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第一部 水の精霊王
第二話 記憶のさざなみ
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まだ梅雨明けの宣言は出ていないが、この日は久しぶりに綺麗な青空が顔を見せた。
もうすぐ訪れる夏の気配を感じさせるじりっとした暑さ。
入道雲が真っ白く立ち上っていた。
学校も休みなのに、教科書やノートを持って出かけようとしている泉に、母親は珍しそうに声をかけた。
「あら、泉、出かけるの?」
「あ、うん。ちょっと図書館で、と…友だちと試験勉強する!」
友だちの部分でどもってしまったのはわずかながら一緒に勉強する相手のことをどう説明しようか迷ってしまったからだ。彼氏というにはまだ気恥ずかしすぎて、母親にも言えない。いや、前世では旦那様だったけれども、今世ではまだ付き合い始めたばかり。学校や教室では毎日会っているけれど、休みの日に約束して会うのは初めてだ。
来週に迫った期末試験に向けて一緒に勉強をしようと声をかけたのは泉の方からだ。
場所は駅近くの図書館にした。
沙紀に話したら、にやりと笑って「図書館デートだね」と揶揄われたが。
「さ、沙紀ちゃんも来る?」
顔を真っ赤にしながらも誘ったら、呆れたように肩をすくめていた。
「嫌よ。いくら試験勉強だからってお邪魔虫になるつもりはないわよ」
「え、あ…えっとぉ…」
「ま、清水っち、頭良いし、勉強教えてもらえば?じゃね~」
手をひらひらさせてカバンをもって去っていった沙紀の後姿を思いだして、泉はそっと息を吐いた。
そうなのだ。彼の成績はいつも上位で、廊下に張り出される順位表に必ず名前が載っているほど。試験勉強を一緒にと誘ってはみたが、邪魔しそうで怖い。
昔から何でもできる人だったけれど、改めて同じ学生の立場にいると彼の優秀さが身に染みる。アイシャのように美人でもないし、これで頭の出来もついていけないようでは、今の自分では彼の横に立つ資格があるのかどうか疑問だ。せ、せめて五十番以内に入って、順位表に名前が載るくらいにはなりたいものだ。
ぐっと拳を握って気合を入れていると母親が変な顔でこちらを見ていた。
「い、行ってきます」
「気を付けてね!」
「はあい」
母親の声を背中で聞いて、泉は玄関を出た。
明るい陽射しと青空が眩しい。
階段を下りる。足を一歩前に出した瞬間、くらりと目が回った。
「えっ?」
涼やかな風がふわっと泉の体を巻き上げたような気がした。見上げた先に、美しく巨大な木の下にいるかのような豊かな枝と生い茂る濃い緑の葉、風にそよぐ葉音、木漏れ日に、泉は目をすがめる。
咄嗟に手を伸ばして、硬い階段ポーチの手すりにつかまった。その瞬間、景色は家の玄関ポーチに戻っていた。
くらくらする。世界が反転するかのような危うさを足元に感じた。
うずくまるようにして泉は階段に座り込んだ。
「なに…いまの…」
血の気が引いて、一気に視界が暗くなった。
「……っ?……み。泉っ!」
ゆさゆさと体を揺さぶられるのと同時に誰かが呼んでいる声が聞こえて、泉はゆっくりと顔を上げた。
目の前に心配そうに血相を変えて呼びかけている人物を、泉は呆然と眺めた。
「淳…くん?どうして?」
待ち合わせは駅だったはずなのに、どうして彼が泉の家の前にいるのだろう?
っていうか、なんで家の場所を知ってるのだろう?
淳はほっとした顔になって階段で座り込んでいる泉の腕を取り、引き上げた。
「家から出てきたと思ったらいきなり座り込むから…具合悪いなら、今日は図書館はやめようか?」
「え、ごめんなさい。だ、大丈夫だよ。もうなんともない」
淳は眉を顰めながらじっと泉を見る。
「本当?歩ける?…ちょっと場所を移そうか」
「う、うん」
不思議なことにさっきまで泉を襲っていためまいや気怠さも綺麗さっぱり消え去っていた。
夢でも見ていたような。
また白昼夢だったのかな。
大きな木の下で、幹や葉を見上げていた。あまりに大きくて、でも漂う空気は優しく穏やかで、静かだった。
あんな大きな木は見たことがない。
どこにあるんだろう。
どこかに存在しているのだろうか。
ふと、泉は前を歩く淳の横顔を覗き見る。雨は降っていないが、彼が自分を探して呼びかけたように白昼夢を見せたのかしら?いや、いまそんなまわりくどいことをする必要はない。直接聞いてくれれば良いのだから。
どこまで思い出している?
あれは、覚えている?
二人の最近の会話には必ず入る。断片でしかない記憶をつなぎ合わせていく作業は、今の泉には淳とより深く近付いていけるもので、何よりも大事だと思える。再び出逢えたのは奇跡なのだから。
淳は泉の手を引きながら、迷うそぶりもなく住宅街を抜け、駅へと向かって歩いていく。
「ね、わざわざ家まで来てくれたの?待ち合わせは駅だったのに」
「ああ、うん。ちょっと…近くまで来たから」
淳はほんの少し赤くなって、そう答えた。駅の構内に入って、周りを見渡した後、淳は泉に向かい合った。つないだ手はそのまま握られたままだ。
「それよりも、具合はどう?大丈夫?」
「あ、うん。たぶん貧血だと思う。玄関出てすぐだったからちょっとびっくりしちゃったけど…」
ひどく真剣な顔で尋ねられ、泉の方が焦ってしまった。
貧血と小さく淳はつぶやく。
「こういうのはよくあるのかい?」
「ううん。ないよ。だから私もびっくりしたんだけど…」
淳は何か言おうとして思い直したのか口をつぐむ。そのまま考え込むようにじっと泉を見つめたまま黙り込んでしまった。
「淳くん?」
「ああ、いや…アイシャも割と体が弱かったから、君もそうなのかと」
我に返ったのか少し気恥ずかしそうに目を伏せて淳は笑った。泉の心臓がどきんと跳ね上がった。
「アイシャほど病弱じゃないから!大丈夫。心配しないで!私は健康体!」
「そう?なら、良かった」
淳はホッとしたように笑う。この笑顔にまだ慣れない。ファラ・ルーシャのあの優美な美しさは日本人ではありえないから比較できないのだけれど、淳の整った綺麗さはどこか昔の彼を彷彿させて胸が苦しくなる。異様なほどの鼓動の高鳴りはもはや病気じゃないかと心配してしまうほどだ。
「うっ…」
「どうしたの?やっぱり具合が…?」
顔を真っ赤にしながら、胸を押さえている泉を目ざとく見つけ、淳はのぞき込んでくる。
泉は悲鳴をあげたくなった。近い、近い!!
絶対、これはからかってる!!
「い、意地悪ね!」
頬を膨らませて睨みつけると、淳はこらえきれなくなったのか声を上げて笑った。
「ごめん、ごめん。なんかかわいくて…」
「…っは?」
聞きなれない言葉を聞いたような気がして、泉は仰け反って逃げる。
かわいいって。かわいいって言った?
「心配したのは本当だよ」
そういって、淳は泉の頭をポンと軽く叩いた。
「えっと…あ、あの…」
もはや言葉も出ない。心臓が早鐘を打ちすぎて、痛い。
「あ、電車来たよ。行こう」
淳は涼しい顔で泉の手を引いていく。
のっけからこんなんじゃ、一日持たないかもと泉は呆然とした。
ファラ・ルーシャってこんな甘甘だったっけ?それとも淳くんのキャラ?
