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第一部 水の精霊王
第六話 精霊王の後悔
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空が黒く澱んでいた。
命の乙女が住む聖なる領域、至高界へとつながる門を護るのは、四大の一、水神とその軍。
優美でありながも堂々と軍をまとめる王の姿は清々しく輝き、暗く重い戦場の気を清浄なる気で洗い流すようだった。世界を支えんがため、強大な力を天に注ぎながらもなお、誰よりも強く、麗しき水の精霊王。ファラ・ルーシャを敬いあがめる人々の心には一点の迷いもなく、信頼と尊敬が満ち溢れていた。
あの、悪夢のような瞬間まで。
その日は何故かざわざわとして、心が落ち着かなかった。
天幕で一人、瞑想していたファラ・ルーシャは外の喧騒に気が付き、顔を上げた。
同時に飛び込んできたのは、腹心の将軍ファルークだ。
「王っ…」
血相をかえ、ひどく動揺している。
「どうした、ファルーク。お前らしくもない…」
いつもの気軽なやり取りが不発に終わることを悟る前に違和感を覚えた。
ファルークは呼吸を乱し、倒れこむように眼前に跪く。
動揺しすぎて言葉が出ないのか、何度も咳込んではその鍛え抜かれた見事な体躯を震わせていた。
ただ事ではないとファラ・ルーシャも察した。
何事かと問いただそうとしたとき、連絡用の水晶玉からけたたましい光が放たれた。
「少し待て。…どうした?」
ファルークには短く待機の命を出し、ファラ・ルーシャは水晶を覗き見る。
そこには乳白色の長い髪と晴れ渡った空色の瞳をした美しい青年が、彼にしては珍しく険しい表情で映し出されている。
「ファラ・ルーシャ、無事か?」
「無事だ。…何かあったのか?」
ファルークといい、彼といい。いつもと違う形相と激しく動揺する姿にファラ・ルーシャの胸が騒ぐ。
嫌な予感はえてして外れないものなのだ。
彼が紡いだ言葉に、ファラ・ルーシャは絶句する。
「神龍が、姿を消した!ラファの行方も辿れない」
血の気が引いた体を何とか支え、震える手で水晶玉を引き寄せる。
神龍とラファがいなくなった?
それはいったいどういうことなのか。神龍は四大とともにシルファを護る要だ。ラファは四大の一つ、最強を誇る炎帝。彼女を護ることが至上の命として在るその二柱がいないということは、命の乙女も世界樹も無防備であるということになる。
なぜ、そんな状況が訪れるというのか。
ファラ・ルーシャは咄嗟に理解することが出来なかった。
「では…いま、シルファは?」
「…王よ、…炎帝が、女神を連れ去ったと…伝令が…」
震える声で紡いだ問いに答えたのは目の前にひれ伏すファルークだった。ファルークの声も怯えたように恐れおののいていた。
「なんだと?」
ラファがシルファを世界樹から連れ去った。
本当に?
最初に浮かんだのはその問だった。
まさか、と思った。
そんな軽率な行動に出るなんて信じられない。けれど、もしかしたらという可能性もあるとファラ・ルーシャはどこかで思う己がいることに気が付いた。
頭の片隅に残る疑念。
幾重にも絡みついた運命の糸を、彼は慎重に大事に繋いでいたはずだった。
彼の想いを、ファラ・ルーシャは知っていた。
そして、シルファの想いが、どこに向かっているのかも。
気付いていた。
けれど。
シルファも、ラファも、自身に課せられた使命を自覚している。
強く自覚しているからこそ、行動に出ることはないと思っていたのに。
深く心の奥底に秘めていてくれさえすれば、永遠に友として過ごせていたのに。
何故、今なのか、と。
深く沈みそうになっていたファラ・ルーシャの意識を引き戻したのは、さらに追い打ちをかける伝令の言葉だった。
「敵襲!! 魔龍軍に、炎帝のお姿があります!!!」
味方であるはずの炎帝が敵軍にあるという事実に、伝令からは恐怖しか伝わってこなかった。
四大最強を誇る火の精霊王が命の乙女を攫い、寝返ったという事実は、水軍たちの士気を混乱に落とし、完膚なきまでに破壊した。
嗤いながら、魔龍とともに並び立ち。
何の迷いもなく、同胞であった四大に牙をむく。
共に戦ったその剣で、
あざ笑い、友の信頼を切り裂いた。
そして、一番大事な命の乙女の心も踏みにじった。
燃え上がるような赤毛と澄み切った青い瞳を持つ不器用な青年のぎこちない笑顔と
育んできたはずの友情も。
全てが、ファラ・ルーシャの中で粉々に砕け散った瞬間だった。
「…っう」
重い頭を動かした瞬間、鋭い痛みがこめかみを走った。
夢を見ていたのだと悟った。
思い出したくなかったあの光景は、何度も何度も繰り返し、淳を痛めつけていく。
さっきまであったはずの優しい手は、今はどこかに行ってしまった。
ゆっくりと自嘲のため息を漏らす。
「泉…」
どうしてこんなことになってしまったのだろう。
争いたいわけではなかったのに。
誰よりも大切で、傷つけたくなかったのに。
いまにも泣き出しそうな顔で、必死に耐えていた。
泣き虫の彼女が、震えながら堪えていた。
あんな顔をさせたかったわけではないのに。
けれど。
信じられなかった。
彼女の言葉が。
『彼が…嘘を言ってるとは思えない』
泉が、何を言っているのか分からなかった。
あまりにも想定外すぎて。
どうして泉がそんなことが言えるのか理解できずに、拳を痛いほど握り締める。
あいつが、シルファを攫わなければ…。
至高界に滅びが呼びこまれることもなかった。
裏切り者の言葉を、どう信じろというのだろうか。
怒りと憎しみに似た憤りにこの身が苛まれて苦しい。
どうやって息をしたらいいのか分からない。
学校のプールで自分たちを認識したときのあの屈託のない笑顔。親友だった男の青い炎のような瞳は、記憶に残っているものと変わらず、懐かしささえある。
『久しぶりだな、ファラ・ルーシャ』
あの笑顔は紛れもなく長い時を一緒に駆け抜けてきた戦友のもの。
信頼し、仲間として頼もしく思っていた男の笑顔だった。
何故、そんな笑顔で会いに来たのか。
裏切ったくせに。
自分が息の根を止めた男の顔を拝みにでも来たというのだろうか。
そこまで落ちたのか。
