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第四章
9.たどり着く場所
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ランディスはフィリアの部屋に向かっていた。
神官長の元で隊長とともに受けた指示はただ一つ。フィリアにその意思があるのなら、選定の時間までに星織の塔までフィリアを連れていくこと。
選定は明日の0時。
来るべき時が来たのだ。
ランディスは足が震えるのを自覚していた。壁に手をつき、膝から崩れ落ちそうになるのを必死で耐える。
「くそっ、しっかりしろ!」
分かっていたはずだ。いつかこの日が来ることを覚悟していたのではなかったか。
中途半端な覚悟しかしてこなかったわけじゃないはずなのに、全身が震えて仕方がなかった。
ランディスは深く大きく深呼吸する。
自分の中にある恐怖を見つめる。
怖いのは、フィリアを失うこと。
それだけのはずだ。
フィリアが星織姫になっても、自分はそばにいる。ガーディアンだろうとなんだろうとそばにいる資格が必要なら全部身につける。
たとえフィリアが羽根を失うことがあっても、フィリアさえ生きていてくれれば構わない。フィリアをこの世界につなぎとめておきたいのだ。
生きていればなんでもいい。
そばにいることができれば、本当に、なんでもいいのだ。
「怖れるな。俺が揺らいでどうする」
ランディスは前を向いて一歩踏み出した。
神殿中に走っていた緊張が和らいだ気がした。
フィリアは上空を飛び交う近衛隊の姿が無くなっていることに気が付いた。
代わりに星織の塔から大きなエネルギーを感じる。
懐かしいような、恐れ多いような言葉に表すのが難しい不思議な感覚。訳の分からない高揚感もあって、心臓が早鐘を打つ。
胸が苦しくなってフィリアはその場に座り込んだ。
「なんだろう、胸がドキドキする」
全身に襲いかかる重いプレッシャーに、フィリアは目を閉じて耐えた。
不快感はない。
ただただ重い。
雄大なエネルギーが絶え間なくフィリアに向かってくるようだった。
どこか躊躇うような、遠慮がちにドアをノックする音がして、ランディスが顔を出す。
返事をすることができず床に座り込んでいるとランディスが飛び込んできた。
「フィリア、どうした?」
ランディスがフィリアの両腕を掴んで支え起こす。
「ランディ…」
心配げに覗き込むランディスを見上げ、フィリアはほっとしたように笑った。
ランディスの手から流れ込んでくる温かい力が、フィリアにのしかかるエネルギーを中和してくれているようだった。心地よい光のような力にフィリアはすがるように手を伸ばす。
「大丈夫か?具合悪いのか?」
「…大丈夫。ありがとう」
ランディスの周りにある金色の光のようなエネルギーが不思議なくらい心地よい。
「ランディ、すごいね。いまランディが来てくれただけで楽になった」
「え?」
ランディスは頬を赤らめる。フィリアは外に視線を向け、再びランディスを見上げた。
やはり、いままでよりはっきりと世界の力の流れが見えている。渦巻くエネルギーが可視化され、酔いそうだった。
ランディスに触れる手の先から温かいエネルギーが流れ込んでくる。それがフィリアの中の力のバランスを整えてくれているように思えた。
「大丈夫、制御できそう」
小さな声で、だがはっきりとフィリアは言う。
ランディスは何かを察したのか、余計な質問もせず、そのままゆっくりとフィリアを支えるように抱きしめた。
温かい。
その温かさに包まれて、息を詰めるような緊張がだんだんと緩まっていくのが分かった。嵐のように感じていたエネルギーのうねりは、透明な膜の向こう側に移動したように、冷静に眺め感じられる。
フィリアは深く息を吐いた。
さっきまでの重いプレッシャーは嘘のように消えた。その代わり世界のあらゆる力の流れがはっきりと感じられる。
フィリアの背にある四枚羽根が小さく小刻みに震えて銀の光を放っていた。
ランディスはその光に魅入られたように目が離せなくなっていた。
チカチカした光が網膜を焼く。ランディスは思わず目を閉じた。目を閉じても目の奥で光がはじけているようだった。
「ランディ?」
心配げにフィリアが呼びかけてくる。
ランディスは目を開けて、フィリアを見た。視界を焼く光の痕跡はなにもなかった。
「ああ、なんでもない。ちょっと光がまぶしかっただけだ」
「ランディの光も綺麗だよ」
フィリアはふふふと笑う。
「ええー?」
ランディスはこそばゆくて照れたように笑った。
フィリアの紫の瞳が透明感を増して見えた。色こそ違うが、ランディスは父親の持つ天眼の瞳と似た印象を覚えた。
「もしかして気の流れが見えている、とか?」
「うん、なんだろう。ランディの周りにある光もはっきり見えるし、それこそ部屋の中の植物だとか小物にも光が見える。だからなんだかまぶしくて。さっきまではエネルギーの重さにびっくりしていたんだけど」
「エネルギーの重さ?」
「うん、まとわりついてくるような感じで、重たかった。今は大丈夫だけど」
フィリアはランディスの手を握る。
「もう少し、手を貸しててね」
「いくらでもどうぞ」
腕の中でフィリアはくすくすと笑う。
ずっとこんな風に抱き合ったままいられたらどんなにいいか。
でもそんなことは許されない。
すでに、時は来ているのだから。
ランディスはぎゅっと目を閉じ、震えそうになる己を叱咤した。
告げなければならないのだ。
「フィリア、選定の日が決まった。明日、日付が変わったら、選定が行われる」
フィリアの身体がびくっと揺れる。
来るべきときがついに来たのだ。
「その件について、神官長よりお話がある。支度をしたら、部屋に来るようにと」
ランディスの告げる声が震えている。
フィリアはおずおずと体を起こす。
紫の美しい瞳は大きく見開き、ランディスを写したまま離れようとはせず、そしてランディスもまたフィリアを見つめたまま、言葉を発しなかった。
発する言葉すら浮かばなかった。
二人が神官長の部屋へ赴くと、ルシリエ自ら招きいれてくれた。
「今、ちょうど用事を言いつけてしまって誰もいないのですよ」
苦笑しながら、ルシリエは二人に椅子を勧める。
ランディスは慌てて辞退した。フィリアはともかく、護衛で付き添っているだけで本来ならば同席できる身分ではないからだ。
ルシリエはなぜか残念そうに笑った。
フィリアと向かい合う形でルシリエが席につく。
「クレアのことはもう聞いたわね」
「はい」
「今、近衛隊の皆様が総出でクレアの行方を捜索してくださっています。すぐに見つかってくれるだろうと信じてはいますが、……つい先日も、あなたがいなくなったと大騒ぎをしたばかりだったのに……」
「申し訳ありません。愚かなことはもう二度といたしません」
「当然です」
ルシリエは軽く睨み、ふっと笑いをこぼした。そしてまた心配そうにうつむく。
「本当に、クレアに何事もなければいいのですが……」
クレアが光体化したことをフィリアはまだ知らない。
近衛隊が追跡しているが、まだ続報はこない。どこまで引き離されたか、キャロルの追跡がどうなったのか、ランディスも気になっていた。塔からもフラウが向かい、救命艇に加え飛行艇で十名の近衛隊員が向かっている。追いつけさえすれば確保はできるはずなのだが、不安はぬぐえないままだった。
「あの、昨夜、クレアにお客様がいらしたと聞いたのですが」
「ええ、クレアのお兄様がいらっしゃいましたよ。面会は認められないと申し上げましたけれど、どうしてもと強くおっしゃいましたの。クレアの一生にかかわる大事なことだから、と」
「面会は…」
「許可はしておりません」
フィリアはランディスを振り仰いだ。
「今朝、まだご滞在されていたのでお話はしました。お兄様もこの件では大変ショックを受けられたご様子で、……なんとしても、早急に、無事に保護したいものです。私は、あの娘が選定を恐れて逃げ出したとはとても思えません」
