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第1章 佐伯悠亮としての日常

第9話 思索部の風景

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―― 放課後 ――

「職場体験?」

 聖川清人ひじりかわ きよとの問いかけに、佐伯悠亮さえき ゆうすけことウツロは、ひらいていた本から顔をそちらへ向け、聞き返した。

 ウツロと聖川清人、そして柿崎景太かきざき けいたの三人は、黒帝高校こくていこうこう敷地内しきちないにある、部室棟ぶしつとうの二階にいた。

 この階はおもに、文科系の部室が集まっている。

 ウツロたち三人のみで活動しているこの部活動は、その名も『思索部しさくぶ』である。

 何のことはない、ていのいい帰宅部だ。

 実質的にその部室は、彼らの『遊び場』に過ぎなかった。

 もともとはウツロの提案により、最低部員数を満たすため、聖川と柿崎を誘った形だったが、ウツロは読書、聖川は勉強、柿崎は部費で落としたパソコンを、ただひたすらやっているだけなのだ。

 秋の日が落ちるのは早い。

 柿崎は北側に位置する机の上のパソコンで、外国為替がいこくかわせのトレーディングにきょうじながら、ほうけた顔で夕焼けを見つめている。

 その光景が彼に何らかのセンチメンタルをもたらした。

「ああ、夕日よ、燃えるような夕日よ。お前はどこから来た? そして、どこへ行く?」

「熱でもあるのか? 慣れないことをするな」

「ぎゃふん」

 それっぽくそらんじたポエムを、聖川にたやすく否定され、柿崎は空気の抜けた風船のようにしぼんだ。

「しかもその詩は、ウィリアム・ブレイクやペトラルカの模倣もほうであるように聞こえるね」

 ウツロもつい、覚えた知識で柿崎につっこんだ。

「きょうびブレイクなど流行はやらんぞ、柿崎?」

「お前、聖川! 謝れ! 全世界のブレイク好きのみなさんに謝れ!」

「たとえそうだとしても、お前にだけは頭を下げるつもりはない。お前にはその価値がない」

「聖川あ、お前いいかげん、帰り道には気いつけろよ?」

「ああ、やってみろ。お前など、すかさず叩きのめしてやる」

「言わせておけばあああああ」

 かまびすしいやり取りに、ウツロは少し、わずらわしさを感じた。

静粛せいしゅくに、お二方ふたかた思索しさくに集中できないじゃないか」

「何くそ、本の虫が!」

 『虫』という単語に反応したウツロは、本能的に殺意の視線を柿崎へ送った。

「……虫が、何だって……?」

「ひっ……」

 凍りついた黒水晶くろずいしょうのような瞳孔どうこうに、柿崎の膀胱ぼうこうゆるんだ。

「あ……」

「柿崎?」

「……ごめんちゃい」

「垂らすな、バカ」

「ぷしい!」

 柿崎はまた、聖川の『制裁』を食らった。

 このようによくわからないやり取りも、青春全開といえよう。

「ところで職場体験だ。佐伯、柿崎、お前たち、一緒に参加しないか?」

 朝礼のとき、古河教諭ふるかわきょうゆによって提案された職場体験。

 それを聖川は、二人に誘いかけたのだった。

「確か、『たこぐもチャレンジド』っていう会社の事業で、農作業を体験できるんだったよね?」

「そうだな。特にネギには力を入れているところだそうだ」

「ネギ、か……」

 今度はネギという単語に、ウツロは反応した。

「たこぐもチャレンジド、『有限責任監査法人たこぐも』が、100パーセント出資した特例子会社で、障害者福祉を目的として立ち上げられたんだ」

「くわしいな、柿崎」

 柿崎の回る舌に、ウツロは感心した。

「俺は得意分野は政治・経済だぜ? 『たこぐも』っていったら、三大監査法人の一つ、いわゆるビッグ3だな」

「あとの二つは『ドラゴン』と『ゆらぎ』だ。特に『たこぐも』は、福祉分野に力を注いでいるんだ」

「くわしいね、二人とも」

 まだまだ『人間の世界』にはすれている。

 ウツロは素直にそれを認めた。

「そのビッグ3が日本経済の番人だからな。ビッグ3ににらまれた企業は、この国では居場所を失うとまでいわれている」

「『たこぐも』の包括代表ほうかつだいひょう、まあ、要するにボスのことなんだが、その人がそもそもハンディキャップを持ってる人で、それで福祉に強いって寸法さ。浅倉喜代蔵あさくら きよぞうって公認会計士なんだが――」

「柿崎、知識自慢はもういい。どうだ佐伯、参加してみないか?」

「そうだね。二人が行くのなら心強いし、ネギ掘りにも興味はあるからね」

 ウツロは興味も津々しんしんに、参加を表明した。

「ネギかあ、くさそうだなあ」

「早いうちから社会の厳しさを知るかっこうのチャンスだぞ。ぶつくさ言うな」

「へーい」

 聖川と柿崎は、あいかわらずぶつぶつ言い合っている。

 いっぽうウツロは、なんだかわくわくしてきていた。

 ネギか、懐かしいな。

 アクタと過ごした日々を思い出す。

 久しぶりに、やってみるか。

 こんなふうにして、秋の放課後は深まっていった。

   *

「あ」

 弁論部の活動が終わり、ウツロと待ち合わせるため校門へ向かっていた真田龍子さなだ りょうこは、体育館の近くを歩く刀子朱利かたなご しゅりを発見した。

「刀子さん」

「あら、真田さん。どうしたの?」

「ちょっと、いいかな?」

「佐伯くんのこと?」

「――!」

「あは、図星みたいだね。いいよ、ここじゃなんだから、あっち、行こうか?」

「……」

 真田龍子は確かめたかった、刀子朱利の真意を。

 得体えたいの知れない相手ではあるが、朝方、音楽室で受けた侮辱ぶじょくについて、問いただしたいと思ったのだ。

 真田龍子は導かれるまま、刀子朱利と体育館脇の倉庫へと消えた。

 それを確認していた複数の影の存在にも気づかずに――

(『第10話 放課後に差すやみ』へ続く)
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