『冤罪だ』
ラファの言葉が繰り返し、淳の頭の中でぐるぐると回っていく。
あの時、戦場で展開していた水界の軍勢の前に敵軍を率いて現れたのは、紛れもなく炎帝だった。
それなのに、昔と同じ瞳でそんな言葉を吐く。
「どうして…」
何を信じろというのか。
何故、攫ったのか。
何故、裏切ったのか。
その理由がわからない。
淳には泉がどうして炎帝の冤罪を信じることが出来るのか理解できない。
『炎帝の謀反だなんてそんな知らせは届いてなかった』
『アル・ファラルさまからも…何も、どこからも、そんなこと聞いていないもの!』
泉が叫んだ言葉を繰り返し思い出す。
水界の長妃である彼女に、知らせが何も届いていなかったのは何故だろうか。
情報が止められていたのか。
それとも、その情報が間違っていたのか。
誰かによって歪まされた記憶。
本当にそんなことがあり得るのか。
淳は頭を振って懸命に落ち着こうとする。
遥か昔の記憶を思い起こす。
あれは確かに炎帝だった。
それはファルークも見ている。
敵軍に味方であるはずの炎帝がいることで、自軍の兵士たちに激しく動揺が走った。
炎帝が世界樹からシルファを攫ったという報がすでに自軍を揺らがせていた時に、目の前に現れたのだから。
炎帝が裏切ったのだと認めざるを得ない。
これは紛れもない事実のはずだ。
だが。
淳はぎゅっと掛布を握り締める。
そもそも泉はシルファが攫われたことも知らなかった。
それこそがありえない状況だ。
四大の長妃がシルファの異変を感知しないことなどあるはずがない。
さあっと血の気が引いた。
何かがおかしい。焦燥感が淳の体を支配していく。
「ぐ…うぅっ」
ズキンッと激しい頭痛が襲う。
頭を押さえ、痛みをやり過ごそうとするが、激しい痛みは治まる気配もなく、さらに強くなっていく。
ガンガンと頭が割れそうなほどの痛みに思わずうめき声が漏れた。
体を前に屈みこむと、胸元から雫型のアクアマリンのペンダントがこぼれ落ちた。
淡く水色の光るペンダントは淳が自らの力を注いで生み出した守護石だ。泉にも同じものを渡したのは、離れていても彼女の居場所を把握できるようにするため。彼女に異変があれば、即座に伝わるようになっている。
それがいま、静かに点滅を繰り返している。
「…い…ずみ?」
彼女に何か起こったのは明白だった。
淡く発光するアクアマリンを握り締めて、淳は痛みをやり過ごそうと大きく息を吐いた。
何度か深呼吸を繰り返していくと、刺すような痛みはだんだんと和らいできた。だが完全に消えたわけではない。
淳は滑り落ちるようにベッドから降りると、よろめきながら部屋を出た。
拓海も一緒にいるはずだから滅多なことはないと思いたい。だが、もし、彼が再び泉の前に現れていたのなら、拓海では太刀打ちできない。
「くっ…」
壁に手をつきながら、もう片方の手はアクアマリンの守護石を握り締める。
一刻も早く、彼女のいる場所に行かなくては。
「…泉っ」
ぐっと足を踏み込むと、淳の周りに水が螺旋を描いて取り囲んだ。
きらきらと光をはじいて、その輝きで淳の体を包み込む。
水が勢いを増して旋回する。
伸ばす手に合わせて、水が巻きあがった。
「彼女のところへ」
手の中のアクアマリンが激しく輝く。
そして廊下には、わずかな水滴すら残さず、何事もなかったように静寂だけがあった。
空間を引き裂いて、身を覆う水とともに淳は駅前の地に舞い降りた。
取り巻く水が歓喜とともに王の体に触れて舞い上がっていく。そして空気に溶けて消えた。
頭痛は激しさを増し、息をするのも苦しい。足に力が入らず、ぐらりと体が傾ぐ。倒れこむところをぎりぎり耐えて、淳は片手をついた。
この状態で跳躍は無謀だったかもしれないと頭の隅をよぎったが、視界の先に鮮血にまみれて倒れ伏す拓海の姿を見つけたとき、嫌な予感が当たったことを知った。
「拓海!」
はっとして顔を上空に向ける。
慣れ親しんだ気配が二つ。
淳は視線を走らせて、同じように片膝をついて上空を睨みつけている赤毛の少年、日下部晄を見つけた。彼は苦々し気に顔を歪ませ肩を押さえている。拓海との戦闘で負ったのだろうか。怪我をしているようでうっすらとシャツの袖が血で滲んでいるのが見えた。
だがもう一つの気配に淳の心臓はさらに跳ね上がる。
晄が見上げている先を追って視線を向ける。
風が自由奔放に吹き抜けていく。
プラチナブロンドの長い髪をなびかせて、面白そうにこちらを見下ろしている男がいた。その男の腕に彼女が、泉がいた。気を失っているのか、くったりと弛緩した体に力はない。
「泉!!」
視線を男に戻すと、明るい空色の瞳が興味深そうに輝き、淳を見ていた。あの瞳の輝きを淳は知っていた。
「見つかったか。やっぱり早いね」
長髪の男を見据えて、その男の名を紡ぐ。懐かしい気配を纏った男は記憶に残っている姿と驚くほどよく似ていた。
「…フォーレ?」
風の精霊王フォーレ・ディアスの現身。
予想通り、彼も転生していたのかと淳は悟った。だが、何故彼が泉を攫うのか。
「長妃を攫うとは、どういうことだ?!」
怒りの波動が上空の男に向かって突き刺さる。男はひょいと軽く肩をすくめると軽快に笑って見せた。
「お怒りはごもっとも。でも今回俺はただの使いだからさ。召喚命令が出た奥方をエスコートするだけさ」
「召喚命令…?」
淳は怪訝そうに眉を顰める。長妃を召喚できる存在は多くはない。
シルファ本人か神龍、もしくは四大のリーダーである大地の精霊王か。
「アル・ファラルが召喚したのか?」
「ご名答」
「召喚理由はなんだ?風神のお前が動くのは何故だ?」
いくらアル・ファラルが四大の長だったとしても、同じ四大を駒のように動かせるわけではない。束縛を嫌う風神ならなおさら難しい。
「面白そうだったから、使いをかって出ただけだ。お前にしては珍しく派手に動いているからな」
「召喚理由はシルファとの接触か?」
つい先日、泉はシルファと接触している。淳は泉を通して、新たな力と使命を受け取ったのだ。
フォーレはニヤッと笑っただけだったが、それが質問に対しての是であることは間違いない。
それにラファとフォーレ、そしてアル・ファラルが、この世界に揃っているという事実に身震いする。
