星織りの歌【完結】

しょこら

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第二章

4.すれ違う想い

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「フィリア」
 ランディスに注意されて、フィリアはようやく我に返った。今日の事件をランディスと一緒に神官長に報告している最中だったことを思い出した。
 ルシリエが形のよい眉をひそめて、フィリアを見ていた。
 ルシリエの身に着けている深い紫色の法衣は、最高位の神官長だけに許された色である。美しい銀の髪を結い上げて、悠然と腰掛けている姿は威厳も感じられるが、ただ厳しいだけではない慈愛をも持ち合わせている女性だ。家を出て神殿へと上がったフィリアには親代わりのような存在でもあった。
「どうもうわの空のようですね。足が痛むのですか?」
「あ……はい、あの……申し訳ありません」
 実際、足は痛むのだが、まったく別のことを考えていたのだから、フィリアは恥じ入るようにうつ向いた。
「そなたが無事だったことは何よりです。でも、近衛隊の方々に迷惑をかけてしまったことを反省しなくてはなりません」
「……はい」
「そなたたち候補を護衛することは近衛の任務ではありますが、身を守るということは、己自身から行動しなければ、いかな優秀な近衛であろうと困難です」
 まさかあんな場所に刺客が入り込んでいるとは思わなかった。自分から森に入ったのは軽率だった。刺客を巻くだけでなく、近衛からも手が届かない場所に自分から入り込んだのだ。近衛がいないことで刺客たちは好機ととった。それはフィリアがいつも狙われているのだということを指している。ルシリエが叱責しているのはそういうことだ。
「《セラフィム》のような思想を持つものはどうしてもいるのです。自覚しなさい。わかっている事だとは思いますが、もう一度、思い返しなさい。そなたがここにいる理由を」
「はい、肝に銘じます。ルシリエさま」
「よろしい。そなたには十日間の謹慎を命じます」
 フィリアは無言のまま頭を下げた。
「ランディスも、ご苦労さまでした。休暇中だというのに申し訳無く思います。今後ともフィリアをどうぞお護りください」
 ランディスは最敬礼をして返事をする。
「少しフィリアと話がしたいの。外で待っていていただけるかしら?」
「……わかりました。では、失礼します」
 ランディスは一瞬ためらったようだが、神官長の言葉に部屋を辞していった。
 扉が閉まるまで、ルシリエは法衣と同じ紫の瞳を気遣わしげにランディスの背に向けていた。
 厳しい言葉を放っても、フィリアのことは実の娘とも思ってくれているのがわかる。同様にランディスのことも息子のように思っているのだろう。ルシリエは先ほどとはうってかわって優しく微笑んだ。二人きりのときは口調も変える。本当に親しみやすい母親のような存在でいつもフィリアをかわいがってくれる人なのだ。
「あまりランディスに心配をかけてはいけませんよ、フィリア」
「はい、すみませんでした」
 フィリアはぎゅっと手を握り締めた。
「では何を思い悩んでいるのか話してくれるかしら?」
 フィリアはずっと泣きそうな顔をしている。必死に堪えているのをランディスも気が付いているはずだった。
「ルシリエさま、教えてください。私はどうしたらいいのか……分からなくなってしまいました」
 星織りの歌への憧れは、フィリアの心の奥底に深く根付いている。それは本能といってもいいほどの執着。
 あきらめたくはないと強く思う。
 これほどまでに強い執着は一体何なのか。この執着こそが四枚羽根である所以なのかと思う。
《セラフィム》の青年の言葉はフィリアに迷いを植え付けた。
「あの人、《セラフィム》のあの人が、言ったんです。候補の末路を知っているか?と」
 フィリアは震える手でスカートを握りしめた。
「私、知らなかった…」
 消え入りそうなフィリアの言葉にルシリエは微かに息を吐いた。
「それはまだ先の、いずれ与えられる試練でしたのに」
「じゃあ……本当のことですか?」
「そう、あなたの背にあるその美しい四枚の羽根。その羽根には特別な力が宿っています。エレミアの民が当たり前に持つ二枚の羽根とは全く違う役目を持つ羽根です。でもあなたには生まれたときから当たり前にあった羽根ですね。秘められた力も。星界王がお与えになった使命と力はとても大きく、またそれらを遂行するだけの資格があるのかどうか見定めなくてはならないのです」
 それが選定。
 星杖が自ら主人を選ぶ。
「資格がなければ羽根は失われます。選定を受けることができるのは一生に一度だけ」
 一生に一度だけ、というのがそう言う意味を持っていたとは知らなかった。
 この四枚の羽根を奪われる。
 知らずフィリアは自らの身体を抱きしめる。怖い。芯が凍りついてしまいそうな恐怖に体が震える。
「我が身に当たり前にあったものを失うことで、いままでの候補たちはみな正気を失いました。痛みと絶望と、どうしようも無い喪失感に押しつぶされて、狂うのです。心を失った力は暴走を止められません」
「だから、近衛が…?」
 ルシリエは静かに頷く。
 この羽根を失うことの恐怖は計り知れない。そうなれば自分はどうなってしまうだろう?正気を保っていられる自信はフィリアにはない。
 そうしたら?