ルシリエがそうこぼすところを見ると、近衛隊は失踪の原因を選定に考えているということなのだろうか。
「あの娘はとても強い娘ですもの。何よりも歌うことが好きで、四枚羽根を誇りに思っている」
フィリアもその言葉に頷いた。だからこそ、今、この場にクレアがいないことが辛かった。
フィリアはランディスを振り返った。
ルシリエにクレアとサリエルのことを話さなければいけないと思った。
ランディスも頷いた。
フィリアは震える手をなんとか宥めながら、意を決して話し始めた。
「ルシリエさま、もしかしたらクレアはサリエルに会いにいったのではないかと思います」
「サリエル?」
ルシリエは訝しげな顔で繰り返す。
「先日、森で襲撃してきた《セラフィム》の一人がそんな名前だったようですが……」
「はい、そのサリエル・ブラーニで間違いありません」
ランディスが簡潔に補足する。ルシリエは眉をひそめて、フィリアとランディスを交互に見返した。
「どういうことですか?」
フィリアは俯いて唇をかみ締めた。
「サリエルはクレアの恋人だと聞きました。写真を、クレアに写真を見せてもらって……それが、あの時の刺客の一人だったんです」
ルシリエはそれだけで悟ったらしい。深く息を吐き出し、苦しそうに目を閉じた。
「…知っていた?いいえ、そんなはずはないわね……本当に、なんてことでしょう!」
額に手を当て、一人ごちるルシリエ。ルシリエが考えているとおり、クレアが知っていたはずはない。知っていてあの明るい笑顔はありえないと思うからだ。《セラフィム》の思想に対してあれだけの嫌悪感を示していたクレアだ。恋人がその組織に属していたことを知れば、どれほどのショックを受けるだろうか。そして、彼はすでに行動を起こし、近衛隊に処罰されたのだ。
「サリエル・ブラーニは不動の大地ではなく、セサリーの風の丘に送られたはずです。そちらに捜索の手を伸ばすように近衛隊にお願いしましょう」
エレミアでは風葬が常で、それぞれの大陸にある高い山々に送られる。それらはすべて風の丘と呼ばれている。しかし、罪人は浮遊大陸ではなく下方に存在する不動の大地へと送られるのだ。
翼あるエレミアの民でも不動の地に降りてしまったら、浮遊大陸まで戻ってくることは不可能だと言われている。
クレアがもしサリエルを追って不動の大地にまで降りてしまっていたらと考えると生きた心地がしなかった。
「クレアと近衛隊の方々を信じましょう」
ルシリエの言葉にフィリアは祈るように頷いた。
しばらくの沈黙の後、思い直したようにルシリエが切り出す。
「今日、あなた方を呼んだのは、お話しておきたいことがあったからです」
とても懐かしそうな瞳で、ルシリエは語り始める。
「私が星織姫候補だったのは四十二年前、当時の私は十八になったばかりでした」
「えっ?」
フィリアは驚いて声を上げた。
若々しく見えるルシリエの年齢が六十に届くものだったとは知らなかった。しかも、先代の星織姫候補であったことも初耳だ。
「フィリア、ひとつ確認しておきたいわ。それは私の年齢に驚いたの?それとも候補であったことのほう?」
「いえ、あの……すみません」
慌てて頭を下げたが、まさか両方だとは言えない。後ろから小声で「間抜け」とランディスの声が届いた。フィリアは口を尖らせて抗議する。そんな二人のやり取りに、ルシリエは微笑ましく見つめる。先ほどとは打って変わって、場の雰囲気が明るく優しいものになった。
「さすがに、ランディスはご存知だったようですね。シグル隊長からお聞きになっていたの?」
「いえ、過去の報告書に目を通した折に」
ランディスの頬が引きつっている。女性の年齢という微妙な話題だからだろうか。ひとつ間違えば、恐ろしい目にあう話題だ。フィリアはランディスが過去の報告書までしっかりと目を通していることに感心した。
「それは私が、選定後も狂うことなく生きている、初めての候補者だったから、ですわね、ランディス」
ランディスの頬に朱が走る。
唖然と見つめるフィリアに、ルシリエは頷く。
「そうなのですよ。私は選定の際、翼を失っています」
「そんな!だって、私、ルシリエさまの翼を見ています」
式典の折も、確かにルシリエが翼を現している姿を見た。四枚ではなく、二枚羽根だったが、美しい羽根だった。
「そうね、何から話していいのかわからないけど、あれは星織姫さまのご慈悲でした。すべてを失った私に、光を与えてくださいました。そしてシグル隊長もまた、私を助けてくださった方なのです」
四十二年前の選定で、ルシリエは星織姫に選ばれなかった。
星杖は、もう一人の候補に新たな力を与え、ルシリエから四枚の翼を奪った。
「翼を失った激しい痛みと喪失感はなんて言葉に表せばいいのかわかりません。ただただ苦しくて……。恥も外聞もなく、床の上でのた打ち回りました」
悲鳴を上げ続け、いっそ誰か殺してくれとさえ、思ったという。
「当時の記憶は本当におぼろげで、断片的にしかもう思い出せませんけど、泣きながら叫び声をあげて、シグル隊長……当事はまだ隊長ではありませんでしたけど、私付きの近衛として塔に上がりました。そう、私、シグルの剣を奪ったのです。たぶん、自分で死のうと思ったようです。こんなに苦しい思いをするのはたくさんだと、きっと思ったのでしょうね」
ルシリエはそこで一度話を切り、青い顔で聞き入っているフィリアに微笑みかけた。
「怖がらせるようなことを言ってごめんなさい。私が言いたいのは、それでも私は今、こうやって元気に生きているということなのです。星織姫は希望をくださいました。シグルは私に生きろと言ってくださいました。そうして私は生きています。あなたがた後輩の、候補たちの希望となるように……」
フィリアは涙をとめる事ができなかった。恐れがなくなったわけでは決してない。けれどもルシリエは無闇に恐れることはないのだと教えてくれている。先に示された希望が目の前にいる。
「ありがとうございます、ルシリエさま。確かな希望をくださいました」
「では、今日の日が終わる前に、星織の塔へと向かいなさい。伝えるべきことはこれだけです」
フィリアとランディスはありったけの思いを込めて、頭を下げた。
満点の星々が美しく輝いている。
静かだった。
世界でたった二人きりしかいないような錯覚すら覚えるほどに。
「じゃあ、行くね」
告げる声が震えた。
もうすぐ時間が来る。
刻一刻と近付いてくるその時まで、ランディスの顔を見ていたかった。
顔の輪郭に沿って、そっと手を這わせる。目も鼻も唇も全部覚えていられるように。
「今までありがとう。ランディ」
くしゃりとランディスの顔がゆがんだ。
「礼なんて、言うな」
ぎゅっと強く抱きしめられた。
これでもう本当に最後かもしれない。そう思うと涙があふれてくる。それでも、涙でランディスが見えなくなるのが嫌だった。ずっとずっと見ていたかった。
ランディスの目にも涙が浮かんでいた。
「いいか、忘れるな。俺はそばにいる。ずっとお前のそばにいるから」
フィリアはうんうんと頷く。
彼がいてくれたからこそ、ここまで来ることができた。
そして彼がいてくれるからこそ、この先も向かうことができる。
「ランディス、愛してる」
ランディスは無言のまま目を見開いた。
「ずっと、ずっと、愛しているから!」
例え翼を失っても、この想いだけは手放さない。
フィリアは心の中でそう誓った。
繋がれた手が名残惜しげに離れる。
手に残った最後のぬくもりが、永遠に消えなければいいと願った。
フィリアは背筋を伸ばして、静かに神官長が告げる言葉を待つ。
「最後に、選定を受ける覚悟があるのかどうか、確認しなければなりません」
ルシリエの表情は硬く、どこまでも事務的だ。冷たくよそよそしささえ感じる。だがそれは、高ぶる感情を抑えるためのものだとフィリアにはわかった。
「選定後、めでたく星織姫に選ばれれば、これに勝るものはありません。ですが、我々はもうひとつの可能性もやはり覚悟しなければならないのです」