「報告なら僕が行く。長妃単独での召喚は承服できない」
「ま、それもごもっともだな」
淳とフォーレの会話を聞いていた日下部が割って入る。
「まて…アル・ファラルがシルファの行方を見失ってるってことか」
「聞き捨てならないな。ラファ」
激しい怒りの波動が上空に渦巻いている。
それに呼応するように好戦的な閃きが日下部の瞳に宿る。ゆらりと赤い炎が彼の全身を纏うように燃え上がった。その炎を吹き消す様に鋭い風が日下部の頬に刃となって切り付ける。
「そもそもお前がシルファを攫わなければこんなことにはならなかったはずだ」
幾筋もの風の刃が日下部を襲う。だが日下部は黙ってそれに耐えた。
「そうだ。お前に聞けばいいんじゃないか。お前がシルファを攫ったんだからな。わざわざこんなか弱い女の子に召喚してまで聞く必要なんてない」
ぐるりと風が日下部の体を取り巻き、拘束しようとする。
「よせ」
赤い炎が彼を守り、風の拘束を粉砕する。風は音を立ててはじけ去った。
「俺は、神龍に頼まれただけだ」
静かに日下部が紡いだ言葉に、淳は体を強張らせた。
神龍がシルファを世界樹から引き離すとは到底考えられない。あの深い慈愛に満ちた緑の瞳、美しく輝く深緑の鱗に覆われた龍族の長は誰よりも至高界を憂い、シルファを愛していた。その彼がラファにシルファを攫うように頼んだというのだろうか。
頭上から激しい怒気が降り注ぐ。
「貴様、アル・ファラルだけでなく、神龍までも愚弄するか!?精霊王にあるまじき言動。やはり傍系の血…」
傍系の血と呼ばれ日下部の顔色が変わる。
「姿かたちだけ模しても性根までは清廉とはいかぬらしいな!!」
「フォーレ、よせ!」
炎帝は最初から異端だった。
ファラ・ルーシャやフォーレとは違って、ラファは正統な炎帝の後継者ではなかった。先の炎帝が亡くなり、火界は荒れ、存亡の危機に陥っていた。だが火界は滅びることなく存在し続けた。のちにアル・ファラルが戦乱の野の中でラファを見つけた。その姿は歴代の火神の特徴を色濃く引き継いでおり、わずかながらでもその血は引いているものとして火界の長として認められた。
異例中の異例だ。
認められたはしたが、確執は確かにあった。
生まれもと育ちも決して正当な流れを汲むものではなかった。精霊王には似つかわしくない粗野な言動。荒々しい炎そのままに荒れ狂う若い精霊王に、世界を律する力があるのかと不安視するのは仕方がないことだったかもしれない。なにより、表立って見下すことはしなかったが、彼を見つけてきたはずのアル・ファラルは、ラファを四大と認めつつも冷ややかな対応を変えようとはしなかったのだ。
「愚弄したつもりはない!…だが、いささか腹が立つ。勝手に裏切り者呼ばわりされて、制裁とは、な」
吐き出すように日下部は言い放つ。
あくまでも自分が無実であると彼は言うのか。
どこまで信じていいのか、淳には分からなくなっていた。
フォーレもファラ・ルーシャもラファの人となりを知ることで仲間として認めてきた。
何よりもラファの火界を思う気持ちに嘘偽りはなかったからだ。
精霊界は王を失えば消滅する。
混沌とした世界を平定し、王として立ったラファを精霊界が認めているのだ。
今もなお存在するというのなら、彼が王たる理由は覆られるものではないのだ。
同様に、もしファラ・ルーシャとアイシャの間に子があれば、水界は滅びずに済んだはずだったのだ。
「ラファ、おまえは本当に裏切っていないと言うのか?」
震える声で淳は問う。
今も怒りで暴走しそうになる気持ちを必死でこらえている。
己の中にある記憶がラファの言葉を否定する。けれど、それでは泉とは平行線のままなのだ。
「俺は裏切ってなどいない」
くっとこぶしを握り締めた。
あの時、驚愕するファラ・ルーシャを笑いながら切り伏せた顔と今の彼の顔は。
別物だ。
「バカか、ファラルーシャ。目の前にいるのは自分を殺した相手だぞ?」
「俺が、お前を?」
怪訝そうに眉を顰める日下部の態度に激高したのは淳ではなくフォーレの方だった。
「ふざけるなよ!その手で仲間を、ファラ・ルーシャを殺したのはお前だろうが!!!」
風が刃となって降り注ぐ。
「冗談でも口にするな」
「冗談じゃない!濡れ衣を着せられて、これ以上、黙っていられるか。俺じゃない!」
「黙れ!裏切り者が!!」
風の刃が鋭く唸り声をあげて日下部に襲い掛かる。
炎が渦を巻き熱を伴って猛り狂う。
両者は互角。
精霊王同士がぶつかり合えば、被害は甚大。
我を忘れた風と火が互いに牙をむき、その刃を向けあったそのとき、淳は飛び出していた。
「よさないか、二人とも!!」
清らかな水が大きな壁となって風と火の間に立ちふさがった。
水は風を押し返し、火をかき消した。
虚を突かれたようにフォーレも日下部も唖然と立ち尽くす。
「仲間同士で戦うな」
「正気か、お前?何故止める」
「分からない。だが、戦ってはダメだと…思っただけだ」
フォーレが呆れたように息を吐く。彼の言い分はよくわかる。
己を殺した存在を目の前にして、冷静でいられるほうがおかしい。
おかしいと思うが、冷静にならなければと思うのだ。この違和感を、正すために。
「お前も言い出したら聞かないやつだったな」
腕に抱いていた泉の顔をちらっと見遣り、フォーレは肩をすくめた。
「長妃はいったん返すわ。香で眠らせただけだからすぐ目を覚ますはずだ」
宝物を抱えるように淳は泉を腕の中に取り戻すと、ほっと息を吐いた。
「あと、ファルークな。派手に出血しているように見えるが、あれも香で眠らせただけだ」
命に別条がないことは淳も見て取った。フォーレの言う通り、怪我もそれほどひどくないのだろう。手荒ではあるが、精霊王の副官を止めるにはそれ相応の力が必要だ。そこまでして泉を、長妃を、連れて行こうとしたフォーレに言いたいことも多々あったが、その指示を出したのは別の人物なのだ。
四大の長が命じたこと。
「アル・ファラルはどこにいるんだ?一緒に会いに行く」
フォーレは眉を顰め、ラファを一瞥した。押し黙り睨みつけている。フォーレはラファに聞かせたくないのだと気が付いた。
「ラファ。お前と改めて話がしたい。明日、学校で」
「…分かった」
