星織りの歌【完結】

しょこら

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第二章

3.刺客

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「本当に、お加減良くなって安心しました、フィリアさま」
「ありがとう、リル。心配かけてごめんなさい」
 風が心地よく吹いて、フィリアの長い髪をもてあそぶ。
 神殿でのお務めを終えて、遊歩道を歩く二人の背後にはいつもとは違う少年が二人。今日はランディスが非番の日で代わりの近衛がフィリアの護衛についているのだ。付かず離れずの距離を保ち、フィリアの安全を守ってくれている。
 ずっと具合が悪くて部屋にこもりがちだったフィリアがようやく元気を取り戻したのが嬉しいのか、リルはご機嫌だ。神殿でのお務めの時間が終わるころに出迎えまで来てくれて、いまこうして散歩がてら遊歩道を歩いている。
「でも無理はなさらないでくださいね」
「大丈夫だってば、もう」
 心配性だなぁと苦笑いしながらフィリアは言う。よほど心配かけたということなのだろう。力を暴走させて、意識も失い、庭園を壊滅的に破壊してしまったのだ。申し訳なさに涙が出る。暴走の副作用なのか、件の鈴のせいなのかは分からないが、嘔吐と発熱、食欲不振に倦怠感でしばらく寝込む羽目になった。
「ランディスさまもとても心配なさっていましたよ」
「そうね、かなり心配かけちゃったわ」
 毎日、様子を見に部屋まで来てくれて、時間の許す限りそばにいて、リルと一緒にかいがいしく世話をしてくれたのだ。
「本当にお優しい方ですねぇ」
 ランディスが言うには鈴の影響らしいが、四枚羽根に悪影響を与えるものとしてすぐ研究対象になったようだ。クレアも同様に体調を崩したせいもある。そう考えると、いまこうやって外を歩いているのも本当なら怖い。またあの鈴の音が聞こえてきたらと考えただけで心臓がドキドキする。それでもフィリアやクレアの中に抗体が出来つつあることも聞いて、安心もしてはいるのだ。
「今日はランディスさまはお休みなのですねぇ」
 ひどく残念そうにリルが言う。
「うん、なんかアレックスさまとコルドラに行くって言ってたけど」
「コルドラですか!あそこはいつもお祭りみたいににぎやかだそうですね」
 フィリアは四枚羽根のせいとは思わないが、人見知りがひどく、あまり外の世界と接してこなかった。人と会うのを極力避けていた。成長した今は、だいぶ良くなったが、人ごみに入ると酔ってしまうのだ。たくさんの思念に押しつぶされそうになるのが嫌だった。おかげでほとんど家の周りだけで過ごしていたからか、コルドラにももちろん行ったことはなかった。リルは幼いころから神殿に住み込みで働いていたようで、フィリア同様、あまり外の世界には詳しくないと話す。噂話ばかり聞くのでかなり耳年増になってしまったと嘆く。
「ではきっとなにかお土産を買ってきてくださいますね!」
「どうかなぁ」
 ニコニコ笑いながらフィリアは首を傾げつつ答える。お菓子とかなら買ってきそうだなとフィリアはこっそり想像した。
「あら、お願いしなかったんですか?」
「してないよ」
「何故ですか?」
 何故と問われてフィリアはまたうーんと考え込む。特に何かが欲しいわけでもなく、ランディスが出かけるからと言ってこれが欲しいあれが欲しいとはなかなかならない。
「フィリアさまなら、アクセサリーとかおねだりしちゃっても大丈夫だと思いますけど?ランディスさまなら喜んで買ってきてくださるんじゃないですか?」
「えー?」
 フィリアにはそれは想像できないことだ。逆に怒られそうで言えない。