自分も以前のアイシャとは違うことを棚に上げていることに泉は全く気が付いていなかった。
洗面台の鏡に向かって、泉は盛大なため息をついた。
図書館は予想していたよりも人が多くて驚いたが、運よく窓際席を確保できて、淳と泉は隣り合って座った。もうドキドキしすぎて、頭になかなか入ってこないかと心配したが、人間は慣れるものだ。それに教え方が上手なのか、授業よりも分かりやすい。先生になったらいいのにと思ったくらいだ。
午前中いっぱい集中して勉強を進め、午後はそのままデートの予定だ。
休憩ついでにトイレに来て、髪の毛を直しながら、鏡に映る己の姿をまじまじと見遣る。
かろうじて二重の、つぶらな瞳。艶やかな黒髪はまっすぐで変なくせはない。それほど高くもない鼻とこじんまりとした唇。いたって普通の、平々凡々な容姿をいまさらながらに嘆いたところでどうしようもないことだけれど。せめてアイシャの半分でもいいから何とかならなかったものだろうか。淳くんはファラ・ルーシャばりに綺麗な顔立ちをしているというのに。自分は美人とはお世辞にも言われない。かろうじて、かわいいって言ってもらえる程度か。
そ、そういえば、さっき…。
図書館に来る前に淳にさらりと言われた言葉を反芻して、動揺する。
かあっと赤くなった顔を鏡で見てしまい、泉はさらにどぎまぎしてしまった。
あんな風に不意打ちされたら、誰だって落ち着かなくなるに決まっている。
意地悪なところは本当に相変わらずだと思った。
綺麗な顔で涼やかに澄ましている姿はほかの人の目も引くようで、ちらちらと女子からの熱い視線が飛んでくる。隣に泉がいてもお構いなしのぶしつけな視線もあったが、淳はその視線をまったく気にしていないようで、どういう心臓をしているのかと思うほどだ。
泉ははぁっと深いため息をつく。隣にいても恥ずかしくない自分になりたい。今の自分があまりにも自信がなさ過ぎて、嫌いになりそうだ。
そっと髪の毛を撫でつけて、少しばかりの身だしなみを整える。
一人百面相している恥ずかしさに気が付いて、泉はさっき洗ったばかりの手を洗う。
冷たい水の感触に、少しだけ落ち着いた。
背後を誰かが通り抜けていく。自分以外にも利用者がいたのだと気が付いて、泉は場所を譲った。
「……っ」
ふわりと風が優しい香りを孕んで流れる。
腰まで伸びた長い黒髪が戯れるようになびく。
うわぁ、綺麗な子。
ほうっと感嘆の息を吐いて、泉はその少女を見遣る。
泉の視線に気が付いたのか、少女は僅かに微笑しながら頭を下げて用を済ますと、また静かに出ていった。
ぶしつけに見つめてしまったのに嫌な顔一つせず、逆に微笑を浮かべて頭を下げるのは、そういう視線に慣れているからだろうと思った。
美しい。という言葉がとても似あう少女だった。
日本人離れした白い肌。艶やかな黒髪は光を放っているかのよう。
容姿だけではない。少女の醸し出す凛とした気品のようなもの。お嬢様然とした物腰。何よりも、目が綺麗だった。
「お姫様みたい…」
半ば呆然としたまま、泉はつぶやいた。世の中にはああいう子もいるのだ。まったくもって羨ましい。
洗面所を出て通路に出ると、誰かがうずくまっていた。
長い黒髪が床にうねるように流れ落ちている。
「さっきの…」
泉は急いで駆け寄って、少女のすぐ横に膝をついた。
「大丈夫ですか?気分でも?」
少女は真っ青の顔色をして震えていた。
「立てますか?」
泉の呼びかけに少女は小さく頷く。泉は少女の体を抱えるようにして、すぐそばのベンチに少女を座らせた。
「大丈夫ですか?少し横になった方がいいかも…」
顔色はやはり悪い。寒気がするのか、少女は自らの手をさする。
ゆっくりと顔を上げ泉を見ると、美少女は小さな声で「…水」とつぶやいた。
「あ、お水?…ちょっと待っててください」
急いであたりを見渡し、通路の奥に自動販売機があることを確認すると、泉は急いで向かった。
水のペットボトルを購入して渡すと、美少女はびっくりして泉を見、申し訳なさそうに頭を下げた。
「…ああ、ありがとうございます。ごめんなさい、ご迷惑をおかけして…」
「いいえ。迷惑だなんて。…あの、お連れの方とかいます?お知らせしたほうが」
「あ、兄が…きっと…」
探している。と消え入りそうな声で少女は続けた。
「お兄さん?」
泉が言葉を繰り返した、ちょうどその時だった。
「美樹!!」
大学生だろうか。背の高い男の人が血相を変えて走り寄ってきた。ベンチに座っている少女の両肩を抱き、顔を覗き込む。すぐ近くに泉がいることも目に入っていないような慌てっぷりだ。
「大丈夫か?なかなか戻ってこないから心配したら、案の定だ」
「ごめんなさい。少し気分が悪くなってしまっただけ…それより兄さま。こちらの方に介抱していただいて、お水までくださったの。何かお礼を…」
兄さまと呼ばれた青年は、今初めて気が付いたように振り返り、泉を見る。
美少女の兄だけあって、整った容姿の青年だった。思わずぼうっと見惚れてしまうほどの。
美少女とは違って、柔らかなごげ茶色の髪と目の色も同じく柔らかなごげちゃ色。肌はこれまた抜けるように白く、海外の血が混じっているのではと思うほどだ。
青年は優美で柔らかな物腰で立ち上がると、泉に向けて軽く頭を下げた。
「失礼。…妹が大変お世話になったようで、ありがとうございます」
「あ、いえ。そんな。大したことはしてませんので。き、気にしないで、くださいっ」
「でも手を差し伸べてくださったのはあなただけでした。ありがとうございます」
美少女にまで重ねて礼を言われてしまい、泉は恥ずかしくなって赤面する。向けられる感謝と好意が大きすぎる気がして、泉は慌てた。
「どういたしまして、です…」
かろうじて言葉を絞り出す。美しすぎる兄妹を前に、どうしていいのか分からなくなってしまった。
「あ、あの。では私はこれで!どうぞ、お大事に!」
逃げるようにして泉はその場を駆け足で離れた。
「あっ!」
背後から美少女が呼び止める声が聞こえたような気がしたが、気のせいだと思ってそのまま急いで通路を抜けた。
いきなり駆け込んできた泉を、不審そうに眺める人たちの視線に気が付いて、泉は息を整え、歩みのスピードを落とす。心臓がどきどきしている。なぜ逃げ出してしまったのか、泉には理由が思いつかなかった。ただ、あの場にいるのがとても怖くなったのだ。それが何故なのかはわからないけれど。二人が醸し出す空気感が綺麗すぎて怖かった。何かを思いだしそうなときの、焦燥感に似たものが沸き上がってきて、落ち着かない。
「泉?どうしたの?」
呼ばれて顔を上げると、淳が心配そうに立っていた。
「あんまり遅いから探しに行こうかと思ってたよ」
「あ、ごめんね。大丈夫。具合悪くなってた人がいたからちょっと手伝ってあげていたの」
泉は出てきた通路を振り返る。美しすぎる兄妹の姿は見えなかった。まだ休んでいるのかもしれない。
「ええ?その人は大丈夫?」
「あ、うん、お兄さんと一緒に来ていたらしくて。そのお兄さんがすぐ来てくれたから」
「そうか。なら、良かったね」
