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第1章 佐伯悠亮としての日常

第2話 音楽室のウツロ

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「うわー……」

 真田龍子さなだ りょうこが三階の音楽室に到着とうちゃくしたとき、ごったがえした野次馬やじうまれが目に入ってきて、ひどくうんざりした。

 女子たちはこぞって、うわさの美少年と揶揄やゆされるウツロを見ようと、わいわいがやがやさわいでいる。

「あれが佐伯悠亮さえき ゆうすけくん?」

「春の終わりころ、二年部に編入してきたんだって」

「クールイケメンで、ピアノもうまいなんてね」

頭脳ずのう明晰めいせきらしいよ。アメリカがえりで英語もペラペラらしいし」

「すごいチートスペックじゃん!」

「あ、でも、いるらしいよ、お相手」

「えーっ、マジでー!?」

「そりゃ、あんな完璧超人かんぺきちょうじん、フリーなわけないって」

「女子なの?」

「は?」

「いや、ああいうタイプって、意外にこっちとか」

「うーん、言われてみれば、なきにしもあらず……」

 こんな調子で取り巻きたちは、勝手かってにかしましくしていた。

「うーん、うーむ……」

 彼女たちの背中がかべになって、どうにも前には進めない。

 真田龍子はやきもきしてうなっていた。

「龍子、こっちだよ!」

瑞希みずき!」

 『壁』の上から手が上がって、クラスメイト・長谷川瑞希はせがわ みずきの声が聞こえた。

「こっちこっち、早く!」

「わ、わあっ!」

 『壁』の中心をつらぬいて、少女のうでがにゅっと差し出された。

「ひゃあっ!」

 驚いている取り巻きたちを尻目しりめに、その手は真田龍子のむなぐらをつかむと、いきおいをつけて手前てまえに引き込んだ。

「はい、いっちょあがりー」

「もう、瑞希! はは、すみません……」

 白い目を向けられて、真田龍子はしかたなく、もうわけなさそうにふるまってみせた。

 長谷川瑞希は黄色いカチューシャをカリカリといじっている。

 彼女はバレー部に所属していて、同じ体育会系の真田龍子とは、奇妙きみょうなくらい馬が合う。

 肩口かたぐちにのぞいたストレートヘアーをさらりと返して、長谷川瑞希は遅れてきた親友に、小憎こにくらしい顔を向けた。

「ったく、遅刻ちこくなんてしてんじゃあないよー、このこの。ねえ、先輩せんぱい?」

「長谷川さんの言うとおりね」

「あ、日下部くさかべ先輩……」

 バッハの肖像画しょうぞうがの前に陣取じんどっていた三年部の先輩・日下部百合香くさかべ ゆりかが、眼鏡めがねのメタルフレームをくいっと直して、真田龍子をじろりとにらんだ。

「真田さん、この演奏会に遅刻とは、あなたらしくないわね」

「すみません、先輩。わたしったら、そそっかしいから……」

「言い訳なんて聞くたくないわね。聴きたいのは音楽よ?」

「はあ、あはは……」

 本人はハイセンスな表現だと思っているのだが、実際はただのダジャレである。

 日下部百合香は音楽部の部長で、実質的にこの音楽室のぬしだ。

 真田龍子の所属している弁論部にも、客員きゃくいんしょうしてかけもちをしているから、彼女のことは目にかけて、よくしている。

 日下部百合香はまたメタルフレームを直すと、真田龍子の視線を『音源おんげん』のほうへと誘導ゆうどうした。

「ほら、前をごらん。あれを見に来たんでしょう?」

「……」

 真田龍子は体をひるがえして、それにしたがった。

 ウツロ、ウツロだ。
 ウツロが、いる。
 ピアノを、いている。

 ボリュームのある黒髪くろかみ、けっこうクセがあるんだよね。
 黒帝こくていの制服、黒いブレザーとズボン、似合ってるよ。
 桜色のネクタイだって、素敵だよ。

 ああ、ウツロ……
 好き、愛してる……

 こんなふうに彼女は、自分の気持ちをおもえがいた。
 しかしいっぽうで、ウツロが自分以外の存在から注目されることに嫉妬しっとした。

 どうして?
 わたしとウツロは愛しあっているのに……

 どうしてわたしだけのものじゃないの……?
 ウツロをひとめにしたい……

 わたしとウツロだけがいればいい……
 それがかなうなら、こんな世界なんて、いっそ、壊れてしまえばいい……

 真田龍子の愛の深さは、そのまま彼女のやみの深さなのかもしれない。
 それは誰よりも彼女自身が、いちばんよく理解していた。

 それでもなお、愛することをやめられない。
 やめられるわけがない。

 いつかこの気持ちが悪いほうへ向かうのではないかという不安を胸にいだきながら、さらに彼女はウツロのことを強くおもった。

 そしてそんな真田龍子の心をなだめるように、ピアノの調べはいよいよやさしく、音楽室にひびきわたった――

(『第3話 氷潟夕真ひがた ゆうま刀子朱利かたなご しゅり』へ続く)
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