獅子王と海の神殿の姫

若島まつ

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四、隠された光 - la Princesse perdue -

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 イノイルの姫について調べ始めてから半年経って、ようやく名前が分かった。
「リム…違うな。‘Lumielleリュミエル’…これは‘t’か?」
 テオドリックは王族が住まうにはどちらかと言えば質素なレグルス城の最上階にある自室で、間諜が鳩を使って送ってきた小さな紙片を見ながら首を捻った。ひどい悪筆な上、雨にでも打たれたのか文字が所々滲んでいる。イサクが後ろへ回り、テオドリックが手に持った紙片を覗き込んだ。
「…‘t’のようだな」
「‘Lumiette’」
「そう見える」
 イサクが頷いた。
「リュミエット――‘光の子’か」
 テオドリックは独り言のように呟きながら、半円形の窓の外に架かる月を見た。白金色の不完全な円形の月が薄い七色の光の筋を黒い空に伸ばし、雲を灰色に浮かび上がらせて地上に触れようとしている。
「俺の計画に相応しい名だ」
 そう言って形の良い唇を吊り上げ、紙片を燭台の火にべた。小さな黒い灰が舞い、濃い色の机に落ちた。
「海鷲の王が厳重に守っているぞ。どう探したものかな」
 イサクが短く息をついて栗色の短い髪を後ろへ撫でつけ、腕を組んで隅のソファに腰を下ろした。王太子の自室でこれほど気軽に振る舞えるのは、この国ではイサクしかいない。
「お前が間諜どもに半年探させて姫の所在に繋がるものが何も出なかったんだ。やり方を変えるしかないな」
 イサクはフム、と切れ長の目で主の顔を見、無言で先を促した。
「切り立った崖を登ろうとして何度も落ちるより、少しでも緩やかな道を探す方が確実だ」
「何から始める」
 イサクがサイドテーブルから瓶を取り上げて濃い色のワインを獅子の装飾が施されたグラスに注ぎ、テオドリックに差し出した。テオドリックはイサクの座るソファの分厚い肘掛けに無造作に腰を下ろし、イサクの手からグラスを受け取った。
「何も出ないなら所在を探るのをやめればいい。その代わり、リュミエット姫と周囲の者の情報を集める。どんなに些細なことも、できる限り多く」
「人員を増やす必要がある」
 イサクはもう一つのグラスに自分のワインを注ぎ、テオドリックが差し出したグラスにカチンと触れさせた。
「内密にやれよ。イノイルは無論…」
にも。承知してるさ」
 イサクは眉を上げた。

