真珠姫

しょこら

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雨の記憶・未来へ

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「おいっ、川が!!」
 誰かが窓の外を指差して言った。
 窓の向こうに見える光景に生徒達は言葉を失った。
 校舎は川のすぐわきに建てられている。普段はそれほどの水量もなく、おだやかに流れている川だったが、この雨で水かさが増したのか、あふれんばかりの水の流れは激しく勢いを増し、いまにも決壊寸前だった。
 ついさっきまでは普通の水量だったはずなのに。と誰もが思った。
 すでに危険水域を超えている。
「やばいんじゃないか?上へ逃げろ!」
 その言葉が契機となって、教室中がパニックに陥った。
 悲鳴が響き渡る。
 他の教室でも気がついたらしい。
 学校中が騒然となった。
 我先にと走り出すクラスメイトたちの中で、淳だけが一人、空を厳しく見据えていた。
 

 世界中で起こっている大雨の被害は連日のように耳に届く。
 だがそれを止める術を今の自分は持っていない。 
 精霊王としての意識が誇りを傷つけられ怒っている。
 ふがいない気持ちで歯軋りしたくなった。
 転生をしてしまった身では、人間界で力を振るうには力が足りなさすぎる。
 彼女の協力がどうしても必要だった。
 転生した彼女を見つけるのは簡単だった。けれど彼女は何も覚えていなかった。
 だから、夢を送った。
 水の力が特に強くなる雨の降る日なら、彼女に夢を送ることが出来た。
 水界の景色を。
 あの美しい世界を。
 かつては妻だった愛しい少女へと。
「王よ、ご指示を!!」
 淳以外誰もいなくなった教室で、学生服の男子生徒が恭しく淳の前に平伏する。
 王の気を纏った淳は、高校生では出しえぬ威厳と色香を放ち、この小さな世界に君臨する。
「一階、二階に残った逃げ遅れた者たちを救出せよ。僕は、彼女のところに行く」
「御意」
 まだ少ないが、かつての部下たちも集まりつつある。
 淳は慌てひしめく生徒たちの間を悠然と歩き、彼女のいる渡り廊下へと向かった。


 世界が震えていた。
 滅びへと向かう一瞬一瞬に。
 恐怖に震え、悲鳴を上げているかのようだった。
 宮殿で一人、アイシャは祈りつづけていた。
 自分の命をかけて。
 アイシャの祈りの力は水界を覆い、ずっと人々を守りつづけてきた。
 けれど、それも限界が近づいてきていた。
 そこかしこから聞こえてくる悲鳴と怒号。
 不気味な轟きは地を伝い、水に伝い、幾重にも波紋を広げていく。
 それは不安でもあり、絶望でもあった。
 ひときわ大きく、地が揺れた。
 ぐらりと態勢を崩して、アイシャは手をつく。
長妃おさひめさま!」
 傷ついた兵士がとびこんで来て、涙ながらにアイシャの前にひれ伏した。
 そのまま嗚咽を繰り返し、地に伏す。
 それだけで、アイシャは悟った。
「あの方は逝ってしまわれたのですね……」
 静かな声だった。
 慟哭がそれに応える。
 覚悟はしていたつもりだった。
 いつも、いつも。
 戦へ出陣するときは、いつも。
 だが、その覚悟など、何の役に立つというのか。
 失ったものの痛みなど、覚悟したところで和らぐものではないのに。
 もう水界は滅びを止める事はできない。
 アイシャは天を仰いだ。
 あの方がいないいま、この世界はもはや滅びを止めることは不可能だ。
「王が亡くなられたいま、水界は失われます。みなはお逃げなさい!」
 アイシャの言葉を宮殿にいた全員が聞いた。
 だれも信じられなかった。
 この美しい世界が失われてしまう事など、どうして信じる事が出来ると言うのか。
 だが、この世界を覆い尽くしている滅びの影は誰の目にも明らかだったのだ。
 もはや、長妃の祈りさえ通じぬほどに。
 そして最後の支えだった王が逝ってしまった。
 誰もが涙を禁じえなかった。
「アル・ファラルさまが治める大地の精霊界へ向かうのです。自然界に一番近い場所です。安心してお行きなさい」
 故郷を離れる事など未知なる行為だ。
 だが、とどまる事も許されない。とどまれば待っているのは死だけだ。
 人々は導かれるままに歩き始めた。
 アイシャが開いた、次元回廊を。
「長妃さまもお逃げください。わたくしどもと一緒に!!」
 ずっとアイシャの世話をしてくれた女たちが最後まで抵抗していた。
 アイシャは優しく微笑み、首を振る。
「アル・ファラルさまなら受け入れてくださるわ。お行きなさい」
「アイシャさま!!」
 次元回廊が薄く揺らいで消えていく。水界の民たちをすべて送り出して、アイシャは微笑む。
 最後に、アイシャは祈りを込めて言葉を送る。
「どうか、生きて」
 涙が真珠となってこぼれるように、アイシャは力尽き、崩れ落ちた。
 ただ一人となった宮殿で、壁に背を預け、アイシャはそっと息を吐く。もう祈りの力も残っていなかった。
 眼前に聳え立つ大波を、優しく迎え入れようと手を広げる。
 怖くはなかった。
 あの人が、待っている。
「ファラ・ルーシャ、わたくしもすぐに参ります」
 唸り声を上げて大波がアイシャをも飲み込んだ。
 彼と生きた美しい宮殿も跡形もなく破壊され粉々になっていく。
 勢いを増して渦巻く水に抱かれ、アイシャの体は水の底へと沈んでいった。
 幾数個の真珠が後を追うように、光を反射しながら落ちていった。