「うん。あのね。なんだかとっても綺麗なご兄妹だったの。お兄さんはハーフなのかなぁ。色白で日本人じゃないみたいだったし。妹さんの方は黒髪だったけど、本当にお姫様みたいで」
「…へぇ」
一瞬の間があった。眉がピクリと動いて、怒ったような、どこかつまらなそうな一瞬の表情を泉は見つけたけれど、それがどういう感情なのかまでは察することはできなかった。
「泉がそこまで言うなら相当なんだろうね…どうしたの?」
「…なんか、怒ってる?」
「いや、別に何も」
にっこりと張り付いたような笑みを浮かべる淳に違和感ありありで泉は呆然とした。
ふと淳の手元を見ると泉のかばんも持っている。片づけてきたらしいことが分かった。
「あ、荷物、持ってきてくれたんだね」
「そろそろお昼になるし、移動しよう。ごめん、勝手に荷物持ってきた」
「あ、ううん。いいよ、ありがとう」
時計を見れば確かにもうすぐ昼になる。ランチ時間はどこのお店も混みあうから、早めに動いた方がいい。
泉はカバンを受け取ると、当たり前のように差し出された手にぎょっとする。
手をつなぐのが当然と言わんばかりの淳の表情に、再び泉は赤面する羽目になった。
恐る恐る手を伸ばし触れると、捕まえたとばかりにぎゅっと握られ、恥ずかしさのあまり顔を上げられない。
くすくすと笑う淳をそっと窺うと、本当に嬉しそうに笑っていて、泉の心臓が痛いほどだった。
「そ、それ、本当に、ずるいと思うのっ」
「どうして?」
淳はにっこり笑っている。図書館から出て、外の明るい陽射しに目を細める。
「言ったよね。僕は君がいてくれるだけで嬉しいって」
「うん、言ったけど…でも、ちょっと…」
「ちょっと?」
「私ばかり、ドキドキしてるような気がする!」
思わず大きな声で言ってしまい、泉はハッと我に返った。
淳はびっくりしたように目を丸くして、まじまじと泉を見ていた。
ぷっとどこかからかこらえ切れない笑い声が聞こえて、ほんの少し頬を赤くしていた淳が、背後の木陰に隠れていた少年を見つけ、じろりと睨みつけた。
「拓海」
淳はその少年のことを知っているようで、呼び捨てる名前にも親しみがこもっている。
「いや、失礼。相変わらず、仲のよろしいことで何よりでございます」
人をくったような笑顔を見せて、拓海と呼ばれた少年は二人の前に姿を現した。
泉たちは私服だが、彼は高校の制服を着ていた。同じ学校の生徒なのだろう。名札に刻まれた緑のラインが、泉たちより一年上の三年生であることを示していた。
拓海は泉を指し、「ご挨拶しても?」と、淳に許可を取る。小さく頷く淳を泉は唖然として見上げた。
まさか、と思った。
拓海はまっすぐ泉を見つめ、恭しく頭を下げる。
「長妃さまにはご機嫌麗しく。ファルーク、再びの拝謁が叶いましたこと、恐悦至極にございます」
快活とした口調で、優雅な身のこなしの偉丈夫の姿が重なって見えた。
ファルーク、という名前は覚えている。アイシャの記憶を完全に思いだしたわけではない。けれど、彼はファラ・ルーシャの腹心ともいうべき人物で、いつも彼と行動を共にしていた大将軍だ。忘れるはずがない。
「ファルーク将軍?」
「はい、今生の名は清水拓海。南高の三年です。以後、お見知りおきを」
「あ、高橋泉です」
おずおずと泉も名乗り返す。
「泉ちゃんかぁ」
拓海は二カッと大きく口を開けて笑って見せる。
「おい、拓海。いつ名を呼ぶことを許した?」
「えー、いやいや。そんな睨まないでください。便宜上、名前を呼ぶのはありでしょうが」
「馴れ馴れしいんだよ、いきなり」
「王よ、それは心が狭い」
拓海はため息交じりに肩を落とす。淳は不機嫌を隠さず腕を組んで、拓海を睨んでいる。拓海の方が先輩になるはずなのに、口調が逆転しているのは主従関係にあるからだろう。そんな二人なのに、泉の目には二人がじゃれあっているようにしか見えなかった。
「拓海は僕の従兄なんだ。父親が兄弟同士でね」
同じ清水姓だったからもしかしたらと思ったが、本当にそうだったとは。
でもあまり顔は似ていない。淳はどこまでも中性的な綺麗さを持っているし、拓海は逆に男くさい逞しさを持っている。淳がきっと母親似なのだろうと思った。
「で、お前までここにいるってのは偶然なのか?」
「偶然ですよ。俺も一応、受験生なので」
「ふうん」
淳が腕を組んで拓海を睨みつけているが、照れ隠しであることはきっとバレているのだろうと泉は思った。
それぐらい二人の間の空気は親しみ深く優しい。
拓海が淳に向ける温かいまなざしが、ファルークのものと重なる。信頼し、敬愛に溢れている。返す淳のまなざしも同様だ。懐かしい景色が泉の胸を震わせる。
嬉しさと懐かしさの中に、どうしようもない寂しさも、また、思いだしてしまった。
自分たちがこうして再会できた理由を彼は探している。
美しい水の世界マナン・ティアール。
自分たちだけが生まれ変わって来ているはずがないと泉も思っていた。
だから、こうしてファルーク将軍が彼のすぐそばにいたことを、当然のように思えるし、懐かしさとともに嬉しくもある。けれど、何故か怖かった。
生まれ変わってきた意味を、解き明かそうとすることは、正しいのだろうか。泉は震えるほど怖かった。
何か大きな力が、また彼を戦へと連れて行ってしまいそうで。
あの背中を見送るアイシャの涙を思いだしたくなくて、震えた。
何かを感じ取ったのか、拓海がそっと頭を下げる。
「デートのお邪魔でしたね!では、自分はこれで消えます!」
あっという間に拓海はその場を去っていった。本当に消えたような、そんな錯覚を覚えるほどに。
淳は呆れたように鼻を鳴らす。
服の裾を掴んでうつむく泉に気が付いたのか、訝しむ淳の声を泉は頭上で聞いた。
「泉?どうしたの?」
会えて嬉しい、だけで終わらないその先の未来を思うだけで、泉は恐ろしくてたまらなかった。
「落ち着いた?」
淳の優しい声に促されて、泉はようやく顔を上げる。
あのあと、ぐだぐだに泣いてしまった泉をなだめるのは大変だったと思うのに、相変わらず淳は柔らかな微笑を浮かべて優しく見つめてくれる。
いろんな感情が一気にあふれ出して、どうしようもなく涙があふれてしまった。
人にも見られていただろうし、淳には迷惑をかけてしまった。
「ごめんなさい。なんだか一気に…いろいろ…」
「うん」
「…私また真珠だらけにしちゃった?」
「大丈夫。とりあえずは全部受け止めた」
泉の涙が全部真珠に変わるわけではないらしいことはここ数日で分かっていた。
まだ完全じゃないからか、真珠に変わるときとそうでないときがある。
いくつかの変化した真珠は、淳の手の中にあり、虹色の光沢を放っていた。
図書館に隣接する公園のベンチに二人腰掛けて、泉はほうっと息を吐く。
泣いている泉の背中を、ずっと優しく撫でてくれていた。
いまは手を握ってくれて、泉が落ち着くのを待ってくれていた。
木陰の涼しい風が熱をもった頬を冷ましてくれる。
あんなに泣いたから、きっと目が腫れているだろう。顔を上げるのにためらってしまう。
そんなことを考えていたら、泉の飲みかけのペットボトルを差し出された。まだ半分残っていたから、淳が持ち帰ってくれていたらしい。
「私の…」