 一年後、テオドリックのもとへ集まった情報は膨大なものだった。他者の目がある執務室や書斎などには集めておけないから、集まった情報は普段から本人と従者以外の誰も入ることのできない寝室に保管した。深い緑の上に金色の蔦模様が装飾された壁にイノイルの地図が貼られ、王都オアリスの他、イノイル最東端の岬、南イノイルの海沿いに点々と印が付けられている。姫の所在は相変わらず不明だが、ある程度の目星が付けられる程度にはなった。
 間諜のもたらした多くの些末な情報の中から、姫に繋がりそうなものをつなぎ合わせていく。
 この干し草から縫い針を探すような作業の末にテオドリックが目をつけたのは、‘オスタ教’だった。
「オーレン王は無神論者かと思っていた」
 テオドリックは壁の地図にいくつも青いインクで印された海岸沿いの小さな三角形を南から順に眺めて言った。
「オーレン王は漁師の家の生まれだ。不思議ではないさ。それにイノイル人のほとんどがオスイア神を信仰している。我が国にも海沿いの地域では少なくないぞ」
 とイサクが言った通り、エマンシュナの海岸沿いの一部地域やイノイルのほぼ全域で海の女神オスイアを主神とするオスタ教が信仰されている。
 オスイア神は母なる海そのものであり、時に荒ぶって災厄をもたらし、そしてそれ以上の恩恵を人々に与え続ける存在として、漁師や船乗り、海洋貿易を生業とする者たちの信仰の対象となっているのだ。
 古くから海が故郷であると考えているイノイル人は、そのほとんどがオスタ教徒だ。が、彼らの信仰心の程度は様々で、毎日海の方角に設けた祭壇に供物を置き香を焚いて長い時間祈りを捧げる者もいれば、オスタ教徒であるという意識が希薄なまま日常生活の中にその儀礼的な習慣を取り込んで過ごしているに過ぎない者もいる。
「だが大抵は習慣的なものだ」
 と、テオドリックはそのことを言った。
「主を弑して自らが王になるような男が敬虔な女神の信徒だなど、俺には信じられない」
 テオドリックはドカッと長いソファに腰を下ろしてふかふかの黒い背もたれに背を預けた。
 その手には、間諜からの報告が記された紙片が握られている。この小さな紙片によると、オーレンが王になってからイノイル国内のオスイア神殿が倍の数に増えたらしい。オーレン王の純粋な信仰心による寄進なのか他に目的があるのか判らないが、テオドリックは後者に違いないと考えている。
(この中のどれかに‘リュミエット’を隠したのではないか)
 と発想してから、他の一切をイサクに任せてイノイル国内のオスイア神殿の情報ばかりを集めるようになった。
 それも場所だけでなく、神殿の規模や、いつ建てられたか、寄進者が誰か、神官や巫女が何人いるかなど、イサクからするとうんざりするほどの詳細だ。小さな礼拝堂と言えるほどの規模のものも合わせると、その数は二千軒を超える。
「もう半年だぞ」
 イサクは腕を組んで半円形の窓に背を預けた。外では灰色の雲が空を覆い、小さな雨粒が湿った土の匂いを連れて風に踊らされるようにちらちらと舞っている。泥の道の事件から、間もなく四年が経とうとしている。
「これほど時間をかけておいて、当てが外れてイノイルの姫がどこにもいなかったらどうする気だ。また振り出しだ。それどころか、俺たちが探している間にとうに別の家に嫁いでいたって不思議じゃない」
「…確証はないが――」
 テオドリックは間諜の送ってきた報告を何枚も壁の地図の周りにピンで留め、数歩下がってそれらを全て視界に収めた。地図の周りには何十枚もの紙が貼られ、壁に施された見事な蔦模様の装飾を埋め尽くしている。
「このどこかにいるような気がしてならない」
「俺はそれを外した時が恐ろしいよ。お前の開けた穴のせいで壁が崩れ落ちるんじゃないか」
「壁など、直せばいいさ。だが国はそうはいかない」
 テオドリックはイサクの冗談にニコリともせずに言った。
「あの人はもうだめだ」
 誰が、と明言すれば叛逆罪に問われるであろう主人の言葉を、イサクは無表情で聞いた。
「とうに倦んでいる」
「…玉座にか」
「母上のいない人生にだ」
 テオドリックは吐き棄てた。
 行き場のない怒りが爆発しそうになると、テオドリックは決まって眉間の深い皺を中指と薬指で伸ばそうとする。が、伸ばしたところで眉間の皺はますます深い谷を作るだけだ。
「…気晴らしに女でも抱いたらどうだ」
 この提案は実現しないだろうと思いながらイサクは言ってみた。それまでは毎晩のように女たちと夜を過ごしていたテオドリックは、アクイラ海峡から生還してからというもの、イサクの知る限り一切女性に触れていない。性的な欲求が全てこの隠された姫の行方を捜す作業への情熱に転化しているようにも思えた。
「それこそ飽きた。それに――」
 テオドリックは言葉を切った。イサクは訊かなかった。
(俺はあの人とは違う)
 今度は奥歯を噛んだ。砂を噛むように不快だった。