『アイシャ……』
 どこからか聞こえてくる声に、ふと目を開けた。
 水の中を漂いながら自分を支える温かい手に気がついて、泉は顔を上げた。
 美しい横顔。優しく柔らかく微笑みながら、その人は振り返った。
『ファラ・ルーシャ?』
 無意識にその名を呼んでいた。
 それがすべての解放の言葉だった。
 会いたくて、ずっと会いたくてたまらなかった人。
 今なら分かる。
 彼が誰かということも。
 自分が誰かということも。
「あ…」
 感極まって、泉は彼にしがみ付く。
 そんな泉を黙って受けとめ、淳は細い体を強く抱きしめ返した。
 この優しい腕を覚えている。
 あの夢は私の記憶。
 前世の、記憶。
 いつもいつも悲しくて切なくて、泣いていた。
 そしてあの滅びの瞬間も、すべて思い出した。
「水界が……ごめんなさい、守れなかった!!」
「うん、分かっている、君だけのせいじゃない」
 精霊王とその長妃おさひめの責務は精霊界を守ること。その勤めを果たせなかった己の罪に慄く。
「君だけのせいじゃないよ、僕も同罪だ」
 繰り返される言葉。
 ずっと帰りたいと思っていた。
 今、在る場所に。
 涙が溢れて止まらなかった。
「会いたかった、ずっと!」
「うん」
「あなたにもう一度会いたかったの!」
「うん、ここにいるよ」
 自然と唇を重ねた。懐かしいぬくもりがすぐ近くにある。
 姿形はお互い変わってしまったけれど、優しい眼差しは同じだった。
 泉の瞳から涙が真珠に変わり、こぼれ落ちていく。
 それを手のひらで受け止めて淳は笑う。
「相変わらず泣き虫だなぁ。ここも真珠だらけにするつもりかい?」
「……い、意地悪」
 上目遣いに拗ねて見せると、彼は楽しそうに笑い声をあげた。
「真珠姫は健在だな」
 泉は淳の腕に掴まりながら、辺りを見渡した。見覚えのある風景だが違和感が拭えない。
 夢の中の水界ではない、現実の学校の渡り廊下だ。
 信じられないが、水没しているらしい。
 その中を自分たちは平然と立っているが、そのことで驚きはしなかった。記憶を取り戻した瞬間に、かつての力もいくらか戻ったようだ。
 今では水中で息をすることなど造作もない。だが、それよりも何故こんな状態に陥っているのか分からなかった。
「大川が決壊したんだ。三階から下は完全に水没している」
「えっ」
 泉たちがいる渡り廊下は二階にある。透明な水の中にいて、彼の姿もはっきり見えているが、窓の外は濁流で何も見えない。
 水界の王である淳とその長妃である泉だからこそか。濁流を清涼な水に戻すだけの力はあったようだ。
 自分たちは水の中でも平然としていられるが、逃げ遅れた生徒や教師たちもいるはずだった。
 淳は右手をかざして小さく何かを唱えた。