 近衛隊に殺される。
 ランディスに?
 ランディスは近衛だ。
 剣を持って戦う人だ。
 先ほどの刺客たちを切り伏せた抜き身の剣がフィリアの脳裏に焼き付いている。
 ランディスが、自分を殺す?
 ゾクッと背筋に冷たいものが走った。
 怖かった。
 怖くて、怖くて、たまらない。
 いますぐ逃げ出したい恐怖にかられ、フィリアは必死に悲鳴を飲み込んだ。
「その恐怖は候補なら誰もが感じるものです。ですが誰もその恐怖からあなたを助けることはできません」
 静かなルシリエの言葉にフィリアは顔を上げる。
「知るにはまだ少し早かったかもしれません。候補にとって最大の試練です。ですが、知ってしまったのなら、仕方ありません。あなたに一つ質問をしましょう。フィリア、あなたが歌う理由はなんですか?」
「歌う理由?」
 フィリアは戸惑った。歌う理由など考えたこともなかった。
 ただ歌うのが好きで。歌っていれば幸せで。
 ルシリエは頷く。
「四枚羽根なら歌うことは本能です。でもそれだけではダメなのです。あなたは、何のために歌いますか?」
 何のために?
 よくわからない。フィリアはただ歌うのが大好きなだけだ。
【星織の歌】を歌いたい。
 憧れがあるだけのような気がして、フィリアは押し黙る。
星杖カリスが星織姫を選ぶ選定の日まではまだ時間はあります。ゆっくりとお考えなさい。そしてあなた自身の答えを探しなさい。後悔しないように」
「はい」
 ルシリエの言葉はフィリアのなかにゆっくりと染み渡っていった。



 フィリアたちが下がった後、ルシリエは一人、窓の外に見える景色を見つめていた。白く輝く星織の塔が静かに佇んでいる。女神たる星織姫が住む星織の塔は、ここ数十年、ずっと主不在のままだ。ルシリエが知る星織姫を最後に新しい女神は誕生していない。
 そっと目を伏せ、はるか昔、まだ若かったころの懐かしい記憶を掘り起こす。
 美しく、優しい、親友とも呼べる少女の笑顔を。
 ふいにドアをノックする音が聞こえ、現実へと引き戻された。
「はい」
 返事をし、振り返ると、シグルがキビキビとした動作で一礼し、入ってきた。
「ああ、隊長。この度は、近衛隊にご迷惑をおかけしました」
「いいえ、フィリアどのが無事で良かったと思っております。護衛の手が足りなかったのはこちらの落ち度。対応を強化します」
 ルシリエは静かに微笑む。
 どれほど目と手を増やしても、すり抜けてしまうことはある。
 今回のこともランディスは休暇中であったし、しっかりと別の近衛が守りについていた中での出来事だ。それはルシリエもシグルも理解している。だが、護衛としての責任は近衛隊に行ってしまう。
「候補の行動管理は神殿に責があります」
 ルシリエの言葉にシグルは柔らかく笑みを浮かべた。
「痛み分け、ですかな?」
「わたくしはあの二人に甘いのかも知れません」
 幼い頃からずっと二人一緒に過ごしてきたというフィリアとランディス。
 二人の間にある想いにルシリエは気付いている。いや、自分だけでなく、きっと周りの者は知っている。本来なら禁止し、引き離す。近衛が候補の未来を変えてしまう前に。けれど、あの二人は微笑ましく、愛おしく、見守っていたいと思うのだ。
 この先に必ず訪れる試練を、どうか乗り越えて欲しいと願う。
そしてそれはシグルも同じだったようだ。
「候補と近衛」
シグルはそこで一度言葉を切った。遠い昔の何かを思い出したかのように、ふっと笑みを浮かべる。
「なんと業の深いことか」
「シグルさま。わたくしは、あなたと星織姫のおかげで、生きております」
 懐かしい呼びかけにシグルは笑みを浮かべたまま頷く。
「それがあの方の望みでした」
「あなた方がくれた言葉に生かされているのです。わたくしは、あの子たちにも伝えたい」
 星杖カリスは沈黙したまま。
 だが、ルシリエはいまの候補たちがおそらく選定を受けるだろうと確信していた。
 クレアとフィリア。
 二人とも星織姫候補として遜色ない。
 四枚羽根の力も、歌も、どちらも引けを取らない。
 どちらがなってもおかしくない。