 タレステラが陥落した。――との報を受け取ったのは、それからいくつかの季節が過ぎた頃のことだった。既に風は花の香りと春の陽気を運んできているが、その気候ほど気分が晴れる日はない。
「もう何度目だ」
 テオドリックは書類の束を執務机に打ち付けた。
 相変わらず政務をしている以外の時間は鷲の姫の捜索に没頭し、外出の予定がなければ髪さえも整えない日々が続いている。肩まで着くほどに伸びた髪を乱雑に後ろで一つに束ね、髭も剃っていない。イサクから見れば、そんななりでも美貌を欠かないあたりが小憎らしくもある。
「四度目だ」
 イサクは苛立ちを露わにする主人へ琥珀色の酒をグラスになみなみと注いで渡してやった。オーレンの軍はタレステラを奪っては力を緩めて撤退し、更に攻め込むという挑発行為を繰り返している。
「軍は何をしている」
「攻めあぐねているようだ。どうも今回はタレステラで離反者が出たらしい。しかもとても少数派とは言えない数だ」
 テオドリックは頭を抱えた。この挑発行為の真の目的が分かった。
「オーレンはタレステラを取り込む気だ。武力ではなく、調略で」
 今までこの挑発行為によって王都から国王が自ら軍を率いて来るのを待っているのだと思っていた。そうすれば三十年前の休戦協定で宣言したことを実現できるからだ。即ち、「王の首を取る」ということを。
 しかし実際は、タレステラを何度も陥落させ、救援に来ない国王軍に対して不信感を持たせ、尚且つ占拠している間に現地の有力者たちと貿易に関わる交渉をしていたのだろう。タレステラとしてもイノイルの使う東の海の貿易ルートを確保できれば、利益は今の何倍にもなる。エマンシュナに従属するよりいっそのことイノイルに組み込まれた方が彼らとしての利益は大きいと言える。
 オーレン・シトーは元々功利主義的な性格が濃く忠誠心の希薄なこの地域をイノイルに取り込むことによって貿易事業を拡大し、恐らくは富を増やして十分な装備を整えた上で王都に攻め込むつもりなのだ。
 タレステラを攻略すれば、オーレンの軍は南下してすぐ下のルドヴァン地方を攻めるだろう。この地域は西方への貿易拠点で国の動脈とも言うべき街道が通っている。
(ルドヴァンが陥落すれば、崩れる)
 とテオドリックは踏んだ。
 ただでさえ王権が揺らいでいる辺境でこのようなことが起これば、他にも離反する領主が出るはずだ。
(恐ろしい男だ)
 テオドリックは背筋が凍る思いがした。
 オーレンは多くの支持を得て漁師から身を立てて王にまでなった男だ。イノイル人は自分たちが自らの意志で選んだ王を神のように崇拝している。兵の数で優っても、士気の面で言えば彼らとは比べ物にならない。
 王子に向かって矢を射られ激昂したイノイル兵たちは、三十数騎がまるで百騎にも感じられるほどの咆哮を響かせていた。まだ彼らの声が耳から離れない。
 エマンシュナ人は海鷲の王の逆鱗に触れたのだ。
「それから、もうひとつ――」
 イサクがハシバミ色の目に影を落とし、声を低くした。こういう時は、悪い報せだ。
「軍で内々に進んでいる計画だが、ネフェリア殿下が援軍を率いて進軍するらしい」
「何?」
 テオドリックはさすがに声を荒げた。
 ネフェリア・アストルはテオドリックの三つ年上の姉で、テオフィル王の第二子、エマンシュナ王国の第二王女だ。第一王女サフィールは十年前に国内の公爵家へ嫁いでいるが、ネフェリアは二十歳を超えても結婚せず、縁談も断固として受けなかった。十代半ばで嫁ぐのが普通の王侯貴族の子女としては、適齢期はとうに過ぎている。
「わたしは結婚以外の方法で国と王家に報いたい」
 と、これが十代の頃から口癖のようになっていた。実際にネフェリアはテオドリックを始め他の姉弟にも負けない美貌の持ち主で、かつては求婚者も後を絶たなかったが、十五の時に髪を短く切り、素性を隠して陸軍に入隊してしまったという経緯がある。呆れたことに、家庭を顧みなくなっていたテオフィル王がこのことを知ったのは、娘が「ネフェリア・アストル准将」として就任の挨拶のため玉座の前に現れたときだった。
 それほど子供のことに無関心に成り果てた父だ。
(本当に行かせるかもしれない)
 と、テオドリックは思った。
 タレステラにイノイル軍と離反勢力がいる以上、簡単に進軍させるわけにはいかない。下手を打てば殺される。
「ネフェリア殿下のことだ。本気で進軍するぞ」
「わかってる」
 それも承知だ。姉の勇猛さと意志の強さは身に染みて知っている。
「…父上に会う」
 テオドリックはイサクに着替えを持たせ、自分で髭を剃り、伸びた髪を後ろに撫でつけてきちんと縛り、王太子として隙の無い装いでレグルス城から馬を駆った。
 太陽神と月神の彫像が白い柱の上に立つ壮麗な門を入り、常緑樹が美しく刈り込まれた庭園の道を、神話の登場人物やかつての王族の像を横目に五分ほど馬で駆けると、太陽と月と星と神々が浮き彫りにされた荘厳な建物のファサードが見える。アストル王家が何百年も受け継いできた白亜の居城――アストレンヌ城だ。
「父上はどこだ」
 大きなアーチ型の扉を開けるなり、テオドリックが声を張り上げた。広い大理石張りのエントランスの中央に細やかなモザイクで家紋の金色の獅子が描かれ、八方にかつての王たちが戦で着用していた銀の甲冑が飾られている。テオドリックは獅子を踏み付けるようにして中央へ進み、五階まで吹き抜けた高い天井に吊るされた大きなシャンデリアが震えるのではないかというほどの大声でもう一度呼ばわった。
 突然の王太子の来訪にちょうど城にいた閣僚や使用人たちが慌てる中、鳶色の長衣を纏った家令のジェラール・コールが足早に真紅の絨毯張りの階段を降りてきて、テオドリックの手前で膝を折った。
「殿下」
 コールは真っ白い頭を下げ、テオドリックの手の甲に臣下の礼として口付けをしようとした。
「よせ」
 テオドリックがは手をサッと引き、それを拒絶した。コールは皺の多い目元に驚きを見せた。家臣たちに対しても常に品行方正なテオドリック・レオネ王太子がこれほど感情を露わにしたことは、今までに一度もない。
「父上に話がある」
「陛下は、只今…」
 と、コールが憂鬱そうに白い眉を下げた。
「愛人のところか」
 コールが肩を落とし、無言で頭を下げた。
(このようなときに)
 怒りが全身を血と共に巡っていった。
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