「ランディ、そんな感じじゃないと思うけど」
「そうなんですか?いつもあんなにお優しいのに」
「優しい…うん、優しいのは優しいけど…」
 フィリアのためにアクセサリーを買い求めるランディス、というのはフィリアの中では成り立たない。それはもうランディスでは無い気までしてしまう。
 彼の優しさはそういうものとは違う。物を買い与えることで表現することは今までもなかったし、きっとこの先もないだろうと思う。フィリア自身、ランディスにそんなことを求めてはいない。そばにいて、見守ってくれるならそれだけでいい。
「そうですかぁ…」
 ひどく残念そうにリルはつぶやいた。
「リル?」
「あ、もちろん恋愛が禁止されているのは存じてます。でもとても仲の良いお二人を見ていると、なんか、こう…応援したくなると言いますか…」
「…応援…」
 お土産、ランディに頼まないといけなかったかなとフィリアは心の中で申し訳なさそうに思いながら肩をすくめた。
「…きゃっ」
 リルが小さく悲鳴を上げた。
 さっきまで横を歩いていたはずのリルの姿が消えた。
「え?リル?」
 背後を歩いていた近衛の少年たちが血相をかけて駆けつけてきた。
「フィリアどの!!お下がりください!!」
 その声と同時に金色に輝く捕縛の糸がフィリアを絡めとる。
 身体を引っ張られ、遊歩道から森の手前まで引き寄せられた。
 よろめいてフィリアは手をつく。
 顔を上げたその先に同じく捕縛されたリルが横たわっていた。気を失っているのか、ピクリともしない。
「リル!!」
 駆け寄ろうとしたが、捕縛の糸が木に引っかかって近付けなかった。
 ガサっと葉を踏む足音がして、フィリアは息をひそめる。誰かが近付いてくる。だが、その足音はうめき声と共に止まり、どさっと何かが倒れ込む音が聞こえた。フィリアを捕らえていた捕縛の糸が緩み、消えていく。近衛が、捕縛の主を倒したのだろう。術師が気を失えば捕縛の術も消える。
 だが木々に阻まれて、近衛の姿も確認はできない。
 刺客がどこにいるのかも分からない。
 呪縛が解けて、ほっとしたのもつかの間、足元を鋭く走る衝撃が来た。こちらからはみえないが、まだほかにも刺客がいるのだとフィリアは悟った。
 どうする?
 震える手を結び、息を整える。
 逃げ道を塞ぐように、間髪入れずフィリアの足元を狙って衝撃波が走ってくる。
 フィリアが近衛たちのいる方向に向かわないように仕向けているのだ。
 衝撃波をなんとか避けながら、フィリアは一点を見据える。
 森の奥。
 行く先はこの方向しかなかった。


 王都に隣接する大都市セレスの隣りはもうアルベルタ伯爵が治めるアルベルタ領だ。
 そのアルベルタ領の小さな街コルドラでは、週末になると大通り沿いに大きな市が立ち、観光客も集まってかなりの賑わいを見せる。
 石畳の道にいくつもの店が立ち並び、たくさんの人が行き交っていた。
 神殿から一番近い街で近衛の隊員たちも休暇が取れるとよく繰り出すのがこの街だ。程よく都で、程よく田舎のこのコルドラは王都から神殿に旅する人たちが行き交う。人が集まる場所であるだけに、犯罪も多いが警察が優秀なのか検挙率も高く、市民の平和を保っている。
 久しぶりの休暇にアレックスに誘われたランディスも、今日ばかりは私服で慣れぬ休みを過ごしていた。
 季節は初夏に入ったばかり。カフェのテラスで強い日差しをやり過ごしている二人だった。ランディスはアイボリーの半袖のパーカーにジーパンという軽装と、いつもだったら後ろに一つでまとめている髪の毛も下ろしたまま端正な横顔に物憂げな表情を浮かべて、目の前のアイスコーヒーをすすっている。