フィリアは頷く。
星杖が示した選定の刻限は零時ちょうど。今はまだクレアの姿はない。けれど、きっと来るとフィリアは信じていた。
「あなたたちには、候補へとあがる際にも選択を迫りましたね。これが最後通告です。翼を失うやも知れぬ、その覚悟があるというのなら、選定を受ける道を選ばれるがよろしいでしょう。覚悟がなければ辞退なさい」
フィリアは黙ったまま、目を閉じて、ルシリエの言葉を聞いている。
「フィリア、あなたの意思を聞かせてください」
優しい声だった。
どちらかを強要するでもなく、あくまでも自分の意思で選ばせる。何を選んでも、それはフィリアの意思として尊重される。だからこそ、痛みも苦しみもあるし、成功も幸運も自分だけのもの。
ずっと長い間、考えてきたように思える。自分はどうしたいのか、何をすればいいのか、いつも手探りでここまで来た。
迷いながら、失敗しながらもここまでこられたのは、周りの人々が助けてくれていたからだ。
ランディスがそばで支えてくれたからだ。
それはすべてフィリアの、星織姫になりたいという夢のため。
ずっとずっと夢見てきた時がくる。
今ではもう、輝かしい未来ばかりがあるわけではないことを知っている。
それでも、後戻りはできない。
戻るつもりもなかった。
ルシリエが示してくれた希望がある。
たくさん流した涙が、フィリアを前に向かわせる。
心はとうに決まっているのだ。
「選定を、受けます」
迷いのない言葉で。
ゆるぎない眼差しで。
フィリアは自らの未来を選び取る。
「そう」
ルシリエは微笑み、ゆっくりと頷いた。
「星の加護があなたにありますように」
そうして、扉は開かれた。
ルシリエが指し示す方向に、階段がある。遥か天へと繋がっていくような、光に照らされた道。
光のかなたへと続く長い階段を、フィリアは踏み出した。
一歩一歩踏み出していくたびに、光で満たされているような感じがした。
長い螺旋階段を登っていく。
まばゆい光に満ちた空間に、螺旋階段だけが存在しているかのように見える。気が遠くなるような長い道のりを進んでいくと、ふいに光が途切れた。
何も見えない。
突然の闇だった。
しばらくすると、無数の色とりどりの明かりがあちらこちらに点っていた。
宇宙が見えているのだと気がついた。
美しい光に満ちた星雲。
すぐ近くに緑の星が大きく見える。
「エクバート」
エクバートはエレミアとは双子星とされている星だ。兄弟星は晴れ渡った空にくっきりとその姿を現している。
鮮やかな緑の輝き。
それでいて、どこまでも穏やかに、エクバートはそこにある。
兄弟星でありながら、そこに住む人々はまるで違う。エレミアには二枚の羽根と神にも通じる力を持つ種族が住むが、エクバートには羽根もなく力もない種族が住んでいる。
もし翼を失っても生きていくことができたなら、エクバートに行くのもいいかも知れないと思った。
心はとても穏やかだった。
天を彩る幾千幾万の星々が、静かに、フィリアを迎えてくれているようだ。
細く耳に届く旋律に、振り返る。
淡く銀の光を放ちながら、星杖がフィリアの前に出現した。
美しい聖なる力の具現。
力強い波動はフィリアに勇気を与えてくれる。
光の導くままに、歩を進めていく。
まばゆい光が一瞬にして広がり、フィリアを包み込んだ。
瞬きするほどの間にフィリアは古い聖堂の中に立っていた。
どこまでも静謐な空間。
フィリアを導いた星杖が、祭壇の中央で、まっすぐに立っている。
迷うことなく、足は向かう。
呼ばれていると分かる。
星杖の前に行き、跪ひざまずいて、選定を待てばいいのだ。
一歩一歩、足を踏み出すごとに、胸の鼓動は高まる。それでも歩みを止めることはしない。己の行くべき場所だけを見つめている。
祭壇へ上がる階段を登っていくと、聖堂の壁に沿うように、ランディスが立っているのが見えた。その横にはシグル隊長と神官長ルシリエの姿も見える。
一瞬だけ繋がった互いの視線。
心に温かいものが生まれてくる。そのぬくもりにフィリアは微笑む。
誰よりも愛している人が、すぐそばで見つめていてくれる。フィリアを包む空気が、とても優しかった。
彼の思いが、こうして力になって、フィリアを支えてくれている。
とても幸せだった。
これ以上の幸せを知らない。
星杖を前にしてフィリアは跪き、両手を合わせて祈る。
心はどこまでも澄み、不思議なほど穏やかだった。
反対方向から、かすかな衣擦れの音が聞こえて、フィリアは顔を上げた。
祭壇を上がってきたその人物の横顔を食い入るように見つめた。
泣きはらした赤い目と張り詰めた表情に胸が痛んだ。
「クレア」
ぴくりとクレアの肩が揺れる。
やせ細った体が痛々しい。
もともと痩せてはいたが、さらに細くなってしまった。
フィリアの視線を跳ね返すように、鋭く睨み付けられた。真っ赤になった瞳は、怒りと悲しみと憎しみにあふれていた。
その激しさに、フィリアは圧倒される。言葉はなくても、荒れ狂う感情がフィリアに向けられているのが分かる。それでもフィリアは視線を外さなかった。ここで罪悪感にかられて目を逸らしてしまえば、負けてしまうと思うからだ。自分の弱い心に負けてしまうような気がして、今まで支えてくれた人々の思いを裏切るような真似はできなかった。
ぶつかり合う視線が 星杖を間に挟んで行き交う。
唐突に、視線を外したのはクレアだった。フィリアに興味がなくなったかのように、一心に祈り始める。その急激な変化にフィリアは戸惑った。
星杖は変わらず、そこに佇んでいる。二人の候補者を静かに見定めているかのように。
フィリアも再び、祈り始める。
選定の瞬間が訪れるまで、聖堂は静寂が支配していた。
熱を感じたのはしばらく経ってからだった。
一心不乱に祈りをささげていたフィリアには、あれからいったいどれほどの時間が過ぎたのか把握できない。
星杖が、緩やかに熱を持ち始め、点滅を繰り返していた。
零時を告げる鐘が鳴ったとき、星杖からまばゆいばかりの光がはじけて広がった。
光は二人の候補を貫き、聖堂を激しく照らし出す。
突然の光の爆発に、フィリアは悲鳴を上げてよろめいた。
白い光に体を貫かれていく。圧倒的な力の奔流に飲み込まれる。輝きがフィリアを焼き尽くしていくようだった。
激しい光の只中にあって、上も下も分からない。己の感覚すら見失って、フィリアは悲鳴を上げた。
何も見えない。
何も感じられない。
それがとてつもない恐怖を呼ぶ。
耳元で騒ぎ立てるいくつもの声、声、声。
ありとあらゆる感情や記憶が、フィリアを貫いて通り抜けていく。
小さなそれらは、フィリアを形作るものの一つだ。
それぞれが完成された一つの世界。
光とともに流されていく、小さな世界。
記憶も、思い出も、すべてが
フィリアから失われていくようだった。
「ラ、ンディ……ランディ!」
その名を呼んだのは無意識だったのか。
青く美しい星が、フィリアを見つめている。懐かしい眼差しとともに。
それがランディスのように思えて、フィリアは必死で手を伸ばした。他の何を失っても、ランディスだけは、失いたくなかった。
ランディスの、青い、宇宙と同じ色の瞳。優しく熱いまなざしで、フィリアを包み込んでくれていたあの瞳と同じ色の星へと両手を伸ばして、星を捕まえる。
かすかな鼓動が伝わってくる。
「ランディス」
溢れるような愛しさで抱きしめたとき、青い星は突然爆発した。
更なる光がフィリアを照らし、包み込む。
体中に染み渡るように、大きな力が流れ込んでくる。
四枚の羽根が大きく、打ち震えながら広がった。
振り仰いだその先に、 星杖がある。
手を伸ばすと、星杖は当然のようにフィリアの手に収まった。
愛してる。
あなたを、ずっと。
愛してる。
宇宙のように深く優しい瞳で微笑むあなたを。
ずっと、ずっと。
愛してる。
星織りの歌が聞こえた。
聖堂に満ちていた光は収まり、静寂が変わらずその場を支配していた。