「うん、喉乾いたんじゃないかい?ほら」
そう言って、淳はペットボトルを差し出す。淳の手が淡く光って見えたのは気のせいだろうか。
泉はペットボトルを受け取ると驚いた。
温まっているはずのお茶が冷えている。
「えっ、え?冷たい」
くすくすと笑いながら、泉に渡そうとしていたペットボトルを引き取ると、泉の頬に軽く押し付けてきた。
「目も冷やせるよ」
「うわぁ」
ひんやりとした感触が気持ちよくて、泉は歓声をあげた。
「冷たくて気持ちいい」
ハンカチで包んで目元に充てると、よく冷えたペットボトルのお茶がちょうどよく熱を冷ましてくれる。
これは淳の持つ力によって冷やされたものだと泉は理解した。
水の精霊王としての力。こんなにも当たり前のように彼は力を使っているのだとそれは証明していた。
「記憶とともに蘇るのは力だけじゃない」
静かに淳が口を開く。
ペットボトルで目をふさいだまま、泉はその言葉を聞いた。
どうしようもなく暴れまくる、かつての己の感情が泉を揺さぶる。そしてそれは淳も同じなのだと思い知る。
「僕と再会したことを…後悔してる?」
「そ、そんな、わけない!!」
泉は反射的に言い返していた。勢いよくペットボトルが転がり落ちる。
「君はこれからもっといろんなことを思いだしていく。長妃としての力だって戻ってくる。僕はその力を欲するだろう。君が与えてくれた真珠とともに。君を否応なしに巻き込んでしまう。それでも…後悔しないでいてくれると嬉しい」
「しない!後悔なんて、しない。ア、アイシャは置いて行かれるのが嫌だったの。あなたが、いなくなってしまうのが…嫌だったのっ」
すっくと立ちあがった泉の両眼からバラバラと真珠がこぼれ落ちた。
「あっ」
我に返った泉が慌てて涙をぬぐう。地面に落ちた真珠はすぐに形を失って消えていった。
淳は手を伸ばし、泉を優しく引き寄せて抱え込んだ。
「ファルークが僕を連れていくと思ったのか」
彼は将軍だ。どうしても戦とつながってしまう。
ファラ・ルーシャの背中を見送るのが嫌だった。だから今生は付いていくと決めた。決意とともに真珠を贈ったけれど、思いだせば思いだすほど辛かった思いがあふれ出して泉を翻弄する。
悲しみに、切なさに、飲み込まれそうになってしまう。
「ごめんなさい。彼のせいじゃないの…私が…」
ついていくと言ったのに。その覚悟すら揺るがすアイシャの悲しみの深さに泉は恐れおののいた。
「揺らぐのは仕方がないよ。僕も同じだ。君がくれた言葉に僕はどうしても、すがってしまう」
この世にたった一人で、この記憶を抱いて生きていくのはつらい。仲間を、愛しい人を、どうしても望んでしまう。どんなつらい過去でも。どんなに無残な最期だったとしても。一度蘇った記憶は消えない。
淳の言葉に泉は思わず顔を上げた。
「これからいろんなことを思いだしていくだろう。僕がファルークとも出会ったように。君もまた近しい誰かと再会するはずだ。その時にどんな想いがあふれても…思いだしたくなかったことでも、僕は受け止めたい。詰ってくれてもいい。どんなことをしてでも、僕は君を取り戻したかったから」
あの雨に願っていた後姿を泉はみている。
「君を寂しがらせていると知らなかったくせに、自分勝手だな」
「ううん、私も会いたかったって言った!言ったわよね!」
淳は少しだけ笑った。
「僕だって、この手をもう二度と離したくはない」
抱擁を解かれ、その手で両手をぎゅっと力強く握られて、泉は痛みとともに知る。
記憶を思い出すほどに鮮明になっていくあの時抱いた感情を否定することはできない。それはかつての自分なのだから。その思いが魂に深く刻みついているというのなら、受け止めなくてはならないのだ。
「この記憶を抱いて生きていくのなら、君がそばにいて欲しい」
「大丈夫。そばにいるって何度でも言うし、絶対離れないから。どこにだってついて行く」
嬉しそうに、安心したように淳も笑う。
淳の手が頬に伸び引き寄せられた。すぐ近くに、優しく笑う淳の顔があり、慌てた。
「っ…ま、待って、誰かに見…」
「いまさら?」
淳はくすくす笑いながら、さらに近付いてくる。慌てて抵抗する泉を楽しんでいるようにも見える。
「君、さっきまでギャン泣きしていたんだよ?けんかして、仲直りしたんだろうって思うよ」
「やだ、恥ずかしいっ」
淳に指摘されるまで気が付かなかった。大きな声で泣いていた気がするし、大きな声で叫んでいた気もする。平日の昼間の公園だ。ほかに人だっているはずなのに、なんで忘れていたのだろう。ほかの人の気配を感じていなかったから。
「大丈夫。結界を張ってあるから。君が泣いてるところなんて誰にも見せたくないし」
「ええ?」
ぎょっとして泉は淳をまじまじと見上げる。そういえば、ファルークの去り方もおかしかった。いきなり姿が消えた気がしたのは気のせいではなかったということだ。
「うん、だから、ね」
確信犯のような淳の笑顔を見上げながら、泉は真っ赤になった。
だから、ねって何?とツッコミたかったが、不発に終わった。
「好きだよ」
吐息がかかるくらい近付いて。泣きたくなるような優しい声で、そんなことを告げられたら、もう何も言えなくなってしまう。嬉しくて、嬉しくて、たまらなくなる。
「誕生日、おめでとう」
三日違いの誕生日のことを淳が知っていてくれたことが嬉しかった。
頬に触れる手があまりにも優しくて、泉は目を閉じた。唇に降りてくる柔らかな熱を感じながら、思う。
こんな素敵な誕生日は初めてだ。
「泉が真珠をくれたから、僕からはこれを…」
そう言って、淳はポケットから小さな袋を取り出した。可愛らしくパッケージングされている。
「開けても?」
「もちろん」
震える手をなだめつつ、泉は包装を解き、中を覗き込む。
銀色の鎖の先に、水色のしずくの形をした半貴石が陽の光を反射してきらきらと輝いていた。
「わぁ、綺麗。かわいい」
アクアマリンのペンダントだと分かった。
でも誕生日のプレゼントにしては高価すぎるのではないだろうか。
泉の考えていることが分かったのか、淳は自らの胸元からもするすると鎖を引き上げる。
「お揃いで作ったから、つけて」
淳の懇願に頷くだけで精一杯だった。破裂しそうな心臓と火が出そうなほど真っ赤になった顔を何とかしたいと思いつつも、幸せで、溺れそうになる。
どんな運命の輪が自分たちをこの世界に呼び寄せたのだろうか。
あの時。水界が滅びたあの瞬間に、終わった命のはずなのに。
過去の記憶と力までも呼び覚まし、何を求めているのだろう。
泉の脳裏に朝見た巨大な木の姿が鮮やかに蘇る。
すべての魂に刻まれた、聖なる場所の景色。
美しい女神が住む世界。
「あ…」
クラッと目が回る。慌てて淳が泉の体を支える。
「…泉?」
「せ…世界樹…」
頭を淳の胸に押し当てたまま、泉はつぶやく。
今朝見た風景は世界樹だ。
思い出した。
女神の住む世界。至高界にある巨大な命の木。
豊かに太い幹を伸ばし、濃い緑の葉が生い茂る世界樹は風に美しい葉音を奏で、天と地をつなぐ。
唯一の、女神の聖域。
だが、そこに女神の姿はなく。静寂だけが広がっている。