 向かいに座るアレックスは白Tシャツの上に明るい赤茶系のチェックのシャツを重ね、チノパンをはいている。ランディスと比べるとまだ洒落っ気のあるいでたちだ。前のめりにテーブルに肘をつき、これまたアイスコーヒーに刺さったストローに手を伸ばしてもてあそんでいる。
 通りすがりの女の子たちが二人のイケメンを見つけて密やかに黄色い声を上げて通り過ぎていった。知り合いかと思うほど屈託なく笑顔を見せて、アレックスは女の子たちに手を振って愛想を振りまいている。
「お前と休みが重なるなんて久々だよな」
 アレックスはクセの強い髪の毛をかきあげる。前髪が少し伸びて邪魔なようだ。
「そうだな」
 ランディスよりも二つほど年上だが、やたらと人懐っこく、頑なに敬語を使わせてくれなかった。面倒見もよいのか、同期のランディスに何かと構ってくれる。気が付けば親友とも呼べるほど親しくなっていた。
「で、その後の首尾は?」
 ニヤニヤしながらアレックスは声を潜めて聞いてくる。
「何が?」
「何がじゃない。俺が前に言ったことだよ。覚えてるだろ?」
「お前が何を言いたいのか分からない」
「いや、まあ、あの時は俺も途中から何を言ってるのか分からなくなったけどな」
 ふうっと息をついてランディスは横を向く。煽るだけ煽っておいて、候補と近衛の恋愛はご法度だと言い切ったのだから、本当に何が言いたいのか訳がわからない。
「首尾も何も、別に…」
 ランディスの言葉にアレックスはこの世の終わりを見たかのように脱力した。
「お前なぁ、何を悠長に構えてんだよ」
 呆れかえった口調に何故かバツが悪く感じてランディスはそっぽ向いたままストローに口を運ぶ。
「信じられねぇ…なあ、ちゃんと考えたか?お前、本当にもったいなさ過ぎるだろう」
 フィリアがかわいいかどうかなんて、考えたところで何が変わるのか。
 そもそもランディスが近衛になったのも、フィリアが星織姫になりたいという願いを叶えるためだ。近衛になってそばにいて守ると約束した。そうすれば、ずっと一緒にいられるから。その約束をずっと守り続けているランディスにとって、現状はなんの不足も問題もないはずなのだ。
「いや、だからさ、そこだよ。お前、それでお兄ちゃんのままで良いってことなのか?」
 心底不思議そうにアレックスは問いかける。
 ランディスはムッとして睨み返す。
「お兄ちゃんじゃない」
「いや、完璧、隣のお兄ちゃんじゃん、お前」
 畳みかけられるように重ねて言われて、ランディスは黙り込む。
「そうじゃん。優しくていつでもそばにいてくれて甘やかしてくれるお兄ちゃんそのものだろ」
「別に甘やかしてない」
「いや、だからっ、問題はそこじゃない。なんだろうなぁ。フィ…んっと、女の子として見たことないの?」
 往来でフィリアの名を出すことは憚られる。候補の名前も出自もすべて極秘事項だ。
 ついつい口に出しそうになってアレックスは慌てて言い直す。
 ランディスもじろりと睨みつけたが、その後に続く問いかけにまた絶句した。
「かわいいなぁとか、キスしたいなぁとか…彼女にしたいって思わなかったか?」
「か…」
 反応したのが彼女だったのかかわいいだったのかアレックスには測り兼ねたが、顔を真っ赤にして絶句するランディスを始めて見た気がした。
「な…なん…なんで…」
「キスはしたことあるんだ?」
「…こ、子どものころ?…」
「そんなもんカウントするな!…ふうん、まあ、それはいいや。じゃあ、女の子として見たことはあるんだな」
 声もなくランディスは項垂れる。耳や首筋まで真っ赤になっているところを見るとよほど恥ずかしいと思っているらしい。
 お子様か。とアレックスは心の中でつぶやいた。