星杖を手にしたものと翼を奪われたものの姿がそこにはあった。
「あ……ああ……ぅあああああ……」
クレアは身をよじり、悲鳴を上げる。引きつる背中の痛みに耐え切れず、のた打ち回る。失われた翼の変わりに制御を失った力が荒れ狂っていた。
地響きとともに塔が縦揺れする。
「どうして……どうしてよ!」
悲鳴の合間に搾り出すような言葉。
泣きながら、クレアは叫ぶ。
「わたしの、翼……」
輝かしく光を放つ星杖の向こう側に、大きく広がっている純白の四枚羽根。失われた翼を追い求めるように、クレアは手を伸ばす。
意識が戻っていないのか、フィリアは恍惚とした表情で目を閉じている。
その刹那に生まれた感情をなんと呼ぶべきなのか。
憎しみなのか。
妬みだったのか。
クレアにも分からなかった。
「わたしからサリエルを奪ったくせに! 翼まで取り上げるの!?」
激しい力の波動が壁を打ち壊す。
その力が一点へと向けられた。
鋭い煌きが目の前で閃いた瞬間、フィリアは我に返った。ぶつかり合う二つの力が、フィリアを避けて床にぶち当たり、大きく抉って消えていった。
幽鬼のように顔をゆがませたクレアと、フィリアをかばうように飛び込んできたランディスがスローモーションのように見える。
ランディスの手が腰の剣へと伸び、引き抜かれた。
クレアが斬られる。
そう思ったとき、フィリアは叫んでいた。
「やめて、ランディス!」
「縛!」
フィリアの悲鳴のような制止の声と重なって、鋭い声が祭壇の下から響く。
シグルから放たれた呪縛の力が網目の様に広がり、クレアを拘束する。呪縛の銀の光に阻まれて、ランディスの繰り出した剣もはじかれた。
「うあぁ、あああああぁっ」
呪縛の網の中でもがき、呻くクレアの姿は痛々しすぎた。全身全霊で泣いているように思えた。
翼を失い、愛する人も失って、クレアを支えてくれる希望は潰えさってしまった。
それを奪ったのはフィリアなのだ。
「シグルさま、クレアの呪縛を解いてあげてください」
「いや、しかし……」
シグルはうずくまりうめき声を上げているクレアに視線を向けた。今、クレアを解放すのは危険すぎると思っているようだった。
ランディスも迷っているようだった。
「星織姫に対し、刃を向けるものは、いかなる者であろうとも許されることはありません。たとえ候補であった娘でも、刃を向けた瞬間に罪人です」
シグルが諭すように言う。
それは分かっている。ランディスも、クレアがフィリアに向けて力を放たなければ、抜刀することはなかったはずだ。無意識にそう動くように訓練されている。近衛とはそういう理念で生まれているのだ。星織姫の命を守ることが何よりも勝る優先事項なのだと。
それでも、と思う。
もしかしたら、クレアはフィリアだったかもしれないのだ。
「お願いです。わたくしの前で、命の灯を消すようなことはなさらないでください」
星杖を手にしたフィリアが懇願する。
それは紛れもなく、あらゆる生命の土台となる星を生み出す女神の言葉だった。
フィリアを守るようにクレアの前に立ちふさがっていたランディスは一歩下がり、片膝をついた。シグルも頭を下げ、クレアの呪縛を解く。
せめて痛みだけでも取ってあげたかった。
フィリアは星杖をクレアへと傾け、目を伏せて祈る。星杖によって与えられた女神としての力で何が出来て何が出来ないのか、誰に聞かなくても理解していた。
柔らかな銀の光がクレアを優しく包み込む。それは祈り。フィリアの願い。
いつしかクレアのうめき声が治まっていた。
フィリアは、俯いて肩を震わせながら泣いているクレアの前に膝をつく。
「クレア、私を憎んでもかまわないから……生きて」
顔を上げたクレアは唇をかみ締めてフィリアを見た。その瞳に、先ほどまでの激情はなかった。
「サリエルがいないのに」
クレアはつぶやいて頭を振る。
「サリエルが、あの人が、フィリアを殺そうとしたなんて、信じられなかった。兄にあの人が死んだって聞かされて……私……どうしてって、そればかり考えていた。私のことをとても理解してくれて、神殿に上がるときだって、喜んで送り出してくれたのに。セラフィムに入っていただなんて……」
通じ合っていたはずの心が、錯覚であったのかとクレアを打ちのめす。どうして、とクレアは繰り返す。
「本当なら、この手で君を殺してでも、ここに、留めておきたかった」
はっと顔を上げて、フィリアはランディスを凝視した。
ランディスがクレアに伝えたのは、サリエルの最期の言葉。彼は悲しそうに笑いながら、自らの手を広げて見つめていた。
「フィリアと君を間違えて言ったのだと思う」
食い入るようにランディスを見つめていたクレアは、信じられないとばかりに顔をゆがめ、頭を振った。
「そんな、そんなのって……ちゃんと言ってくれなきゃ、わからないわ、サリエルっ」
優しそうな人だった。
話に聞いた通り、優しい人だったのだろう。きっと彼はクレアの気持ちを尊重して、自分の気持ちを口に出すことができなかったのだろう。愛する人を引き止める術もなく、優しすぎて、そうして、星織姫を否定する思想に流れ着いてしまったのかもしれない。
すべては推測でしかない。
サリエルが何を思っていたのか、今はもう分からない。けれど、これだけはフィリアにもわかる。クレアは間違いなくサリエルに愛されていたのだと。
「ねぇ、悔やまないで。サリエルがいても、あなたはこの道を選んだでしょう? 離れていてもずっと忘れないって言ったでしょう?」
「言ったわ、でも!」
「私はクレアに生きていてもらいたいの」
もう誰もクレアにその言葉を伝える人がいないというのなら、自分しかいない。
「大好きなクレアに、生きてほしいの」
サリエルを愛していた記憶を抱いて、生きていてほしいと。
フィリアは返し忘れていた銀のロケットをクレアに差し出す。震える手でそれを受け取ったクレアは声を上げた。
「サリエル、サリエル!」
祭壇の下で涙を流しながら事の成り行きを見守っているルシリエに、フィリアは微笑む。
「ルシリエさま、クレアのことお願いできますか」
「ええ、もちろんですとも。喜んで引き受けます」
フィリアはその横に控えているシグルにも微笑む。
「シグルさまも、どうかわたくしのわがままをお聞き届けください」
シグルは満足げに顔を綻ほころばせ、頷いた。
「あなたは、まさしく先代の星織姫と同じことをなさるのですな」
フィリアに祝辞を述べ、最敬礼をする。
そうして、クレアの体を支え、シグルとルシリエが部屋から出て行くと、後にはランディスだけが残った。
「ランディス」
彼は変わらずすぐそばにいる。
手に届く場所にいて、二人の間は何も変わっていないようにも見えた。だが、唯一つだけ変わったことがある。
フィリアが人ではなくなったということ。
星杖を手にした瞬間に、フィリアは女神となった。全身を駆け巡る力の奔流を、ただこうして立っているだけでも感じるほどに。
これは宇宙の力。
生命の息吹。
体中に絶えず鳴り響いているのは、あれほどまでに焦がれた星織りの歌。
ランディスを愛している。
その想いだけで綴られている、ただ一つのフィリアの歌だった。
フィリアはようやく星織姫が歌う、星織りの歌の本当の意味を知った。
「ランディス、星織姫は星杖の代弁者なの。だから、いつ星誕の儀式を行うのか決めるのは私じゃないの。何年先か、何十年先か、もしかしたらすぐかもしれないけど」
ランディスの青い瞳が静かにフィリアを見つめている。
「いつかその時が来るまで、傍にいて」
ずっと愛しているから。
ずっとずっと、愛していくから。
宇宙を彩る星のひとつになっても。
ランディスを愛していると歌うから。
ランディスは跪き、フィリアの衣服の裾にそっと口付ける。
「新たな星織姫に、永遠の愛と忠誠を誓う」
それは二人だけの神聖な儀式だった。
「ありがとう、ランディス」
フィリアは聖堂の天井を見上げた。
大聖堂と同じ、微笑む星織姫の姿が描かれた絵画がここにもあった。
