獅子王と海の神殿の姫

若島まつ

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五、最後通牒 - Ultimatum -

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 テオフィル王が三番目の愛人のために用意したシェダル宮は、アストレンヌ城から続く王都のメインストリートであるマヴェルス大通りを南下して数百メートルの場所にある。女が一人住むには大きすぎるほどの規模で、屋外にはどこぞの公爵邸かと思われるほどの立派な庭園と温室や水浴場があり、王をいつ迎えてもよいように使用人が大勢仕えている。この屋敷では王の不在の時も毎晩のように宴が開かれているという話は、テオドリックも聞き及んでいる。
 この忌々しいほど豪奢な屋敷に、テオドリックは足を踏み入れた。屋敷の主人は薔薇が好きらしく、良く磨かれて艶々とした木の床が広がるエントランスに噎せ返るほどの薔薇がいくつもの陶の花瓶に飾られ、訪問客を出迎えている。
 テオドリックは花の歓迎を無視し、屋敷の中央の廊下をズカズカと進んだ。初めて来た屋敷の勝手など知らないが、奥の階段を上がればどこかに寝室があるだろう。使用人は突然の高貴な訪問者を力ずくで止めるほどの度胸も機転もなく、揃って間抜けに口を開けてぽかんとしている。黒いドレスに白いエプロンを軍隊のように揃えた彼らは、主人への忠誠心と能力を見れば、実家やレグルス城の使用人とは雲泥の差だ。
「あっ、そちらは…」
 二階の中央にある白い扉の前に差し掛かると、背の低い女中が初めて声を上げた。憤ってさえいなければ、彼女に不用意な一言への感謝の言葉を伝えていたところだ。
 重い扉を開けると、細密な花柄の壁に四方を囲まれた大勢が同時にダンスできそうなほど広い部屋の中央に白いレースの天蓋が架かり、その奥から耳障りないびきが聞こえてくる。
 テオドリックは繊細なレースの天蓋を千切れそうな勢いで引き、毛布から裸の胸を出して眠る父とその愛人を見下ろした。
(肥った)
 と思った。記憶にある父は闊達で、それほど熱心ではなかったとは言え健康のために身体を鍛えていた。今は胸の肉が垂れ、腹はふやけた丘を作っている。
「父上」
 刺すような声で呼ぶと、先に女が目を覚ました。愛人のヴェロニク・ルコント侯爵夫人は驚いて濃く長い睫毛に縁取られた灰色の目を見開いたが、慌てた様子もなく毛布を胸まで引き上げて上体を起こし、暗い金色の長い巻き髪をささっと指で整え、王太子に向かって恭しく頭を下げた後、隣で眠る王を揺り起こした。
 この仕草に、テオドリックはひどい嫌悪感を抱いた。父親より二十は年下のはずだが、その年の割に妙に落ち着いていて傲岸とも思えるほど冷静だ。
 目を覚ました国王は大きなあくびをして口髭の端を掻き、微笑む愛人の頬にキスをしてからまだ開ききっていない目で息子を見た。
(王の顔じゃない)
 荒淫のせいか目の下は腫れぼったく垂れて皺を作り、英気が漲って凜と光を宿していたかつての目とはまるで違う人物のものだった。
「外せ」
 テオドリックが父の愛人を見下ろして短く命じると、愛人は赤い唇に微笑を湛えたままもう一度恭しく頭を下げ、科を作るような仕草で毛布を身体に巻き付けて扉の外へ向かった。
 身体を隠すものがなくなってしまったテオフィル王は大儀そうに下着を履いてベッドの端に座り、息子に向き合った。
「…しばらく見ぬ間に、顔つきが変わったようだ」
「お互い様です」
 テオフィル王は喉を鳴らして短く笑い、すぐに真顔に戻って億劫そうに息子の顔を見上げた。
「何の用で来た」
「タレステラへの進軍をやめさせてください」
 テオフィル王は鼻で笑った。
「軍が協議して決めたことだ。国王といえど彼らの決定を尊重しないわけには――」
「娘が指揮を執ることになってもですか」
 テオフィルは口を閉ざした。その青い瞳に罪悪感がチラリと映り込んだのをテオドリックは見逃さなかった。
「知っていましたね。あなたの指示ですか」
「…わたしは命じていない」
 テオフィルは憂鬱そうに首を振った。恐らく真実だろう。が、これはもはや軍さえも国王に敬意を払わなくなっているということを暗示している。テオドリックは手当たり次第に物を投げて暴れたい衝動に駆られたが想像の中に留め、声を発する前に細く息を吐いた。