あっけないほど素直に了承して、日下部は踵を返してその場を立ち去って行った。
「やれやれ。ラファを逃がすとはな」
本気で呆れているわけではないのは分かる。
闘気を収めたフォーレは飄々とした笑みを浮かべて面白そうに成り行きを見守っているようにも見えた。
改めて、目の前に立つかつての盟友を見返す。
転生した姿でも長い髪は変わらず、戯れるように風を孕んで揺れる。乳白色だったが今は淡い金髪だ。すらりと背が高く、鍛えているのか均整の取れた体躯は精霊王だったころと差異がない。堀の深い顔立ち、透き通るように白い肌に美しい空色の瞳。
「…日本人には見えないが」
「今世ではイギリスだ。母が日本人だから日本語は大丈夫だ」
「あまり変わらないな、お前」
外見が昔とそんなに変わっていないのが不思議だった。そんなとまどいに気が付いたのか、フォーレはにやにやと人の悪い笑みを浮かべた。
「お前はかなり違うな。歳も…中坊か?」
「…っ、高2だ」
東洋人は幼く見えるのはどうしても仕方がない。が、見下ろされてなんとなく気分が悪いのは、子ども扱いされていると分かるからだ。
「ま、覚醒すれば徐々に変わってくるんだろうさ。俺は二十だ。一応、大学生。今の名前はシオン・コールマン。ほかに聞きたいことは?」
「シオンはいつ、思い出した?アル・ファラルとはどうやって…」
あんなに呼びかけても応えはなかったのに。
こんなにも一気に再会が叶うことを想像もできなかった。
「アル・ファラルとは大学で再会した。入学式でいきなりつかまってな。いるとは思わなかったから驚いた」
その時のことを思い出したのかフォーレはくすくすと肩を揺らしながら笑う。
「お前の声は聞こえていた。ずっと」
「ずっと?」
「だが、何かの力に阻まれて、お前に声を届けることはできずにいた。声は聞こえるのに、こちらの声が届かない。アル・ファラルもそれを不思議がっていた。アル・ファラルはずっと神龍とシルファにコンタクトを取ろうとしているが、こちらもまったくもって手ごたえがない。俺たちが転生しているのに要の神龍が不在。シルファの行方も知れず。そうこうしているうちに、お前たちが派手にコトを起こしてくわけだ」
シオンがいうのは大川の氾濫の時だろう。
泉と一緒にシルファに呼びかけた。何度も何度も、心が折れそうになるほど。
けれど、奇跡は起きた。
あのとき、シルファは確かに応えたのだ。
そして、大いなる力で、水の力を淳に還してくれた。
「シルファの言葉を俺たちも聞いた。還れ、と」
そうだ。思い起こせば、あの時、奪われたものが全て帰ってきたのだ。
「あれ以降、お前にも何度かコンタクトは送ったんだがな」
「いや、受け取ってない」
うんうんと頷いて、シオンは続ける。
「お前の力はだんだん大きくなる。なのにこちらには気が付かない。呼びかけても返事がない。記憶がないのかとも思ったが、長妃がシルファとも接触する。これは一体どういうことか、とアル・ファラルは思ったわけだ」
愕然とした。
あんなに呼びかけていたのに、届いていなかったという事実。呼びかけられていたのに、聞こえてこなかったという事実に愕然とした。
「ずっと呼びかけていたのに…」
「声が聞こえてこないせいで居場所の特定がなかなか難しくてな。大川の氾濫もあったからこの地域だろうって網を張ったわけだ」
「…そうか…」
アル・ファラルも自分たちを探していてくれたのか。そう思うだけでほっとする自分がいるのに気が付いた。こうやって仲間に会えたのは望外の喜び。
長い間ずっと呼びかけていた。力が足りなくて悔しい想いもたくさんした。人間の体に転生したせいか、精霊王としての力もうまく使えないことにとまどった。泉がくれた真珠の力を借りて、なんとかしていたにすぎない。水鏡を通じてシルファと接触し、力と使命を与えられたのはひとえに泉の力によるものだ。あまりにふがいない自分に腹が立つ。
水が穢れているのに浄化もかなわない。
「転生したから力をうまく使えないのだと思っていた。僕自身に問題が…」
ドクンっと心臓が跳ね上がった。
泉が作った聖水をも穢したのは、あの場に自分がいたからではないだろうか。
ラファに殺されたはずの自分。あれがラファではなく、ラファの姿を取った魔龍だったのなら。
違和感の理由になる。
もどかしいまでに足りない自分。聞こえない声。
「四大のバランスが崩れているからな。五芒星も沈黙してしまった」
そこでようやく一つの可能性に気が付いた。血の気が引いて、シオンの声もどこか遠くに聞こえる。
冷静に応えているのが自分ではないほかの誰かのように遠く感じる。
「俺だってラファを疑いたくはなかったさ。だが、ラファの行方も分からなかった」
「だが、ラファが裏切ったのでなければ、我らは魔龍にしてやられたことになる」
「あいつの言葉を信じるのか?」
「分からない。だが、この違和感は無視できない」
泉の言葉は信じたい。誰よりも大切な、愛する少女の言葉を、信じられないような自分ではありたくない。
ゆっくりと自我が浮上していく感覚。音が戻ってくる。冷え切った手を握り締めて、淳は泉を見つめる。
「ラファを完全に信用することは俺にはまだできないが…」
「僕も同じだ。ラファが違うと言っているだけなら聞き流した。けど、彼女が違うというんだ。この違和感の原因を探す」
シオンはじっと眠っている泉の横顔を見下ろす。長妃が精霊王にとってどういう存在か、彼も知っている。彼にもそういう存在がいるのだから当たり前だ。
「分かった。彼女は大事な証人だ。なんせシルファと直接コンタクトを取った唯一の存在だからな。アル・ファラルがやきもきしてる」
淳は無言のまま頷く。
泉をアル・ファラルに引き合わせるべきだと理解する。
だが。
ズキンと胸が痛んだ。
ぎゅっと泉を抱きしめて、そのぬくもりを確かめたかった。
さきほど浮かんだ疑念が、きっと正しいのだ。
楔は世界樹だけでなく、己にも水界にも打ち込まれているのだとしたら。
「僕は魔龍の毒に侵されているのかもしれない」
目を見開き、絶句するシオンを静かに見つめながら、淳は自らに巣くう魔龍の楔をひしひしと感じ取っていた。
呼びかけてはいけなかった。
出会ってはいけなかったのだ。
仲間を。
愛するものを。