きっと今の自分も同じ笑みを浮かべているのだと、フィリアは思った。
終
神官長の元で隊長とともに受けた指示はただ一つ。フィリアにその意思があるのなら、選定の時間までに星織の塔までフィリアを連れていくこと。
選定は明日の0時。
来るべき時が来たのだ。
ランディスは足が震えるのを自覚していた。壁に手をつき、膝から崩れ落ちそうになるのを必死で耐える。
「くそっ、しっかりしろ!」
分かっていたはずだ。いつかこの日が来ることを覚悟していたのではなかったか。
中途半端な覚悟しかしてこなかったわけじゃないはずなのに、全身が震えて仕方がなかった。
ランディスは深く大きく深呼吸する。
自分の中にある恐怖を見つめる。
怖いのは、フィリアを失うこと。
それだけのはずだ。
フィリアが星織姫になっても、自分はそばにいる。ガーディアンだろうとなんだろうとそばにいる資格が必要なら全部身につける。
たとえフィリアが羽根を失うことがあっても、フィリアさえ生きていてくれれば構わない。フィリアをこの世界につなぎとめておきたいのだ。
生きていればなんでもいい。
そばにいることができれば、本当に、なんでもいいのだ。
「怖れるな。俺が揺らいでどうする」
ランディスは前を向いて一歩踏み出した。
神殿中に走っていた緊張が和らいだ気がした。
フィリアは上空を飛び交う近衛隊の姿が無くなっていることに気が付いた。
代わりに星織の塔から大きなエネルギーを感じる。
懐かしいような、恐れ多いような言葉に表すのが難しい不思議な感覚。訳の分からない高揚感もあって、心臓が早鐘を打つ。
胸が苦しくなってフィリアはその場に座り込んだ。
「なんだろう、胸がドキドキする」
全身に襲いかかる重いプレッシャーに、フィリアは目を閉じて耐えた。
不快感はない。
ただただ重い。
雄大なエネルギーが絶え間なくフィリアに向かってくるようだった。
どこか躊躇うような、遠慮がちにドアをノックする音がして、ランディスが顔を出す。
返事をすることができず床に座り込んでいるとランディスが飛び込んできた。
「フィリア、どうした?」
ランディスがフィリアの両腕を掴んで支え起こす。
「ランディ…」
心配げに覗き込むランディスを見上げ、フィリアはほっとしたように笑った。
ランディスの手から流れ込んでくる温かい力が、フィリアにのしかかるエネルギーを中和してくれているようだった。心地よい光のような力にフィリアはすがるように手を伸ばす。
「大丈夫か?具合悪いのか?」
「…大丈夫。ありがとう」
ランディスの周りにある金色の光のようなエネルギーが不思議なくらい心地よい。
「ランディ、すごいね。いまランディが来てくれただけで楽になった」
「え?」
ランディスは頬を赤らめる。フィリアは外に視線を向け、再びランディスを見上げた。
やはり、いままでよりはっきりと世界の力の流れが見えている。渦巻くエネルギーが可視化され、酔いそうだった。
ランディスに触れる手の先から温かいエネルギーが流れ込んでくる。それがフィリアの中の力のバランスを整えてくれているように思えた。
「大丈夫、制御できそう」
小さな声で、だがはっきりとフィリアは言う。
ランディスは何かを察したのか、余計な質問もせず、そのままゆっくりとフィリアを支えるように抱きしめた。
温かい。
その温かさに包まれて、息を詰めるような緊張がだんだんと緩まっていくのが分かった。嵐のように感じていたエネルギーのうねりは、透明な膜の向こう側に移動したように、冷静に眺め感じられる。
フィリアは深く息を吐いた。
さっきまでの重いプレッシャーは嘘のように消えた。その代わり世界のあらゆる力の流れがはっきりと感じられる。
フィリアの背にある四枚羽根が小さく小刻みに震えて銀の光を放っていた。
ランディスはその光に魅入られたように目が離せなくなっていた。
チカチカした光が網膜を焼く。ランディスは思わず目を閉じた。目を閉じても目の奥で光がはじけているようだった。
「ランディ?」
心配げにフィリアが呼びかけてくる。
ランディスは目を開けて、フィリアを見た。視界を焼く光の痕跡はなにもなかった。
「ああ、なんでもない。ちょっと光がまぶしかっただけだ」
「ランディの光も綺麗だよ」
フィリアはふふふと笑う。
「ええー?」
ランディスはこそばゆくて照れたように笑った。
フィリアの紫の瞳が透明感を増して見えた。色こそ違うが、ランディスは父親の持つ天眼の瞳と似た印象を覚えた。
「もしかして気の流れが見えている、とか?」
「うん、なんだろう。ランディの周りにある光もはっきり見えるし、それこそ部屋の中の植物だとか小物にも光が見える。だからなんだかまぶしくて。さっきまではエネルギーの重さにびっくりしていたんだけど」
「エネルギーの重さ?」
「うん、まとわりついてくるような感じで、重たかった。今は大丈夫だけど」
フィリアはランディスの手を握る。
「もう少し、手を貸しててね」
「いくらでもどうぞ」
腕の中でフィリアはくすくすと笑う。
ずっとこんな風に抱き合ったままいられたらどんなにいいか。
でもそんなことは許されない。
すでに、時は来ているのだから。
ランディスはぎゅっと目を閉じ、震えそうになる己を叱咤した。
告げなければならないのだ。
「フィリア、選定の日が決まった。明日、日付が変わったら、選定が行われる」
フィリアの身体がびくっと揺れる。
来るべきときがついに来たのだ。
「その件について、神官長よりお話がある。支度をしたら、部屋に来るようにと」
ランディスの告げる声が震えている。
フィリアはおずおずと体を起こす。
紫の美しい瞳は大きく見開き、ランディスを写したまま離れようとはせず、そしてランディスもまたフィリアを見つめたまま、言葉を発しなかった。
発する言葉すら浮かばなかった。
二人が神官長の部屋へ赴くと、ルシリエ自ら招きいれてくれた。
「今、ちょうど用事を言いつけてしまって誰もいないのですよ」
苦笑しながら、ルシリエは二人に椅子を勧める。
ランディスは慌てて辞退した。フィリアはともかく、護衛で付き添っているだけで本来ならば同席できる身分ではないからだ。
ルシリエはなぜか残念そうに笑った。
フィリアと向かい合う形でルシリエが席につく。
「クレアのことはもう聞いたわね」
「はい」
「今、近衛隊の皆様が総出でクレアの行方を捜索してくださっています。すぐに見つかってくれるだろうと信じてはいますが、……つい先日も、あなたがいなくなったと大騒ぎをしたばかりだったのに……」
「申し訳ありません。愚かなことはもう二度といたしません」
「当然です」
ルシリエは軽く睨み、ふっと笑いをこぼした。そしてまた心配そうにうつむく。
「本当に、クレアに何事もなければいいのですが……」
クレアが光体化したことをフィリアはまだ知らない。
近衛隊が追跡しているが、まだ続報はこない。どこまで引き離されたか、キャロルの追跡がどうなったのか、ランディスも気になっていた。塔からもフラウが向かい、救命艇に加え飛行艇で十名の近衛隊員が向かっている。追いつけさえすれば確保はできるはずなのだが、不安はぬぐえないままだった。
「あの、昨夜、クレアにお客様がいらしたと聞いたのですが」
「ええ、クレアのお兄様がいらっしゃいましたよ。面会は認められないと申し上げましたけれど、どうしてもと強くおっしゃいましたの。クレアの一生にかかわる大事なことだから、と」
「面会は…」
「許可はしておりません」
フィリアはランディスを振り仰いだ。
「今朝、まだご滞在されていたのでお話はしました。お兄様もこの件では大変ショックを受けられたご様子で、……なんとしても、早急に、無事に保護したいものです。私は、あの娘が選定を恐れて逃げ出したとはとても思えません」
ルシリエがそうこぼすところを見ると、近衛隊は失踪の原因を選定に考えているということなのだろうか。
「あの娘はとても強い娘ですもの。何よりも歌うことが好きで、四枚羽根を誇りに思っている」