「軍は王族が姿を見せればタレステラ諸侯の気が変わるとでも思っているかも知れませんが、タレステラはもう王国を信用していない。王の代わりに王女が軍を率いていけば、役目を果たす前に血を流すことになる。――あなたの代わりに、俺の姉が、殺されるかもしれないんだ!」
 テオドリックが声を荒げた。冷静でいられないのは、父親も同じようだった。テオフィルは頭を抱え、気持ちを落ち着かせるように深く呼吸をした。指の間から覗く明るい金色の髪に、白い毛が多く混ざっている。
「…ではどう対処する。相手はオーレン王だ。あの男はアストル家の血を見るまで引き下がりはしないだろう。それともお前が今ここでわたしの首を斬って差し出すか?」
 皮肉を言って乾いた笑い声をあげた国王を、テオドリックは冷え冷えとした気持ちで眺めた。同時に、この父親がひどく憐れな存在に思えた。父親に対してこれまで一度も持ったことのない感情だった。
「…解決策があります、父上」
 テオフィル王は澱んだ青い目を息子に向けた。
「和解をするのです。オーレンには未婚の娘がいる」
 テオドリックは、表情は冷淡なまま、縋るような気持ちで言った。が、テオフィルは狂ったように大口を開けて笑い出した。
「あのオーレン王が娘をお前に嫁がせると思っているのか!人質を差し出すも同然の不利な婚姻を、オーレン・シトーが承諾するとでも?馬鹿なことを。あの男には不利な契約を敢えて今結ぶ理由などない。タレステラは陥落寸前なのだからな!」
「娘を差し出すのは、あなたもです。父上」
 テオフィルが眉間に深々と皺を作ってテオドリックを見上げ、立ち上がった。いつの間にそうなったのか、既に息子は父親の背丈を超えていた。
「王の身代わりではなく、イノイルの王太子妃として」
 じわりじわりと父親の青い瞳に怒りが溜まっていくのを見、テオドリックは続けた。
「…オーレン王の嫡男もまだ妻を迎えていません」
 テオフィルの口髭が微かに震えた。
「わたしの娘を、敵国に嫁がせるなど――」
「仰ることが無茶苦茶です。あなたは娘の血でタレステラを我が国に引き留めようとしているんですよ」
 この時のテオドリックは誰の目から見ても冷ややかな目をしていたに違いない。が、それに負けず王の怒りも凄まじかった。テオフィルはサイドテーブルのピオニーの描かれた陶の天板から銀の透かし彫りの嗅ぎタバコ入れを引っ掴んで息子に向かって力任せに投げつけた。テオドリックは微動だにせずそれが頬を打つのを受け入れ、力強い深緑の瞳で父親を静かに見つめた。
「タレステラはイノイルと商売をしたがっているんです。別にイノイルの一部になりたいわけじゃない。だがこのままの状態が続けば、それが現実になる。俺たちはタレステラを失うだけでなく、敵に回すことになります。そうなれば、エマンシュナの経済は崩れます。ただでさえ長年の戦のせいで金がないんです。ルドヴァンも、他の地域も離反します。次に起こるのは、王国の崩壊だ」
 テオフィルは肩で息をしながら息子の頬を流れる赤い血を見つめている。自分がしたことにようやく気付いたようだった。テオドリックは屈んで銀の嗅ぎタバコ入れを拾い上げ、ゆっくり歩いて父の傍らのサイドテーブルに戻した。
「それを防ぐために国王が舵を取らなければ」
 テオフィルはゆっくりとベッドに座り、両膝に肘をついて背を丸めた。まるで最後通牒を受け取ったようだった。息子の言わんとしていることはもう分かっている。
 ふやけた肉の奥から頼りない肩甲骨が浮き出た背を静かに眺めながら、テオドリックは続けた。
「一年――いや、半年で和平を取りまとめて見せます」
「その後はどうする」
「俺が王になる。あなたは玉座から退いてください」
 テオドリックはきっぱりと言った。謀反と受け取られて首を刎ねられてもおかしくない重大な発言だ。
 初めてテオフィル王がテオドリックの目をまっすぐ見つめた。父親の青い目がゆっくりと細まり、やがて身体の力が抜けたように長く深い息をついた。怒りに耐えているようにも、呆れたようにも、安堵したようにも見える。テオフィル王は感情の読み取れない表情のまましばらく息子の顔を眺めた後、口を開いた。
「やってみろ。失敗すれば――わかっているな」
 テオフィル王の眉の下に暗い影が落ちた。