知らず、巻き込んでしまっていた。
これこそが、魔龍の罠だったのだと。
淳は、思い知った。
命の乙女が住む聖なる領域、至高界へとつながる門を護るのは、四大の一、水神とその軍。
優美でありながも堂々と軍をまとめる王の姿は清々しく輝き、暗く重い戦場の気を清浄なる気で洗い流すようだった。世界を支えんがため、強大な力を天に注ぎながらもなお、誰よりも強く、麗しき水の精霊王。ファラ・ルーシャを敬いあがめる人々の心には一点の迷いもなく、信頼と尊敬が満ち溢れていた。
あの、悪夢のような瞬間まで。
その日は何故かざわざわとして、心が落ち着かなかった。
天幕で一人、瞑想していたファラ・ルーシャは外の喧騒に気が付き、顔を上げた。
同時に飛び込んできたのは、腹心の将軍ファルークだ。
「王っ…」
血相をかえ、ひどく動揺している。
「どうした、ファルーク。お前らしくもない…」
いつもの気軽なやり取りが不発に終わることを悟る前に違和感を覚えた。
ファルークは呼吸を乱し、倒れこむように眼前に跪く。
動揺しすぎて言葉が出ないのか、何度も咳込んではその鍛え抜かれた見事な体躯を震わせていた。
ただ事ではないとファラ・ルーシャも察した。
何事かと問いただそうとしたとき、連絡用の水晶玉からけたたましい光が放たれた。
「少し待て。…どうした?」
ファルークには短く待機の命を出し、ファラ・ルーシャは水晶を覗き見る。
そこには乳白色の長い髪と晴れ渡った空色の瞳をした美しい青年が、彼にしては珍しく険しい表情で映し出されている。
「ファラ・ルーシャ、無事か?」
「無事だ。…何かあったのか?」
ファルークといい、彼といい。いつもと違う形相と激しく動揺する姿にファラ・ルーシャの胸が騒ぐ。
嫌な予感はえてして外れないものなのだ。
彼が紡いだ言葉に、ファラ・ルーシャは絶句する。
「神龍が、姿を消した!ラファの行方も辿れない」
血の気が引いた体を何とか支え、震える手で水晶玉を引き寄せる。
神龍とラファがいなくなった?
それはいったいどういうことなのか。神龍は四大とともにシルファを護る要だ。ラファは四大の一つ、最強を誇る炎帝。彼女を護ることが至上の命として在るその二柱がいないということは、命の乙女も世界樹も無防備であるということになる。
なぜ、そんな状況が訪れるというのか。
ファラ・ルーシャは咄嗟に理解することが出来なかった。
「では…いま、シルファは?」
「…王よ、…炎帝が、女神を連れ去ったと…伝令が…」
震える声で紡いだ問いに答えたのは目の前にひれ伏すファルークだった。ファルークの声も怯えたように恐れおののいていた。
「なんだと?」
ラファがシルファを世界樹から連れ去った。
本当に?
最初に浮かんだのはその問だった。
まさか、と思った。
そんな軽率な行動に出るなんて信じられない。けれど、もしかしたらという可能性もあるとファラ・ルーシャはどこかで思う己がいることに気が付いた。
頭の片隅に残る疑念。
幾重にも絡みついた運命の糸を、彼は慎重に大事に繋いでいたはずだった。
彼の想いを、ファラ・ルーシャは知っていた。
そして、シルファの想いが、どこに向かっているのかも。
気付いていた。
けれど。
シルファも、ラファも、自身に課せられた使命を自覚している。
強く自覚しているからこそ、行動に出ることはないと思っていたのに。
深く心の奥底に秘めていてくれさえすれば、永遠に友として過ごせていたのに。
何故、今なのか、と。
深く沈みそうになっていたファラ・ルーシャの意識を引き戻したのは、さらに追い打ちをかける伝令の言葉だった。
「敵襲!! 魔龍軍に、炎帝のお姿があります!!!」
味方であるはずの炎帝が敵軍にあるという事実に、伝令からは恐怖しか伝わってこなかった。
四大最強を誇る火の精霊王が命の乙女を攫い、寝返ったという事実は、水軍たちの士気を混乱に落とし、完膚なきまでに破壊した。
嗤いながら、魔龍とともに並び立ち。
何の迷いもなく、同胞であった四大に牙をむく。
共に戦ったその剣で、
あざ笑い、友の信頼を切り裂いた。
そして、一番大事な命の乙女の心も踏みにじった。
燃え上がるような赤毛と澄み切った青い瞳を持つ不器用な青年のぎこちない笑顔と
育んできたはずの友情も。
全てが、ファラ・ルーシャの中で粉々に砕け散った瞬間だった。
「…っう」
重い頭を動かした瞬間、鋭い痛みがこめかみを走った。
夢を見ていたのだと悟った。
思い出したくなかったあの光景は、何度も何度も繰り返し、淳を痛めつけていく。
さっきまであったはずの優しい手は、今はどこかに行ってしまった。
ゆっくりと自嘲のため息を漏らす。
「泉…」
どうしてこんなことになってしまったのだろう。
争いたいわけではなかったのに。
誰よりも大切で、傷つけたくなかったのに。
いまにも泣き出しそうな顔で、必死に耐えていた。
泣き虫の彼女が、震えながら堪えていた。
あんな顔をさせたかったわけではないのに。
けれど。
信じられなかった。
彼女の言葉が。
『彼が…嘘を言ってるとは思えない』
泉が、何を言っているのか分からなかった。
あまりにも想定外すぎて。
どうして泉がそんなことが言えるのか理解できずに、拳を痛いほど握り締める。
あいつが、シルファを攫わなければ…。
至高界に滅びが呼びこまれることもなかった。
裏切り者の言葉を、どう信じろというのだろうか。
怒りと憎しみに似た憤りにこの身が苛まれて苦しい。
どうやって息をしたらいいのか分からない。
学校のプールで自分たちを認識したときのあの屈託のない笑顔。親友だった男の青い炎のような瞳は、記憶に残っているものと変わらず、懐かしささえある。
『久しぶりだな、ファラ・ルーシャ』
あの笑顔は紛れもなく長い時を一緒に駆け抜けてきた戦友のもの。
信頼し、仲間として頼もしく思っていた男の笑顔だった。
何故、そんな笑顔で会いに来たのか。
裏切ったくせに。
自分が息の根を止めた男の顔を拝みにでも来たというのだろうか。
そこまで落ちたのか。
『冤罪だ』
ラファの言葉が繰り返し、淳の頭の中でぐるぐると回っていく。
あの時、戦場で展開していた水界の軍勢の前に敵軍を率いて現れたのは、紛れもなく炎帝だった。
それなのに、昔と同じ瞳でそんな言葉を吐く。