フィリアもその言葉に頷いた。だからこそ、今、この場にクレアがいないことが辛かった。
フィリアはランディスを振り返った。
ルシリエにクレアとサリエルのことを話さなければいけないと思った。
ランディスも頷いた。
フィリアは震える手をなんとか宥めながら、意を決して話し始めた。
「ルシリエさま、もしかしたらクレアはサリエルに会いにいったのではないかと思います」
「サリエル?」
ルシリエは訝しげな顔で繰り返す。
「先日、森で襲撃してきた《セラフィム》の一人がそんな名前だったようですが……」
「はい、そのサリエル・ブラーニで間違いありません」
ランディスが簡潔に補足する。ルシリエは眉をひそめて、フィリアとランディスを交互に見返した。
「どういうことですか?」
フィリアは俯いて唇をかみ締めた。
「サリエルはクレアの恋人だと聞きました。写真を、クレアに写真を見せてもらって……それが、あの時の刺客の一人だったんです」
ルシリエはそれだけで悟ったらしい。深く息を吐き出し、苦しそうに目を閉じた。
「…知っていた?いいえ、そんなはずはないわね……本当に、なんてことでしょう!」
額に手を当て、一人ごちるルシリエ。ルシリエが考えているとおり、クレアが知っていたはずはない。知っていてあの明るい笑顔はありえないと思うからだ。《セラフィム》の思想に対してあれだけの嫌悪感を示していたクレアだ。恋人がその組織に属していたことを知れば、どれほどのショックを受けるだろうか。そして、彼はすでに行動を起こし、近衛隊に処罰されたのだ。
「サリエル・ブラーニは不動の大地ではなく、セサリーの風の丘に送られたはずです。そちらに捜索の手を伸ばすように近衛隊にお願いしましょう」
エレミアでは風葬が常で、それぞれの大陸にある高い山々に送られる。それらはすべて風の丘と呼ばれている。しかし、罪人は浮遊大陸ではなく下方に存在する不動の大地へと送られるのだ。
翼あるエレミアの民でも不動の地に降りてしまったら、浮遊大陸まで戻ってくることは不可能だと言われている。
クレアがもしサリエルを追って不動の大地にまで降りてしまっていたらと考えると生きた心地がしなかった。
「クレアと近衛隊の方々を信じましょう」
ルシリエの言葉にフィリアは祈るように頷いた。
しばらくの沈黙の後、思い直したようにルシリエが切り出す。
「今日、あなた方を呼んだのは、お話しておきたいことがあったからです」
とても懐かしそうな瞳で、ルシリエは語り始める。
「私が星織姫候補だったのは四十二年前、当時の私は十八になったばかりでした」
「えっ?」
フィリアは驚いて声を上げた。
若々しく見えるルシリエの年齢が六十に届くものだったとは知らなかった。しかも、先代の星織姫候補であったことも初耳だ。
「フィリア、ひとつ確認しておきたいわ。それは私の年齢に驚いたの?それとも候補であったことのほう?」
「いえ、あの……すみません」
慌てて頭を下げたが、まさか両方だとは言えない。後ろから小声で「間抜け」とランディスの声が届いた。フィリアは口を尖らせて抗議する。そんな二人のやり取りに、ルシリエは微笑ましく見つめる。先ほどとは打って変わって、場の雰囲気が明るく優しいものになった。
「さすがに、ランディスはご存知だったようですね。シグル隊長からお聞きになっていたの?」
「いえ、過去の報告書に目を通した折に」
ランディスの頬が引きつっている。女性の年齢という微妙な話題だからだろうか。ひとつ間違えば、恐ろしい目にあう話題だ。フィリアはランディスが過去の報告書までしっかりと目を通していることに感心した。
「それは私が、選定後も狂うことなく生きている、初めての候補者だったから、ですわね、ランディス」
ランディスの頬に朱が走る。
唖然と見つめるフィリアに、ルシリエは頷く。
「そうなのですよ。私は選定の際、翼を失っています」
「そんな!だって、私、ルシリエさまの翼を見ています」
式典の折も、確かにルシリエが翼を現している姿を見た。四枚ではなく、二枚羽根だったが、美しい羽根だった。
「そうね、何から話していいのかわからないけど、あれは星織姫さまのご慈悲でした。すべてを失った私に、光を与えてくださいました。そしてシグル隊長もまた、私を助けてくださった方なのです」
四十二年前の選定で、ルシリエは星織姫に選ばれなかった。
星杖は、もう一人の候補に新たな力を与え、ルシリエから四枚の翼を奪った。
「翼を失った激しい痛みと喪失感はなんて言葉に表せばいいのかわかりません。ただただ苦しくて……。恥も外聞もなく、床の上でのた打ち回りました」
悲鳴を上げ続け、いっそ誰か殺してくれとさえ、思ったという。
「当時の記憶は本当におぼろげで、断片的にしかもう思い出せませんけど、泣きながら叫び声をあげて、シグル隊長……当事はまだ隊長ではありませんでしたけど、私付きの近衛として塔に上がりました。そう、私、シグルの剣を奪ったのです。たぶん、自分で死のうと思ったようです。こんなに苦しい思いをするのはたくさんだと、きっと思ったのでしょうね」
ルシリエはそこで一度話を切り、青い顔で聞き入っているフィリアに微笑みかけた。
「怖がらせるようなことを言ってごめんなさい。私が言いたいのは、それでも私は今、こうやって元気に生きているということなのです。星織姫は希望をくださいました。シグルは私に生きろと言ってくださいました。そうして私は生きています。あなたがた後輩の、候補たちの希望となるように……」
フィリアは涙をとめる事ができなかった。恐れがなくなったわけでは決してない。けれどもルシリエは無闇に恐れることはないのだと教えてくれている。先に示された希望が目の前にいる。
「ありがとうございます、ルシリエさま。確かな希望をくださいました」
「では、今日の日が終わる前に、星織の塔へと向かいなさい。伝えるべきことはこれだけです」
フィリアとランディスはありったけの思いを込めて、頭を下げた。
満点の星々が美しく輝いている。
静かだった。
世界でたった二人きりしかいないような錯覚すら覚えるほどに。
「じゃあ、行くね」
告げる声が震えた。
もうすぐ時間が来る。
刻一刻と近付いてくるその時まで、ランディスの顔を見ていたかった。
顔の輪郭に沿って、そっと手を這わせる。目も鼻も唇も全部覚えていられるように。
「今までありがとう。ランディ」
くしゃりとランディスの顔がゆがんだ。
「礼なんて、言うな」
ぎゅっと強く抱きしめられた。
これでもう本当に最後かもしれない。そう思うと涙があふれてくる。それでも、涙でランディスが見えなくなるのが嫌だった。ずっとずっと見ていたかった。
ランディスの目にも涙が浮かんでいた。
「いいか、忘れるな。俺はそばにいる。ずっとお前のそばにいるから」
フィリアはうんうんと頷く。
彼がいてくれたからこそ、ここまで来ることができた。
そして彼がいてくれるからこそ、この先も向かうことができる。
「ランディス、愛してる」
ランディスは無言のまま目を見開いた。
「ずっと、ずっと、愛しているから!」
例え翼を失っても、この想いだけは手放さない。
フィリアは心の中でそう誓った。
繋がれた手が名残惜しげに離れる。
手に残った最後のぬくもりが、永遠に消えなければいいと願った。
フィリアは背筋を伸ばして、静かに神官長が告げる言葉を待つ。
「最後に、選定を受ける覚悟があるのかどうか、確認しなければなりません」
ルシリエの表情は硬く、どこまでも事務的だ。冷たくよそよそしささえ感じる。だがそれは、高ぶる感情を抑えるためのものだとフィリアにはわかった。
「選定後、めでたく星織姫に選ばれれば、これに勝るものはありません。ですが、我々はもうひとつの可能性もやはり覚悟しなければならないのです」
フィリアは頷く。
星杖が示した選定の刻限は零時ちょうど。今はまだクレアの姿はない。けれど、きっと来るとフィリアは信じていた。