風に流されていくのは力を失ったいくつもの葉。あまりにも多くの葉が雨のように落ちていく。
葉の色が黒く変色しているものもあった。
「世界樹が…」
「え?」
「世界樹が、枯れている…」
信じられなかった。
永遠に美しいと謳われていた世界樹の葉が変色し、枯れ落ちていく。
それはありえない光景だった。
第三話へ続く
もうすぐ訪れる夏の気配を感じさせるじりっとした暑さ。
入道雲が真っ白く立ち上っていた。
学校も休みなのに、教科書やノートを持って出かけようとしている泉に、母親は珍しそうに声をかけた。
「あら、泉、出かけるの?」
「あ、うん。ちょっと図書館で、と…友だちと試験勉強する!」
友だちの部分でどもってしまったのはわずかながら一緒に勉強する相手のことをどう説明しようか迷ってしまったからだ。彼氏というにはまだ気恥ずかしすぎて、母親にも言えない。いや、前世では旦那様だったけれども、今世ではまだ付き合い始めたばかり。学校や教室では毎日会っているけれど、休みの日に約束して会うのは初めてだ。
来週に迫った期末試験に向けて一緒に勉強をしようと声をかけたのは泉の方からだ。
場所は駅近くの図書館にした。
沙紀に話したら、にやりと笑って「図書館デートだね」と揶揄われたが。
「さ、沙紀ちゃんも来る?」
顔を真っ赤にしながらも誘ったら、呆れたように肩をすくめていた。
「嫌よ。いくら試験勉強だからってお邪魔虫になるつもりはないわよ」
「え、あ…えっとぉ…」
「ま、清水っち、頭良いし、勉強教えてもらえば?じゃね~」
手をひらひらさせてカバンをもって去っていった沙紀の後姿を思いだして、泉はそっと息を吐いた。
そうなのだ。彼の成績はいつも上位で、廊下に張り出される順位表に必ず名前が載っているほど。試験勉強を一緒にと誘ってはみたが、邪魔しそうで怖い。
昔から何でもできる人だったけれど、改めて同じ学生の立場にいると彼の優秀さが身に染みる。アイシャのように美人でもないし、これで頭の出来もついていけないようでは、今の自分では彼の横に立つ資格があるのかどうか疑問だ。せ、せめて五十番以内に入って、順位表に名前が載るくらいにはなりたいものだ。
ぐっと拳を握って気合を入れていると母親が変な顔でこちらを見ていた。
「い、行ってきます」
「気を付けてね!」
「はあい」
母親の声を背中で聞いて、泉は玄関を出た。
明るい陽射しと青空が眩しい。
階段を下りる。足を一歩前に出した瞬間、くらりと目が回った。
「えっ?」
涼やかな風がふわっと泉の体を巻き上げたような気がした。見上げた先に、美しく巨大な木の下にいるかのような豊かな枝と生い茂る濃い緑の葉、風にそよぐ葉音、木漏れ日に、泉は目をすがめる。
咄嗟に手を伸ばして、硬い階段ポーチの手すりにつかまった。その瞬間、景色は家の玄関ポーチに戻っていた。
くらくらする。世界が反転するかのような危うさを足元に感じた。
うずくまるようにして泉は階段に座り込んだ。
「なに…いまの…」
血の気が引いて、一気に視界が暗くなった。
「……っ?……み。泉っ!」
ゆさゆさと体を揺さぶられるのと同時に誰かが呼んでいる声が聞こえて、泉はゆっくりと顔を上げた。
目の前に心配そうに血相を変えて呼びかけている人物を、泉は呆然と眺めた。
「淳…くん?どうして?」
待ち合わせは駅だったはずなのに、どうして彼が泉の家の前にいるのだろう?
っていうか、なんで家の場所を知ってるのだろう?
淳はほっとした顔になって階段で座り込んでいる泉の腕を取り、引き上げた。
「家から出てきたと思ったらいきなり座り込むから…具合悪いなら、今日は図書館はやめようか?」
「え、ごめんなさい。だ、大丈夫だよ。もうなんともない」
淳は眉を顰めながらじっと泉を見る。
「本当?歩ける?…ちょっと場所を移そうか」
「う、うん」
不思議なことにさっきまで泉を襲っていためまいや気怠さも綺麗さっぱり消え去っていた。
夢でも見ていたような。
また白昼夢だったのかな。
大きな木の下で、幹や葉を見上げていた。あまりに大きくて、でも漂う空気は優しく穏やかで、静かだった。
あんな大きな木は見たことがない。
どこにあるんだろう。
どこかに存在しているのだろうか。
ふと、泉は前を歩く淳の横顔を覗き見る。雨は降っていないが、彼が自分を探して呼びかけたように白昼夢を見せたのかしら?いや、いまそんなまわりくどいことをする必要はない。直接聞いてくれれば良いのだから。
どこまで思い出している?
あれは、覚えている?
二人の最近の会話には必ず入る。断片でしかない記憶をつなぎ合わせていく作業は、今の泉には淳とより深く近付いていけるもので、何よりも大事だと思える。再び出逢えたのは奇跡なのだから。
淳は泉の手を引きながら、迷うそぶりもなく住宅街を抜け、駅へと向かって歩いていく。
「ね、わざわざ家まで来てくれたの?待ち合わせは駅だったのに」
「ああ、うん。ちょっと…近くまで来たから」
淳はほんの少し赤くなって、そう答えた。駅の構内に入って、周りを見渡した後、淳は泉に向かい合った。つないだ手はそのまま握られたままだ。
「それよりも、具合はどう?大丈夫?」
「あ、うん。たぶん貧血だと思う。玄関出てすぐだったからちょっとびっくりしちゃったけど…」
ひどく真剣な顔で尋ねられ、泉の方が焦ってしまった。
貧血と小さく淳はつぶやく。
「こういうのはよくあるのかい?」
「ううん。ないよ。だから私もびっくりしたんだけど…」
淳は何か言おうとして思い直したのか口をつぐむ。そのまま考え込むようにじっと泉を見つめたまま黙り込んでしまった。
「淳くん?」
「ああ、いや…アイシャも割と体が弱かったから、君もそうなのかと」
我に返ったのか少し気恥ずかしそうに目を伏せて淳は笑った。泉の心臓がどきんと跳ね上がった。
「アイシャほど病弱じゃないから!大丈夫。心配しないで!私は健康体!」
「そう?なら、良かった」
淳はホッとしたように笑う。この笑顔にまだ慣れない。ファラ・ルーシャのあの優美な美しさは日本人ではありえないから比較できないのだけれど、淳の整った綺麗さはどこか昔の彼を彷彿させて胸が苦しくなる。異様なほどの鼓動の高鳴りはもはや病気じゃないかと心配してしまうほどだ。
「うっ…」
「どうしたの?やっぱり具合が…?」
顔を真っ赤にしながら、胸を押さえている泉を目ざとく見つけ、淳はのぞき込んでくる。
泉は悲鳴をあげたくなった。近い、近い!!
絶対、これはからかってる!!
「い、意地悪ね!」
頬を膨らませて睨みつけると、淳はこらえきれなくなったのか声を上げて笑った。
「ごめん、ごめん。なんかかわいくて…」
「…っは?」
聞きなれない言葉を聞いたような気がして、泉は仰け反って逃げる。
かわいいって。かわいいって言った?
「心配したのは本当だよ」
そういって、淳は泉の頭をポンと軽く叩いた。
「えっと…あ、あの…」
もはや言葉も出ない。心臓が早鐘を打ちすぎて、痛い。
「あ、電車来たよ。行こう」
淳は涼しい顔で泉の手を引いていく。
のっけからこんなんじゃ、一日持たないかもと泉は呆然とした。
ファラ・ルーシャってこんな甘甘だったっけ?それとも淳くんのキャラ?