「…そう思ったところで、あいつは違うんだ。違うところで生きてるから」
 まっすぐに顔を上げて、なにか悟った目をする。さっきまで恥ずかしさに悶えていた少年の顔とは全く違う顔だった。
「ああ、それか」
 何故か不意に納得したようにアレックスは言った。
「まあ、でも星織姫の結婚だって許されてる」
「それは…」
 許されているというより、禁止されていないだけだ。
 歴代の星織姫が結婚して子供を産んだという記録は残っていない。星誕の儀式以降、どの星織姫も姿を消してしまう。
 唯一の例外が王家だけだ。
 それに俗世を捨てない四枚羽根のままであれば恋愛も結婚も問題はないだろう。だが、候補にそれが許されていないのは事実なのだ。
「この後、歳を重ねて成長したら、あの子はもっと綺麗になる。その時に、お前がいまみたいに冷静でいられるわけがないと思うけどな」
 それでも、一つだけはっきりと分かっていることはある。
 フィリアが選定を受けずに神殿を去ることはない。
「あいつが星織姫をあきらめることはない」
 きっと星織姫になる。その時、自分はそれを護る立場にあればいい。
 このまま、一番近くで、一緒にいられればいい。
「なんていうか、欲があるんだか、ないんだか分からない奴だな」
 一番近くにいたいと言ってる時点で、アレックスは悟ってしまった。だが確かにこれ以上は踏み込むのは難しいのだろう。
 ランディスが自分の気持ちを優先して、フィリアの願いを断ち切ることはきっとない。
 思いを告げてしまえは、どちらも揺らぐ。候補は特に選定前の大事な時期に色恋沙汰で揺らげば、可能性を潰してしまうかもしれない。
「だから候補と近衛の恋愛が禁止なんだな」
 しみじみとアレックスは呟き、肩を落とす。
「俺はもう決めているから、いいんだ」
 どこか遠くを見つめてランディスは告げる。アレックスはただ一言、「そうか」とだけ答えた。
 ふいに風に乗って誰かの話し声が聞こえてきた。
 切れ切れに聞こえる言葉の節々に、ランディスの身体が強張る。
「どうした?」
 ランディスの緊張に気が付いたアレックスが声を潜める。シィっと指を立てて、ランディスは気配を探り、聞き耳を立てた。アレックスもすぐ察して集中する。
 最初に聞こえたのは「鈴」だった。
 密やかな話声は一度捕まえてしまえばはっきりと聞き取れた。
 複数の男たちの声だった。
「西の森に誘い込む。あの鈴の効果は大きい。二人ともが暴走したらしいからな」
「庭園とホールが壊滅したって?」
「ああ、近衛たちも捕縛が精いっぱいだったみたいだ。今回も、森まで誘い込めば、近衛たちは森の力で能力を失う。今度こそ殺れる」
 アレックスとランディスは顔を見合わせた。
 神殿の中の出来事が外部に漏れている。
 候補の二人が暴走したことは秘されているはずだった。一般人が知る由もない情報なのだ。
「どこだ?どこで話してる?」
 アレックスがゆっくりと辺りを見渡す。
 昼間の大通りでこんな大ぴらに話す内容ではない。
 ランディスの肩越しに目深に帽子をかぶった男たちが三人、周辺を窺っていた。
 そのうちの一人に見覚えがあった。
「あいつ、神殿で見たことあるな」
 鋭く低く、アレックスが唸る。
 ランディスも振り返る。その気配に三人が気付き、顔色を変えて駆けだした。
「待て!お前たち!!」
 立ち上がった拍子に椅子が音を立てて転がった。何事かと近くにいた客が悲鳴を上げる。
 男たちと二人がいた席とは少し距離があった。
 それなのに、男たちは二人の顔を見て逃げ出したということは彼らが近衛であることを知っていたからだ。