「あなたたちには、候補へとあがる際にも選択を迫りましたね。これが最後通告です。翼を失うやも知れぬ、その覚悟があるというのなら、選定を受ける道を選ばれるがよろしいでしょう。覚悟がなければ辞退なさい」
フィリアは黙ったまま、目を閉じて、ルシリエの言葉を聞いている。
「フィリア、あなたの意思を聞かせてください」
優しい声だった。
どちらかを強要するでもなく、あくまでも自分の意思で選ばせる。何を選んでも、それはフィリアの意思として尊重される。だからこそ、痛みも苦しみもあるし、成功も幸運も自分だけのもの。
ずっと長い間、考えてきたように思える。自分はどうしたいのか、何をすればいいのか、いつも手探りでここまで来た。
迷いながら、失敗しながらもここまでこられたのは、周りの人々が助けてくれていたからだ。
ランディスがそばで支えてくれたからだ。
それはすべてフィリアの、星織姫になりたいという夢のため。
ずっとずっと夢見てきた時がくる。
今ではもう、輝かしい未来ばかりがあるわけではないことを知っている。
それでも、後戻りはできない。
戻るつもりもなかった。
ルシリエが示してくれた希望がある。
たくさん流した涙が、フィリアを前に向かわせる。
心はとうに決まっているのだ。
「選定を、受けます」
迷いのない言葉で。
ゆるぎない眼差しで。
フィリアは自らの未来を選び取る。
「そう」
ルシリエは微笑み、ゆっくりと頷いた。
「星の加護があなたにありますように」
そうして、扉は開かれた。
ルシリエが指し示す方向に、階段がある。遥か天へと繋がっていくような、光に照らされた道。
光のかなたへと続く長い階段を、フィリアは踏み出した。
一歩一歩踏み出していくたびに、光で満たされているような感じがした。
長い螺旋階段を登っていく。
まばゆい光に満ちた空間に、螺旋階段だけが存在しているかのように見える。気が遠くなるような長い道のりを進んでいくと、ふいに光が途切れた。
何も見えない。
突然の闇だった。
しばらくすると、無数の色とりどりの明かりがあちらこちらに点っていた。
宇宙が見えているのだと気がついた。
美しい光に満ちた星雲。
すぐ近くに緑の星が大きく見える。
「エクバート」
エクバートはエレミアとは双子星とされている星だ。兄弟星は晴れ渡った空にくっきりとその姿を現している。
鮮やかな緑の輝き。
それでいて、どこまでも穏やかに、エクバートはそこにある。
兄弟星でありながら、そこに住む人々はまるで違う。エレミアには二枚の羽根と神にも通じる力を持つ種族が住むが、エクバートには羽根もなく力もない種族が住んでいる。
もし翼を失っても生きていくことができたなら、エクバートに行くのもいいかも知れないと思った。
心はとても穏やかだった。
天を彩る幾千幾万の星々が、静かに、フィリアを迎えてくれているようだ。
細く耳に届く旋律に、振り返る。
淡く銀の光を放ちながら、星杖がフィリアの前に出現した。
美しい聖なる力の具現。
力強い波動はフィリアに勇気を与えてくれる。
光の導くままに、歩を進めていく。
まばゆい光が一瞬にして広がり、フィリアを包み込んだ。
瞬きするほどの間にフィリアは古い聖堂の中に立っていた。
どこまでも静謐な空間。
フィリアを導いた星杖が、祭壇の中央で、まっすぐに立っている。
迷うことなく、足は向かう。
呼ばれていると分かる。
星杖の前に行き、跪ひざまずいて、選定を待てばいいのだ。
一歩一歩、足を踏み出すごとに、胸の鼓動は高まる。それでも歩みを止めることはしない。己の行くべき場所だけを見つめている。
祭壇へ上がる階段を登っていくと、聖堂の壁に沿うように、ランディスが立っているのが見えた。その横にはシグル隊長と神官長ルシリエの姿も見える。
一瞬だけ繋がった互いの視線。
心に温かいものが生まれてくる。そのぬくもりにフィリアは微笑む。
誰よりも愛している人が、すぐそばで見つめていてくれる。フィリアを包む空気が、とても優しかった。
彼の思いが、こうして力になって、フィリアを支えてくれている。
とても幸せだった。
これ以上の幸せを知らない。
星杖を前にしてフィリアは跪き、両手を合わせて祈る。
心はどこまでも澄み、不思議なほど穏やかだった。
反対方向から、かすかな衣擦れの音が聞こえて、フィリアは顔を上げた。
祭壇を上がってきたその人物の横顔を食い入るように見つめた。
泣きはらした赤い目と張り詰めた表情に胸が痛んだ。
「クレア」
ぴくりとクレアの肩が揺れる。
やせ細った体が痛々しい。
もともと痩せてはいたが、さらに細くなってしまった。
フィリアの視線を跳ね返すように、鋭く睨み付けられた。真っ赤になった瞳は、怒りと悲しみと憎しみにあふれていた。
その激しさに、フィリアは圧倒される。言葉はなくても、荒れ狂う感情がフィリアに向けられているのが分かる。それでもフィリアは視線を外さなかった。ここで罪悪感にかられて目を逸らしてしまえば、負けてしまうと思うからだ。自分の弱い心に負けてしまうような気がして、今まで支えてくれた人々の思いを裏切るような真似はできなかった。
ぶつかり合う視線が 星杖を間に挟んで行き交う。
唐突に、視線を外したのはクレアだった。フィリアに興味がなくなったかのように、一心に祈り始める。その急激な変化にフィリアは戸惑った。
星杖は変わらず、そこに佇んでいる。二人の候補者を静かに見定めているかのように。
フィリアも再び、祈り始める。
選定の瞬間が訪れるまで、聖堂は静寂が支配していた。
熱を感じたのはしばらく経ってからだった。
一心不乱に祈りをささげていたフィリアには、あれからいったいどれほどの時間が過ぎたのか把握できない。
星杖が、緩やかに熱を持ち始め、点滅を繰り返していた。
零時を告げる鐘が鳴ったとき、星杖からまばゆいばかりの光がはじけて広がった。
光は二人の候補を貫き、聖堂を激しく照らし出す。
突然の光の爆発に、フィリアは悲鳴を上げてよろめいた。
白い光に体を貫かれていく。圧倒的な力の奔流に飲み込まれる。輝きがフィリアを焼き尽くしていくようだった。
激しい光の只中にあって、上も下も分からない。己の感覚すら見失って、フィリアは悲鳴を上げた。
何も見えない。
何も感じられない。
それがとてつもない恐怖を呼ぶ。
耳元で騒ぎ立てるいくつもの声、声、声。
ありとあらゆる感情や記憶が、フィリアを貫いて通り抜けていく。
小さなそれらは、フィリアを形作るものの一つだ。
それぞれが完成された一つの世界。
光とともに流されていく、小さな世界。
記憶も、思い出も、すべてが
フィリアから失われていくようだった。
「ラ、ンディ……ランディ!」
その名を呼んだのは無意識だったのか。
青く美しい星が、フィリアを見つめている。懐かしい眼差しとともに。
それがランディスのように思えて、フィリアは必死で手を伸ばした。他の何を失っても、ランディスだけは、失いたくなかった。
ランディスの、青い、宇宙と同じ色の瞳。優しく熱いまなざしで、フィリアを包み込んでくれていたあの瞳と同じ色の星へと両手を伸ばして、星を捕まえる。
かすかな鼓動が伝わってくる。
「ランディス」
溢れるような愛しさで抱きしめたとき、青い星は突然爆発した。
更なる光がフィリアを照らし、包み込む。
体中に染み渡るように、大きな力が流れ込んでくる。
四枚の羽根が大きく、打ち震えながら広がった。
振り仰いだその先に、 星杖がある。
手を伸ばすと、星杖は当然のようにフィリアの手に収まった。
愛してる。
あなたを、ずっと。
愛してる。
宇宙のように深く優しい瞳で微笑むあなたを。
ずっと、ずっと。
愛してる。
星織りの歌が聞こえた。
聖堂に満ちていた光は収まり、静寂が変わらずその場を支配していた。
星杖を手にしたものと翼を奪われたものの姿がそこにはあった。
「あ……ああ……ぅあああああ……」
クレアは身をよじり、悲鳴を上げる。引きつる背中の痛みに耐え切れず、のた打ち回る。失われた翼の変わりに制御を失った力が荒れ狂っていた。