自分も以前のアイシャとは違うことを棚に上げていることに泉は全く気が付いていなかった。
洗面台の鏡に向かって、泉は盛大なため息をついた。
図書館は予想していたよりも人が多くて驚いたが、運よく窓際席を確保できて、淳と泉は隣り合って座った。もうドキドキしすぎて、頭になかなか入ってこないかと心配したが、人間は慣れるものだ。それに教え方が上手なのか、授業よりも分かりやすい。先生になったらいいのにと思ったくらいだ。
午前中いっぱい集中して勉強を進め、午後はそのままデートの予定だ。
休憩ついでにトイレに来て、髪の毛を直しながら、鏡に映る己の姿をまじまじと見遣る。
かろうじて二重の、つぶらな瞳。艶やかな黒髪はまっすぐで変なくせはない。それほど高くもない鼻とこじんまりとした唇。いたって普通の、平々凡々な容姿をいまさらながらに嘆いたところでどうしようもないことだけれど。せめてアイシャの半分でもいいから何とかならなかったものだろうか。淳くんはファラ・ルーシャばりに綺麗な顔立ちをしているというのに。自分は美人とはお世辞にも言われない。かろうじて、かわいいって言ってもらえる程度か。
そ、そういえば、さっき…。
図書館に来る前に淳にさらりと言われた言葉を反芻して、動揺する。
かあっと赤くなった顔を鏡で見てしまい、泉はさらにどぎまぎしてしまった。
あんな風に不意打ちされたら、誰だって落ち着かなくなるに決まっている。
意地悪なところは本当に相変わらずだと思った。
綺麗な顔で涼やかに澄ましている姿はほかの人の目も引くようで、ちらちらと女子からの熱い視線が飛んでくる。隣に泉がいてもお構いなしのぶしつけな視線もあったが、淳はその視線をまったく気にしていないようで、どういう心臓をしているのかと思うほどだ。
泉ははぁっと深いため息をつく。隣にいても恥ずかしくない自分になりたい。今の自分があまりにも自信がなさ過ぎて、嫌いになりそうだ。
そっと髪の毛を撫でつけて、少しばかりの身だしなみを整える。
一人百面相している恥ずかしさに気が付いて、泉はさっき洗ったばかりの手を洗う。
冷たい水の感触に、少しだけ落ち着いた。
背後を誰かが通り抜けていく。自分以外にも利用者がいたのだと気が付いて、泉は場所を譲った。
「……っ」
ふわりと風が優しい香りを孕んで流れる。
腰まで伸びた長い黒髪が戯れるようになびく。
うわぁ、綺麗な子。
ほうっと感嘆の息を吐いて、泉はその少女を見遣る。
泉の視線に気が付いたのか、少女は僅かに微笑しながら頭を下げて用を済ますと、また静かに出ていった。
ぶしつけに見つめてしまったのに嫌な顔一つせず、逆に微笑を浮かべて頭を下げるのは、そういう視線に慣れているからだろうと思った。
美しい。という言葉がとても似あう少女だった。
日本人離れした白い肌。艶やかな黒髪は光を放っているかのよう。
容姿だけではない。少女の醸し出す凛とした気品のようなもの。お嬢様然とした物腰。何よりも、目が綺麗だった。
「お姫様みたい…」
半ば呆然としたまま、泉はつぶやいた。世の中にはああいう子もいるのだ。まったくもって羨ましい。
洗面所を出て通路に出ると、誰かがうずくまっていた。
長い黒髪が床にうねるように流れ落ちている。
「さっきの…」
泉は急いで駆け寄って、少女のすぐ横に膝をついた。
「大丈夫ですか?気分でも?」
少女は真っ青の顔色をして震えていた。
「立てますか?」
泉の呼びかけに少女は小さく頷く。泉は少女の体を抱えるようにして、すぐそばのベンチに少女を座らせた。
「大丈夫ですか?少し横になった方がいいかも…」
顔色はやはり悪い。寒気がするのか、少女は自らの手をさする。
ゆっくりと顔を上げ泉を見ると、美少女は小さな声で「…水」とつぶやいた。
「あ、お水?…ちょっと待っててください」
急いであたりを見渡し、通路の奥に自動販売機があることを確認すると、泉は急いで向かった。
水のペットボトルを購入して渡すと、美少女はびっくりして泉を見、申し訳なさそうに頭を下げた。
「…ああ、ありがとうございます。ごめんなさい、ご迷惑をおかけして…」
「いいえ。迷惑だなんて。…あの、お連れの方とかいます?お知らせしたほうが」
「あ、兄が…きっと…」
探している。と消え入りそうな声で少女は続けた。
「お兄さん?」
泉が言葉を繰り返した、ちょうどその時だった。
「美樹!!」
大学生だろうか。背の高い男の人が血相を変えて走り寄ってきた。ベンチに座っている少女の両肩を抱き、顔を覗き込む。すぐ近くに泉がいることも目に入っていないような慌てっぷりだ。
「大丈夫か?なかなか戻ってこないから心配したら、案の定だ」
「ごめんなさい。少し気分が悪くなってしまっただけ…それより兄さま。こちらの方に介抱していただいて、お水までくださったの。何かお礼を…」
兄さまと呼ばれた青年は、今初めて気が付いたように振り返り、泉を見る。
美少女の兄だけあって、整った容姿の青年だった。思わずぼうっと見惚れてしまうほどの。
美少女とは違って、柔らかなごげ茶色の髪と目の色も同じく柔らかなごげちゃ色。肌はこれまた抜けるように白く、海外の血が混じっているのではと思うほどだ。
青年は優美で柔らかな物腰で立ち上がると、泉に向けて軽く頭を下げた。
「失礼。…妹が大変お世話になったようで、ありがとうございます」
「あ、いえ。そんな。大したことはしてませんので。き、気にしないで、くださいっ」
「でも手を差し伸べてくださったのはあなただけでした。ありがとうございます」
美少女にまで重ねて礼を言われてしまい、泉は恥ずかしくなって赤面する。向けられる感謝と好意が大きすぎる気がして、泉は慌てた。
「どういたしまして、です…」
かろうじて言葉を絞り出す。美しすぎる兄妹を前に、どうしていいのか分からなくなってしまった。
「あ、あの。では私はこれで!どうぞ、お大事に!」
逃げるようにして泉はその場を駆け足で離れた。
「あっ!」
背後から美少女が呼び止める声が聞こえたような気がしたが、気のせいだと思ってそのまま急いで通路を抜けた。
いきなり駆け込んできた泉を、不審そうに眺める人たちの視線に気が付いて、泉は息を整え、歩みのスピードを落とす。心臓がどきどきしている。なぜ逃げ出してしまったのか、泉には理由が思いつかなかった。ただ、あの場にいるのがとても怖くなったのだ。それが何故なのかはわからないけれど。二人が醸し出す空気感が綺麗すぎて怖かった。何かを思いだしそうなときの、焦燥感に似たものが沸き上がってきて、落ち着かない。
「泉?どうしたの?」
呼ばれて顔を上げると、淳が心配そうに立っていた。
「あんまり遅いから探しに行こうかと思ってたよ」
「あ、ごめんね。大丈夫。具合悪くなってた人がいたからちょっと手伝ってあげていたの」
泉は出てきた通路を振り返る。美しすぎる兄妹の姿は見えなかった。まだ休んでいるのかもしれない。
「ええ?その人は大丈夫?」
「あ、うん、お兄さんと一緒に来ていたらしくて。そのお兄さんがすぐ来てくれたから」
「そうか。なら、良かったね」
「うん。あのね。なんだかとっても綺麗なご兄妹だったの。お兄さんはハーフなのかなぁ。色白で日本人じゃないみたいだったし。妹さんの方は黒髪だったけど、本当にお姫様みたいで」
「…へぇ」