 ランディスが音もなく跳躍して、三人組の中の少年を背後から捕まえる。背中から押さえつけて、腕を取り、固める。一瞬の出来事に、何が起こったのか把握できずに少年は呻く。
 少年が捕まったのを見た仲間の二人が悲鳴を上げて脱兎のごとく逃げ出した。
「捕縛!!」
 静かに、右手を伸ばしたランディスの鋭い声が飛ぶ。黄金に輝く光の網が、容赦なく逃げる二人を捕らえる。
「お見事!」
 一瞬のうちに三人を捕らえたランディスを労って、アレックスは少年の腕を引き取る。
「おい、お前、《セラフィム》か?今話していたこと、いつ決行だ?」
「お前ら、近衛かよ」
 少年は悔しそうに顔をゆがめてつぶやいた。
「ああ、近衛だよ。俺ら耳は良いんだ。得意げに話していたみたいだが、あんなところで話していたら丸聞こえなんだよ」
 少年は忌々し気に舌打ちする。
「神殿の犬が!耳も鼻も利くってか?」
 ぎりっとアレックスは少年の腕を締め上げる。近衛隊を侮蔑するときにそう言われることはアレックスたちも知っていたが、さすがに面と向かって言われると腹が立つ。
「お前たちの顔、見覚えがあるぞ。どうやって潜り込んだかはあとでじっくり聞いてやる。その前に、さっさと教えてもらおうか、決行はいつだ?」
「ふん…どうせもう間に合いはしないさ。いまごろは俺たちの仲間がもう森に誘い込んでいるだろうからな」
 アレックスは舌打ちした。
「先に戻る!!」
 ランディスは短く言い残し、踵を返すと、人ごみに入る前に大きく翼を広げて飛び上がった。空をかけていった方が断然早い。
 残ったアレックスは少年にも捕縛をかける。三人を纏めて抑え込んだ。
 騒ぎを聞いて駆けつけてくるであろう警察を待つ。
 その間に本部への回線も開いた。近衛の腕時計型通信機は小さいが、コルドラからなら本部まではギリギリ電波は届く。
「隊長、《セラフィム》と思しき三人組の男たちを確保。候補二人の暗殺計画を企てていました。いま、刺客が差し向けられてます。すぐ確保してください。鈴を使って西の森に誘い出す計画のようです」
 一息に伝えたアレックスの耳に飛び込んできたのは、フィリアの姿が確認できないという知らせだった。


 森はどんどん深くなっていくようだった。
 深みに入り込んでしまう前に抜けるつもりだったのに、反対に奥深くへと迷い込んでしまったらしい。
 フィリアは立ち止まって、走ってきた道ならぬ道を振り返る。
 大きい紫の瞳がせわしなく辺りを探る。
 人の気配は感じられない。
 鳥の声も聞こえない。
「どうしよう」
 こんな森の最奥にまで入り込んだフィリアを警戒しているのだろうか。森全体が息を潜めているかのようで、空気が張り詰めている気がした。激しい息遣いが無粋にも森の静寂を乱しているようだった。
 フィリアは息を整え、もう一度辺りを探った。
「どうしよう」
 走っているうちにいつしか方向も分からなくなってしまった。
 木々の隙間から、神殿の陰でも見えないだろうかと覗き込んでみるのだが、立ち並ぶ木々は高く、空を飛ばない限りはとても外を窺えない。翼を広げようにも、こんなに木が密集していてはさすがに無理だ。
 近衛もこんなところに迷い込んでしまっているフィリアを見つけるのはとても難しいだろう。
 無我夢中で走っていたときは気がつかなかったが、全身擦り傷だらけだった。加えて途中で転んだせいもあって、膝から下は泥だらけ。肘も、無残だ。長い銀の髪は、普段ならよく櫛も通されて、艶やかに輝いているはずなのに、枯れた木の葉やら小枝やらが絡みついている。だが今はそんなことにかまっている余裕はない。とにかく追っ手に見つからないように、この森を抜けなくてはいけないのだ。
 リルは大丈夫だろうか?