地響きとともに塔が縦揺れする。
「どうして……どうしてよ!」
悲鳴の合間に搾り出すような言葉。
泣きながら、クレアは叫ぶ。
「わたしの、翼……」
輝かしく光を放つ星杖の向こう側に、大きく広がっている純白の四枚羽根。失われた翼を追い求めるように、クレアは手を伸ばす。
意識が戻っていないのか、フィリアは恍惚とした表情で目を閉じている。
その刹那に生まれた感情をなんと呼ぶべきなのか。
憎しみなのか。
妬みだったのか。
クレアにも分からなかった。
「わたしからサリエルを奪ったくせに! 翼まで取り上げるの!?」
激しい力の波動が壁を打ち壊す。
その力が一点へと向けられた。
鋭い煌きが目の前で閃いた瞬間、フィリアは我に返った。ぶつかり合う二つの力が、フィリアを避けて床にぶち当たり、大きく抉って消えていった。
幽鬼のように顔をゆがませたクレアと、フィリアをかばうように飛び込んできたランディスがスローモーションのように見える。
ランディスの手が腰の剣へと伸び、引き抜かれた。
クレアが斬られる。
そう思ったとき、フィリアは叫んでいた。
「やめて、ランディス!」
「縛!」
フィリアの悲鳴のような制止の声と重なって、鋭い声が祭壇の下から響く。
シグルから放たれた呪縛の力が網目の様に広がり、クレアを拘束する。呪縛の銀の光に阻まれて、ランディスの繰り出した剣もはじかれた。
「うあぁ、あああああぁっ」
呪縛の網の中でもがき、呻くクレアの姿は痛々しすぎた。全身全霊で泣いているように思えた。
翼を失い、愛する人も失って、クレアを支えてくれる希望は潰えさってしまった。
それを奪ったのはフィリアなのだ。
「シグルさま、クレアの呪縛を解いてあげてください」
「いや、しかし……」
シグルはうずくまりうめき声を上げているクレアに視線を向けた。今、クレアを解放すのは危険すぎると思っているようだった。
ランディスも迷っているようだった。
「星織姫に対し、刃を向けるものは、いかなる者であろうとも許されることはありません。たとえ候補であった娘でも、刃を向けた瞬間に罪人です」
シグルが諭すように言う。
それは分かっている。ランディスも、クレアがフィリアに向けて力を放たなければ、抜刀することはなかったはずだ。無意識にそう動くように訓練されている。近衛とはそういう理念で生まれているのだ。星織姫の命を守ることが何よりも勝る優先事項なのだと。
それでも、と思う。
もしかしたら、クレアはフィリアだったかもしれないのだ。
「お願いです。わたくしの前で、命の灯を消すようなことはなさらないでください」
星杖を手にしたフィリアが懇願する。
それは紛れもなく、あらゆる生命の土台となる星を生み出す女神の言葉だった。
フィリアを守るようにクレアの前に立ちふさがっていたランディスは一歩下がり、片膝をついた。シグルも頭を下げ、クレアの呪縛を解く。
せめて痛みだけでも取ってあげたかった。
フィリアは星杖をクレアへと傾け、目を伏せて祈る。星杖によって与えられた女神としての力で何が出来て何が出来ないのか、誰に聞かなくても理解していた。
柔らかな銀の光がクレアを優しく包み込む。それは祈り。フィリアの願い。
いつしかクレアのうめき声が治まっていた。
フィリアは、俯いて肩を震わせながら泣いているクレアの前に膝をつく。
「クレア、私を憎んでもかまわないから……生きて」
顔を上げたクレアは唇をかみ締めてフィリアを見た。その瞳に、先ほどまでの激情はなかった。
「サリエルがいないのに」
クレアはつぶやいて頭を振る。
「サリエルが、あの人が、フィリアを殺そうとしたなんて、信じられなかった。兄にあの人が死んだって聞かされて……私……どうしてって、そればかり考えていた。私のことをとても理解してくれて、神殿に上がるときだって、喜んで送り出してくれたのに。セラフィムに入っていただなんて……」
通じ合っていたはずの心が、錯覚であったのかとクレアを打ちのめす。どうして、とクレアは繰り返す。
「本当なら、この手で君を殺してでも、ここに、留めておきたかった」
はっと顔を上げて、フィリアはランディスを凝視した。
ランディスがクレアに伝えたのは、サリエルの最期の言葉。彼は悲しそうに笑いながら、自らの手を広げて見つめていた。
「フィリアと君を間違えて言ったのだと思う」
食い入るようにランディスを見つめていたクレアは、信じられないとばかりに顔をゆがめ、頭を振った。
「そんな、そんなのって……ちゃんと言ってくれなきゃ、わからないわ、サリエルっ」
優しそうな人だった。
話に聞いた通り、優しい人だったのだろう。きっと彼はクレアの気持ちを尊重して、自分の気持ちを口に出すことができなかったのだろう。愛する人を引き止める術もなく、優しすぎて、そうして、星織姫を否定する思想に流れ着いてしまったのかもしれない。
すべては推測でしかない。
サリエルが何を思っていたのか、今はもう分からない。けれど、これだけはフィリアにもわかる。クレアは間違いなくサリエルに愛されていたのだと。
「ねぇ、悔やまないで。サリエルがいても、あなたはこの道を選んだでしょう? 離れていてもずっと忘れないって言ったでしょう?」
「言ったわ、でも!」
「私はクレアに生きていてもらいたいの」
もう誰もクレアにその言葉を伝える人がいないというのなら、自分しかいない。
「大好きなクレアに、生きてほしいの」
サリエルを愛していた記憶を抱いて、生きていてほしいと。
フィリアは返し忘れていた銀のロケットをクレアに差し出す。震える手でそれを受け取ったクレアは声を上げた。
「サリエル、サリエル!」
祭壇の下で涙を流しながら事の成り行きを見守っているルシリエに、フィリアは微笑む。
「ルシリエさま、クレアのことお願いできますか」
「ええ、もちろんですとも。喜んで引き受けます」
フィリアはその横に控えているシグルにも微笑む。
「シグルさまも、どうかわたくしのわがままをお聞き届けください」
シグルは満足げに顔を綻ほころばせ、頷いた。
「あなたは、まさしく先代の星織姫と同じことをなさるのですな」
フィリアに祝辞を述べ、最敬礼をする。
そうして、クレアの体を支え、シグルとルシリエが部屋から出て行くと、後にはランディスだけが残った。
「ランディス」
彼は変わらずすぐそばにいる。
手に届く場所にいて、二人の間は何も変わっていないようにも見えた。だが、唯一つだけ変わったことがある。
フィリアが人ではなくなったということ。
星杖を手にした瞬間に、フィリアは女神となった。全身を駆け巡る力の奔流を、ただこうして立っているだけでも感じるほどに。
これは宇宙の力。
生命の息吹。
体中に絶えず鳴り響いているのは、あれほどまでに焦がれた星織りの歌。
ランディスを愛している。
その想いだけで綴られている、ただ一つのフィリアの歌だった。
フィリアはようやく星織姫が歌う、星織りの歌の本当の意味を知った。
「ランディス、星織姫は星杖の代弁者なの。だから、いつ星誕の儀式を行うのか決めるのは私じゃないの。何年先か、何十年先か、もしかしたらすぐかもしれないけど」
ランディスの青い瞳が静かにフィリアを見つめている。
「いつかその時が来るまで、傍にいて」
ずっと愛しているから。
ずっとずっと、愛していくから。
宇宙を彩る星のひとつになっても。
ランディスを愛していると歌うから。
ランディスは跪き、フィリアの衣服の裾にそっと口付ける。
「新たな星織姫に、永遠の愛と忠誠を誓う」
それは二人だけの神聖な儀式だった。
「ありがとう、ランディス」
フィリアは聖堂の天井を見上げた。
大聖堂と同じ、微笑む星織姫の姿が描かれた絵画がここにもあった。
きっと今の自分も同じ笑みを浮かべているのだと、フィリアは思った。
終
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