 だが、やはり星織姫はただ一人なのだ。
 近衛の力が必要になる事態にならなければいいと願う。それがかなえられることがないと分かっていても、願ってしまう。
 己の背にある奇跡の具現をルシリエは想いおこすのだ。



 くじいた足の痛みはなかなか引いてくれず、痛み止めをもらって飲んだが効いてくるまでもう少しかかりそうだった。
 足を引きずって歩くフィリアを見かねて、ランディスが部屋まで支えてくれていた。
 フィリアの手の指先が冷え切っている。部屋までもうそれほど距離はないが、痛みからかフィリアの息があがっていた。
「少し休むか?」
「え?」
「足が痛むんだろう?」
「あ、うん」
 慌てて手を離したのは無意識だったのか。壁に寄りかかって、フィリアは息をついた。
「ごめんなさい、迷惑かけて」
「やけに殊勝じゃないか」
 からかうような口調にフィリアは自嘲気味に笑う。
「あれだけ怒られたら、私だって…」
「これに懲りたのなら、少しは自分の立場を自覚して自重しろよ。あいつらはあの手この手で仕掛けてくるんだ」
「わかってる」
 いつになく殊勝で、声に力がない。うつむいたまま、フィリアがどこか遠くを見ているようで、ランディスはつかみようのない違和感を覚えた。
「ランディにはいつも迷惑かけてばっかりね」
「フィリア?」
 フィリアが何を思い、何を悩んでいるのか、分からなかった。素直で単純で、考えていることがすぐ顔に出るのに。殺されかけたのだから無理もないと思っていたが、さっきから自分を見ようともしないフィリアにランディスは訝しむ。
「お前、さっきから…おかしいぞ?」
「ランディは、どうして近衛になったの?」
 心底不思議そうにフィリアはつぶやく。
 いまさらそんなことを聞かれるとは思ってもみなかったランディスは言葉を失った。
「どうしてって…」
「どうしてランディが私の近衛なの?」
 ランディスの瞳がゆらぐ。
「いきなり、なんでそんなことを言うんだ?」
「それは……」
「お前が言ったんだぞ?」
「ランディ」
「俺が近衛になったのは!お前が星織姫になりたいって言ったからだ!!」
 激しいランディスの怒りの声。
 フィリアはランディスの服を掴んでうつむいた。
 そうだ。幼いころからずっと、そう言い続けてきた。それがフィリアの夢だから。
「頼んでない…私、頼んでないよ」
「何?」
 傍にいてくれるのは近衛としての義務だから?
 優しいのは幼馴染だから?
 どんな理由を付けたとしても、きっと変わらない。小さいころからずっと一緒にいた。そばにいて、一緒にいるのが当たり前で。他の誰よりも信頼している。
だけど。
私のために近衛になったと言いきる人。
こんなに優しいのに。
そばにいたいと願うだけで、この優しい人を傷つけてしまう。
その悪夢のような役目を担うのが近衛だというのなら。
「どうして、ランディなの?」
 こんな思いをするくらいなら、家を出たあの時に、すべてを終わらせるべきだったのに。
「フィリア、俺が嫌なら候補付きの任を他の誰かに代わってもらえばいい」
 こみ上げてくるものをこらえることができなくて、かみ締めた唇から嗚咽が漏れる。
 候補付きの近衛をランディス以外の誰かに、なんて考えられない。なのに、こんな言葉をランディスに言わせてしまう。
 苦しくて堪らない。
 こんなに苦しい思いをするくらいなら、いっそのこと。
「その方が…いいのかな?」
「お前っ……?」
 くしゃりとランディスの顔がゆがんだ。
「ふざけるな!」
「だって、だってランディは!私を、殺せるの?」
 絞り出すようにフィリアは告げた。
 ビクリとランディスが震えたのが分かった。
 選ばれなかった候補は翼を奪われ、自我をなくしてしまうという。強大な四枚羽根の力はそのまま荒れ狂いすべてを破壊すると。
 そんなものにフィリアはなりたくなかった。
 なりたくないけれど、翼をなくしたらきっとそうなってしまう。訳がわからなくなって世界を壊してしまうなら、死んだ方がマシだ。
 だけどそうなったら、ランディスは私を殺すために剣を振るうのだ。そんなことはさせられない。
させたくない!