 さっきまで一緒にいた少女が無事に近衛たちに保護されていることを祈った。
「おい、いたぞ!」
「あそこだ!」
 追っ手たちの声が背後から聞こえ、フィリアははじかれたように再び走りだした。
「こんなことなら、この森も探検しておくべきだったわ!」
 足は震えて、今にも転んでしまいそうに危うい。それでも立ち止まるわけにはいかなかった。立ち止まればそこで終わり。フィリアの夢も、命さえも消え去ってしまう。
 風を切る鋭い音が耳元を掠め、目の前の木に小さく穴が穿った。
 フィリアは息を呑む。
 もつれかけた足をなんとか叱り付けて走り続けた。
 森は神殿に隣接しているのだが、足を踏み入れることを禁じられている。
 この森の一角に「西の森」と呼ばれるフィリアが有する四枚羽根の力も能力者の力も正常に作用しない場所がある。どんな不可思議な力が働いているのか、すべて捻じ曲げられ、または消滅させられてしまう。フィリアも能力者もただの人に近い存在になってしまうのだ。そこに入ってしまうのだけは何としても避けたかった。
 もしかしたら、もうすでに入り込んでしまっているかもしれない恐怖があったが、能力者の力がまだこうやって現れているところを見ると、西の森にはまだ入っていないということだ。フィリアはそれが分かって少しだけ安心した。
「向こうだ、回り込め!」
 すぐ背後に迫ってくる男たちの声が、心臓を鷲掴みにするようだった。
 自分の呼吸と風と男たちの声が、耳元で反響する。
 再び、風を切る音。
 何かに足をとられ、体勢を整える間もなく、勢いよく倒れこんだ。
 痛みは後からやってきた。
「……つっ」
 どうやら捻ったらしい。
 立ち上がろうとしたが、できなかった。鋭い痛みに呻き、そのままうずくまる。
 勝ち誇ったような笑みを浮かべて、男たちが近づいてくる。
「まったく手こずらせてくれる」
 舌なめずりでもしそうな男たちの愉悦に満ちた顔。嫌悪すら感じて、フィリアは負けじと睨み返した。
 足が痛くてもう走ることはできない。でも諦めたくはない。ここで、こんなところで、殺されるわけにはいかないのだ。
 ゆっくりと四枚の羽根がフィリアの背から広がった。
 男たちが怯み、立ち竦む。
 この四枚羽根だけがフィリアの誇り。そして心の拠り所。
 小さいころから、星織姫になるのだと憧れてきた。四枚羽根に宿る星織りの能力。
 そして選ばれた星織姫候補。
 フィリアはまさしく四枚羽根の持ち主であり、星織姫候補として神殿にいるのだから。
「わたくしが、候補と知っての狼藉か?」
 凛と張りのある声には威厳すらあり、男たちを圧倒する。
 フィリアは男たちを睨み付けたまま、木を支えにして立ち上がる。捻った足首は激痛を訴えるが、ここで視線をそらせば、男たちはその瞬間、襲い掛かってくるだろう。
 目の前には五人。
 こんな小娘一人にご大層なことだと思うが、フィリア自身、課せられた責任の重さを知っている。それを考えれば、五人の暗殺者でも少ないとさえ言えるかも知れない。男たちは四枚羽根の聖性に萎縮したのか、フィリアに近付けずにいた。
「くそっ……四枚羽根がなんだ。恐れることはない。こいつはまだ星織姫じゃないんだぞ」
 一人の男が震えながらもそう言い放つ。
「まだ、とは失礼ね。いずれなるんだから、敬いなさい」
 フィリアは不敵な笑みを浮かべて男に言い返した。精一杯の虚勢だ。実際は足も竦んで今にも座り込んでしまいそうなほどに怖い。それでも言わずにいられないのは性分か。
 男たちのうちの一人が、ポケットから小さな青い鈴を出してみせた。
 チリーンと涼やかな音を鳴らす。
 その瞬間、くらりとフィリアの視界がゆらぐ。
「…っ」
 あの時もこの鈴の音がしていた。
 崩れ落ちそうになる体を必死で支えた。キッと鋭く鈴を持つ男を睨みつける。
 男たちはフィリアがまだ意識を保っていることに驚いているようだった。
「もう抗体を作ったのか。使うのが早かったな」
「その音、嫌いなのよ。やめてくれないかしら」