 淳の手の周りに渦巻きができるが、ただそれだけだった。
 目に見えて淳ががっくりと肩を落とす。
「やっぱりダメか。まだかつての力が引き出せない」
「あ…」
「力を貸してくれないか」
 この水をひかせるために。
「泉の力も合わせれば出来るかもしれない」
「あ、えっと…」
 いま、サラッと名前で呼ばれたことに気が付いて、真っ赤になる。それでも返事はしなきゃと必死で頷いた。
「ありがとう」
 淳はにっこりと笑った。ファラ・ルーシャの美貌には及ばないが、淳も綺麗な顔をしている。その破壊力は姿が変わっても変わらないように思えた。
 優雅な所作も覚えている姿そのままだった。
 淳は手を差し出す。
「泉、手を」
「あ、うん」
 忙しなく騒ぎ立てる心臓をなだめながら、泉は淳の手を取る。
 触れた瞬間に、心臓がトクンと音を立てた。
 懐かしい感覚が触れた指から伝わって、泉の全身を満たす。きらきらと清涼な光に満たされた気がした。
 淳と泉は両の手をつないだまま、向かい合わせに立つ。
 淳がまず呪文を唱えた。
『水よ、我は【水神】なり。我が声を聞き、我に応えよ』
 水が、ゆるやかに反応を示していた。
 穏やかだった流れは、二人を取り囲むようにして旋回を繰り返す。
『我、【水神】の名において、命ずる。あるべき場所へ帰れ』
 だが溢れている大量の水は旋回を繰り返すのみで、なかなかひこうとはしなかった。
 術を行使しつづけて、手が震え始める。淳の手も同じだった。
 だがこの手を離すわけには行かなかった。
 今、手を離したら、動いている術も消え去ってしまう。
「ファラ・ルーシャ!」
 淳は首を振って唇を噛む。
 やはり無理なのか。
 精霊王としての力は、既に失われてしまったのか。
 絶対的な力もなく、打ちのめされるだけなのか。せっかく会えたのに。
 生まれ変わってまで、こうして会えたのに。何もできずに終わってしまうのだろうか。
「ねえ、シルファさまのお力を借りましょう」
 泉の言葉に淳は目を見開いた。
「だが…お許しくださるだろうか」
 自分たちをこの世界へと導いたのは女神シルファであるはず。もし、思い上がりが許されるのならば、水界を滅ぼしてしまった自分たちにもまだ使命があるのだと思いたかった。
 しばらく逡巡していた淳は頷いた。
『生命の樹の守護者よ。命を司る者よ。麗しき光の翼を持つ者よ。我が声に応えたまえ……わが主、シルファ!』
 淳と泉は天を仰いで祈りを捧げた。
 どうか聞き届けたまえ。
 どうか、この小さな声を聞き届けたまえ。
『全ての命の母なる者よ。美しき光の女神よ!』
 その言葉に呼応するかのように、天が裂けた。
 まばゆい一条の光が二人に降り注ぐ。