「私は、嫌だ…そんなの」
 その瞬間、荒々しく引き寄せられ、息もできないほど強く抱きしめられた。
 熱い、嵐のような口づけ。
 永遠にも思える一瞬。
 始まりと同様に終わりも唐突に訪れた。
「……あ」
 ランディスの腕が解かれる。
 荒々しく開かれた扉が激しい音を立てた。部屋の中へ力任せに押し込まれ、よろめいたフィリアの背後で扉は閉められた。    
「ランディ…」
 壁を力任せに叩きつける音が聞こえて、荒れ狂う嵐から逃げるように、フィリアは寝室へと足を引きずりながら歩いていった。リルがいなくてよかったと思った。
「ランディ……」
 寝台に倒れこむようにフィリアは体を投げ出した。まだ唇に残っている熱い余韻が、さらに切なさを増していく。
 大好きなのに。
 自分が彼を傷つけてしまうことになる。
 これほど辛い思いをして、どうして星織姫への夢をあきらめることができないのだろう。
 夢を諦め、ただのフィリアとして生きていくことを選べば、ランディスは変わらずそばにいてくれるだろうか。
 歌を歌うことをやめたら、自分は生きていけるのだろうか。
 こんなにもランディスのことが好きなのに、どうして自分は夢を諦められないのだろう?彼を傷つけると分かっていても歌うことをやめられない。
「ランディ……私、どうしたらいい?」
 涙は枯れることを知らず、長く果てしない夜を濡らし続けていた。



「おい、どうした?」
 ランディスの部屋から大きな音が聞こえてきて、アレックスは驚いて部屋を覗き込んだ。
 何か重いものでも倒したのだろうか。
 デスクに突っ伏すように俯くランディスを見つけ、怪訝に思いながらもアレックスは部屋に入った。ランディスが振り返る様子もない。そのまま近づいていくと、両拳が固く握られたまま小刻みに震えているのが分かった。おそらく拳でデスクを叩いたのだろう。
 ランディスがこれほどの抑え切れない憤りのような感情を見せるのは珍しかった。
「どうした?何かあったのか?」
 肩を掴み引き上げると、顔は伏せたままだったが抵抗することもなく、ランディスは身を起こした。大きく息を吸い込み、視線だけをアレックスに向けたがすぐに逸らした。
「なんでもない」
 ひどく憔悴しきった顔と声だ。真っ青な顔色をしている。こんなランディスをみるのは初めてだった。
「…そんな顔して、なんでもないわけないだろ」
 森で見失った候補を五人の刺客から救い出した英雄のする顔では到底ありえない。
「森で何かあったのか?」
 ランディスは自らの拳で額を打ちつけている。何かを思い出そうとしているかのように。苦しげに顔を歪ませて、焦燥感と戦っているようだった。
「…あの時…五番目の…」
 何かに気がついたようにランディスはひとりごちる。
 ランディスがこぼす言葉は断片的過ぎて、アレックスにはさっぱり状況が掴めない。話す気があるのかないのか。ここに自分がいることを分かっているのかどうかも怪しい。
「おい、ランディス、話が見えないぞ!」
 少し強めに言って睨みつけると、ランディスはピタリと黙り込み、ゆっくりと振り返った。
「あ、ああ…」
 そこで初めてアレックスを認識したようだ。
「どうしたよ、お前」
 ランディスは大きく長い息をついた。
 さっきまでの焦燥感は消え失せ、放心状態に近い、疲れ切った顔だった。
「…俺は、どうしたらいい」
「何が?」
「ここにいる意味がない」
「何を言い出すんだよ、突然?」
 アレックスは耳を疑った。ランディスからこんな言葉が出てくるとは思いもしなかったからだ。誰よりも近衛でいることを望んでいたのがランディスではなかったのか。
「どうして俺が自分の近衛なんだ?って…言ったんだ」
「は?」
 誰が?という言葉をアレックスは飲み込んだ。まさか彼女がそんなことをいうとは思わなかったからだ。
「近衛を、替えるって…」
 最後は声が震えて消えそうだった。泣きそうになるのをなんとか堪えているように目を細める。
「なんで?ちょっと待てよ?なんでそんな話になったんだ?」
 ランディスは壁を睨みつけたまま答えなかった。
 候補付きの近衛にしか明かされていない極秘任務の内容はさすがに話せない。
「俺から言った」