 息が上がる。本当に、その鈴の音を聴くとざわざわとして気分が悪くなるのだ。だが男の言う通り、フィリアの中で多少の抗体ができて作用がしにくくなっているようだった。
 意識を失わずに済んでいるのが何よりの証拠。
「そんなものに頼るなんて、性格悪いわね」
 こうしている間にも近衛隊の誰かが見つけてくれないかと期待しているのだが、男たち以外の気配はまったく感じられない。
「口の減らないお嬢様だ。星杖カリスが選ぶ前にあんたがいなくなれば、星織姫は必然的にあんた以外の候補になるんだろう?」
「残念でした!正当な継承者がいなければ、星杖は沈黙したままよ?」
「なら感謝してもらいたいな。あんたはここで死ぬんだ。恥をかかなくてすむじゃないか」
「冗談!」
 男が鋭く剣を振りかざし、斬り込んでくる。咄嗟に身をすくめた。かわせたのは奇跡だったかもしれない。
 男が舌打ちして、間髪いれずに二撃目を繰り出してくる。
 容赦のない足の痛みが脳天を貫く。体勢を崩した状態では逃げ切れない。もうだめだと思った。
「ランディ、助けて!」
 フィリアの悲鳴と男の驚愕の声はほとんど同時だった。
 今まさに、フィリアに斬り付けようとしていた男の剣が鋭く何かに弾かれ、宙を舞って地面に突き刺さった。
「何っ?」
 フィリアの目には銀の光が走ったようにしか見えなかった。呆然と立ち尽くす男の前に光が閃いたかと思うと、男は短く悲鳴を上げ、倒れた。
 他の刺客たちに動揺が走る。
「近衛か!」
 再び銀の光が走る。一人は背中を、また一人は喉を切り裂かれ、抵抗する間もなく倒れていく。
 だが、四人目の男が繰り出した剣が銀の光の動きを止めた。
 いつもなら後ろで一括りにしてある長い銀の髪はそのまま背を覆い、青い制服ではなく私服に身を包んだ少年の後姿がフィリアの視界に飛び込んでくる。
「ランディ!」
 見間違えるはずもない、よく見知った幼馴染の後姿だ。
 助けに来てくれた!
 嬉しくて涙が出そうだった。
 ランディスの手に光っていた小さなナイフのようなものが音もなく掻き消えた。
 代わりに地面に突き刺さっていた剣を捻り取って構えた。じりじりと間合いを詰めてにらみ合う両者の緊迫した空気が森を支配する。
 その瞬間は、すぐに来た。
 激しい打ち合いが二度三度と繰り出され、火花が飛び散る。
 精鋭を誇る近衛の中でもランディスは腕利きの剣士であり、また優秀な能力者だ。
フィリアはランディスが負けるところなど滅多に見たこともなかったが、こんな切迫した表情の彼を見たこともなかった。
「ランディ……」
 カサリと背後から音がして、フィリアは振り返った。息を呑み、後ずさる。ランディスが来てくれたことに安心して、もう一人、刺客がいたことをすっかり忘れていた。
「覚悟はよろしいか?」
 最後の刺客が剣を突きつけていた。まだ若い男だ。青年はフィリアに剣を向けながらも、痛ましそうな視線を向けている。およそ刺客らしくない、温和な顔付きの青年。どうしてこんな青年までが刺客になるのかと、驚きを隠せなかった。それと同時に怒りすらもこみ上げてきた。
「こんなことをして何になるっていうのよ。候補は私とクレアの二人。選ぶのは星杖よ。私が選ばれるかもしれないし、クレアが選ばれるかも知れない。それは誰もわからない事なのよ」
「そんなことは分かっているんですよ、お嬢さん」
「それでも殺したいほど目障りだって言いたいのね」
 そう言い放つと、なぜか悲しそうに青年は笑った。
「あなたには何の恨みもありません。むしろ気の毒だとさえ僕は思う」
「どういうこと?」
「星織姫の……いや、候補の末路をご存知か」
「え?」
 訝しむフィリアを見て、青年は目を細める。憐れみにも似た哀し気な光があった。
 フィリアでない誰かを見つめているかのような。
「翼を奪われて…近衛隊に殺されるのに」
「え?」
「恋も、人としての未来を失くしても、それでも、それが……」
 何かを言いかけて、青年は頭を振った。
 そして次の瞬間、青年の纏う空気が一変した。深遠の闇から覗き込むような底光りする青い瞳に射すくめられ、悲鳴は喉に絡んで声にならなかった。後ずさる足がもつれた。
 今度こそ、殺される!