『シルファ!』

 まばゆいばかりの光に包まれた美しい乙女の姿を見た。

 天より舞い降りる女神の姿を―――。

 女神がその柔らかな腕を上げ、指し示す。

『還リナサイ』

 その言葉は光そのもの。
 そしてその姿も、光そのもの。
 まばゆい、一瞬の閃光。

 そして、水は静かに引いていった。



 校舎では、ようやく教師や生徒たちがざわめき始めた。
 みんな、女神の姿を見ただろうか。
 きっと光がさし込んだとしか見えなかったかもしれない。
 だが、彼女は確かにこの世界に存在する。
 生きて、どこかにいる。
 他の精霊王たちもきっとどこかにいるはずだ。
 淳はそう確信していた。女神が降臨したとき、その手ごたえを感じた。
「僕は精霊王たちを探そうと思う。すぐ近くにいる気がするんだ」
「…探して、どうするの?」
 自分たちがこうして生まれ変わっている今、ほかの精霊王たちが生まれ変わっていてもおかしくはない。
 水界が滅んだあとのことを二人は知らない。
 至高界を守っていた四つの界の一つが崩れたのだ。
 それにあの時すでに滅びはほかの界にも及んでいた。
 無事であるはずがなかった。
「また…戦うの?水界は滅んでしまったのに…」
 泣きそうな淳の横顔を泉はまっすぐ見つめた。
「ごめん。僕のわがままで君を呼んでしまった」
 視線を反らし、背を向けようとする淳の腕を掴んで引き留めた。
「違うよ。そうじゃない。私も会いたかった。あなたに会えて、こんなに嬉しいことはないもの」
「でも泉…ごめん。君を巻き込んでいいことじゃない」
「どうして?」
「僕のわがままだから」
 淳は手を伸ばし、泉の髪に優しく触れる。
「せっかく生まれ変わったのだから、この世界で幸せに生きるべきなんだ、きっと」
 泉は頷く事はできなかった。
「もう、待っているのは嫌なの」
 泉の言葉に、淳は傷ついたように顔を曇らせた。
 その頬に泉はそっと手を伸ばし、触れる。
 誰よりも愛しい人。
 ずっと待ちつづけて、泣いていたアイシャ。
 今度も同じ事を繰り返したくはない。
「私も一緒に探すわ。私、淳の手伝いをするから!」
 泉は挑みかけるような瞳で、淳を見上げる。
 淳は驚いて声も出ない。
「待っているだけなんて、もう嫌なの。泣き虫だなんて、言わせない!」
「ちょ、ちょっと待って、泉?」
 泉は淳から少しだけ離れて、宣言する。
 予想もしていなかった展開にパニックを起こしているのか、淳は呆然と泉を見つめる。
 泉の豹変ぶりに驚いているのかもしれない。
 だってアイシャはずっと何も文句も言わなかった。優しく微笑んで、そして、泣いていた。
「いや、あの……泣き虫だって言ったことは謝る。ごめん。でも、わざわざ危険なことに飛び込んでいかなくても……」
「私、もう待つのは嫌なの。だから一緒についていくの」
 激しい泉の言葉に淳は再び絶句する。
「性格変わった?」
「そうかも」
 その腕を捕まえて、とどめとばかりに泉は宣言した。
「二人で水界を護るって約束したわよね?」
 それはファラ・ルーシャとアイシャの、二人だけの約束事。
 しばらく呆然と泉を見つめていた淳は、観念したのか、がっくりとうなだれて頷き、くすくすと笑いだした。
「うん、そうだったね。確かに約束した」
 うふふと泉は笑う。
 今度は一緒に歩んでいきたい。彼の力になりたい。
 過去と同じようにただ待ち続け、泣いて暮らすのは嫌だ。
 今世でも出会えた意味があるというのなら、今度は変えたい。
 泉はそう思うのだ。
「アイシャってこんなだったんだ?」
「そうよ」
 面白そうに、楽しそうに淳は笑う。
「まだ僕の知らないアイシャがいたんだな」
「いや?」
「まさか!」
 嬉しいよ。と淳はささやいた。
 淳は泉の手を取り、固くつないで微笑む。
 その手のぬくもりを、泉は嬉しく思った。
 今度こそ、一緒に歩いていくのだと、そう誓った。



                         終
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