「何を?」
「俺が嫌なら近衛の任を他の誰かに変えてもらえばいいって」
「は?」
「あいつ…その方がいいかもしれないって」
「いやいや、待て待て待て。だから、なんでそんな話になるんだって!」
 一番肝心な話が抜けている。
 なぜそうなったのか、だ。
 側から見たら完全に両思いだった二人だ。他の誰かなんて入る隙もないくらいの。強固で、アレックスからしたら羨ましい限りの関係だったのに。何をどうしたら、そんなすれ違いが生じるのか。
「ウソだろ?」
 だがランディスは黙ったままだ。頑なな様子から口を割る気配がまるでしない。
 アレックスは頭を抱えたくなった。
「待て!ちょっと待て、ランディス。早まるなよ?いいか?結論はまだ出すな。こういうことは親父の方が得意だ。ちょっとお前も来い!!」
 アレックスはランディスの腕をつかんで部屋を飛び出した。
 ランディスは腕を引かれたままついていく。抵抗する気力もないらしい。
 ずんずんずんずんとアレックスはランディスを引きずる勢いで指令室へと飛び込んだ。
「親父!!緊急事態だ、こいつ、なんとかしてくれ」
 そう言って、アレックスはぎょっとして振り返ったクルトの前にランディスを突き出した。
 指令室にはクルトとシグルがいるだけだったが、声は下の本部に筒抜けの状態だ。
 クルトはさりげなく本部の様子を確認し、指令室の音声を切った。
 シグルも本部の隊員たちも気を遣ってか知らんぷりをしてくれている。
 アレックスがクルトの息子であることは皆知ってはいたが、任務中に親子関係を悟らせるようなことは一切せず、上司と部下の関係を徹底していた二人だ。
 クルトは少しだけ不快感を露わにした。
「お前、どの立場で物を言っている」
「失礼いたしました!でも親父、緊急事態なんだ。助けてくれ」
 アレックスが部下の立場と息子の立場とを混同していることがかなり珍しい事態であることは分かっていた。クルトは彼が緊急事態だと騒ぐ理由に興味を持った。
 意気消沈したランディスが目の前にいる。
「なんだ、いったい」
 クルトは頭を掻きながら作戦会議用の小部屋に二人を引き入れつつ、シグルが内線電話を受けているのを横目で確認する。
 二人をソファに座らせて、自らも向かい側に腰を下ろす。
「で?何があった?」
 ランディスは俯いて喋り出す雰囲気ではない。
 アレックスはそんなランディスを気遣う風だったが、発せられた言葉にクルトは崩れ落ちた。
「なんか、こいつフラれたらしくて…」
 アレックスの横でランディスがさらに落ち込んでいく。
「誰に?」
「だから、フィリアどのに」
 クルトも思わず絶句する。膝に頭が付きそうなくらいのめりこんでいるランディスをしみじみと眺めながらクルトはつぶやいた。
「それは…確かに、緊急事態だな」
「だろ?」
 膝を打って前のめりに身を乗り出すアレックスを苦笑とともに一瞥する。
「ランディス」
「…はい、先生」
 懐かしい呼び方で力なく答えながら、ランディスは顔を上げる。その目元を覆うようにクルトは左手をかざす。
「お前、少し寝ていろ」
 クルトがそう短く言い放つと、ランディスはゆっくりとソファに沈みこみ、すぐに寝息が聞こえてきた。クルトの持つ特殊能力だった。機嫌が良ければ優しく睡眠に誘ってくれるが、そうでなければ無理矢理昏倒させられる。アレックスは何度も身をもって体験しているものだった。
「何で寝かしちゃうんだよ。話が聞き出せないじゃないか、親父」
「バカか。話が聞ける状態じゃなかっただろうが」
 真っ青な顔色をして眠るランディスをちらっとみる。幼い頃からただ真っ直ぐに見つめて走ってきた道がいきなり閉ざされたなら、いまのランディスの状態は致し方ないとクルトは思う。
「お前も、こういうときは酒でも飲ませて、だな」
「こいつ、未成年」
「……そうか、そうだったな」
 普段、大人びているからか、すっかり成人しているものだと勘違いしていた。
「しかし何でまたそんなことになったのやら」
「だろ?俺も訳がわからない。なんでランディスが自分の近衛なんだ?って言われてショックを受けたらしいけどさ、それなら他のやつに替えればいいって自分から言って、否定されずにドツボにハマったらしいけど」