「どうして…」
何を信じろというのか。
何故、攫ったのか。
何故、裏切ったのか。
その理由がわからない。
淳には泉がどうして炎帝の冤罪を信じることが出来るのか理解できない。
『炎帝の謀反だなんてそんな知らせは届いてなかった』
『アル・ファラルさまからも…何も、どこからも、そんなこと聞いていないもの!』
泉が叫んだ言葉を繰り返し思い出す。
水界の長妃である彼女に、知らせが何も届いていなかったのは何故だろうか。
情報が止められていたのか。
それとも、その情報が間違っていたのか。
誰かによって歪まされた記憶。
本当にそんなことがあり得るのか。
淳は頭を振って懸命に落ち着こうとする。
遥か昔の記憶を思い起こす。
あれは確かに炎帝だった。
それはファルークも見ている。
敵軍に味方であるはずの炎帝がいることで、自軍の兵士たちに激しく動揺が走った。
炎帝が世界樹からシルファを攫ったという報がすでに自軍を揺らがせていた時に、目の前に現れたのだから。
炎帝が裏切ったのだと認めざるを得ない。
これは紛れもない事実のはずだ。
だが。
淳はぎゅっと掛布を握り締める。
そもそも泉はシルファが攫われたことも知らなかった。
それこそがありえない状況だ。
四大の長妃がシルファの異変を感知しないことなどあるはずがない。
さあっと血の気が引いた。
何かがおかしい。焦燥感が淳の体を支配していく。
「ぐ…うぅっ」
ズキンッと激しい頭痛が襲う。
頭を押さえ、痛みをやり過ごそうとするが、激しい痛みは治まる気配もなく、さらに強くなっていく。
ガンガンと頭が割れそうなほどの痛みに思わずうめき声が漏れた。
体を前に屈みこむと、胸元から雫型のアクアマリンのペンダントがこぼれ落ちた。
淡く水色の光るペンダントは淳が自らの力を注いで生み出した守護石だ。泉にも同じものを渡したのは、離れていても彼女の居場所を把握できるようにするため。彼女に異変があれば、即座に伝わるようになっている。
それがいま、静かに点滅を繰り返している。
「…い…ずみ?」
彼女に何か起こったのは明白だった。
淡く発光するアクアマリンを握り締めて、淳は痛みをやり過ごそうと大きく息を吐いた。
何度か深呼吸を繰り返していくと、刺すような痛みはだんだんと和らいできた。だが完全に消えたわけではない。
淳は滑り落ちるようにベッドから降りると、よろめきながら部屋を出た。
拓海も一緒にいるはずだから滅多なことはないと思いたい。だが、もし、彼が再び泉の前に現れていたのなら、拓海では太刀打ちできない。
「くっ…」
壁に手をつきながら、もう片方の手はアクアマリンの守護石を握り締める。
一刻も早く、彼女のいる場所に行かなくては。
「…泉っ」
ぐっと足を踏み込むと、淳の周りに水が螺旋を描いて取り囲んだ。
きらきらと光をはじいて、その輝きで淳の体を包み込む。
水が勢いを増して旋回する。
伸ばす手に合わせて、水が巻きあがった。
「彼女のところへ」
手の中のアクアマリンが激しく輝く。
そして廊下には、わずかな水滴すら残さず、何事もなかったように静寂だけがあった。
空間を引き裂いて、身を覆う水とともに淳は駅前の地に舞い降りた。
取り巻く水が歓喜とともに王の体に触れて舞い上がっていく。そして空気に溶けて消えた。
頭痛は激しさを増し、息をするのも苦しい。足に力が入らず、ぐらりと体が傾ぐ。倒れこむところをぎりぎり耐えて、淳は片手をついた。
この状態で跳躍は無謀だったかもしれないと頭の隅をよぎったが、視界の先に鮮血にまみれて倒れ伏す拓海の姿を見つけたとき、嫌な予感が当たったことを知った。
「拓海!」
はっとして顔を上空に向ける。
慣れ親しんだ気配が二つ。
淳は視線を走らせて、同じように片膝をついて上空を睨みつけている赤毛の少年、日下部晄を見つけた。彼は苦々し気に顔を歪ませ肩を押さえている。拓海との戦闘で負ったのだろうか。怪我をしているようでうっすらとシャツの袖が血で滲んでいるのが見えた。
だがもう一つの気配に淳の心臓はさらに跳ね上がる。
晄が見上げている先を追って視線を向ける。
風が自由奔放に吹き抜けていく。
プラチナブロンドの長い髪をなびかせて、面白そうにこちらを見下ろしている男がいた。その男の腕に彼女が、泉がいた。気を失っているのか、くったりと弛緩した体に力はない。
「泉!!」
視線を男に戻すと、明るい空色の瞳が興味深そうに輝き、淳を見ていた。あの瞳の輝きを淳は知っていた。
「見つかったか。やっぱり早いね」
長髪の男を見据えて、その男の名を紡ぐ。懐かしい気配を纏った男は記憶に残っている姿と驚くほどよく似ていた。
「…フォーレ?」
風の精霊王フォーレ・ディアスの現身。
予想通り、彼も転生していたのかと淳は悟った。だが、何故彼が泉を攫うのか。
「長妃を攫うとは、どういうことだ?!」
怒りの波動が上空の男に向かって突き刺さる。男はひょいと軽く肩をすくめると軽快に笑って見せた。
「お怒りはごもっとも。でも今回俺はただの使いだからさ。召喚命令が出た奥方をエスコートするだけさ」
「召喚命令…?」
淳は怪訝そうに眉を顰める。長妃を召喚できる存在は多くはない。
シルファ本人か神龍、もしくは四大のリーダーである大地の精霊王か。
「アル・ファラルが召喚したのか?」
「ご名答」
「召喚理由はなんだ?風神のお前が動くのは何故だ?」
いくらアル・ファラルが四大の長だったとしても、同じ四大を駒のように動かせるわけではない。束縛を嫌う風神ならなおさら難しい。
「面白そうだったから、使いをかって出ただけだ。お前にしては珍しく派手に動いているからな」
「召喚理由はシルファとの接触か?」
つい先日、泉はシルファと接触している。淳は泉を通して、新たな力と使命を受け取ったのだ。
フォーレはニヤッと笑っただけだったが、それが質問に対しての是であることは間違いない。
それにラファとフォーレ、そしてアル・ファラルが、この世界に揃っているという事実に身震いする。
「報告なら僕が行く。長妃単独での召喚は承服できない」
「ま、それもごもっともだな」
淳とフォーレの会話を聞いていた日下部が割って入る。
「まて…アル・ファラルがシルファの行方を見失ってるってことか」
