渡し、何気なく岩場の端へ近付いてみた。数メートルほど下に海が見える。テオドリックの立つ岩壁の真下には狭い砂浜があり、岩が半円を描いて浜を囲んでいる。箱庭のようでもある。長い年月をかけ、岩のこの部分だけが波に侵食されてこうなったのだろう。
 その丸く削り出された岩の壁に沿って蝋燭の小さな火がいくつも灯り、浜の右端に建てられた小さな六角屋根の東屋と夕闇に暗く染まる砂浜を仄かに照らし出している。
 テオドリックは、浜の中央を凝視した。
 何かが動いている。
 足元を見渡すと、右端に狭い階段を見つけた。テオドリックは足早にそちらへ向かい、ごつごつした石の階段を下りた。やや粗い浜の砂がブーツの底に擦れるのを足の裏で感じながら、中央へ進んだ。遠くから迫り来る波と、浜辺と岩壁に寄せては打つ波の音が、痛いほど耳に響く。
 東の空の低い位置に昇った不完全な月が、柔らかく風に揺れる薄衣の裾を汐に濡らし、沖に向かってゆったりした独特のリズムで舞う乙女をほのかに照らし出した。
「‘リュミエット’――」
 つい、声が出た。彼女に違いない。やっと見つけた。
 波打つ漆黒の髪が頼りない背中を覆い、蝶のようにひらひらと靡く袖から伸びる腕が月光を受けて夕闇に白く輝いている。
 乙女がゆっくりと振り返ってこちらを見た。
 一瞬、息が止まった。
 短い前髪の下で細く頼りない眉がゆっくりと開き、大きな黒目がこちらを凝視している。その黒目の大きさのせいなのかどうか、十六か十七にしては少し幼顔に見える。その目に映るものが、驚きなのか恐怖なのか、或いは純粋な好奇心なのか、テオドリックにはわからなかった。
 白い薄衣のローブの胸元から細い鎖骨が覗き、胸の下で結ばれた帯の下からゆったりした裾が軽やかに風に踊り、足元で波に揺れている。
 どういうわけか、目が離せない。
 テオドリックは姫の方に歩み寄り、求婚のために着た真新しい絹のズボンが濡れることも厭わず、迷いなく海へ入った。姫が逃げる気配はない。初めて見る生き物を遠巻きに観察するように微動だにせずこちらを見つめてくる。それは、テオドリックがすぐ触れられる距離まで近付いても変わらなかった。
 近くで見ると、小柄だがやはり美しい娘だった。卵型の輪郭のやや低い位置に小ぶりながら筋の通った鼻と丸みのあるアーモンド型の目が配置され、透き通るような肌に対比して黒目の大きさが際立って見える。
(新月の夜のようだ)
 と思った。
 月光が黒い睫毛の影を目元に落とし、その奥の真っ黒な瞳に、新月の夜空に輝く星のような光がいくつも散っている。ほどよい厚みのふっくらした唇が何か言葉を発する直前のように僅かに開き、再び閉じた。
 あの唇に触れたらどれほど柔らかいだろうかなどという夢想を振り払い、第一の目的を遂行することにした。テオドリックは汐に濡れた乙女の柔らかい手をそっと取り、目線の高さまで持ち上げて、少し膝を曲げた。
「‘リュミエット’、あんたを妻として迎えるために来た。俺は――」
 と、言葉を切った。重大なことを言われているのにもかかわらず、黒い瞳が感情を放棄したように、こちらの顔を凝視したまま動かない。
 テオドリックは眉を寄せ、今度は薄衣の袖から伸びる細い腕を掴んだ。一瞬、その肌の柔らかさに思わず手を引っ込めそうになったが、今はもっと大事なことがある。
「おい…」
 どこか身体の具合でも悪いのかも知れないと思い始めたとき、目の前の娘が怪訝そうな顔をしてゆっくりと首を傾げた。
 不可解な反応だ。恐怖心を露わにされることや逃げ出そうとされることは想定していたが、こういう反応は予想していなかった。
 ‘リュミエット’は暫くテオドリックの顔をまじまじと見つめた後、何故か胸へと視線を下ろし、小さく息をついた。見知らぬ男に腕を掴まれているというのに、振りほどこうとする気配もない。もう一度名を呼ぶと、初めて言葉を発した。が、テオドリックには意味が理解できなかった。
(――月の言葉と言ったか?)