 シェダル宮の薔薇の匂いが立ち込めるエントランスへ降りると、黒いドレスで服装を揃えた使用人たちが総出で王太子の見送りのために整列していた。
 中央には長い巻き毛の金髪を下ろしたまま肩が露わになるほど襟が大きく開いた真紅のドレスを身に纏ったヴェロニク・ルコント侯爵夫人が背を真っ直ぐにして佇み、王太子を待っている。いつの間に身支度を終えたのか、化粧までしていた。ベッドの上ではわからなかったが、背が高い。父親が何故この女を愛人に選んだのか分かった。顔立ちの美しさは遠く及ばないが、髪の色と身体つきが、亡くなった母に似ているのだ。
「王太子殿下」
 ヴェロニクがしゃなりと膝を曲げ、テオドリックに向かって礼をした。それに倣い、使用人たちも揃って膝を曲げた。
「先ほどはお見苦しいものをお目に入れてしまい、お恥ずかしい限りでございます。突然のご訪問とは言え、おもてなしも行き届かず、申し訳ございませんでした」
 ヴェロニクは恥じ入ったように濃い睫毛を伏せた。
 テオドリックは嫌悪感をおくびにも出さず、父親の愛人に微笑んで見せた。
「こちらこそ邪魔をした、ルコント侯爵夫人。あなたからもてなしを受けに来たのではないから、何も気にする必要はない」
 ヴェロニクの赤い唇が左右に伸び、どこか淫蕩の香りを漂わせるような微笑を見せた。
「寛大な御心、心より感謝を申し上げますわ。この次は――」
「次はない。安心しろ」
 テオドリックのにべない返事にも表情を変えることなく、ヴェロニクはもう一度膝を深く折って王太子への礼をし、扉が閉まるまでその体勢を崩さなかった。

 門前では登城のための礼装をしたイサクが馬を二頭連れて待っていた。長い絹の上衣の群青色の裾が冷たい風に靡いている。
「首尾は」
 テオドリックが鹿毛の馬に跨るのを眺めながら、イサクが訊ねた。
「半年だ」
「半年!?」
 イサクは鐙に足をかけるのも忘れて叫んだ。
「そうだ。失敗すれば比喩ではなく首が飛ぶ」
 テオドリックは不敵にもからりと笑って見せた。あまりのことにイサクは言葉を失ってしまった。まさか主が父親とこんな危険な約定を結んでくるとは思ってもいなかった。
「時間がない。さっさと嫁取りに行くぞ」
 テオドリックは馬の腹を踵で蹴った。
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