「聞き捨てならないな。ラファ」
激しい怒りの波動が上空に渦巻いている。
それに呼応するように好戦的な閃きが日下部の瞳に宿る。ゆらりと赤い炎が彼の全身を纏うように燃え上がった。その炎を吹き消す様に鋭い風が日下部の頬に刃となって切り付ける。
「そもそもお前がシルファを攫わなければこんなことにはならなかったはずだ」
幾筋もの風の刃が日下部を襲う。だが日下部は黙ってそれに耐えた。
「そうだ。お前に聞けばいいんじゃないか。お前がシルファを攫ったんだからな。わざわざこんなか弱い女の子に召喚してまで聞く必要なんてない」
ぐるりと風が日下部の体を取り巻き、拘束しようとする。
「よせ」
赤い炎が彼を守り、風の拘束を粉砕する。風は音を立ててはじけ去った。
「俺は、神龍に頼まれただけだ」
静かに日下部が紡いだ言葉に、淳は体を強張らせた。
神龍がシルファを世界樹から引き離すとは到底考えられない。あの深い慈愛に満ちた緑の瞳、美しく輝く深緑の鱗に覆われた龍族の長は誰よりも至高界を憂い、シルファを愛していた。その彼がラファにシルファを攫うように頼んだというのだろうか。
頭上から激しい怒気が降り注ぐ。
「貴様、アル・ファラルだけでなく、神龍までも愚弄するか!?精霊王にあるまじき言動。やはり傍系の血…」
傍系の血と呼ばれ日下部の顔色が変わる。
「姿かたちだけ模しても性根までは清廉とはいかぬらしいな!!」
「フォーレ、よせ!」
炎帝は最初から異端だった。
ファラ・ルーシャやフォーレとは違って、ラファは正統な炎帝の後継者ではなかった。先の炎帝が亡くなり、火界は荒れ、存亡の危機に陥っていた。だが火界は滅びることなく存在し続けた。のちにアル・ファラルが戦乱の野の中でラファを見つけた。その姿は歴代の火神の特徴を色濃く引き継いでおり、わずかながらでもその血は引いているものとして火界の長として認められた。
異例中の異例だ。
認められたはしたが、確執は確かにあった。
生まれもと育ちも決して正当な流れを汲むものではなかった。精霊王には似つかわしくない粗野な言動。荒々しい炎そのままに荒れ狂う若い精霊王に、世界を律する力があるのかと不安視するのは仕方がないことだったかもしれない。なにより、表立って見下すことはしなかったが、彼を見つけてきたはずのアル・ファラルは、ラファを四大と認めつつも冷ややかな対応を変えようとはしなかったのだ。
「愚弄したつもりはない!…だが、いささか腹が立つ。勝手に裏切り者呼ばわりされて、制裁とは、な」
吐き出すように日下部は言い放つ。
あくまでも自分が無実であると彼は言うのか。
どこまで信じていいのか、淳には分からなくなっていた。
フォーレもファラ・ルーシャもラファの人となりを知ることで仲間として認めてきた。
何よりもラファの火界を思う気持ちに嘘偽りはなかったからだ。
精霊界は王を失えば消滅する。
混沌とした世界を平定し、王として立ったラファを精霊界が認めているのだ。
今もなお存在するというのなら、彼が王たる理由は覆られるものではないのだ。
同様に、もしファラ・ルーシャとアイシャの間に子があれば、水界は滅びずに済んだはずだったのだ。
「ラファ、おまえは本当に裏切っていないと言うのか?」
震える声で淳は問う。
今も怒りで暴走しそうになる気持ちを必死でこらえている。
己の中にある記憶がラファの言葉を否定する。けれど、それでは泉とは平行線のままなのだ。
「俺は裏切ってなどいない」
くっとこぶしを握り締めた。
あの時、驚愕するファラ・ルーシャを笑いながら切り伏せた顔と今の彼の顔は。
別物だ。
「バカか、ファラルーシャ。目の前にいるのは自分を殺した相手だぞ?」
「俺が、お前を?」
怪訝そうに眉を顰める日下部の態度に激高したのは淳ではなくフォーレの方だった。
「ふざけるなよ!その手で仲間を、ファラ・ルーシャを殺したのはお前だろうが!!!」
風が刃となって降り注ぐ。
「冗談でも口にするな」
「冗談じゃない!濡れ衣を着せられて、これ以上、黙っていられるか。俺じゃない!」
「黙れ!裏切り者が!!」
風の刃が鋭く唸り声をあげて日下部に襲い掛かる。
炎が渦を巻き熱を伴って猛り狂う。
両者は互角。
精霊王同士がぶつかり合えば、被害は甚大。
我を忘れた風と火が互いに牙をむき、その刃を向けあったそのとき、淳は飛び出していた。
「よさないか、二人とも!!」
清らかな水が大きな壁となって風と火の間に立ちふさがった。
水は風を押し返し、火をかき消した。
虚を突かれたようにフォーレも日下部も唖然と立ち尽くす。
「仲間同士で戦うな」
「正気か、お前?何故止める」
「分からない。だが、戦ってはダメだと…思っただけだ」
フォーレが呆れたように息を吐く。彼の言い分はよくわかる。
己を殺した存在を目の前にして、冷静でいられるほうがおかしい。
おかしいと思うが、冷静にならなければと思うのだ。この違和感を、正すために。
「お前も言い出したら聞かないやつだったな」
腕に抱いていた泉の顔をちらっと見遣り、フォーレは肩をすくめた。
「長妃はいったん返すわ。香で眠らせただけだからすぐ目を覚ますはずだ」
宝物を抱えるように淳は泉を腕の中に取り戻すと、ほっと息を吐いた。
「あと、ファルークな。派手に出血しているように見えるが、あれも香で眠らせただけだ」
命に別条がないことは淳も見て取った。フォーレの言う通り、怪我もそれほどひどくないのだろう。手荒ではあるが、精霊王の副官を止めるにはそれ相応の力が必要だ。そこまでして泉を、長妃を、連れて行こうとしたフォーレに言いたいことも多々あったが、その指示を出したのは別の人物なのだ。
四大の長が命じたこと。
「アル・ファラルはどこにいるんだ?一緒に会いに行く」
フォーレは眉を顰め、ラファを一瞥した。押し黙り睨みつけている。フォーレはラファに聞かせたくないのだと気が付いた。
「ラファ。お前と改めて話がしたい。明日、学校で」
「…分かった」
あっけないほど素直に了承して、日下部は踵を返してその場を立ち去って行った。
「やれやれ。ラファを逃がすとはな」
本気で呆れているわけではないのは分かる。
闘気を収めたフォーレは飄々とした笑みを浮かべて面白そうに成り行きを見守っているようにも見えた。