一瞬の間があった。眉がピクリと動いて、怒ったような、どこかつまらなそうな一瞬の表情を泉は見つけたけれど、それがどういう感情なのかまでは察することはできなかった。
「泉がそこまで言うなら相当なんだろうね…どうしたの?」
「…なんか、怒ってる?」
「いや、別に何も」
にっこりと張り付いたような笑みを浮かべる淳に違和感ありありで泉は呆然とした。
ふと淳の手元を見ると泉のかばんも持っている。片づけてきたらしいことが分かった。
「あ、荷物、持ってきてくれたんだね」
「そろそろお昼になるし、移動しよう。ごめん、勝手に荷物持ってきた」
「あ、ううん。いいよ、ありがとう」
時計を見れば確かにもうすぐ昼になる。ランチ時間はどこのお店も混みあうから、早めに動いた方がいい。
泉はカバンを受け取ると、当たり前のように差し出された手にぎょっとする。
手をつなぐのが当然と言わんばかりの淳の表情に、再び泉は赤面する羽目になった。
恐る恐る手を伸ばし触れると、捕まえたとばかりにぎゅっと握られ、恥ずかしさのあまり顔を上げられない。
くすくすと笑う淳をそっと窺うと、本当に嬉しそうに笑っていて、泉の心臓が痛いほどだった。
「そ、それ、本当に、ずるいと思うのっ」
「どうして?」
淳はにっこり笑っている。図書館から出て、外の明るい陽射しに目を細める。
「言ったよね。僕は君がいてくれるだけで嬉しいって」
「うん、言ったけど…でも、ちょっと…」
「ちょっと?」
「私ばかり、ドキドキしてるような気がする!」
思わず大きな声で言ってしまい、泉はハッと我に返った。
淳はびっくりしたように目を丸くして、まじまじと泉を見ていた。
ぷっとどこかからかこらえ切れない笑い声が聞こえて、ほんの少し頬を赤くしていた淳が、背後の木陰に隠れていた少年を見つけ、じろりと睨みつけた。
「拓海」
淳はその少年のことを知っているようで、呼び捨てる名前にも親しみがこもっている。
「いや、失礼。相変わらず、仲のよろしいことで何よりでございます」
人をくったような笑顔を見せて、拓海と呼ばれた少年は二人の前に姿を現した。
泉たちは私服だが、彼は高校の制服を着ていた。同じ学校の生徒なのだろう。名札に刻まれた緑のラインが、泉たちより一年上の三年生であることを示していた。
拓海は泉を指し、「ご挨拶しても?」と、淳に許可を取る。小さく頷く淳を泉は唖然として見上げた。
まさか、と思った。
拓海はまっすぐ泉を見つめ、恭しく頭を下げる。
「長妃さまにはご機嫌麗しく。ファルーク、再びの拝謁が叶いましたこと、恐悦至極にございます」
快活とした口調で、優雅な身のこなしの偉丈夫の姿が重なって見えた。
ファルーク、という名前は覚えている。アイシャの記憶を完全に思いだしたわけではない。けれど、彼はファラ・ルーシャの腹心ともいうべき人物で、いつも彼と行動を共にしていた大将軍だ。忘れるはずがない。
「ファルーク将軍?」
「はい、今生の名は清水拓海。南高の三年です。以後、お見知りおきを」
「あ、高橋泉です」
おずおずと泉も名乗り返す。
「泉ちゃんかぁ」
拓海は二カッと大きく口を開けて笑って見せる。
「おい、拓海。いつ名を呼ぶことを許した?」
「えー、いやいや。そんな睨まないでください。便宜上、名前を呼ぶのはありでしょうが」
「馴れ馴れしいんだよ、いきなり」
「王よ、それは心が狭い」
拓海はため息交じりに肩を落とす。淳は不機嫌を隠さず腕を組んで、拓海を睨んでいる。拓海の方が先輩になるはずなのに、口調が逆転しているのは主従関係にあるからだろう。そんな二人なのに、泉の目には二人がじゃれあっているようにしか見えなかった。
「拓海は僕の従兄なんだ。父親が兄弟同士でね」
同じ清水姓だったからもしかしたらと思ったが、本当にそうだったとは。
でもあまり顔は似ていない。淳はどこまでも中性的な綺麗さを持っているし、拓海は逆に男くさい逞しさを持っている。淳がきっと母親似なのだろうと思った。
「で、お前までここにいるってのは偶然なのか?」
「偶然ですよ。俺も一応、受験生なので」
「ふうん」
淳が腕を組んで拓海を睨みつけているが、照れ隠しであることはきっとバレているのだろうと泉は思った。
それぐらい二人の間の空気は親しみ深く優しい。
拓海が淳に向ける温かいまなざしが、ファルークのものと重なる。信頼し、敬愛に溢れている。返す淳のまなざしも同様だ。懐かしい景色が泉の胸を震わせる。
嬉しさと懐かしさの中に、どうしようもない寂しさも、また、思いだしてしまった。
自分たちがこうして再会できた理由を彼は探している。
美しい水の世界マナン・ティアール。
自分たちだけが生まれ変わって来ているはずがないと泉も思っていた。
だから、こうしてファルーク将軍が彼のすぐそばにいたことを、当然のように思えるし、懐かしさとともに嬉しくもある。けれど、何故か怖かった。
生まれ変わってきた意味を、解き明かそうとすることは、正しいのだろうか。泉は震えるほど怖かった。
何か大きな力が、また彼を戦へと連れて行ってしまいそうで。
あの背中を見送るアイシャの涙を思いだしたくなくて、震えた。
何かを感じ取ったのか、拓海がそっと頭を下げる。
「デートのお邪魔でしたね!では、自分はこれで消えます!」
あっという間に拓海はその場を去っていった。本当に消えたような、そんな錯覚を覚えるほどに。
淳は呆れたように鼻を鳴らす。
服の裾を掴んでうつむく泉に気が付いたのか、訝しむ淳の声を泉は頭上で聞いた。
「泉?どうしたの?」
会えて嬉しい、だけで終わらないその先の未来を思うだけで、泉は恐ろしくてたまらなかった。
「落ち着いた?」
淳の優しい声に促されて、泉はようやく顔を上げる。
あのあと、ぐだぐだに泣いてしまった泉をなだめるのは大変だったと思うのに、相変わらず淳は柔らかな微笑を浮かべて優しく見つめてくれる。
いろんな感情が一気にあふれ出して、どうしようもなく涙があふれてしまった。
人にも見られていただろうし、淳には迷惑をかけてしまった。
「ごめんなさい。なんだか一気に…いろいろ…」
「うん」
「…私また真珠だらけにしちゃった?」
「大丈夫。とりあえずは全部受け止めた」
泉の涙が全部真珠に変わるわけではないらしいことはここ数日で分かっていた。
まだ完全じゃないからか、真珠に変わるときとそうでないときがある。
いくつかの変化した真珠は、淳の手の中にあり、虹色の光沢を放っていた。
図書館に隣接する公園のベンチに二人腰掛けて、泉はほうっと息を吐く。
泣いている泉の背中を、ずっと優しく撫でてくれていた。
いまは手を握ってくれて、泉が落ち着くのを待ってくれていた。
木陰の涼しい風が熱をもった頬を冷ましてくれる。
あんなに泣いたから、きっと目が腫れているだろう。顔を上げるのにためらってしまう。
そんなことを考えていたら、泉の飲みかけのペットボトルを差し出された。まだ半分残っていたから、淳が持ち帰ってくれていたらしい。
「私の…」
「うん、喉乾いたんじゃないかい?ほら」
そう言って、淳はペットボトルを差し出す。淳の手が淡く光って見えたのは気のせいだろうか。
泉はペットボトルを受け取ると驚いた。
温まっているはずのお茶が冷えている。
「えっ、え?冷たい」