 襲い掛かってくるだろう衝撃に、フィリアはぎゅっと目を瞑った。
 その瞬間、剣で切りつけられる衝撃とは違う重い衝撃に、思いっきり弾き飛ばされた。
 ぶつかり合う剣と剣の鋭い音がすぐ近くで聞こえる。くぐもったうめき声と忙しない息遣いが交差する。
 いつのまにか、剣戟の音が止まっていた。フィリアが恐る恐る目を開けると、ランディスと青年がすぐ目の前でにらみ合っていた。
 しかし、青年の手に剣はなく、腹部を抱え込むように屈みこんでいた。青年の腹部が血で赤く染まっているのが見えた。
 青年はランディスから視線を外すと、フィリアへと微笑みかけた。
「それが、……、君の願い…か?」
 なぜ、そんな風に笑うのか、フィリアには分からなかった。
「……本当は、この手で……殺してでも、……留めて……た……かった……」
 血で染まった手を見ながら、青年は笑う。ぐらりと傾いで、そのまま青年は力尽き倒れた。
 青年が何を言いたかったのか分からない。恐怖と安堵と青年の言葉とが、ぐちゃぐちゃになって頭が混乱している。
 彼はフィリアに、候補の末路を知っているかと問いかけた。
 翼を失うということ。
 そしてその後に彼は何と言ったか。
 ランディスは剣を放り投げると足早に歩み寄ってきた。まだ戦闘の余韻が残っているのか、表情は険しい。張り詰めた空気と、辺り一帯に飛び散った鮮やかすぎるほどの血の色や匂いに悪酔いしそうだった。
「フィリア!この、バカ!お前、何やってるんだ!!」
「ランディ!」
 ランディスの言葉を遮って、フィリアは必死の思いでしがみつく。その細い体をランディスはぎゅっと抱きとめた。
「ランディ!怖…かっ…た、ランディ」
 とてつもなく深い闇に引きずり込まれるかと思った。あの青年の憎悪と絶望がとても恐ろしかった。
「フィリア、間に合って、良かった」
 心の底から安堵の息を吐きだして、フィリアを固く抱きしめる。
 頬に触れる髪も、細く華奢な肩も、柔らかな身体から伝わる温もりが、確かに生きていることを教えてくれている。
「リルは?無事?」
 しゃくりあげながらフィリアはなんとか言葉を絞り出す。涙と汗と泥で顔はぐちゃぐちゃだ。
「無事だ」
「…良かった」
 見上げるとランディスの青い瞳があった。まっすぐに射抜かれてフィリアは言葉を失う。そのまま魅入られたように視線が離せなくなった。
 お互いがお互いの瞳から逃れられない、そんな気がした。
 我に返ったのはランディスの方が先だった。呪縛が消えたと同時にフィリアもそっと視線を外す。落ち着かない気持ちのまま、言葉を探した。
「鈴が、また…」
「鈴?」
 ランディスはフィリアの体を引きはがし、急いで辺りを見渡す。切り伏せた男たちの足音に一つ、青い鈴が落ちていた。ランディスは放り投げた剣を拾い、ひと息で突き立て破壊した。小さくランディスが息を吐いたのが聞こえた。腕の通信機がわずかに震える。まだ電波は正常に届いている。ランディスは送られてきたメッセージに目を落とすと、すぐに返信した。
「神殿へ戻るぞ」
「……足が」
 腫れ上がった足首が激痛を訴える。ランディスはフィリアの足首を見ると顔をしかめた。
「さっき突き飛ばしたときか?」
「ううん、走って逃げているときに転んだの。能力者が一人、いたでしょう?」
「……ああ」
 短く答えて、ランディスはフィリアを抱き上げた。
「しっかりつかまっていろよ」
「うん」
 首に腕を回して、言われたとおりにしがみつく。さっきから心臓がおかしい。あの青い瞳を見てからだ。ぎゅっと心臓をつかまれたかのように、息ができない。
 昔からずっと、ランディスは優しい。口うるさくてすぐ怒るけど、温かい人だ。それは誰よりも分かっている。
 好き。
 ランディが大好きだ。
 それはずっと心の内にしまっておいた想い。涙とともにこぼれ落ちそうで、フィリアはぎゅっとしがみつく。
 あの青年の言葉が脳裏に響いている。
 翼を奪われ、近衛隊に殺される、と。
 その言葉がフィリアに刃のように突き刺さる。
「そんなの、うそだよね」
 ランディスが何か言いたげに見たが、視線を合わせることがフィリアにはできなかった。


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