改めて、目の前に立つかつての盟友を見返す。
転生した姿でも長い髪は変わらず、戯れるように風を孕んで揺れる。乳白色だったが今は淡い金髪だ。すらりと背が高く、鍛えているのか均整の取れた体躯は精霊王だったころと差異がない。堀の深い顔立ち、透き通るように白い肌に美しい空色の瞳。
「…日本人には見えないが」
「今世ではイギリスだ。母が日本人だから日本語は大丈夫だ」
「あまり変わらないな、お前」
外見が昔とそんなに変わっていないのが不思議だった。そんなとまどいに気が付いたのか、フォーレはにやにやと人の悪い笑みを浮かべた。
「お前はかなり違うな。歳も…中坊か?」
「…っ、高2だ」
東洋人は幼く見えるのはどうしても仕方がない。が、見下ろされてなんとなく気分が悪いのは、子ども扱いされていると分かるからだ。
「ま、覚醒すれば徐々に変わってくるんだろうさ。俺は二十だ。一応、大学生。今の名前はシオン・コールマン。ほかに聞きたいことは?」
「シオンはいつ、思い出した?アル・ファラルとはどうやって…」
あんなに呼びかけても応えはなかったのに。
こんなにも一気に再会が叶うことを想像もできなかった。
「アル・ファラルとは大学で再会した。入学式でいきなりつかまってな。いるとは思わなかったから驚いた」
その時のことを思い出したのかフォーレはくすくすと肩を揺らしながら笑う。
「お前の声は聞こえていた。ずっと」
「ずっと?」
「だが、何かの力に阻まれて、お前に声を届けることはできずにいた。声は聞こえるのに、こちらの声が届かない。アル・ファラルもそれを不思議がっていた。アル・ファラルはずっと神龍とシルファにコンタクトを取ろうとしているが、こちらもまったくもって手ごたえがない。俺たちが転生しているのに要の神龍が不在。シルファの行方も知れず。そうこうしているうちに、お前たちが派手にコトを起こしてくわけだ」
シオンがいうのは大川の氾濫の時だろう。
泉と一緒にシルファに呼びかけた。何度も何度も、心が折れそうになるほど。
けれど、奇跡は起きた。
あのとき、シルファは確かに応えたのだ。
そして、大いなる力で、水の力を淳に還してくれた。
「シルファの言葉を俺たちも聞いた。還れ、と」
そうだ。思い起こせば、あの時、奪われたものが全て帰ってきたのだ。
「あれ以降、お前にも何度かコンタクトは送ったんだがな」
「いや、受け取ってない」
うんうんと頷いて、シオンは続ける。
「お前の力はだんだん大きくなる。なのにこちらには気が付かない。呼びかけても返事がない。記憶がないのかとも思ったが、長妃がシルファとも接触する。これは一体どういうことか、とアル・ファラルは思ったわけだ」
愕然とした。
あんなに呼びかけていたのに、届いていなかったという事実。呼びかけられていたのに、聞こえてこなかったという事実に愕然とした。
「ずっと呼びかけていたのに…」
「声が聞こえてこないせいで居場所の特定がなかなか難しくてな。大川の氾濫もあったからこの地域だろうって網を張ったわけだ」
「…そうか…」
アル・ファラルも自分たちを探していてくれたのか。そう思うだけでほっとする自分がいるのに気が付いた。こうやって仲間に会えたのは望外の喜び。
長い間ずっと呼びかけていた。力が足りなくて悔しい想いもたくさんした。人間の体に転生したせいか、精霊王としての力もうまく使えないことにとまどった。泉がくれた真珠の力を借りて、なんとかしていたにすぎない。水鏡を通じてシルファと接触し、力と使命を与えられたのはひとえに泉の力によるものだ。あまりにふがいない自分に腹が立つ。
水が穢れているのに浄化もかなわない。
「転生したから力をうまく使えないのだと思っていた。僕自身に問題が…」
ドクンっと心臓が跳ね上がった。
泉が作った聖水をも穢したのは、あの場に自分がいたからではないだろうか。
ラファに殺されたはずの自分。あれがラファではなく、ラファの姿を取った魔龍だったのなら。
違和感の理由になる。
もどかしいまでに足りない自分。聞こえない声。
「四大のバランスが崩れているからな。五芒星も沈黙してしまった」
そこでようやく一つの可能性に気が付いた。血の気が引いて、シオンの声もどこか遠くに聞こえる。
冷静に応えているのが自分ではないほかの誰かのように遠く感じる。
「俺だってラファを疑いたくはなかったさ。だが、ラファの行方も分からなかった」
「だが、ラファが裏切ったのでなければ、我らは魔龍にしてやられたことになる」
「あいつの言葉を信じるのか?」
「分からない。だが、この違和感は無視できない」
泉の言葉は信じたい。誰よりも大切な、愛する少女の言葉を、信じられないような自分ではありたくない。
ゆっくりと自我が浮上していく感覚。音が戻ってくる。冷え切った手を握り締めて、淳は泉を見つめる。
「ラファを完全に信用することは俺にはまだできないが…」
「僕も同じだ。ラファが違うと言っているだけなら聞き流した。けど、彼女が違うというんだ。この違和感の原因を探す」
シオンはじっと眠っている泉の横顔を見下ろす。長妃が精霊王にとってどういう存在か、彼も知っている。彼にもそういう存在がいるのだから当たり前だ。
「分かった。彼女は大事な証人だ。なんせシルファと直接コンタクトを取った唯一の存在だからな。アル・ファラルがやきもきしてる」
淳は無言のまま頷く。
泉をアル・ファラルに引き合わせるべきだと理解する。
だが。
ズキンと胸が痛んだ。
ぎゅっと泉を抱きしめて、そのぬくもりを確かめたかった。
さきほど浮かんだ疑念が、きっと正しいのだ。
楔は世界樹だけでなく、己にも水界にも打ち込まれているのだとしたら。
「僕は魔龍の毒に侵されているのかもしれない」
目を見開き、絶句するシオンを静かに見つめながら、淳は自らに巣くう魔龍の楔をひしひしと感じ取っていた。
呼びかけてはいけなかった。
出会ってはいけなかったのだ。
仲間を。
愛するものを。
知らず、巻き込んでしまっていた。
これこそが、魔龍の罠だったのだと。
淳は、思い知った。
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