くすくすと笑いながら、泉に渡そうとしていたペットボトルを引き取ると、泉の頬に軽く押し付けてきた。
「目も冷やせるよ」
「うわぁ」
ひんやりとした感触が気持ちよくて、泉は歓声をあげた。
「冷たくて気持ちいい」
ハンカチで包んで目元に充てると、よく冷えたペットボトルのお茶がちょうどよく熱を冷ましてくれる。
これは淳の持つ力によって冷やされたものだと泉は理解した。
水の精霊王としての力。こんなにも当たり前のように彼は力を使っているのだとそれは証明していた。
「記憶とともに蘇るのは力だけじゃない」
静かに淳が口を開く。
ペットボトルで目をふさいだまま、泉はその言葉を聞いた。
どうしようもなく暴れまくる、かつての己の感情が泉を揺さぶる。そしてそれは淳も同じなのだと思い知る。
「僕と再会したことを…後悔してる?」
「そ、そんな、わけない!!」
泉は反射的に言い返していた。勢いよくペットボトルが転がり落ちる。
「君はこれからもっといろんなことを思いだしていく。長妃としての力だって戻ってくる。僕はその力を欲するだろう。君が与えてくれた真珠とともに。君を否応なしに巻き込んでしまう。それでも…後悔しないでいてくれると嬉しい」
「しない!後悔なんて、しない。ア、アイシャは置いて行かれるのが嫌だったの。あなたが、いなくなってしまうのが…嫌だったのっ」
すっくと立ちあがった泉の両眼からバラバラと真珠がこぼれ落ちた。
「あっ」
我に返った泉が慌てて涙をぬぐう。地面に落ちた真珠はすぐに形を失って消えていった。
淳は手を伸ばし、泉を優しく引き寄せて抱え込んだ。
「ファルークが僕を連れていくと思ったのか」
彼は将軍だ。どうしても戦とつながってしまう。
ファラ・ルーシャの背中を見送るのが嫌だった。だから今生は付いていくと決めた。決意とともに真珠を贈ったけれど、思いだせば思いだすほど辛かった思いがあふれ出して泉を翻弄する。
悲しみに、切なさに、飲み込まれそうになってしまう。
「ごめんなさい。彼のせいじゃないの…私が…」
ついていくと言ったのに。その覚悟すら揺るがすアイシャの悲しみの深さに泉は恐れおののいた。
「揺らぐのは仕方がないよ。僕も同じだ。君がくれた言葉に僕はどうしても、すがってしまう」
この世にたった一人で、この記憶を抱いて生きていくのはつらい。仲間を、愛しい人を、どうしても望んでしまう。どんなつらい過去でも。どんなに無残な最期だったとしても。一度蘇った記憶は消えない。
淳の言葉に泉は思わず顔を上げた。
「これからいろんなことを思いだしていくだろう。僕がファルークとも出会ったように。君もまた近しい誰かと再会するはずだ。その時にどんな想いがあふれても…思いだしたくなかったことでも、僕は受け止めたい。詰ってくれてもいい。どんなことをしてでも、僕は君を取り戻したかったから」
あの雨に願っていた後姿を泉はみている。
「君を寂しがらせていると知らなかったくせに、自分勝手だな」
「ううん、私も会いたかったって言った!言ったわよね!」
淳は少しだけ笑った。
「僕だって、この手をもう二度と離したくはない」
抱擁を解かれ、その手で両手をぎゅっと力強く握られて、泉は痛みとともに知る。
記憶を思い出すほどに鮮明になっていくあの時抱いた感情を否定することはできない。それはかつての自分なのだから。その思いが魂に深く刻みついているというのなら、受け止めなくてはならないのだ。
「この記憶を抱いて生きていくのなら、君がそばにいて欲しい」
「大丈夫。そばにいるって何度でも言うし、絶対離れないから。どこにだってついて行く」
嬉しそうに、安心したように淳も笑う。
淳の手が頬に伸び引き寄せられた。すぐ近くに、優しく笑う淳の顔があり、慌てた。
「っ…ま、待って、誰かに見…」
「いまさら?」
淳はくすくす笑いながら、さらに近付いてくる。慌てて抵抗する泉を楽しんでいるようにも見える。
「君、さっきまでギャン泣きしていたんだよ?けんかして、仲直りしたんだろうって思うよ」
「やだ、恥ずかしいっ」
淳に指摘されるまで気が付かなかった。大きな声で泣いていた気がするし、大きな声で叫んでいた気もする。平日の昼間の公園だ。ほかに人だっているはずなのに、なんで忘れていたのだろう。ほかの人の気配を感じていなかったから。
「大丈夫。結界を張ってあるから。君が泣いてるところなんて誰にも見せたくないし」
「ええ?」
ぎょっとして泉は淳をまじまじと見上げる。そういえば、ファルークの去り方もおかしかった。いきなり姿が消えた気がしたのは気のせいではなかったということだ。
「うん、だから、ね」
確信犯のような淳の笑顔を見上げながら、泉は真っ赤になった。
だから、ねって何?とツッコミたかったが、不発に終わった。
「好きだよ」
吐息がかかるくらい近付いて。泣きたくなるような優しい声で、そんなことを告げられたら、もう何も言えなくなってしまう。嬉しくて、嬉しくて、たまらなくなる。
「誕生日、おめでとう」
三日違いの誕生日のことを淳が知っていてくれたことが嬉しかった。
頬に触れる手があまりにも優しくて、泉は目を閉じた。唇に降りてくる柔らかな熱を感じながら、思う。
こんな素敵な誕生日は初めてだ。
「泉が真珠をくれたから、僕からはこれを…」
そう言って、淳はポケットから小さな袋を取り出した。可愛らしくパッケージングされている。
「開けても?」
「もちろん」
震える手をなだめつつ、泉は包装を解き、中を覗き込む。
銀色の鎖の先に、水色のしずくの形をした半貴石が陽の光を反射してきらきらと輝いていた。
「わぁ、綺麗。かわいい」
アクアマリンのペンダントだと分かった。
でも誕生日のプレゼントにしては高価すぎるのではないだろうか。
泉の考えていることが分かったのか、淳は自らの胸元からもするすると鎖を引き上げる。
「お揃いで作ったから、つけて」
淳の懇願に頷くだけで精一杯だった。破裂しそうな心臓と火が出そうなほど真っ赤になった顔を何とかしたいと思いつつも、幸せで、溺れそうになる。
どんな運命の輪が自分たちをこの世界に呼び寄せたのだろうか。
あの時。水界が滅びたあの瞬間に、終わった命のはずなのに。
過去の記憶と力までも呼び覚まし、何を求めているのだろう。
泉の脳裏に朝見た巨大な木の姿が鮮やかに蘇る。
すべての魂に刻まれた、聖なる場所の景色。
美しい女神が住む世界。
「あ…」
クラッと目が回る。慌てて淳が泉の体を支える。
「…泉?」
「せ…世界樹…」
頭を淳の胸に押し当てたまま、泉はつぶやく。
今朝見た風景は世界樹だ。
思い出した。
女神の住む世界。至高界にある巨大な命の木。
豊かに太い幹を伸ばし、濃い緑の葉が生い茂る世界樹は風に美しい葉音を奏で、天と地をつなぐ。
唯一の、女神の聖域。
だが、そこに女神の姿はなく。静寂だけが広がっている。
風に流されていくのは力を失ったいくつもの葉。あまりにも多くの葉が雨のように落ちていく。
葉の色が黒く変色しているものもあった。
「世界樹が…」
「え?」
「世界樹が、枯れている…」
信じられなかった。
永遠に美しいと謳われていた世界樹の葉が変色し、枯れ落ちていく。
それはありえない光景だった。
第三話へ続く
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