「それだけならただの痴話喧嘩だがな」
 クルトは笑って肩をすくめる。
「男と女の関係は分からんよ。ちょっとした差異で簡単に崩れ去る。原因は必ずあるがな。しかし、近衛と候補の恋愛はご法度だと言ったはずだったがな」
 ジロリとクルトは睨む。アレックスは首をすくめてその視線をやり過ごす。
「でもさ、こいつらめちゃくちゃ仲良かったじゃん」
 アレックスはどうしても納得できずにいる。
「何か訳の分からない関係だけど」
 幼なじみという言葉でくくってはいたけれど、恋人でもなく、友だちでもなく、兄妹でもない。
「いままでの立ち位置ではどうにもならなくなったんだろう」
 シグルが部屋の外でこちらを伺っているのを見つけ、アレックスは慌てて立ち上がる。それを手で制して、クルトは部屋の外へと向かう。おそらくは先ほどの内線だろうと予想はついた。
「フィリアどのが発熱だそうだ。十日間の謹慎もある。明日以降の担当配置を変更する」
「承知しました」
 シグルは声を潜めて話を続ける。
「例の話をフィリアどのにしたそうだ。いまからクレアどのにも話すらしい。今後の揺れに注意だ」
「ああ、やはりそうでしたか」
 ランディスの突然の不調、フィリアとの関係性の悪化の原因がそれだと納得した。
「もうすでに大波を食らったようです」
 クルトとシグルは眠るランディスをチラリと見やる。
「顔色が悪いな。動けそうになければ外す」
「替わりはどうします?」
「お前に任せる」
 クルトは無言で頭を下げる。
 シグルの判断は厳しいが、任務には休みがない。体調不良にしても、メンタル低下にしても、まともに使えない隊員は戦力外なのだ。ランディスが動けないと確認したわけではないが、少し外した方がいいかもしれないとクルトは思った。
 極秘任務が影響しているのなら、ランディスはまともにその煽りを食らったのだ。
 シグルの危惧する揺れとは、候補たちの心の動きからくる混乱。候補にとって、おそらく最大の試練だからだ。
 自らの存在意義をかけて、荒れ狂う嵐と、これから候補たちは闘わなくてはならない。
 本来ならば、近衛が落ち込んでいる暇などないのだ。
 クルトはソファに戻ると大きく息を吐いた。
「お前、明日からフィリアどのに付くか?」
 アレックスはぎょっとして立ち上がった。
「は?なんでランディスを外すんだよ?」
「一時的にな。ランディスはフラウサーズに派遣する。期間は二週間だ。その間だけ、お前には候補付きを任命する」
「了解しました」
 しぶしぶといった感じでアレックスはソファに座り直す。
「フラウサーズねぇ。臨時講師だろ?姉さんが大喜びしそうだ」
「あれは二十三になるのか?母親に似て、気ばかり強くて仕方がない。ランディスが叩きのめしてくれれば少しは大人しくなるかな」
「…どうかなぁ。それよりフラウサーズに放り込まれるランディスの方が心配だよ」
「なあに、ちょっと荒療治くらいがいいのさ。フィリアどのしか知らないより断然マシだ」
「俺だったら、姉さんがいなければ、ウハウハだけどな」
「生意気だね、お前」
「あれ?そう言えば姉さん、確かウィングに上がった」
「ほう、上りつめるつもりか?」
 クルトは頭を掻きながらも笑う。
「そりゃ姉さんなら。フラウのトップ狙ってるでしょ」
「頼もしい子どもたちだ、まったく」
 アレックスもキャロルもクルトが一から剣術を教えた。ランディスは基礎が父親だが、その後はクルトの手ほどきを受けている。皆が皆、優秀な剣の使い手となっているのが誇らしくもあった。
「アレックス、一時的ではあるが候補付きになるなら覚悟してもらわねばならんことがある」
 一変して厳しい顔つきになったクルトにアレックスは思わず姿勢を正した。
「候補付きには極秘任務がある。おそらく、ランディスがあんな状態になったのもこの任務が関係している」
「え?」
「いいか。たった二週間だが、もしその時が来たら、逃げることは許さん。最後まで責任を持て」
 そして伝えられた極秘任務の内容に、アレックスは絶句したのだった。


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