 もし人違いであればもっと違う反応をするはずだ。まさか頭が弱いのだろうか。しかし、オシアスになるための修行を終え、儀式で巡礼者たちに祝福を授ける役目を担っているくらいだからそんなはずはないだろう。などと考えていると、ようやく自失から意識を取り戻したように娘がチラリとこちらを見上げた。
「あ、すみません…」
 これが求婚に対する答えだとしても、少なくともまともな会話は成立しそうだ。テオドリックは内心で安堵した。が、軽々しく謝罪を口にするのは、成り上がり者とは言え国王の娘たる者として相応しい振る舞いではない。
「なぜ謝る」
 それが返答かという意味合いの質問だったが、言葉の端にそういう感情が表れたのかもしれない。娘が伏せた目蓋の下で長い睫毛の影が揺れた。
「何か、お気を悪くされたのかと」
(怯えさせただろうか)
 それにしては、動揺が見えない。テオドリックは目線を下げ、娘の手を見た。相変わらず掴まれた腕を振りほどく素振りも、緊張しているような様子も見えない。
(まさかとは思うが…)
「話を聞いていたか」
 と尋ねて、考えが正しいことを知った。娘が気まずそうにごにょごにょし始めたからだ。記憶にある限り、発言を無視されたことなど一度もない。それも、女性からこれほど眼中に全くないというような扱いを受けたことは、もっとない。これまで女性に対しては品行方正で優雅な王太子として恥ずかしくない振る舞いをしてきたが、長旅の疲れと傷付けられた自尊心が言動を荒っぽくさせた。
 テオドリックは苛立ち紛れに娘の腕を掴む手に力を入れて身体を引き寄せた。
 黒い巻き毛が揺れ、甘やかな花の香りが空気中に散った。それがこの娘の匂いであることを認識すると、途端に身体が熱くなった。人生で初めて生身の女に触れた時のような気分だ。
 ところが、テオドリックの思惑に反して娘はあろうことか目の前の衣装をまじまじと見つめている。
(くそ)
 馬鹿げた考えを振り払うために渋面を作り、テオドリックははっきりとした声色で言った。
「俺はテオドリック・レオネ・アストル――」
 はっ、と娘が顔を上げてこちらを見た。新月の夜空のような瞳に吸い込まれそうだ。
「エマンシュナ王の嫡男だ」
 今度こそ、この黒い瞳に驚きが映るのをテオドリックは見た。しかし、それも束の間だった。娘はすぐに穏やかな微笑を浮かべ、
「キセです」
 とだけ名乗った。
「そんなはずはない」
 と、もう少しで声が出るところだった。この娘が‘リュミエット’でなければ王妃となるべき女は一体どこにいるというのだ。
 ところがキセと名乗った娘は何かを思い出したように「あ」と声を上げた。
「そうでした。キセ・ルミエッタ・・・・・・シトーです。テオドリック殿下」
 そう微笑むと同時に、膝を曲げようとしたらしいキセが突然波に攫われそうになった。テオドリックはヴィゴの悪筆を恨めしく思うより先にほとんど反射的に動いて腕を引き上げてやった。すると、膝どころか髪まで汐に濡れてしまったキセが、わなわなと口元を強張らせた。
 今度こそ怯えさせてしまった。とテオドリックは思った。大丈夫かと声を掛けようと思ったところで、今度はキセが声を押し殺して笑い出した。
 仮にも敵国――しかもその国との紛争で兄を亡くしているというのに、その王太子を前にして事もあろうに笑い出すとは、よほど肝が座っているのか、それともやはり頭が弱いのだろうか。
「腕を掴んでくださっていたおかげで頭のてっぺんで濡らさずに済みました」
 そう言って、キセはまた腹をひくひくさせて笑い出した。
(馬鹿げている)
 悲壮な思いでこの地まで来たというのに、その決死の覚悟がこの楽しそうな笑いに変えられてしまったように感じた。が、いささかも不快ではなく、むしろいつまでも聞いていたいほどにこの娘の声がふわふわと心地よかった。いつの間にか、あれほど騒がしかった波の音が聞こえなくなっている。
(しっかりしろ)
 と、テオドリックは自らを戒めた。重大な交渉を前に、相手の――しかも年下の少女と言ってもいい年頃の娘の懐に飲み込まれては、こちらの面目がまるで立たない。
「…本当に聞いていなかったようだな」
 と尚更不機嫌な声色を取り繕うと、案の定キセは不安そうに眉尻を下げて慌て始めた。性根が素直な娘なのだろう。百戦錬磨の怪物の娘というには、覇気というものが全く感じられない。しかし、キセが最も畏れたのは、神官しか立ち入ってはいけない海の神域に余人の進入を許してしまったことであるようだった。
(くだらない)
 俺は眼中に無しか。とは言わなかったが、そういう態度が言葉に出た。
「俺は神など恐れない。戒律など、人間が勝手に作ったものだろう」
 言った直後に失言だったと思った。仮にもこれから求婚しようという相手の神を否定したのだ。いつもならもっと巧く女性を誘うこともできるはずなのに、明らかに調子を狂わされている。相手にその自覚がないのがなお悪い。
 ところがキセは少し考えた後、春の野のようにのんびりとした声色で「なるほど」と呟くように言った。
「それも道理ですね」
 不思議な娘だ。信仰する神が否定されたら、神官であればもっと反駁して然るべきだろう。
「ですが、わたしの役目は戒律を守るというだけではないのですよ。みんなが大切にしているものを神官のわたしが守っているのです。オスイアの女神様がわたしたちをお守りくださるように」
 テオドリックはこの時、春の陽射しのようなキセの微笑みの中に、揺るぎない信念のような光を見つけた。
 既に夕陽は遠く西方に見える山の稜線の向こうへ姿を消し、歪な月が先ほどよりも高い位置に昇って辺りをぼんやりと照らしている。
 その中にあって、キセ・ルミエッタが眩しく見えた。
 空から零れ落ちそうなほどの星と月光を受けて輝く海がそうさせているのか、それとも彼女の肌を濡らした汐が月灯りに煌めいているせいなのか。
「御用向きは後ほど浜辺の東屋で伺います。すみませんが、儀式を終えるまで――」
「あんたを俺の妻にする」
 テオドリックはキセの言葉を遮り、きっぱりと言った。
(追い払われてたまるか)
「用向きはそれだ」
 テオドリックは掴んだままの細い腕を強く握った。
 キセは黒い目をまんまるくして言葉を失ってしまったようだった。今度こそ相手の肝を抜いてやった、と子供じみた悦びが胸に湧いた。同時に、この姫がこれまで探し求めていたよりももっと欲しくなった。
 話している途中の表情のまま凍り付いたキセに向かって、テオドリックはわざと
「リュミエット」
 と低い声で呼びかけた。
 キセは茫然としたまま足を一歩後ろに引こうとした。多分、テオドリックが何をしようとしているか理解せずとも本能的に予感したのだろう。
 テオドリックは自分の欲求に気付かない振りを続けることを諦めた。
 腕を強く引き、細い顎を持ち上げ、何か言葉を発しようとした愛らしい唇を奪った。
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