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第1章 佐伯悠亮としての日常

第27話 税理士・浅倉卑弥呼

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龍崎りゅうざき先生、確認ですが、あなたは税務訴訟案件ぜいむそしょうあんけんの経験をお持ちではない。はっきり申し上げて、『素人しろうと』でいらっしゃる。今回、業務上横領ぎょうむじょうおうりょうを働いた経理部長けいりぶちょうつとめる工場の取締役社長とりしまりやくしゃちょうが、先生のお父様がかつて法廷代理人ほうていだいりにんつとめた人物だとしても、感情に任せ、未経験の案件にのぞむのはかしこい選択ではありません。それにわれわれは、この分野にかけてはプロ中のプロです。わたしは税務訴訟における訴訟代理権そしょうだいりけんを与えられた特定税理士ですし、こちらにつくことを表明している代理人弁護士は、あの蛮頭寺善継ばんとうじ よしつぐ氏です。彼をご存じでしょう? いわく『法曹界ほうそうかいの殺し屋』……現実的に勝訴しょうその見込みなどございません。原告である筆頭株主ひっとうかぶぬしは先生を憂慮ゆうりょしておられます。いまなら最大限の配慮はいりょをすると言ってくれております。先生、どうぞご英断えいだんを」

 税理士法人オロチ代表・浅倉卑弥呼あさくら ひみこは、淡々たんたんとした口調くちょうで語ったあと、手もとの来客用テーブルに置かれたブラックコーヒーを静かにすすった。

 アパート一階、事務所の応接室おうせつしつ――

 特定生活対策室第二課朽木支部長くちきしぶちょうで弁護士の龍崎湊りゅうざき みなとは、眼前がんぜんの中年女の髪の毛を、うなだれながら見つめていた。

 浅倉卑弥呼は変わった髪型をしていて、両側が『やなぎえだ』のようにがっている。

 ダークチャコールのビジネスフォーマルを折目正おりめただしく着こなしており、いかにも仕事のできる人間という印象を受ける。

「……不本意ではありますが、やむをえないようですね……」

 龍崎湊はブラウンのスーツの肩を落として、提案ていあん承諾しょうだくした。

「それが正しい選択です、先生。ものわかりがよろしくてたいへん助かります。さすがは稀代きだい名士めいし龍崎港一郎りゅうざき こういちろう氏のご息女そくじょでいらっしゃいます。すぐれた判断力と決断力……きっとお父様もお喜びですよ?」

「……」

 ことの発端ほったんは、とある企業の経理部長が横領を働いたという事件なのだが、そこの社長が少年時代、暴行罪で刑事訴訟を受けており、その案件で被告代理人を務めたのが、龍崎湊の亡父ぼうふで弁護士の港一郎なのだ。

 結果は勝訴となり、少年も心を入れかえ、いまでは一企業の社長にまでのぼりつめた。

 その矢先やさきでの事件である。

 龍崎湊はかつて父がしたように、その社長を助けようとしていたのだが、今回ばかりは相手が悪すぎた。

 乗り込んできた原告側の税理士・浅倉卑弥呼の和解案に、苦虫にがむしをかみつぶしつつ、彼女は折れたのだった。

「あとの処理はわれわれで済ませておきますので、先生はどうぞご安心ください」

「……彼は、どうなるのでしょう……?」

「さきほども申し上げたとおり、こちらで最大限の配慮をいたします。もちろん先生には害のおよぶようなことはございませんので」

 機械のような講釈こうしゃくに、龍崎湊はだんだんとイライラしてきた。

 そのわきではアルバイトの法学部生・山王丸隼人さんのうまる はやとがヒヤヒヤしながら事のなりゆきを見守っている。

「それでは先生、わたしはこれにて失礼いたします」

 浅倉卑弥呼は事務用チェアからスッと立ち上がると、きびすを返して帰ろうとした。

「あの子が、いったい何をしたっていうんですか……! がんばって社長にまでなったのに、これじゃあんまりです……!」

 龍崎湊はダークチャコールの背中へ向け、むせぶようにさけんだ。

「龍崎先生、われわれの世界に私情は禁物きんもつです。士業しぎょう持ちたるもの、つねに中立ちゅうりつなまなざしで案件と向き合わなければなりません。そのことだけはどうか、お忘れなきよう」

 浅倉卑弥呼はそのまま応接室から退出した。

「先生、大丈夫ですか……?」

 山王丸隼人が気づかって声をかけた。

「はあ、やってらんない……理不尽だわ……これじゃ死んだ父さんに合わせる顔がないわよ……」

 龍崎湊は朦朧もうろうとする頭をかかえながら、ドアの上にかざってある父の写真を見つめつづけた。

(『第28話 トロイの木馬もくば』へ続く)
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